雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 後編」  

2015-06-24 | 短編小説
 泣いて縋る夫婦を残して旅立つのは心残りだが、甥とは言え血の繋がった親戚である。きっと二人を仕合せにしてくれるだろうと、六兵衛の家を後にした。
 街道は、薄日が射しているのに、粉雪が舞ってきた。懐には一文の銭も入っていない。今度こそは野垂れ死にをするかも知れないと思ったが、祥太郎はくよくよすることはなかった。懐には父が居る。腰には父の血が付着したお守りがあるのだ。

 町に出ると、今まで贔屓にしてくれた家に挨拶をして回った。中には、行商を止めて旅にでる訳を聞いてくれる人も居た。
   「そうかい、江戸へ行きなさるか」
 これは少ないけれど餞別だよと、紙に包んで渡してくれる人も居た。こんな積りできたのではないと遠慮すると、「気は心」と、祥太郎の懐に入れてくれた。紙包みの中に一朱、二朱と、祥太郎にとっては大金が入っており、それはそれで祥太郎の心を痛めた。

 道中、旅の女が道端に蹲っていた。腹を抑えて、苦しそうにしている。祥太郎は駆け寄り、女に声を掛けた。
   「お姉さん、どうかしましたか?」
   「はい、急に差し込みが来まして…」
   「それはいけません、近くの旅籠まで背負ってお連れしましょう」
   「ありがとうございます」
 背負った途端に、女の手が懐に「さっ」と、差し込まれた。
   「お姉さん、冗談はいけませんや、腹痛は嘘ですね」
 女は祥太郎の背中から離れて、一間おいて立ち祥太郎を睨みつけた。
   「お姉さん、私はあなたを捕らえてつき出そうとは言いません、僅かだが私の懐の銭には心が篭っておりまして、差し上げる訳にはいかないのですよ」
 この銭は、餞別に貰ったもので、この銭でやりくりして江戸まで行かなければならないと説明した。
   「そうかい、済まなかっためねぇ、わかったよ」
   「ありがとう」
   「別に礼を言われる筋合いのものではないけどね」
   「わかってくれて、ありがとうと言う意味だよ」
   「あんた、可愛いね、弟にしたい位だよ」
 掏摸の弟なんて、まっぴら御免だと、心の中で断った。女と別れて暫く行くと、女が後ろを付けてくる。
   「まだ私の懐を狙っているのかい」
   「懐は狙ってはいないよ、ちょっとあんたに惚れちまってね、もう少しあんたの旅姿を留めておきたいと思ったのさ」
 「勝手にしろ」と、その後は振り返りもせずに歩き続けたが、何時の間にか女は姿を消していた。


 何とか野宿をせずに江戸まで着いた。懐の銭は姿を消していたので、寺を見付けて賃金は要らないから寺男に雇ってくれないかと尋ねて歩いた。食と住が満たされれば御の字なのだ。
 もう人も絶えたのであろう山の荒れ寺を見つけたので、せめて一泊本堂の隅を借りようと中に入ると、思いがけず仏前で酒を食らっている僧が居た。
   「誰だ!」
 僧は呂律がまわらない程に酔っていた。
   「旅の者ですが、今夜一晩仏様のお膝元をお借りしようと思いまして」
   「そうか、本堂の隅に茣蓙が置いてあろう、そこで休みなさい」
 僧は、そう言った積りらしいが、これは祥太郎が判断した言葉である。
   「旅の者、腹が減っておろう、ここへ来なさい」
 先程から、祥太郎が嗅いだこともない美味そうな匂いがしていた。
   「檀家の鉄砲撃ちが猪を仕留めたと届けてくれたのだ」
 何と生臭坊主ぶりだと祥太郎は呆れた。酒ばかりではなく、猪の肉を食うなど、仏に仕える者とは思えない。だが、祥太郎も空腹に耐えていたのだ、食欲に負けて僧の元へ躙り寄った。
   「美味かろう、どうせ残せば腐るものだ、遠慮せずに食え」
   「はい、頂きます」
 獨酒は酢に近いもので不味かったが、猪の肉は旨かった。たっぷりよばれて、その夜は茣蓙を重ねてホカホカの寝床で寝た。

 翌朝、住職は昨夜のことを何も覚えて居ず、祥太郎が寝ているのを見付けて、大騒ぎをした。
   「貴様、何者だ?」
   「昨夜、和尚様の許しを得たではありませんか、私は旅の者で越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「そうであったか、これは失礼申した」
 祥太郎は和尚の前で正座をして、仏前の板の間に両手をついて、改めて頭を下げた。
   「和尚様にお願いがあります、私を寺男としてここに置いてくださいませ」
   「それは出来ぬ、檀家も去って行って、今は片手の指で数えるくらいだ、墓も僅かで墓男に払う銭などはない」
   「賃金など要りません、寝泊まりをさせて頂き、食べ物は私が修行僧に化け、托鉢して手に入れて参ります」
   「経は読めるのか?」
   「写経をさせて頂ければ、直ぐに憶えてみせます」
   「と言うことは、字は書けるのだな」
   「はい、読み書き算盤はお手のものです」
   「寺に算盤は要らんが、字が書けるなら重宝いたそう、寺男ではなく、修行僧として居てもらおう、化ける必要はない」
   「有難う御座います、それから、荒れた建物も私が修理致します」
   「そうか、頼むぞ」

 その日から、祥太郎は建物の荒れた様子を見て回り、紙になにやら書き留めていた。夜は本堂に上げられた蝋燭の灯りで写経をして、和尚が経を読む朝に、懸命にその音を記憶した。三日目には、覚えたての経を読み、托鉢にも出かけた。
 托鉢とは、ただ物乞いをすることではなく、信者に功徳を積ませる修行である。従って托鉢僧は礼を言ってはならないとされている。

 祥太郎も、その知識を授けられ、喜捨を受けても「有難う御座います」とは言わないが、軽く頭を下げて頂戴した。
 また、困っている人をみると、必ず駆け寄って手助けするなど、感謝の意が常に体から滲みでていた。
 これは、修行の身にとっては不謹慎なことなのだが、祥太郎は町の人気者になった。頼まれごとがあると、僧衣を着替えて町に出、その器用さを活かして屋根の修理屋、戸板の修理をしてあげた。
 何のことはない、ここでも「祥ちゃん」と呼ばれて、町の便利屋になっていった。また、板切れや、余った漆喰を頂いて帰り、寺の修理にも力を入れた。
 墓地は、せっせと草を毟り、傾いたり汚れたりした墓石を、まるで真新しいかのように修復してみせた。

