三太と辰吉は、摂津国の酒処、灘の町並みを見て歩いていた。造り酒屋が並び、その軒下には青々とした杉玉が下がり、新酒が出来上がったことを知らせていた。その中で、殊の外大きな杉玉が下がっている造り酒屋があり、「清酒横綱盛」の看板が掲げられていた。
「三太兄ぃ、ここですぜ」
その佇まいに圧倒された辰吉が、小声で言った。
「よっしゃ、入ろう」
暖簾を潜ると、甘い日本酒の香りが漂い、大きな酒樽の前で杜氏が利酒をして、良い酒が出来たのであろう、盛んに頷いている。
「お邪魔します」三太が声を掛けた。
もう一人、三和土(たたき)に茣蓙(ござ)を敷き、その上にどっかと胡座(あぐら)をかいて、煙管(きせる)を燻らせいる初老の男が三太たちに気付き、慌てて立ち上がった。
「大坂の相模屋長兵衛のところから来ました」
「いらっしゃいませ、良い新酒が出来ました、ご注文の前に、どうぞ一献」
「申し訳ありません、注文に来たのではないのです」
「そうでしたか、でも、奥へお入りになって、新酒を召し上がってください、そちらのお兄さんもどうぞ」
樽の上に、檜の一合升を二つ、酒をなみなみと注いで並べてくれた。
「実は、うちの主(あるじ)が遭った詐欺の事件を調べているのですが…」
「そうですってね、済みませんでした、うちも名前を使われて、大変迷惑をしているのですよ」
この男は、番頭の鬼助と名乗った。この男が悪い訳でもないのに、何度か「済みません」を繰り返した。
「今、主人を呼んで参ります、お飲みになってお待ちください」
この店の裏が、住居になっているらしく、鬼助は裏口から出ていった。
裏口の戸が開けられて、人の良さそうな若い男が揉み手をしながら入ってきた。
「当店横綱酒造の主、勝蔵と申します」
「相模屋酒店の番頭、三太と申します、こちらは友達で福島屋の坊っちゃんです」
「ようこそお越しくださいました、相模屋さんにはお詫びをしたいのですが、お詫びをすると、私が詐欺に関わっているようですし、悩んでいたところです」
勝蔵は本当に悩んでいるようであった。
「いえいえ、ご店主が詐欺に関わっているなど、主人の長兵衛も思っておりません」
「ありがとう御座います、どうぞ何なりと訊いてください」
「ひとつだけお訊きしたいのですが、以前にこちらで働いていて、馘首(くび)になった男は居はりませんでしょうか」
「その男が怪しいのですか?」
「それは何とも言えませんが、もし、馘首になったことを恨んでいるなら、その可能性は無きにしもあらずと思いましたもので」
「そのようなことは、絶対に無いと思いますが…」
「その方の名前と、お住まいを教えていただけませんか?」
「それを私の口から申す訳には参りません」
「それはまたどうして」
「先代の店主が生きていたころからの杜氏でして、わたしの師匠とも言うべきお人なのです」
「その方を、どうして馘首(くび)にされたのです」
「いえ、馘首にしたのではおまへん、私どもは引き止めたのですが、先代が亡くなったことで、自分から辞めていったのです」
「そのお方が、恨みを持つ原因は?」
「私がこの店を継ぐのを、大反対しておりました」
「それは何故?」
「長男は私ですが、私は正妻の子ではないのです」
「いわゆる、先代が外に産ませた子ですな」
店主の話を要約すると、周りの誰もが店を継ぐのは正妻の子供の作造だと信じて疑わなかった。しかし、先代が亡くなった後、金庫の中から先代が書いたと思われる遺言書が見つかった。その遺言書には、妾の子勝蔵に店を譲ると記し、作造には一切触れていなかったのだ。
そんな訳はない、これは陰謀だと騒ぎ立てた歳を取った番頭各の杜氏が居た。結局この杜氏と作造は、自ら店を出て行ったというのだ。
