泣いて縋る夫婦を残して旅立つのは心残りだが、甥とは言え血の繋がった親戚である。きっと二人を仕合せにしてくれるだろうと、六兵衛の家を後にした。
街道は、薄日が射しているのに、粉雪が舞ってきた。懐には一文の銭も入っていない。今度こそは野垂れ死にをするかも知れないと思ったが、祥太郎はくよくよすることはなかった。懐には父が居る。腰には父の血が付着したお守りがあるのだ。
町に出ると、今まで贔屓にしてくれた家に挨拶をして回った。中には、行商を止めて旅にでる訳を聞いてくれる人も居た。
「そうかい、江戸へ行きなさるか」
これは少ないけれど餞別だよと、紙に包んで渡してくれる人も居た。こんな積りできたのではないと遠慮すると、「気は心」と、祥太郎の懐に入れてくれた。紙包みの中に一朱、二朱と、祥太郎にとっては大金が入っており、それはそれで祥太郎の心を痛めた。
道中、旅の女が道端に蹲っていた。腹を抑えて、苦しそうにしている。祥太郎は駆け寄り、女に声を掛けた。
「お姉さん、どうかしましたか?」
「はい、急に差し込みが来まして…」
「それはいけません、近くの旅籠まで背負ってお連れしましょう」
「ありがとうございます」
背負った途端に、女の手が懐に「さっ」と、差し込まれた。
「お姉さん、冗談はいけませんや、腹痛は嘘ですね」
女は祥太郎の背中から離れて、一間おいて立ち祥太郎を睨みつけた。
「お姉さん、私はあなたを捕らえてつき出そうとは言いません、僅かだが私の懐の銭には心が篭っておりまして、差し上げる訳にはいかないのですよ」
この銭は、餞別に貰ったもので、この銭でやりくりして江戸まで行かなければならないと説明した。
「そうかい、済まなかっためねぇ、わかったよ」
「ありがとう」
「別に礼を言われる筋合いのものではないけどね」
「わかってくれて、ありがとうと言う意味だよ」
「あんた、可愛いね、弟にしたい位だよ」
掏摸の弟なんて、まっぴら御免だと、心の中で断った。女と別れて暫く行くと、女が後ろを付けてくる。
「まだ私の懐を狙っているのかい」
「懐は狙ってはいないよ、ちょっとあんたに惚れちまってね、もう少しあんたの旅姿を留めておきたいと思ったのさ」
「勝手にしろ」と、その後は振り返りもせずに歩き続けたが、何時の間にか女は姿を消していた。
何とか野宿をせずに江戸まで着いた。懐の銭は姿を消していたので、寺を見付けて賃金は要らないから寺男に雇ってくれないかと尋ねて歩いた。食と住が満たされれば御の字なのだ。
もう人も絶えたのであろう山の荒れ寺を見つけたので、せめて一泊本堂の隅を借りようと中に入ると、思いがけず仏前で酒を食らっている僧が居た。
「誰だ!」
僧は呂律がまわらない程に酔っていた。
「旅の者ですが、今夜一晩仏様のお膝元をお借りしようと思いまして」
「そうか、本堂の隅に茣蓙が置いてあろう、そこで休みなさい」
僧は、そう言った積りらしいが、これは祥太郎が判断した言葉である。
「旅の者、腹が減っておろう、ここへ来なさい」
先程から、祥太郎が嗅いだこともない美味そうな匂いがしていた。
「檀家の鉄砲撃ちが猪を仕留めたと届けてくれたのだ」
何と生臭坊主ぶりだと祥太郎は呆れた。酒ばかりではなく、猪の肉を食うなど、仏に仕える者とは思えない。だが、祥太郎も空腹に耐えていたのだ、食欲に負けて僧の元へ躙り寄った。
「美味かろう、どうせ残せば腐るものだ、遠慮せずに食え」
「はい、頂きます」
獨酒は酢に近いもので不味かったが、猪の肉は旨かった。たっぷりよばれて、その夜は茣蓙を重ねてホカホカの寝床で寝た。
翌朝、住職は昨夜のことを何も覚えて居ず、祥太郎が寝ているのを見付けて、大騒ぎをした。
「貴様、何者だ?」
「昨夜、和尚様の許しを得たではありませんか、私は旅の者で越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
「そうであったか、これは失礼申した」