 やがて檀家も増え、住職も酒を断ち、生臭坊主から、信頼される和尚として見事に立ち直った。
 それから五年の年月が流れたある日、祥太郎は「一ヶ月ほどお暇が欲しい」と、住職にお願いをした。その頃は寺男も一人雇っていたので、住職は快く承知してくれた。

 祥太郎は、この寺へきた時の旅の衣装に着替えて旅に出た。来た時と違っていたのは、頭が丸坊主になっていたことである。
   「以前に仕えてくれた下男、平助のことが気がかりですので、一度、忍びで国へ帰って参ります」
 そう言い残すと、祥太郎は腰に脇差しを差して旅に出た。

 街道は、桜の花が咲き誇り、花粉の匂いで咽返っていた。もう二人、気になる人達が居た。六兵衛夫婦である。

 あの懐かしい農家は、健在かのように見えた。だが近寄ってみると、屋根には穴が開き、壁は所々崩れ落ち、廃屋と化していた。祥太郎は近燐の農家に立ち寄り、六兵衛夫婦の消息を尋ねたところ、祥太郎が去ってその翌年に妻が亡くなり、六兵衛も妻を追うように畑仕事をしていて、倒れたそうであった。
   「わたしが意地など張らなかったら、二人はもっと長生きが出来ただろうに」
 父が無くなった時でさえ涙を流さなかった祥太郎で有ったが、遂に大粒の涙を落としてしまった。その涙は、今は荒れ放題の六兵衛さんが大切にしていた畑の土に染みこんでいった。

 六兵衛の甥に会って、文句の一つも言ってやろうかと思ったが、夫婦は戻ることはなく、詮無きことと諦めてその場を立ち去った。

 越後高崎藩に戻り、もと下男の平助の住処に来てみた。平助の息子夫婦が出て来て、深々と頭を下げた。
   「その節は父がお世話になりました」
 そう告げると、平助もまた祥太郎と別れて間もなく病の床に着いて、一ヶ月後に亡くなったと伝えられた。
   「そうそう、生前、坊っちゃんが見えたら渡して欲しいと預かったものがあります」
 平助の息子は、奥の部屋から、祥太郎の父が差していた本差を持って出てきた。文助に継いで、この息子が手入れをしていたのであろう綺麗なままの刀剣であった。
   「これは、文助さんにわたしが差し上げたものです」
   「いえ、これは坊っちゃんのお父上の魂が宿っています、あなた様にお返し致しましょう」
 祥太郎は、笠をとって見せた。
   「わたしは、ごらんの通り出家の身です、刀は不要なのです」
   「でも、脇差しは差しておられるではありませんか」
   「これは抜けません、父の形見のお守りなのです」
   「お坊ちゃんにお返しする為に、手入れを欠かさなかったのです」
 息子は、土間に降りて、祥太郎の前に手を着いた。
   「お坊っちゃんは、まだお聞きになっていないのですか?」
   「何でしょう」
   「お父上、進藤綱右衛門様の罪が晴れて、ご上司の罪が暴露され、切腹を賜ったのですよ」
   「そうですか」
 祥太郎は冷めていた。どなたの罪であろうとも、父は生きて帰らないのだ。
   「藩では、祥太郎様を探して、お家再興をお許しになる御積りです、お母様も祥太郎様をお探しでしたよ」
   「それは、お断りしましょう、わたしは生涯今のままで、父上と文助おじさんの霊を弔って生きて参ります」
 祥太郎の心の中には、六兵衛夫婦の名もあったことは言うまでもない。

 祥太郎は、江戸に帰り着いた。住職は、「もしや帰って来ないのではないか」と、不安だったと打ち明けた。
 この寺は、元々は山里村の菩提寺である。さびれて見る陰もなかったが、檀家の人々が寄り集まって徳を積み、再び菩提寺としての格調を取り戻していった。

 ここで、祥太郎は住職から「祥寛」という名を頂き、日々精進するなか、ある日、生まれ故郷の越後の国は高崎藩から使いが祥太郎を捜しに来た。祥太郎が僧侶になっていると聞きつけてきたのだそうである。

 六十石二人扶持で抱え、進藤の家を再興させるので帰国せよと言うものであった。父の時代の約二倍の禄高である。
 祥太郎の母も、「早く祥太郎を見付けて欲しい」と、高崎藩士の父に催促ているという。祥太郎に考える余地はなかった。「父を生きて返して頂かない限りは、きっぱりとお断りします」と、使者を帰した。  (終)

   -「進藤祥太郎 前編」に戻る-

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 前編」   (原稿用紙全69枚)

2015-06-24 | 短編小説
 越後高崎藩の下級武士進藤綱右衛門は、早朝、妻の紗綾を呼び一人息子の祥太郎を起こし父の部屋に来るように伝えさせた。
 祥太郎は眠い目を擦りながらも、身嗜(みだしな)みを整えて父の部屋の前で朝の挨拶をした。そっと襖を開けた祥太郎は、ただならぬ父の様子に身を引き締めた。
   「入りなさい」
 死に装束に身支度をした父が、物静かに座っていた。
   「父の近くに来なさい」
 祥太郎は、父のそばに躙(にじ)り寄り、畳に両の手をついて頭を深く下げた。
   「今から父が話すことを、よく聞きなさい」
   「はい、父上」
 祥太郎は十五歳、立派な大人である。狼狽えることなく、ゆっくりと頭を上げて父の目をしっかりと見つめた。
   「父は、今から登城致すが、生きてこの屋敷の敷居を跨ぐことはないであろう」
 勘定方の末端に仕える父の主な仕事は、金銭の出納を記録することである。とは言え、下級であるが故に掃除、茶汲み、使い走りと、下僕扱いの雑用に追われる毎日である。
   「父にどのような罪を着せられて、どのように屈辱を浴びせられようとも、父は潔白である、お前だけは信じて欲しい」
 母は、武士の娘で気位(きぐらい)が高い。恐らく自分を信じてはくれぬ筈である。ただ怒り狂って実家に戻るであろうが、恨んだり憎んだりせずに、そっとしておいてやって欲しい。父は決して自己弁護はせぬ積もりである。黙して立派に切腹してみせる。父の切腹は、決して贖(あがな)うものではない。沈黙の抗議である。祥太郎は、藩を追われ、屋敷を出て行かねばならないだろうが、挫けずに誇りを持って生きて行って欲しい。祥太郎にとって、一番大切なものは、祥太郎の将来である。父の濡れ衣を晴らそうなどと思わず、また、父に濡れ衣を着せた者を見つけ出して仇をとろうなどと考えずに、自分も他人の命も大切にして生きて行きなさい。いつの日か「あの世」とやらで父に会うときは、胸を張ってやって来なさい。
   「わが亡骸は、葬儀も供養も許されないであろう。せめて、川原で荼毘(だび)に付し、灰は川に流して欲しい」
 お前が藩校に通うのも、今日が最後になろう。普段通りに一日を過ごして来なさい。帰ってくれば、父は棺桶の中で、そなたを出迎えよう。父の生涯は、決して無駄なものではなかった。なぜなら、祥太郎という素直で清い心の倅をもうけ、このように立派な大人に育て上げることが出来たのだから…。
   「もう一度お前だけに言わせてくれ、父は潔白である」