私に罪はないが、恐らく二人は私を恨んで、陥れようとしているのに違いないとまで言ってのけた。
「有難う御座いました、お忙しいところをお邪魔しまして、本当に済まんことだした」
「いえいえ、早く相模屋さんを騙した詐欺師が捕まればよろしいのに」
「はい、きっと突き止めてみせます」
「お役に立てることが有りましたら、また何時でもおいでください」
三太と辰吉は、腹がたった。憎む相手を陥れるために、罪のない相模屋の店主から金を騙し取るとは、造り酒屋の信用問題にもなりかねない何とも卑劣な手段を取る男なのだと、勝蔵が気の毒になった。
父である先代が考えた末に、作造と勝蔵のどちらに後を継がせるかを決めたのであり、勝蔵を選んだのにはそれなりの理由があったのだろう。
三太と辰吉は、近所の造り酒屋に寄り、横綱酒造の作造と一緒に辞めた杜氏の消息を尋ね歩いた。いや、尋ね歩く必要はなかった。最初に尋ねた店で、すぐに分かったからだ。
「大きな声では言えませんが、作造さんは追い出されたのでっせ」
勝蔵の話では、勝手に出て行ったと言っていた。近所の噂では、追い出されたと言う。噂というものは、尾鰭が付いて歪曲するのだ。噂話はそこそこに聞いて、棲家だけをしっかり訊いてきた。
作造は一緒に辞めた独り者の杜氏の家に転がり込んで、そこから二人共小さな造り酒屋に通いの杜氏兼店の使用人として働かせて貰っているのだそうである。
「お邪魔します」
「へい、いらっしゃいませ」
出てきたのは、人の良さそうな白髪の老人だった。
「今年は美味しい酒が出来ました、先ずは試飲をどうぞ」
酒器専用の棚から小さな杯を二つ取り出した。
「済んません、わいらは酒を買いに来た客やあらしません、ちょっちお聞きしたいことがおまして…」
「そうだしたか、それはどうも早とちりでした」
それでも、酒を注ぐ手は止めなかった。
「ここで作造さんという方が働いていると聞きまして…」
「へえ、作造坊ちゃんは、奥においででおます、お呼びしてきますので、これを飲んでお待ちください」
老人が奥に入ると、直ぐに歳を取った男と若い男が前垂れを外しながら出てきた。
「お待ちどうさまでおます、私が作造で、こちらが横綱酒造で杜氏をしていた文吉ですが、どちら様でいらっしゃいます?」
「大坂の酒店相模屋の番頭ですが」と頭を下げ、三太は詐欺の経緯から、横綱酒造で聞いてきたことを全て話した。
「兄は、そのように言いましたか」
作造は溜息を一つついた。
「文吉おじさんは不服のようでしたが、私は何も恨みなどしていません、まして兄を陥れようなど、微塵も考えておりません」
「でも、一つだけ言わせて貰えば…」
文吉が口出しをした。
「先代の旦那様の遺言は、どう考えても可怪しい…」
作造が文吉の言葉を制した。
「いいえ、言わせて貰います、旦那様が可愛がって信頼していた作造坊っちゃんのことを、遺書に一言も書いていないなんて、怪し過ぎるやおまへんか」
文吉は興奮した面持ちで、声を高めた。
「おじさん、そんなことを言うたらあかん、それやったら、お父っつぁんの遺言が偽物みたいに聞こえるやないか」
「偽物だす、大偽物だす、本物は勝蔵が燃やしたに違いおまへん」
三太は、どちらを信じたら良いのか、分からなくなった。どちらかが芝居をしているのだ。辰吉に目で知らせた。新三郎に探って貰いたいのだ。
辰吉の様子がおかしい。何だか慌てているようである。三太は小声で辰吉に囁いた。
「どうしたのや、新さんが居ないのか?」
「あっ、あかん、新さんを横綱酒造に残して来たようや」
新三郎は、勝蔵の話に疑いをもったのだ。その為に勝蔵を探りに行ったのを知らずに帰ってきてしまったらしい。
