雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「生理的嫌悪感」

2015-06-26 | エッセイ
 その昔、「生理的嫌悪感」という表現をしたら、「それは、女特有のものだ」と先輩に嘲笑われたことが有った。
 どうやらこの先輩、「生理的」を月経に関連したものだと思っているたらしい。生理的嫌悪感を覚えるのは男性にもある。男性の場合は、本能的と言い換えた方が良いのかも知れないが…。

 Webの記事では、なんとなく「コイツ好かん」と思ったら、どうやら記事にも「いちゃもん」を付けたくなるようだ。SFだと断っているのに、読んで「道理に反している」と、むかつくようだ。そんなことを言えば、あの愉快な「星新一」のショートショートなど、とても読めないと思うのだが、有名作家が書いたものなら、道理に反しても受け付けるのは、やはり個人に対して「生理的嫌悪感」があるのかも知れない。

 猫爺が書いたものにクレームをつけようと思えば、全編にその対象が溢れんばかりに見つかるだろう。なにしろ背景を江戸中期と設定しているのに、清水の次郎長の名が出て来るは、少年時代の太田仁吉も登場する。そればかりか、たしか江戸川コナンの名も出した筈だ。しっちゃかめっちゃかで自由奔放だが、本人が一番楽しんでいるのである。

 今まで、登場するのはヒーローばかりであったが、ここらでヒロインも登場させようと「江戸の辰吉旅烏」をお休みして、水戸藩の姫君「朱鷺姫」を書いている。家事が終わった後の午前中と、午後9時以降にPCの前に座っているが、すぐ足腰が痛くなってくる。一旦夢中になってしまうと、二三時間は直ぐに経ってしまうので、大袈裟かも知れないがエコノミー・シンドロームにも気を付けなければと思っている。

 数日前に投稿した「進藤祥太郎」は、切腹した父の亡骸を荼毘に付す場面がある。あまりリアルに表現をすると重くなるので、サラッと書いたつもりである。
 では、祥太郎は何故父の遺骸を棺桶のまま荼毘に付さずに出したのであろうか、それは父の悔しい思いと、祥太郎が父の仇を討ちたいと思う気持ちを、父の遺骸と共に燃えるのを心に焼き付けておきたかったからだ。
 空になった桶はどうしたか。勿論叩き壊して薪にしたのである。何しろ、祥太郎には時間がなかったから、未明までには全て終わらせたいと思ったのだ。あの場面では、祥太郎の父との別れを表現するだけで良かったのである。