 父は、白装束の上に羽織袴を着重ね、大小の刀を腰に差すと、普段と変わりない笑顔を見せて屋敷を出て行った。
   「あなた、行っていらっしゃいませ」
 母は、何も聞いていないのであろう。無感情に夫を送り出すと、さっさと奥へ下がってしまった。
 祥太郎は、ぐっと涙を堪えて父を見送り、「父上、さらばです」と、頭を下げた。

 藩校では、何事もなく一日を終えたが、帰り際に祥太郎が属す高等部の師範に呼び止められた。
   「祥太郎、何が起きても、気を落してはならぬぞ」
 普通なら、祥太郎は「何事で御座います」と、聞き返したであろうが、黙って頭を下げて帰途についた。

 門の外に、二人の中間(ちゅうげん)が祥太郎を待ち受けていた。父の亡骸を運んで来たのであろう。二人は上役から受けてきた口上を、祥太郎に向かって一頻り無感情に告げた。
   「そうか、やはりそうだったか」
 祥太郎は、中間たちに一言の労いの言葉も、お礼の言葉も意識的に告げなかった。二人と別れて屋敷の門を潜ると、狭い庭に大きな棺桶が置かれて、その前で老いた下男が膝を着き、合掌していた。その老いの目から流れ落ちる涙が夕日を受けて、血のように見えた。
   「坊ちゃま、お父さまが、お父上が…」
 その言葉の先を涙が消し去っていた。
   「知っております、今朝、父上とお別れを致しました」
   「おいたわしい旦那様、こんなにもお優しくて清い心の旦那様が、藩の金を横領したなど有り得ないことでございます」
   「平助、ありがとう、父上は潔白です」

 今夜、父上の亡骸を川原にお運びして荼毘に付す、平助、申し訳ないが手伝ってはくれぬかと頼むと、平助は不満顔であった。
   「坊っちゃん、それはいけません、今夜は通夜をなさいませ」と、忠告された。
   「それが出来ないのだ、明朝、私は追放されて、旅に出なければなりません」
   「そうでしたか、お可哀想な坊ちゃま」
 この屋敷の使用人は、平助たった一人である。なんとかこの平助に有り金を全て渡してやりたいと願って屋敷の中を捜し回ったが、たった一文とても見当たらなかった。母の持ち物は全部持ち帰ったらしく、残っているものは、父と祥太郎の物ばかりである。その中で金目のものと言えば、父の脇差し大小二本だけである。その内の脇差は、父が切腹に使ったのだろう、柄にべっとりと血糊が付着していた。
   「平助、屋敷の金は母が持ち帰ったようで一文も残っていない、お前にやれる金目のものと言えばこの大刀と、父の羽織袴と印籠だけだ」
   「箪笥などの家具は、使えるものがあれば、どれでも持って行ってくれ」
 祥太郎は申し訳無さそうに平助に頭を下げた。
   「坊っちゃん、どうぞお気遣いなさらないようにお願いします」
   「今から、私が納屋の薪を荷車に積んで川原に運びます、平助は父上の傍に居てあげてください」
 川原に薪を運び、燃えやすく木組みをすると一旦屋敷に戻り、棺桶と火打ち鉄と火口、油紙、藁、粗朶などの類を荷車に積み、平助を伴って川原に向かった。

 棺桶の蓋を取ると、生臭い血の臭いが溢れ出てきて、完全に切り離された首と躯(むくろ)が見えた。今朝、物静かに語っていた父とは思えない位に小さく棺桶に収まっていた。
   「父上、失礼します」
 あの偉大に思えていた父とは違って、躯は軽くて祥太郎一人の力ですっと引き上げることが出来た。その下に、苦痛に歪んだ形相の父の首があった。
 あの冷静であった父でさえも、この苦痛の形相である。腹に刃(やいば)を突き立てて腹の左から右へ自らの力で切り裂く苦痛、更に介錯の長刀が首に食い込む苦痛、それら相俟った苦痛が、こうまでも形相に顕れるものかと、祥太郎は父を哀れに思った。
 何故なのだろうと祥太郎は考えた。父の躯を抱えても、父の首を抱え持っても、ちっとも恐ろしくはないのだ。むしろ懐かしく、愛おしいのは肉親であるからのようである。

 薪に火が着き、その火の中で父の躯が動いたように見えた。また躯が「ぼすっ」と音を立てると、父が熱がっているように思えた。
   「父上、どうぞ安らかに成仏してください」
 祥太郎は、声に出して炎の中の遺骸に話しかけた。その様子を見て平助は獣のような声で慟哭した。
   「平助、有難う、もうお帰りさい、後は私一人で大丈夫です」
   「せめて朝まで、旦那様を見送らせてください」
   「いえ、今度は私が平助と別れるのが辛くなります」
   「坊っちゃん…」
 平助は絶句した。暫く佇んでいたが、思い切ったように嗚咽しながら腰を屈めて走り去った。

   「父上、私は母よりも誰よりも父上が大好きでした」
 母上の笑顔は、生まれてこのかた見たことはないが、父上はどんな時も祥太郎に笑顔で接してくれた。母に叱られて泣いているときは、そっと寄り添って涙を吸収してくれた。表で遊び仲間に泣かされて帰ると、優しく訳を訊いてくれた。決して子供の喧嘩に口出しはしなかったが、いつも味方で居てくれた。
 三十俵二人扶持の貧しいやりくりの中、母の反対を押し切って寺子屋に通わせてもらった。父が母に反旗を翻したのは、これが最初で、最後であった。剣道は、道場に通わせて貰える余裕はなかったので、あまり強くはない父上が遊び半分で手解きしてくれた。「わしは勘定方なので、剣道は苦手なのだ」と、照れ笑いをしていた父上であったが、字を書かせば、寺子屋の師範も唸るくらいの達人であった。その才能は、祥太郎がしっかり受け継いでいた。