横綱酒造まで引き返そうと歩いていたら、その方向から棒を持った男がテクテク歩いてくる。
「あ、お父っつぁんだ」
「亥之吉旦那も、相模屋に聞いて横綱酒造を探りにきたのやな」
亥之吉が天秤棒を担いで手を振っている。
「格好悪いなぁ、お父っつぁん」
「何ぬかしてけつかるねん、お前らその格好悪い師匠の弟子のくせに」
「わぁ、悪い言葉、他人の振りして、行ってしまおうか」
「バカたれども、お前らまだこんなところでウロウロしとるのか、それに新三郎さんをほっぽり出して、どういうつもりや」
『辰吉は、あっしを必要としなくなったのか、次は誰を護ってやろうかな』
「あっ、ごめん、ごめん」
新三郎は、亥之吉に憑いて戻ってきた。新三郎にしてみれば『辰吉は、つー と言えば、かぁ の仲だと思っていたのに、探りに行っている間に帰ってしまうなんて』と些か憤慨している。
「何? その、つー と言えば、かぁ って」
「つー は口を閉じ気味に言う、かぁは、口を大きく開けて言う、阿吽の呼吸と同じような意味で、呼吸が会うってことだよ』
「余計、わからん」
『また、寝物語で聞かせてやろう』
「ふーん、きっとスケベなことなのだろうね、うふん は口を閉じていうし、あはん は、口を大きく開けていう」
『そうそう、そのようなこと… 違うわい』
「お父っつぁんも、相模屋長兵衛さんの件で来たのかい?」
「わいは、別件や、ある酒屋の主人が米相場を薦められて手を出し、全財産を潰して首を括ったのや」
「その薦めたのが、もしかしたら相模屋さんから千両を詐取した詐欺師と同じだと推理したのかい」
「そやそや、人相風体も訊いてきた」
「横綱酒造の主人、勝蔵さんと違っていたのかい」
「うん」
「ほんなら、横綱酒造の元店主で、腹違いの弟の作造さんに会ってみませんか?」
「よっしゃ、会ってみよう」
「もう一度お邪魔しまっせ」
今度は、作造が店番をしていた。
「何か忘れ物でも… おや、お一人増えましたな」
「へえ、言い忘れたことがおまして」
「どうぞ遠慮なく仰ってください」
「相模屋に横綱酒造が倒産寸前と話を持ちかけた詐欺師が、若い男だと分かりました」
「ああ、それで私をお疑いになったのですね」
「それが違いました、もちろんお兄さんの勝蔵さんでもありません」
「他に若い男と言えば…」
「横綱酒造の関係者に居ないのですよ」
「それは良かった」
三太と辰吉は、一旦上方へ帰ることにした。亥之吉は、まだ行くところがあると言う。幽霊の出る古店舗の売主である後家さんの家だ。
「お父っつぁん、美人の後家さんだろ」
「まだ会ってないのに美人かどうか分かるかい」
「近所で訊いたのだろ、よっ、この後家ごろし」
「こら、息子がお父っつぁんに言うことか」
古店舗の売主は、もと灘屋酒店という小売店にしては大きなお店の女将さんである。今は幼い二人の子供を連れて実家に戻り、先々のことを思案中らしかった。
「わたいは上方の福島屋亥之吉と申しますが、売り店舗の札をみてまいりました」
「これは、これは、ようこそおいでくださいました」
辰吉の推察通り、中々の美人である。
「五十両でお譲り頂けるのですか?」
「はい、本当は二百両頂くつもりでしたが、変な噂を立てられて、とんと売れずに二百両が百五十両に下げ、百両でも売れず、早く使用人にお給金を払いたいので五十両に致しました」
「そうでしたか、ではわたいに買わせて頂きましょう、ここに小判五十両を持参しました、これは手付金としてお払いするもので、決して理不尽な値段で買い取りません、どうぞご安心ください」
小判五十両は、両替屋へ持っていくと、銀約9キロと交換して貰える。上方で流通しているのは銀である。