祥太郎は和尚の前で正座をして、仏前の板の間に両手をついて、改めて頭を下げた。
「和尚様にお願いがあります、私を寺男としてここに置いてくださいませ」
「それは出来ぬ、檀家も去って行って、今は片手の指で数えるくらいだ、墓も僅かで墓男に払う銭などはない」
「賃金など要りません、寝泊まりをさせて頂き、食べ物は私が修行僧に化け、托鉢して手に入れて参ります」
「経は読めるのか?」
「写経をさせて頂ければ、直ぐに憶えてみせます」
「と言うことは、字は書けるのだな」
「はい、読み書き算盤はお手のものです」
「寺に算盤は要らんが、字が書けるなら重宝いたそう、寺男ではなく、修行僧として居てもらおう、化ける必要はない」
「有難う御座います、それから、荒れた建物も私が修理致します」
「そうか、頼むぞ」
その日から、祥太郎は建物の荒れた様子を見て回り、紙になにやら書き留めていた。夜は本堂に上げられた蝋燭の灯りで写経をして、和尚が経を読む朝に、懸命にその音を記憶した。三日目には、覚えたての経を読み、托鉢にも出かけた。
托鉢とは、ただ物乞いをすることではなく、信者に功徳を積ませる修行である。従って托鉢僧は礼を言ってはならないとされている。
祥太郎も、その知識を授けられ、喜捨を受けても「有難う御座います」とは言わないが、軽く頭を下げて頂戴した。
また、困っている人をみると、必ず駆け寄って手助けするなど、感謝の意が常に体から滲みでていた。
これは、修行の身にとっては不謹慎なことなのだが、祥太郎は町の人気者になった。頼まれごとがあると、僧衣を着替えて町に出、その器用さを活かして屋根の修理屋、戸板の修理をしてあげた。
何のことはない、ここでも「祥ちゃん」と呼ばれて、町の便利屋になっていった。また、板切れや、余った漆喰を頂いて帰り、寺の修理にも力を入れた。
墓地は、せっせと草を毟り、傾いたり汚れたりした墓石を、まるで真新しいかのように修復してみせた。
やがて檀家も増え、住職も酒を断ち、生臭坊主から、信頼される和尚として見事に立ち直った。
それから五年の年月が流れたある日、祥太郎は「一ヶ月ほどお暇が欲しい」と、住職にお願いをした。その頃は寺男も一人雇っていたので、住職は快く承知してくれた。
祥太郎は、この寺へきた時の旅の衣装に着替えて旅に出た。来た時と違っていたのは、頭が丸坊主になっていたことである。
「以前に仕えてくれた下男、平助のことが気がかりですので、一度、忍びで国へ帰って参ります」
そう言い残すと、祥太郎は腰に脇差しを差して旅に出た。
街道は、桜の花が咲き誇り、花粉の匂いで咽返っていた。もう二人、気になる人達が居た。六兵衛夫婦である。
あの懐かしい農家は、健在かのように見えた。だが近寄ってみると、屋根には穴が開き、壁は所々崩れ落ち、廃屋と化していた。祥太郎は近燐の農家に立ち寄り、六兵衛夫婦の消息を尋ねたところ、祥太郎が去ってその翌年に妻が亡くなり、六兵衛も妻を追うように畑仕事をしていて、倒れたそうであった。
「わたしが意地など張らなかったら、二人はもっと長生きが出来ただろうに」
父が無くなった時でさえ涙を流さなかった祥太郎で有ったが、遂に大粒の涙を落としてしまった。その涙は、今は荒れ放題の六兵衛さんが大切にしていた畑の土に染みこんでいった。
六兵衛の甥に会って、文句の一つも言ってやろうかと思ったが、夫婦は戻ることはなく、詮無きことと諦めてその場を立ち去った。
越後高崎藩に戻り、もと下男の平助の住処に来てみた。平助の息子夫婦が出て来て、深々と頭を下げた。
「その節は父がお世話になりました」
そう告げると、平助もまた祥太郎と別れて間もなく病の床に着いて、一ヶ月後に亡くなったと伝えられた。
「そうそう、生前、坊っちゃんが見えたら渡して欲しいと預かったものがあります」
平助の息子は、奥の部屋から、祥太郎の父が差していた本差を持って出てきた。文助に継いで、この息子が手入れをしていたのであろう綺麗なままの刀剣であった。