 山の稜線が白みはじめた。木組みも燃え尽きて、父の亡骸は、姿を留めることが出来なくなった。火の傍で父に話しかけて過ごした愛おしくも残酷な今夜は、祥太郎にとって生涯忘れることはないだろう。
   「父上、これからも私を見守ってください」
 父上の燃え殻と思しきあたりの灰を、父上の遺言どおりに川へ全て流そうとしたが、お骨の欠片を一つ、遺言に逆らって木片で拾い上げた。
   「父上、許してください」
 冷めるのを待って懐紙で大切に包むと、そっと懐へ入れた。
   「祥太郎は、今日からこのお骨を父上と見ます」
 川原に木片で穴を堀って、まだ火の着いた炭を放り込み、丁寧に砂をかけて火を消すと、祥太郎は川原から立ち去った。

 父の打裂(ぶっさき)羽織と袴、笠、血のついた脇差を頂戴してきたが、懐には一文の銭もない。とは言え、もう帰るところもないのだ。生まれて初めての長旅で、街道の一里塚だけが頼りの旅である。腹が空けば草を喰(は)み、喉が渇けば小川の水をすすり、日が暮れたら洞があれば上等で、お寺や、お社でもあれば縁の下をお借りするのだが、それも無ければ木の下で眠る。その場合、雨にでも合えばかたなしである。

 空腹を抱え、江戸に向けてトボトボと歩いていると、案の定雨がポツリと来た。幸い農家の屋根が見えたので、軒下でも借りようと走った。
   「すみません、旅のものですが…」
 言い終わらないうちに、怒鳴り声を浴びせられた。
   「このあいだから、畑の野菜を盗んでいるのはお前だな、この泥棒野郎!」
   「いえ、私はこの道を初めて通りました」
   「嘘をつけ、野菜を盗みに来て、雨に遭ったのだろう」
   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の一子、進藤祥太郎と申します」
   「何、お侍だと、お侍のふりをして逃れようとするのか」
   「いえ、ふりなどしていません」
   「煩い、帰れ、帰れ、帰らぬと役人を呼ぶぞ!」
 農家の住人の凄い剣幕に、祥太郎は仕方なく引き下がった。雨は、次第に本降りになって、雨の中を少し歩いただけで、もう下帯(ふんどし)までぐっしょり濡れてしまった。
 まだ初秋の、それも昼間とは言ども、雨の冷たさは若い祥太郎も骨身に堪える。さらに濡れて歩いていると、空腹が祟ったのか、目眩がしてきた。
 せめて農具を入れる小屋でも借りることが出来ないかとフラフラ歩いていると、再び農家が見つかった。

   「私は越後高崎藩の者ですが、雨に降られて難儀をしています、軒下をお借りできませんか?」
 戸がガラリと開かれて、老婆が顔を覗かせた。
   「はいはい、たくさん降ってきましたなぁ、旅のお方、どうぞお入りください」
 また、怒鳴られるのかと思った祥太郎だったが、その優しい言葉に驚いてしまった。
   「本当に、宜しいのですか?」
   「何をしておいでですか、雨が降り込みます、早く入って戸を閉めてくだされ」
 雨にずぶ濡れになった祥太郎を見て、老婆はさらに言葉を続けた。
   「そんなところに佇って居ると病気になります、丁度お湯が沸いたところです、こっちへ来て体を拭いなされ」
 老婆は盥に湯を入れ、水でうめて手拭いと共に出してくれた。祥太郎が裸になるのを躊躇っていると、老婆は奥の部屋に入っていった。見ては恥ずかしかろうと気を利かせてくれたのだと思っていると、老婆は直ぐに晒を持って出てきた。
   「今、晒を切って差し上げますので、これを巻きなされ」
 だが、縫っていない晒を下帯にする方法を祥太郎は知らない。それを老婆に言うと、笑いながら答えた。
   「私が巻いて差し上げます」
 祥太郎は、顔を真赤にしたとき、表の戸が開いて老人が入ってきた。
   「あぁ、お爺さんお帰り」
   「これ婆さん、若い男を連れ込んで、何をしてなさる」
 別に怒っている風ではない。
   「何をしていると言われても、この婆に何が出来ます」
   「今、若い男の下帯を脱がせておりましたわなぁ」
   「えへへ、お爺さんたら、焼き餅を焼いてなさるのか」
 笑いながら、老婆は状況を話して聞かせた。
   「下帯の巻き方を?」
   「そうです、紐を縫い付けた下帯しか着けたことがないと言いなさるのでな」
   「そうか、婆さん良い目の保養をさせて貰いましたな、五年は寿命が延びよう」
   「まだ目の保養なぞしておりません、これから教えて差し上げるところでしたのに…」
   「わしが邪魔をしたのか?」
 老婆は、「それなら、爺さんが教えてあげなされ、私は夕餉の支度をしますから」と、祥太郎の元を離れた。

   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎でございます」
   「ほう、お侍さんのご子息が、何故の一人旅を?」
 父は悪事を働いた訳ではない。なにも隠すことはないので、事具(つぶさ)にこの家の主に話して聞かせた。
   「何と酷いことを、だからわしは侍が嫌いなのじゃ」
 言って、祥太郎を侍と気付き、「済まんことを言った」と、詫びた。
   「いえ、私も侍が嫌いになったところです」
   「そうじゃろ、それでこれから何となされるのじゃ」
   「江戸へ行って、仕事を探します」
   「目当てはありますのか」
   「ありませんが、死体を埋葬する寺下男とか、屎尿を回収して肥料として売るような人の嫌がる仕事でも構いません」
   「ほう、若いのに偉いなぁ」

 その夜、祥太郎は三和土に筵を敷いて寝かせてもらった。真夜中、祥太郎は物音に気付き目が冷めた。祥太郎の枕元に、この家の主が出刃包丁を順手に持って立っていた。
   「しまった、起こしてしまったか」
 言うと、爺は祥太郎に馬なりになろうと飛びかかってきたが、若い祥太郎の動きは機敏である。筵を跳ね上げると、「さっ」と入り口の方に逃れた。
   「何故です、何故私を殺そうとするのですか」
   「お前が大切そうに握っている物を奪う為だ」
   「えっ、これはあなた達にとっては、何の価値もない物ですよ」
   「珊瑚の紅玉か、瑠璃の玉であろうが」
   「いいえ、父の遺骨です」
   「嘘をつけ、渡すのが嫌だから、そんなことを言っているのだろう」
   「嘘ではありません、それに私は一文の銭も持っていません」
   「それで、よく旅が出来るものだ」
   「国を追われたから、仕方がないのです」
   「親父が盗み出した公金を持ちだしたのだろう、どこに隠した」
 祥太郎は、がっかりした。農家の住人に怒鳴られた後、なんと親切な人もいるものだと感激した矢先のこれである。遺骨を出して見せたところで、宝を何処かに隠してきたと疑われるだけだろう。諦めて支え棒を外し、外へ飛び出した。飛び出して気付いたのだが、自分は裸で下帯しか着けていない。まだ、生乾きだろうが、打裂や笠を取り戻さねばならない。今飛び出した戸口に立ち、戸をガラリと開いた。
   「旅人さん、これが必要だろう」
 老婆が、祥太郎の荷物を持って立っていた。祥太郎はその荷物を引っ手繰ると、抱えて闇に向かって走った。荷物がズシッと重いので、調べてみると、紐を通した一文銭で百文程度が着物の中へ挟まっていた。どうやら、老婆がいれてくれたらしい。
 たった今、「他人なんて誰も信じられない」と思った祥太郎だったが、自分は「間違っていたかな」と、ほんのりとした物が胸に湧いたのを切欠に、雨が小降りになってきた。