「これは、誠意のあるお言葉、恐悦に存じます」
「それから、ご主人が詐欺に遭ったと同様に、上方の酒問屋の主人が遭った詐欺についても調べているのですが、お話を聞かせてもらえませんか?」
「どうぞ、何でもお話致します」
主人は、灘の横綱酒造に関わるお方と、女房に話したそうであるが、今、米の値段が上がっているのは米の相場を操っている複数の相場師が居る為だ。それは米そのものを買い貯めるたり、売り惜しみをしているのではなく、「株」と呼ばれる証券の遣り取りで値を吊り上げている。これから暫くは米の値段が高騰する見込みなので、今「株」を買うと、直ぐに二倍、三倍に跳ね上がると薦められ、「試しに」と、五十両を出した。それが一ヶ月も経たぬうちに二倍に跳ね上がり、主人は百両近くを受け取った。
「まだ、株の値段は上がるぞ」と、耳打ちされて、百両にもう百両追加して、その男に二百両を託した。一ヶ月後に四百両近くになって返って来た。
妻の自分が必死に止めたが、主人は有頂天になり、さらに百両を足して、五百両をその男に渡してしまったが、それから一ヶ月経っても、二ヶ月経っても男から連絡は途絶え、主人は思い切って横綱酒造へ足を運んだ。
そこで主人は唖然とさせられる事実を聞かされた。そんな男は知らないと言われたのだ。事実、横綱酒造の主人以下全ての使用人に会わせて貰ったが、主人を騙した男は居なかった。
「それで、ご主人は悲嘆に暮れて、首を括ったのですか」
「はい、五百両も騙し盗られたと、生前、主人は悄気返っておりました」
悲しみが蘇ってきたのであろう、妻の目に涙が光った。
「ちょっと待ってくださいよ、そのお話に可怪しいところがおます」
亥之吉は、何かに気付いたようであった。
「第二十三回 よっ、後家殺し -続く- (原稿用紙18枚)
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「三太兄ぃ、ここですぜ」
その佇まいに圧倒された辰吉が、小声で言った。
「よっしゃ、入ろう」
暖簾を潜ると、甘い日本酒の香りが漂い、大きな酒樽の前で杜氏が利酒をして、良い酒が出来たのであろう、盛んに頷いている。
「お邪魔します」三太が声を掛けた。
もう一人、三和土(たたき)に茣蓙(ござ)を敷き、その上にどっかと胡座(あぐら)をかいて、煙管(きせる)を燻らせいる初老の男が三太たちに気付き、慌てて立ち上がった。
「大坂の相模屋長兵衛のところから来ました」
「いらっしゃいませ、良い新酒が出来ました、ご注文の前に、どうぞ一献」
「申し訳ありません、注文に来たのではないのです」
「そうでしたか、でも、奥へお入りになって、新酒を召し上がってください、そちらのお兄さんもどうぞ」
樽の上に、檜の一合升を二つ、酒をなみなみと注いで並べてくれた。
「実は、うちの主(あるじ)が遭った詐欺の事件を調べているのですが…」
「そうですってね、済みませんでした、うちも名前を使われて、大変迷惑をしているのですよ」
この男は、番頭の鬼助と名乗った。この男が悪い訳でもないのに、何度か「済みません」を繰り返した。
「今、主人を呼んで参ります、お飲みになってお待ちください」
この店の裏が、住居になっているらしく、鬼助は裏口から出ていった。
裏口の戸が開けられて、人の良さそうな若い男が揉み手をしながら入ってきた。
「当店横綱酒造の主、勝蔵と申します」
「相模屋酒店の番頭、三太と申します、こちらは友達で福島屋の坊っちゃんです」
「ようこそお越しくださいました、相模屋さんにはお詫びをしたいのですが、お詫びをすると、私が詐欺に関わっているようですし、悩んでいたところです」