「これは、文助さんにわたしが差し上げたものです」
「いえ、これは坊っちゃんのお父上の魂が宿っています、あなた様にお返し致しましょう」
祥太郎は、笠をとって見せた。
「わたしは、ごらんの通り出家の身です、刀は不要なのです」
「でも、脇差しは差しておられるではありませんか」
「これは抜けません、父の形見のお守りなのです」
「お坊ちゃんにお返しする為に、手入れを欠かさなかったのです」
息子は、土間に降りて、祥太郎の前に手を着いた。
「お坊っちゃんは、まだお聞きになっていないのですか?」
「何でしょう」
「お父上、進藤綱右衛門様の罪が晴れて、ご上司の罪が暴露され、切腹を賜ったのですよ」
「そうですか」
祥太郎は冷めていた。どなたの罪であろうとも、父は生きて帰らないのだ。
「藩では、祥太郎様を探して、お家再興をお許しになる御積りです、お母様も祥太郎様をお探しでしたよ」
「それは、お断りしましょう、わたしは生涯今のままで、父上と文助おじさんの霊を弔って生きて参ります」
祥太郎の心の中には、六兵衛夫婦の名もあったことは言うまでもない。
祥太郎は、江戸に帰り着いた。住職は、「もしや帰って来ないのではないか」と、不安だったと打ち明けた。
この寺は、元々は山里村の菩提寺である。さびれて見る陰もなかったが、檀家の人々が寄り集まって徳を積み、再び菩提寺としての格調を取り戻していった。
ここで、祥太郎は住職から「祥寛」という名を頂き、日々精進するなか、ある日、生まれ故郷の越後の国は高崎藩から使いが祥太郎を捜しに来た。祥太郎が僧侶になっていると聞きつけてきたのだそうである。
六十石二人扶持で抱え、進藤の家を再興させるので帰国せよと言うものであった。父の時代の約二倍の禄高である。
祥太郎の母も、「早く祥太郎を見付けて欲しい」と、高崎藩士の父に催促ているという。祥太郎に考える余地はなかった。「父を生きて返して頂かない限りは、きっぱりとお断りします」と、使者を帰した。 (終)
-「進藤祥太郎 前編」に戻る-
街道は、薄日が射しているのに、粉雪が舞ってきた。懐には一文の銭も入っていない。今度こそは野垂れ死にをするかも知れないと思ったが、祥太郎はくよくよすることはなかった。懐には父が居る。腰には父の血が付着したお守りがあるのだ。
町に出ると、今まで贔屓にしてくれた家に挨拶をして回った。中には、行商を止めて旅にでる訳を聞いてくれる人も居た。
「そうかい、江戸へ行きなさるか」
これは少ないけれど餞別だよと、紙に包んで渡してくれる人も居た。こんな積りできたのではないと遠慮すると、「気は心」と、祥太郎の懐に入れてくれた。紙包みの中に一朱、二朱と、祥太郎にとっては大金が入っており、それはそれで祥太郎の心を痛めた。
道中、旅の女が道端に蹲っていた。腹を抑えて、苦しそうにしている。祥太郎は駆け寄り、女に声を掛けた。
「お姉さん、どうかしましたか?」
「はい、急に差し込みが来まして…」
「それはいけません、近くの旅籠まで背負ってお連れしましょう」
「ありがとうございます」
背負った途端に、女の手が懐に「さっ」と、差し込まれた。
「お姉さん、冗談はいけませんや、腹痛は嘘ですね」
女は祥太郎の背中から離れて、一間おいて立ち祥太郎を睨みつけた。
「お姉さん、私はあなたを捕らえてつき出そうとは言いません、僅かだが私の懐の銭には心が篭っておりまして、差し上げる訳にはいかないのですよ」
この銭は、餞別に貰ったもので、この銭でやりくりして江戸まで行かなければならないと説明した。
「そうかい、済まなかっためねぇ、わかったよ」
「ありがとう」
「別に礼を言われる筋合いのものではないけどね」
「わかってくれて、ありがとうと言う意味だよ」
「あんた、可愛いね、弟にしたい位だよ」
掏摸の弟なんて、まっぴら御免だと、心の中で断った。女と別れて暫く行くと、女が後ろを付けてくる。
「まだ私の懐を狙っているのかい」