 夜が白んできた。歩こうと思ったが、草鞋の紐が切れた。それでも構わず草鞋を突っかけて歩いていると、草鞋本体が分解してしまった。なにか草鞋の代わりになるものは無いかと辺りを物色していたら、倒れた生木が道端に横たわっていた。この皮を剥がして足に合う寸法に切り取ると、稲を刈り取って間のない田圃から荒縄一本拾ってくると、足にクルクルと巻きつけ、木の皮を足の裏に固定した。
   「よし、歩けるぞ」
 祥太郎は、これからはこれに限ると、自分の名案に陶酔していた。

 この日の祥太郎の腰には、百文ぶら下がっていて、何だか大金持ちになったような気がしている。だが、これで食い物を買うと、あっという間になくなってしまう。勿論、旅籠などには泊まれない。一泊二食付きで、二百文はとられるのだから。
 祥太郎は知っていた。青木昆陽という学者先生が栽培した「甘蕉」が、栽培しやすくて農家の人気対象になっていることである。甘蕉とは薩摩芋のことで、昆陽芋とも呼ばれたとか呼ばれなかったとか。
 それを安く分けて貰うのだ。

   「すみません、傷物でよいので薩摩芋二・三個分けて貰えませんか?」
 畑で野菜を収穫していた老人が振り向いて、黙って祥太郎をジロジロ見ている。
   「お前は何者だ、腰に差した刀の柄に、黒いものが付いている、それは血だろう」
 祥太郎が人を斬ってきたと思っているらしい。
   「これは父上の血で、父上はこの脇差で切腹しました」
   「ふーん、何だか訳ありのようだな、芋がほしいのか?」
   「はい、持ち金が少ないので、町で売っている食べ物は高くて買えません」
   「傷物が良いのか?」
   「はい、なるべく安くお願いします」
   「今、腹が減っているのか?」
   「はい、とても」
   「よし、そこの草叢に竹の皮の包みがあるだろう」
   「はい、あります」
   「それを開いてみなさい、蒸かした芋が入っている」
   「でもこれは、おじさんの弁当ではありませんか?」
   「そうだが、婆さんはいつも余分に入れてくれる」
   「三つあります」
   「一つやるから、そこで食え」
   「本当ですか、では幾ら払えばよろしいのですか?」
   「金はとらん、遠慮せずに食え」
   「有難う御座います」

 甘くて美味しかった。思えば父が薩摩芋を落ち葉で焼いてくれたのは、祥太郎が八歳のときだった。
   「とても美味しいです」
   「そうだろう、うちのは肥やしが効いているから、どこよりも大きくて甘いのだ」
   「本当です、こんな大きな芋は初めて見ました」
   「そうか、もう一つ食うか」
   「それでは、おじさんの分が…」
   「遠慮するな、わしは年寄だから一つあれば十分だ」
 とても親切な人だなぁと思うのだが、何か裏がありそうな気がして、祥太郎は老人に気を許していなかった。
   「食ったか?」
   「はい、頂きました」
   「そうしたら…」
 「そら来た」と祥太郎は思った。懐のものか、それとも腰の銭か。
   「遠くに藁屋根が見えよう、あれがわしの家だ、あの家の裏に肥桶が二つ置いてある、あれをここへ運んでくれ」
   「えーっ、二つ一度に?」
   「安心しろ、わしが担げるように、それぞれ半分しか入っていない」
   「はい、わかりました、行って参ります」
 大きな芋を二本も食った所為か、祥太郎は元気もりもりである。農家を目指して駈け出して行った。

   「おや、どこの坊っちゃんですか?」
 老婆が気付いて、母屋から出てきた。
   「はい、今おじさんに頼まれて、肥桶を運びに来ました」
   「まあまあ、余所のお坊ちゃんに、そんなことを頼んだのですか」
   「はい、お礼に薩摩芋を二本も頂きました」
   「それは、それはご苦労さまです、気をつけて運んでくださいね、転けるとどういうことになるか、わかりますよね」
   「はい、私はクソまみれになります」
 老婆は、その場面を想像したのか、袖で口を隠して吹き出し笑いをした。

   「ご苦労さん、腰が低く落ちて、中々様になっていたぞ」
   「才能はありますか?」
   「あるある、今すぐにでも農家の息子になれる」
 老人は、冗談のつもりで言ったのに、この若者が本気にして喜んでいるのが不思議だった。
   「格好から見れば、お前さんは侍だろう」
   「はい、私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「百姓仕事に興味があるのか?」
   「はい、江戸へ出て、墓守か屎尿処理の仕事がしたいと思っています」
   「へー、それはどうして?」
   「働ければ何でも良いので、人の嫌がる仕事を選びます」
   「ふーん、偉いのか、バカなのかわからんが」
   「どちらも違います」
 祥太郎は、老人が休憩をして、芋を食っている間に、国を追われてきた訳を全て話した。
   「そんな悲惨な事があったのか、それでいつの日か国へ帰って、父の濡れ衣を晴らすのか?」
   「いいえ、晴らしません、父の遺言を守る為です」
   「父上は、無念を晴らすなと…」
   「はい、大切なのは、そんなことより私の将来だとおっしゃいました」
 老人は、今日一日自分の手伝いをしてくれないかと、祥太郎に頼んだ。
   「歳を取ると力仕事が辛くなって、婆さんに手伝わせるのだが、婆さんも体が弱くてなぁ」
   「有難う御座います、食べ物と土間をお借り出来れば、お駄賃は要りません」
   「そうか、では今夜は泊まっていけるのだな」
   「はい、お願いします」
 だが、祥太郎は気を許していなかった。
   「あのう」
   「何だ?」
   「私が懐に入れて大切にしているのは、父のご遺骨で、私はこれを父だと思っています」
   「ほう、親孝行だったらしいな」
   「父のことが大好きでした」
   「だから、どうしろと言うのかね」
   「いえ、何となく話して置きたかっただけです」
   「どこかで宝物だと思われて、盗られそうになったのだろう」
   「はい、実はそうです」
   「安心しなさい、例え宝物でも盗みはしない」
   「それから、父は一文たりとも公金に手をつけたりはしていません」
   「それは、もう聞いた、お前さんが大金を持っているとは思えない」
   「有難う御座います」
   「何の礼だ」
   「いえ、私が話したことを信じて頂いたお礼です」