勝蔵は本当に悩んでいるようであった。
「いえいえ、ご店主が詐欺に関わっているなど、主人の長兵衛も思っておりません」
「ありがとう御座います、どうぞ何なりと訊いてください」
「ひとつだけお訊きしたいのですが、以前にこちらで働いていて、馘首(くび)になった男は居はりませんでしょうか」
「その男が怪しいのですか?」
「それは何とも言えませんが、もし、馘首になったことを恨んでいるなら、その可能性は無きにしもあらずと思いましたもので」
「そのようなことは、絶対に無いと思いますが…」
「その方の名前と、お住まいを教えていただけませんか?」
「それを私の口から申す訳には参りません」
「それはまたどうして」
「先代の店主が生きていたころからの杜氏でして、わたしの師匠とも言うべきお人なのです」
「その方を、どうして馘首(くび)にされたのです」
「いえ、馘首にしたのではおまへん、私どもは引き止めたのですが、先代が亡くなったことで、自分から辞めていったのです」
「そのお方が、恨みを持つ原因は?」
「私がこの店を継ぐのを、大反対しておりました」
「それは何故?」
「長男は私ですが、私は正妻の子ではないのです」
「いわゆる、先代が外に産ませた子ですな」
店主の話を要約すると、周りの誰もが店を継ぐのは正妻の子供の作造だと信じて疑わなかった。しかし、先代が亡くなった後、金庫の中から先代が書いたと思われる遺言書が見つかった。その遺言書には、妾の子勝蔵に店を譲ると記し、作造には一切触れていなかったのだ。
そんな訳はない、これは陰謀だと騒ぎ立てた歳を取った番頭各の杜氏が居た。結局この杜氏と作造は、自ら店を出て行ったというのだ。
私に罪はないが、恐らく二人は私を恨んで、陥れようとしているのに違いないとまで言ってのけた。
「有難う御座いました、お忙しいところをお邪魔しまして、本当に済まんことだした」
「いえいえ、早く相模屋さんを騙した詐欺師が捕まればよろしいのに」
「はい、きっと突き止めてみせます」
「お役に立てることが有りましたら、また何時でもおいでください」
三太と辰吉は、腹がたった。憎む相手を陥れるために、罪のない相模屋の店主から金を騙し取るとは、造り酒屋の信用問題にもなりかねない何とも卑劣な手段を取る男なのだと、勝蔵が気の毒になった。
父である先代が考えた末に、作造と勝蔵のどちらに後を継がせるかを決めたのであり、勝蔵を選んだのにはそれなりの理由があったのだろう。
三太と辰吉は、近所の造り酒屋に寄り、横綱酒造の作造と一緒に辞めた杜氏の消息を尋ね歩いた。いや、尋ね歩く必要はなかった。最初に尋ねた店で、すぐに分かったからだ。
「大きな声では言えませんが、作造さんは追い出されたのでっせ」
勝蔵の話では、勝手に出て行ったと言っていた。近所の噂では、追い出されたと言う。噂というものは、尾鰭が付いて歪曲するのだ。噂話はそこそこに聞いて、棲家だけをしっかり訊いてきた。
作造は一緒に辞めた独り者の杜氏の家に転がり込んで、そこから二人共小さな造り酒屋に通いの杜氏兼店の使用人として働かせて貰っているのだそうである。
「お邪魔します」
「へい、いらっしゃいませ」
出てきたのは、人の良さそうな白髪の老人だった。
「今年は美味しい酒が出来ました、先ずは試飲をどうぞ」
酒器専用の棚から小さな杯を二つ取り出した。
「済んません、わいらは酒を買いに来た客やあらしません、ちょっちお聞きしたいことがおまして…」
「そうだしたか、それはどうも早とちりでした」
それでも、酒を注ぐ手は止めなかった。
「ここで作造さんという方が働いていると聞きまして…」