「懐は狙ってはいないよ、ちょっとあんたに惚れちまってね、もう少しあんたの旅姿を留めておきたいと思ったのさ」
「勝手にしろ」と、その後は振り返りもせずに歩き続けたが、何時の間にか女は姿を消していた。
何とか野宿をせずに江戸まで着いた。懐の銭は姿を消していたので、寺を見付けて賃金は要らないから寺男に雇ってくれないかと尋ねて歩いた。食と住が満たされれば御の字なのだ。
もう人も絶えたのであろう山の荒れ寺を見つけたので、せめて一泊本堂の隅を借りようと中に入ると、思いがけず仏前で酒を食らっている僧が居た。
「誰だ!」
僧は呂律がまわらない程に酔っていた。
「旅の者ですが、今夜一晩仏様のお膝元をお借りしようと思いまして」
「そうか、本堂の隅に茣蓙が置いてあろう、そこで休みなさい」
僧は、そう言った積りらしいが、これは祥太郎が判断した言葉である。
「旅の者、腹が減っておろう、ここへ来なさい」
先程から、祥太郎が嗅いだこともない美味そうな匂いがしていた。
「檀家の鉄砲撃ちが猪を仕留めたと届けてくれたのだ」
何と生臭坊主ぶりだと祥太郎は呆れた。酒ばかりではなく、猪の肉を食うなど、仏に仕える者とは思えない。だが、祥太郎も空腹に耐えていたのだ、食欲に負けて僧の元へ躙り寄った。
「美味かろう、どうせ残せば腐るものだ、遠慮せずに食え」
「はい、頂きます」
獨酒は酢に近いもので不味かったが、猪の肉は旨かった。たっぷりよばれて、その夜は茣蓙を重ねてホカホカの寝床で寝た。
翌朝、住職は昨夜のことを何も覚えて居ず、祥太郎が寝ているのを見付けて、大騒ぎをした。
「貴様、何者だ?」
「昨夜、和尚様の許しを得たではありませんか、私は旅の者で越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
「そうであったか、これは失礼申した」
祥太郎は和尚の前で正座をして、仏前の板の間に両手をついて、改めて頭を下げた。
「和尚様にお願いがあります、私を寺男としてここに置いてくださいませ」
「それは出来ぬ、檀家も去って行って、今は片手の指で数えるくらいだ、墓も僅かで墓男に払う銭などはない」
「賃金など要りません、寝泊まりをさせて頂き、食べ物は私が修行僧に化け、托鉢して手に入れて参ります」
「経は読めるのか?」
「写経をさせて頂ければ、直ぐに憶えてみせます」
「と言うことは、字は書けるのだな」
「はい、読み書き算盤はお手のものです」
「寺に算盤は要らんが、字が書けるなら重宝いたそう、寺男ではなく、修行僧として居てもらおう、化ける必要はない」
「有難う御座います、それから、荒れた建物も私が修理致します」
「そうか、頼むぞ」
その日から、祥太郎は建物の荒れた様子を見て回り、紙になにやら書き留めていた。夜は本堂に上げられた蝋燭の灯りで写経をして、和尚が経を読む朝に、懸命にその音を記憶した。三日目には、覚えたての経を読み、托鉢にも出かけた。
托鉢とは、ただ物乞いをすることではなく、信者に功徳を積ませる修行である。従って托鉢僧は礼を言ってはならないとされている。
祥太郎も、その知識を授けられ、喜捨を受けても「有難う御座います」とは言わないが、軽く頭を下げて頂戴した。
また、困っている人をみると、必ず駆け寄って手助けするなど、感謝の意が常に体から滲みでていた。
これは、修行の身にとっては不謹慎なことなのだが、祥太郎は町の人気者になった。頼まれごとがあると、僧衣を着替えて町に出、その器用さを活かして屋根の修理屋、戸板の修理をしてあげた。
何のことはない、ここでも「祥ちゃん」と呼ばれて、町の便利屋になっていった。また、板切れや、余った漆喰を頂いて帰り、寺の修理にも力を入れた。
墓地は、せっせと草を毟り、傾いたり汚れたりした墓石を、まるで真新しいかのように修復してみせた。
やがて檀家も増え、住職も酒を断ち、生臭坊主から、信頼される和尚として見事に立ち直った。