 その日、収穫の手伝いをして、肥やしについての話も聞かせてもらった。肥やしというものは、便所から組んだ真新しい屎尿は肥料として使えないのだそうである。肥料だと言って畑に小便を掛けるのも、野菜を枯らしてしまうだけだと教えられた。屎尿は肥溜めに入れて一年間寝かせたものが肥料になる。
   「それ、そこに竹で編んだ蓋をかけたところがあるだろ、それが肥溜めだ」
   「では、家の傍から私が担いできたのは?」
   「昨日の残りだ、半分撒いたところで日暮れになったので、畑に置いておくと猪が倒してしまうので家に持ち帰って納屋に入れておいたのだ」
   「本当は一杯入っていたのですね」
   「そうだ、婆さん一人残して老ぼれる訳にはいかんのでな」
   「おじさん、無理をしてはいけませんよ、お子達はどうしたのですか?」
   「わしら夫婦は、とうとう子供に恵まれなかった、神様に見落とされたようだ」
 その日は、日が暮れるまで、老人の手伝いをして、話もいっぱいした。

   「おじいさん、お帰り、ご苦労さまでした」
 老婆はそう言って、まだ祥太郎が居るのに気付いた。
   「おや。お芋二個で、この時刻まで手伝ってもらったのですか?」
   「そうだ、よく働いてくれた、わしは骨休めが出来たというものだ」
   「まあ、お気の毒に、済みませんでしたね」
   「いえ、おじさんに、いろいろ勉強になることを教わりました」
   「お爺さんが教えたのですか、とんだ先生ですこと」
   「なにをぬかすか、これでも昔とった杵柄で、畑のことなら任せておけというものだ」
 今夜はここに泊まってくれるそうだから、なにか美味しいものでも食べさせてやってくれと、老人は妻に頼んだ。
   「と、言われても、たいしたものは無いのですよ」
 老婆も、なんだか浮き浮きしている。久しぶりの若い客なのだろう。

 行水をして、食事も済ませた後、老人は言った。
   「お前さん、侍の子だから字は読めるのだろう」
   「はい、読み書き算盤は出来ます、剣道は無茶苦茶流ですが」
   「そうか、では…」
 老人はそう言って、仏壇の前に進み、抽斗から紙切れを取り出した。
   「これを読んでくれないか」
   「はい」
 祥太郎は紙切れに書いてあるのを読んで、首を傾げた。
   「おじさん、これは借用書ですね」
   「そうだ、他人になけなしの金を貸したのだが、五年経っても返してくれないのだ」
   「債権者 六兵衛殿 金十両 右記の金額を借用するもの也 と、あります」
   「それだけか?」
   「いいえ、債務者 耕太郎 とありますが、その後がいけません」
   「と、言うと?」
   「ある時払いの、催促なし と書いてあります」
   「それはどういうことだ?」
   「お金ができれば返すが、催促をしてはいけないと言うことです、即ち返す意志がないということになりますね」
   「やはりそうか、わしらは字が読めないことを知って、企んだのだな」
   「そのようですね」
   「やはりそうだったのか、悔しいが仕方がない、諦めるか」
 六兵衛は、がっかりと肩を落とした。
   「おじさん、諦めることはありませんよ」
   「打つ手はあるのか?」
   「わたしに任せて頂けますか?」
   「もし、少しでも金が戻れば、お前さんにあげよう」
   「要りませんよ、おじさんの大切なお金なのに」
 とにかく、明日耕太郎のところへ行ってみようと祥太郎は思った。家の場所を訊き、納屋の片隅に積まれた藁の上に、筵を敷いて眠った。

  翌朝、力仕事をした後、耕太郎のところへ行くと言って、六兵衛の手伝いの畑仕事を許して貰った。
   「六兵衛さん家の居候です」
 そう名乗って耕太郎の家の近所で耕太郎のことを訊くと、皆は口をそろえて「どけち」と罵った。鎮守際の行事に、寄付を頼みに行ったが、一文も出さなかったとか、村の菩提寺に雷が落ちて、本堂の一部が焼けたときに、檀家一同が集まって寄付金を出し合って修理をしようと決めたが、寄付どころか檀家の集会にすら出席しなかったなど、愚痴話を聞かされた。

 家の建物はと見ると、百姓家にすれば結構立派で、庭に手入のされた植木が数本立っていた。
   「耕太郎さんはおいでですか?」
 女房らしい女が顔をだした。
   「居ますが、あなたのお名前は?」
   「私は六兵衛さんの家の居候で、越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「はあ、ちょっとお待を」
 女は、奥へ駆け込み、耕太郎らしき男とボソボソ話をしている。
   「そんなヤツは知らん、放っておけ」と、男の声。
   「何の用か分からないではありませんか、あなた出てくださいよ」
   「面倒臭えなぁ」
   「刀を差したお侍ですよ」
 内緒話をしている積りなのか、まる聞こえである。
   「何だ、何の用だ」
 漸く男が出てきた。
   「六兵衛さんが耕太郎さんに貸した十両のことでお願いに来ました」
   「借用書は持ってきたのか?」
   「はい、ここに持っています」
   「それで?」
   「返してあげて欲しいのです」
   「お前、字が読めるのか?」
   「はい、読めます」
   「それに何と書いてある」
   「ある時払いの、催促なしと」
   「そうだろう、分かっていたら催促に来るな!」
   「催促に来たのではありません、お願いに来たのです」
   「同じではないか」
   「いいえ、私は債務者ではなく、六兵衛さんの代理できたのでもありませんから、催促ではありません」
   「面倒臭い野郎だなぁ、そんなもの最初から返す気はねえよ」
   「そうなのですか、最初から返す気はなかったのですね」
   「そうだ、それに、ある時払いと書いてあるだろう、分かったら帰れ!」
   「それをお代官さまに伝えて、あなたの家に金が無いのかどうかも調べて頂きましょう、私はお代官さまに、詐欺師を捕らえてくださいとお願いに行きます」
   「誰が詐欺師だ、わしは六兵衛から金を借りたのだ」
   「最初から返す気がないのなら、借りたとは言いません、それに六兵衛さんは、あなたに十両を差し上げたとは言っておりません」
   「お前の寝言を、代官さまが取りあげるものか」
   「私は訴えに行くのではありません、お願いに行くのです、詐欺師を捕らえて、島流しにしてくださいと」
   「わしは島流しになるのか?」
   「十両盗めば死罪です、十両盗むのも、詐取するのも同じことです、あなたの場合は、返す気が残っているかもしれません、その場合はお咎めなしになるでしょう」
 祥太郎は、踵を返してこの家出て行こうとしたが、耕太郎は「待て」と、止めた。
   「わかった、十両は返そう」
   「では、借りたことにするのですか?」
   「そうだ、わしは六兵衛から十両借りた」
   「では、何も問題はありません、ただし、借りたのなら、利息が付きます」
   「いくらだ」
   「五年も借りたのですから、利息は二両にもなっているでしょう、元利合計十二両です」
 耕太郎は、女房を呼んで、十二両用意しろと言いつけた。
   「先程も言ったでしょう、私は六兵衛さんの代理で来たのではありません、あなたがその十二両を持って六兵衛さんの家に出向き、借りた礼を言って返しなさい」
 祥太郎はそう言い残すと、さっさと耕太郎の家を出た。