「へえ、作造坊ちゃんは、奥においででおます、お呼びしてきますので、これを飲んでお待ちください」
老人が奥に入ると、直ぐに歳を取った男と若い男が前垂れを外しながら出てきた。
「お待ちどうさまでおます、私が作造で、こちらが横綱酒造で杜氏をしていた文吉ですが、どちら様でいらっしゃいます?」
「大坂の酒店相模屋の番頭ですが」と頭を下げ、三太は詐欺の経緯から、横綱酒造で聞いてきたことを全て話した。
「兄は、そのように言いましたか」
作造は溜息を一つついた。
「文吉おじさんは不服のようでしたが、私は何も恨みなどしていません、まして兄を陥れようなど、微塵も考えておりません」
「でも、一つだけ言わせて貰えば…」
文吉が口出しをした。
「先代の旦那様の遺言は、どう考えても可怪しい…」
作造が文吉の言葉を制した。
「いいえ、言わせて貰います、旦那様が可愛がって信頼していた作造坊っちゃんのことを、遺書に一言も書いていないなんて、怪し過ぎるやおまへんか」
文吉は興奮した面持ちで、声を高めた。
「おじさん、そんなことを言うたらあかん、それやったら、お父っつぁんの遺言が偽物みたいに聞こえるやないか」
「偽物だす、大偽物だす、本物は勝蔵が燃やしたに違いおまへん」
三太は、どちらを信じたら良いのか、分からなくなった。どちらかが芝居をしているのだ。辰吉に目で知らせた。新三郎に探って貰いたいのだ。
辰吉の様子がおかしい。何だか慌てているようである。三太は小声で辰吉に囁いた。
「どうしたのや、新さんが居ないのか?」
「あっ、あかん、新さんを横綱酒造に残して来たようや」
新三郎は、勝蔵の話に疑いをもったのだ。その為に勝蔵を探りに行ったのを知らずに帰ってきてしまったらしい。
横綱酒造まで引き返そうと歩いていたら、その方向から棒を持った男がテクテク歩いてくる。
「あ、お父っつぁんだ」
「亥之吉旦那も、相模屋に聞いて横綱酒造を探りにきたのやな」
亥之吉が天秤棒を担いで手を振っている。
「格好悪いなぁ、お父っつぁん」
「何ぬかしてけつかるねん、お前らその格好悪い師匠の弟子のくせに」
「わぁ、悪い言葉、他人の振りして、行ってしまおうか」
「バカたれども、お前らまだこんなところでウロウロしとるのか、それに新三郎さんをほっぽり出して、どういうつもりや」
『辰吉は、あっしを必要としなくなったのか、次は誰を護ってやろうかな』
「あっ、ごめん、ごめん」
新三郎は、亥之吉に憑いて戻ってきた。新三郎にしてみれば『辰吉は、つー と言えば、かぁ の仲だと思っていたのに、探りに行っている間に帰ってしまうなんて』と些か憤慨している。
「何? その、つー と言えば、かぁ って」
「つー は口を閉じ気味に言う、かぁは、口を大きく開けて言う、阿吽の呼吸と同じような意味で、呼吸が会うってことだよ』
「余計、わからん」
『また、寝物語で聞かせてやろう』
「ふーん、きっとスケベなことなのだろうね、うふん は口を閉じていうし、あはん は、口を大きく開けていう」
『そうそう、そのようなこと… 違うわい』
「お父っつぁんも、相模屋長兵衛さんの件で来たのかい?」
「わいは、別件や、ある酒屋の主人が米相場を薦められて手を出し、全財産を潰して首を括ったのや」
「その薦めたのが、もしかしたら相模屋さんから千両を詐取した詐欺師と同じだと推理したのかい」
「そやそや、人相風体も訊いてきた」
「横綱酒造の主人、勝蔵さんと違っていたのかい」
「うん」
「ほんなら、横綱酒造の元店主で、腹違いの弟の作造さんに会ってみませんか?」
「よっしゃ、会ってみよう」
「もう一度お邪魔しまっせ」
今度は、作造が店番をしていた。
「何か忘れ物でも… おや、お一人増えましたな」