それから五年の年月が流れたある日、祥太郎は「一ヶ月ほどお暇が欲しい」と、住職にお願いをした。その頃は寺男も一人雇っていたので、住職は快く承知してくれた。
祥太郎は、この寺へきた時の旅の衣装に着替えて旅に出た。来た時と違っていたのは、頭が丸坊主になっていたことである。
「以前に仕えてくれた下男、平助のことが気がかりですので、一度、忍びで国へ帰って参ります」
そう言い残すと、祥太郎は腰に脇差しを差して旅に出た。
街道は、桜の花が咲き誇り、花粉の匂いで咽返っていた。もう二人、気になる人達が居た。六兵衛夫婦である。
あの懐かしい農家は、健在かのように見えた。だが近寄ってみると、屋根には穴が開き、壁は所々崩れ落ち、廃屋と化していた。祥太郎は近燐の農家に立ち寄り、六兵衛夫婦の消息を尋ねたところ、祥太郎が去ってその翌年に妻が亡くなり、六兵衛も妻を追うように畑仕事をしていて、倒れたそうであった。
「わたしが意地など張らなかったら、二人はもっと長生きが出来ただろうに」
父が無くなった時でさえ涙を流さなかった祥太郎で有ったが、遂に大粒の涙を落としてしまった。その涙は、今は荒れ放題の六兵衛さんが大切にしていた畑の土に染みこんでいった。
六兵衛の甥に会って、文句の一つも言ってやろうかと思ったが、夫婦は戻ることはなく、詮無きことと諦めてその場を立ち去った。
越後高崎藩に戻り、もと下男の平助の住処に来てみた。平助の息子夫婦が出て来て、深々と頭を下げた。
「その節は父がお世話になりました」
そう告げると、平助もまた祥太郎と別れて間もなく病の床に着いて、一ヶ月後に亡くなったと伝えられた。
「そうそう、生前、坊っちゃんが見えたら渡して欲しいと預かったものがあります」
平助の息子は、奥の部屋から、祥太郎の父が差していた本差を持って出てきた。文助に継いで、この息子が手入れをしていたのであろう綺麗なままの刀剣であった。
「これは、文助さんにわたしが差し上げたものです」
「いえ、これは坊っちゃんのお父上の魂が宿っています、あなた様にお返し致しましょう」
祥太郎は、笠をとって見せた。
「わたしは、ごらんの通り出家の身です、刀は不要なのです」
「でも、脇差しは差しておられるではありませんか」
「これは抜けません、父の形見のお守りなのです」
「お坊ちゃんにお返しする為に、手入れを欠かさなかったのです」
息子は、土間に降りて、祥太郎の前に手を着いた。
「お坊っちゃんは、まだお聞きになっていないのですか?」
「何でしょう」
「お父上、進藤綱右衛門様の罪が晴れて、ご上司の罪が暴露され、切腹を賜ったのですよ」
「そうですか」
祥太郎は冷めていた。どなたの罪であろうとも、父は生きて帰らないのだ。
「藩では、祥太郎様を探して、お家再興をお許しになる御積りです、お母様も祥太郎様をお探しでしたよ」
「それは、お断りしましょう、わたしは生涯今のままで、父上と文助おじさんの霊を弔って生きて参ります」
祥太郎の心の中には、六兵衛夫婦の名もあったことは言うまでもない。
祥太郎は、江戸に帰り着いた。住職は、「もしや帰って来ないのではないか」と、不安だったと打ち明けた。
この寺は、元々は山里村の菩提寺である。さびれて見る陰もなかったが、檀家の人々が寄り集まって徳を積み、再び菩提寺としての格調を取り戻していった。
ここで、祥太郎は住職から「祥寛」という名を頂き、日々精進するなか、ある日、生まれ故郷の越後の国は高崎藩から使いが祥太郎を捜しに来た。祥太郎が僧侶になっていると聞きつけてきたのだそうである。
六十石二人扶持で抱え、進藤の家を再興させるので帰国せよと言うものであった。父の時代の約二倍の禄高である。
祥太郎の母も、「早く祥太郎を見付けて欲しい」と、高崎藩士の父に催促ているという。祥太郎に考える余地はなかった。「父を生きて返して頂かない限りは、きっぱりとお断りします」と、使者を帰した。 (終)
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