 その夕刻、耕太郎は六兵衛の家に行き、「長いこと借りて済まなかった」と頭を下げて十二両を返した。六兵衛が借用書を返すと、耕太郎は破って捨てた。

   「へえー、お前さんはたいした男だ、何と言って返させたのか知りたいものだ」
 祥太郎は笑っていた。
   「勘定方の倅ですから、お金のことは少し知っています」
   「婆さん、こんな頼りになる息子が居たら、どんなに心丈夫だろうね」
   「そうですね、でも、そろそろ返してあげなければなりませんよ」
   「芋二本で引き止めて、倅を持った夢まで見させてもらった」
   「本当に楽しい夢でしたね」
   「十二両は、祥太郎さんに持って行って貰おう」
   「はい、今夜は腕に縒りをかけて美味しいものを作りましょう、祥太郎さん、この婆を町まで連れて行ってくれませんか?」
   「お金は要りませんと言ったでしょう、それに私の為に無駄遣いをしないでください」
   「何が無駄なものですか、婆さんも嬉しいのですよ」
 六兵衛も、ニコニコ顔であった。祥太郎は、正座をして襟を正し、手を着いて老夫婦に言った。
   「六兵衛さんとおばさんに、お願いがあります」
   「はいはい、何なりと言ってください」
   「私を暫くここに置いて頂けませんか?」
   「えっ、本当か、本当に暫く居てくれるのか?」
 お婆さんは、腰も抜かさんばかりに驚いて、子供のように頬を抓っている。
   「息子代わりにここに置いて、親孝行をさせてください」
 老夫婦は、躍り上がらんばかりに夫婦抱き合って喜んだ。

 翌日から、祥太郎は、身を粉にして働いた。呼び方も、六兵衛さんとかおじさんではなく、祥太郎の懐にいるのは父上で、六兵衛はお父さんである。おばさんと呼んでいたのも、お母さんと呼び替えることにした。

   「今日は、力仕事が無いので、町まで野菜を売りに行ってきます」
   「では、わしが付いて行こう」
   「もう慣れましたので、一人で大丈夫です」
   「そうか、気をつけて行ってきなさい、くれぐれも無理をしなさんなよ」
 町では、そろそろ祥太郎にご贔屓客がついて来た。祥太郎が優しいこと、親切なことが知れて来たからだ。
   「祥ちゃん、また手紙を読んでくださいな」
   「はい、承知しました」
   「祥ちゃん、ちょっとこれを書いて頂戴な」
   「はい、矢立は持っていますので、紙を用意しておいてください」
   「祥ちゃん、これ二束と、これ三個、それからこれも頂戴」
   「はい、三十六文です」
   「あら、算盤が無くても早いのね、間違えていない?」
   「大丈夫です、算盤は頭の中に有ります」
 どんな雑用でも、「嫌だ」とは言わず、快く引き受けてくれるので、町の重宝屋さんである。人気が少しずつ出てきて、野菜を売り残すことは無くなった。

   「こら、そこの花売り」
   「はい、何でしょうか」
 町のゴロツキが若い花売りの女を取り巻いた。
   「お前、誰に断って商いしておる」
   「すみません、初めてなもので、何も知りませんでした」
   「うちの縄張り内で商いをすれば、みかじめ金を払ってもらうことになっているのだ」
   「まだ一本の花も売れていません、どうぞ今回は勘弁してください」
   「懐の巾着を出してみろ」
   「これは帰りに母の薬を買って帰るお金、どうぞお許しください」
   「ならん、払わねば商売を出来ないようにしてやる」
 言うが早いか、ゴロツキどもは商いの花を奪い路上に投げつけた。そればかりか、担いでいた桶まで奪い、叩き壊してしまった。更に、女の顔に平手打ちを入れようとした。
 ゴロツキどもの傍若無人ぶりに、祥太郎はいたたまれず花売りの傍に駆け寄り、花売りの女を庇った。
   「ここは天下の大道でございます、誰にも断りをいれる必要は無いと思います」
   「ここは、わしらの縄張りだ、縄張り内で商いをすれば、みかじめ料を払ってもらうことになるのだ」
   「それは、お上が定めたことでしょうか?」
   「お前、阿呆か、お上が定める訳がないだろう、わしら侠客がお前らを護っている、その見返りを貰っているのだ」
   「侠客? 侠客と言えば、強きを挫き、弱きを助けるのを旨意としているのではなかったのか」
   「その通りよ」
   「では何故弱き女を脅して、金を巻き上げるのか」
   「護って貰えば、礼金を払うのが当然だろう」
   「この人が護って欲しいとお願いしたのか」
   「それは、わしらが縄張り内で目を光らせているから、お前らは安全に商いが出来るのだ」
   「その安全を害しているのは、あなたがたではありませんか、見なさい大切な花と桶をこんな風にしてしまって、可哀想だと思わないのですか」
   「煩い若造め、お前も商いが出来ないようにしてやろうか」
   「出来るものならやってみなさい、わたしも武士の端くれ、黙ってあなた方の好きなようにはさせません」
 腰に脇差しは差しているものの、恐らく血糊が固まり抜けることはないだろう。一対一の組手なら力負けはしない自信があるが、ヤツ等は匕首を抜くだろう。到底勝ち目は無いので、口先で煙に巻くしか手はない。
   「ここで喧嘩をする前に、あなたがたの親分に会わせてください」
   「会ってどうする」
   「文句の一つもぶちまけてやります」
   「そんなことをすれば、お前は簀巻きにして大川へ捨てられ、魚の餌になるのだぞ」
   「魚が喜んで餌にしてくれるなら、それはそれで私としては本望です」
   「粋がるのも、今の内だ、そのうち泣きべそをかいて、命乞いをするのだろう」
   「しませんよ、さっき言ったでしょう、私も武士の端くれだと」