「へえ、言い忘れたことがおまして」
「どうぞ遠慮なく仰ってください」
「相模屋に横綱酒造が倒産寸前と話を持ちかけた詐欺師が、若い男だと分かりました」
「ああ、それで私をお疑いになったのですね」
「それが違いました、もちろんお兄さんの勝蔵さんでもありません」
「他に若い男と言えば…」
「横綱酒造の関係者に居ないのですよ」
「それは良かった」
三太と辰吉は、一旦上方へ帰ることにした。亥之吉は、まだ行くところがあると言う。幽霊の出る古店舗の売主である後家さんの家だ。
「お父っつぁん、美人の後家さんだろ」
「まだ会ってないのに美人かどうか分かるかい」
「近所で訊いたのだろ、よっ、この後家ごろし」
「こら、息子がお父っつぁんに言うことか」
古店舗の売主は、もと灘屋酒店という小売店にしては大きなお店の女将さんである。今は幼い二人の子供を連れて実家に戻り、先々のことを思案中らしかった。
「わたいは上方の福島屋亥之吉と申しますが、売り店舗の札をみてまいりました」
「これは、これは、ようこそおいでくださいました」
辰吉の推察通り、中々の美人である。
「五十両でお譲り頂けるのですか?」
「はい、本当は二百両頂くつもりでしたが、変な噂を立てられて、とんと売れずに二百両が百五十両に下げ、百両でも売れず、早く使用人にお給金を払いたいので五十両に致しました」
「そうでしたか、ではわたいに買わせて頂きましょう、ここに小判五十両を持参しました、これは手付金としてお払いするもので、決して理不尽な値段で買い取りません、どうぞご安心ください」
小判五十両は、両替屋へ持っていくと、銀約9キロと交換して貰える。上方で流通しているのは銀である。
「これは、誠意のあるお言葉、恐悦に存じます」
「それから、ご主人が詐欺に遭ったと同様に、上方の酒問屋の主人が遭った詐欺についても調べているのですが、お話を聞かせてもらえませんか?」
「どうぞ、何でもお話致します」
主人は、灘の横綱酒造に関わるお方と、女房に話したそうであるが、今、米の値段が上がっているのは米の相場を操っている複数の相場師が居る為だ。それは米そのものを買い貯めるたり、売り惜しみをしているのではなく、「株」と呼ばれる証券の遣り取りで値を吊り上げている。これから暫くは米の値段が高騰する見込みなので、今「株」を買うと、直ぐに二倍、三倍に跳ね上がると薦められ、「試しに」と、五十両を出した。それが一ヶ月も経たぬうちに二倍に跳ね上がり、主人は百両近くを受け取った。
「まだ、株の値段は上がるぞ」と、耳打ちされて、百両にもう百両追加して、その男に二百両を託した。一ヶ月後に四百両近くになって返って来た。
妻の自分が必死に止めたが、主人は有頂天になり、さらに百両を足して、五百両をその男に渡してしまったが、それから一ヶ月経っても、二ヶ月経っても男から連絡は途絶え、主人は思い切って横綱酒造へ足を運んだ。
そこで主人は唖然とさせられる事実を聞かされた。そんな男は知らないと言われたのだ。事実、横綱酒造の主人以下全ての使用人に会わせて貰ったが、主人を騙した男は居なかった。
「それで、ご主人は悲嘆に暮れて、首を括ったのですか」
「はい、五百両も騙し盗られたと、生前、主人は悄気返っておりました」
悲しみが蘇ってきたのであろう、妻の目に涙が光った。
「ちょっと待ってくださいよ、そのお話に可怪しいところがおます」
亥之吉は、何かに気付いたようであった。
「第二十三回 よっ、後家殺し -続く- (原稿用紙18枚)
「第二十四回 見えてきた犯人像」へ進む
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