 大道で、ゴロツキ相手に大見得をきっていたら、通り掛かりのやくざ風の旅人が立ち止まって祥太郎に話しかけた。
   「お兄さん、なかなかの度胸じゃありませんか、行商をさせておくにはもってぇねぇぜ」
   「行商を馬鹿にしないでください、これで真っ当に生きているのですから」
   「そうだった、済まねぇ、済まねぇ」
 旅人を見て、ゴロツキどもが急に静かになった。旅人は懐から財布を出して、小判を一枚ゴロツキの一人に渡した。
   「おい、鉄、これを花売りの女に渡してやりな、弁償だってな」
   「へい、兄貴、申し訳ありません」
 兄貴と呼ばれたこの男、花売りの女の元へ行き、踏み躙られた花や壊された桶の片付けを手伝い、優しく声をかけていた。
   「済まなかったなぁ、怖かったろう、このあっしに免じて許してくんな」
 女は泣きべそをかきながら、何度も何度もこの男に頭を下げていたが、さっきゴロツキから受け取った一両を返そうとした。
   「いいのだよ、とっときな」
   「いえ、多すぎます、頂けるなら一朱で十分です」
 祥太郎が口を挟んだ。
   「貰っておきなさい、先程の、脅され料だと思えばいい」
 女は、祥太郎にも頭を下げて立ち去った。

 祥太郎もその場を立ち去ろうとすると、旅人風の男が付けてきた。
   「何か用ですか?」
 立ち止まって振り向きさまに祥太郎が言った。
   「いや、お前さんのような男と、兄弟の杯が交わせたらいいだろうなぁと思って」
   「わたしは堅気の商人です、杯を交わすなんて、きっぱりお断りします」
   「その、はっきり物を言うところが気に入ったのだ」
   「ただ命知らずの馬鹿なだけです、何れは旅人さんのようなお方に斬り殺されるのでしょう」
   「かも知れぬなぁ」
   「では、私はこれで失礼します」
   「まあ、待ってくれ、兄さんは脇差しだけを差しているが、本差しは差さねえ訳を聞かせてくれないか」
   「持っていないからです」
   「持っていたら差すのか?」
   「いえ、商売の邪魔になるから刺しません」
   「脇差しは邪魔にならないのか?」
   「これは、護身用にさしているのではありません、父の形見で神社のお守りのようなものです」
   「その血の跡は?」
   「これは父上が切腹した脇差しです」
   「そのまま鞘に指しておけば、抜けなくなるだろう」
   「既に抜けません、錆びついたようです」
   「わしが手入れをしてやろうか」
   「結構です、血が洗い流されたら、お守りでなくなります」
 この男、ちょっとしつこいので、祥太郎は辟易(へきえき)しているが、お構いなく畳み掛けてくる。今度は、祥太郎から尋ねた。
   「お兄さん、あなたはもしや長五郎さんではないのですか?」
   「どうして」
   「父が旅先で会った山本の長五郎さんというお方が、見知らぬ旅人がゴロツキに殴る蹴るの暴力を受けているところを、自分の命を張って助けたそうです」
   「それがあっしだと?」
   「はい、父はあの人は真の任侠道に生きる人だと感心して、事あるごとに私に話して聞かせるのです」
   「ははは、違う、違う」
 と、言いながらも妙に照れて、祥太郎から離れて行った。
   「ははは、嘘だよ」

 その日も暮れかかり、祥太郎は天秤棒の前後の空の笊を担いで帰ってきた。
   「お父さん、お母さん、ただいまかえりました」
   「ご苦労さんだったねぇ、疲れたろう、お父っつぁんは、まだ畑から帰らないが、おっつけ帰ってくるだろう、先に行水をして寛ぎなされ」
   「いえ、ちょっと見てきます」

六兵衛は、実って垂れた穂をみて周っていた。
   「お父さん、祥太郎ただいま戻りました」
   「ああ、ごくろうさん、疲れたでしょう、家で寛いでいなさらんか」
   「大丈夫です、持って出た野菜は全部売れましたので、お父さんに頼まれていた刻煙草を、少し多い目に買ってきました」
   「そうか、そうか、ありがとう、ありがとう」
   「お父さん、そろそろ稲刈りなのでしょ?」
   「明日から、とりかかろうと思っていたところだ」
   「では、明日から行商は止めて、稲刈りをします」
   「そうか、頼みましたよ、稲刈りはよくやったのか?」
   「初めてです」

 刈ってひろげて日に乾かして、脱穀、籾摺り、玄米に仕上げて俵につめたものを年貢としてお上に納める。
 祥太郎は、六兵衛の教えることを素早く覚えて、六兵衛が体を壊しはしないかと心配するくらいよく働いた。

   「今年は、夢のようだった」
 六兵衛は、祥太郎の働き振りを妻に語った。妻も年を取り、体のあちこち「痛い」と漏らしていたが、今年は祥太郎に労れて、愚痴も言わず元気に家事を熟していた。

 その年も押し迫って、藁打ちをしていた祥太郎の耳に、老夫婦の押し殺した声が聞こえた。
   「お爺さん、祥太郎が居なくなる日のことを考えると辛いですね」
   「そうだなぁ、なるべく考えないようにしようや」
 祥太郎は、立ち上がって、夫婦の元へやって来た。
   「お父さん、お母さん、お二人を置いて祥太郎は何処へも行きません」
 二人は、祥太郎のその言葉が聞きたくて、態と聞こえるように話していたようだ。

 そんな話をした次の日の夕刻、三十路を跨いだばかりと見られる男がやってきた。
   「お前か、年寄に付け入って、家と田畑を盗ろうと企んでいるヤツは、ここの跡継ぎはわしだぞ」
 六兵衛が、甥の銀次郎だと紹介して、「言葉を慎め」と、窘めた。
   「そんなことはしませんよ、仮に譲ると言われても、きっぱりお断りします」
 六兵衛夫婦の胸に、不安が過った。もしや祥太郎が不快に思って、出て行きはしないかと。
   「嘘をつけ、ここに居座ると、お前の顔に書いてある」
   「そう思うのなら、あなたがここへ来て、六兵衛さんたちを安心させてください、わたしは何時でも出て行きます」
 やはり、六兵衛夫婦にとって、最悪の事態になりそうだ。
   「おう、出て行きやがれ、この泥棒猫め」
 後を継ぐ男が現れて、そうまで言われてまで留まる気はない。また、後を継ぐ甥がいることを隠していた六兵衛夫婦に、不満が募った。
   「わかりました、出ていきます、お金は全て置いて行きますが、私が編んだ草鞋を二足頂いて参ります」
 祥太郎は、六兵衛夫婦との約束を破らざるを得なくなったが、それは二人にも否があるのだと自分を擁護した。


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