昔々、信濃の国の山奥に桑畑村という小さな集落があった。その名のごとく、桑畑が一面に広がり養蚕で栄えた富裕な村であった。
その村の外れに、死神を祀(まつ)った小さな祠(ほこら)があり、近くを通る村人たちは必ず祠に立ち寄り、お供えをしてお詣りをするのだった。縁起の悪い死神にお詣りするとは、何と恐れを知らぬ人々かと思うかもしれないが、寧ろ死神を縁起が悪いだの、恐ろしい存在だのと思う方が、死神に対して無礼千万なのある。
死神は、まだ寿命のある者を無理矢理に冥途へ引き込んだり、誘い込んだりすることはない。それは逆なのである。手厚い医療を尽くせばまだ生きられる寿命の有る人々を護っているのだ。桑畑村の人々はそのことがよく解っている。だからこそ、死神に敬意を払っているのだ。
林の中で灌木に埋まっている祠が見付けられたのは十年ほど前の夏だった。これは大変なことだと村の人々が寄って、木々を切り、路を付け、祠を掃除して、作業が進んだある日、祠の奥壁に書かれた「死神」という文字を発見した。
人々は触ってはならないものに触ってしまったことを後悔して去り、翌日からは近付かなくなってしまった。ただ、権爺だけは別だった。濁り酒の徳利を下げてやってきては、死神にお供えをして、自分もまたちびりちびりと飲みながら村であったことを話すのであった。それは、たわいのない出来事や噂の類ではあるが、話の種が尽きると「よっこらしょ」と腰を上げて、
「神様、また来ますのでな、今日はこれで…」
そう言って、そそくさと帰っていくのであった。
死神は、権爺が来るのを待ちかねるようになっていたある日、元気のない足取りでやってきた権爺を見て、寿命が尽きようとしていることを知った。
「権爺、お前に話したいことがある」
不意に死神から話しかけられ、権爺は腰を抜かすほど驚いた。
「実は、お前の寿命が尽きようとしている」
「教えて頂き有難うございます。天命ですから、どうぞ連れて行って下さい」
「そうではなくて、儂は折角親しくなった権爺を死なせたくはない」
「と、申しますと?」
「ここに儂の止めるのも聞かずに心中した若い二人の寿命がある、これを一つお前に与えようと思う、どうだろう、長生きしてみるか」
「ありがとうございます。願ってもないことです」
医者に匙を投げられた権爺が、死神にお詣りを続けたお陰で、元気を取り戻したばかりか、若返ったことで村人たちに評判が広がり、祠にお詣りする人が増えていった。
「死神様は、人々の寿命を護る神様だ」
「寿命が有る者を、不慮の死から護ってくれる」
それからは、権爺も徳利を下げてひょうひょうとやって来ていたが、ある日から急に来なくなってしまった。どうしたのかと心配になった死神は、権爺の家に様子を見に行くと、権爺は居なかった。どうやら、身も心も若くなった権爺は養蚕の仕事を息子に譲り、若い嫁を娶り町に出て、嫁の稼ぎで楽しく暮らしているらしい。
死神は、権爺が伸びた寿命を精一杯楽しんでいるのだな、と微笑ましく思った。しかし、様子は違っていた。
最初は仲睦まじく暮らしていたのだが、女房が稼いだ金を持ち出しては女遊びをする、博打は打つ、やくざと喧嘩をしては家に踏み込まれ、金で片を付けることになる。女房は心労で寝込んでしまった。
権爺は、女房を医者にみせたところ、心の臓が弱り余命幾ばくもないことを知らされた。権爺は恩ある女房を捨てて息子のところへ帰る訳にもいかず、思い立って大橋から身投げをしようと決心したのであった。
「死神様、申し訳ねえ、折角頂いたこの寿命ですが、お返し申しますだ」
呟くなり、権爺はドボンと大川に飛び込んだ。
「権爺、お前も不器用な男だ、普通に桑畑で暮らしておれば良いものを、どうして女に走ったのだ」
「早くに先の女房を亡くし、寂しかったのでございます」
「そうか、では新しい女房の元で、どうして荒れてしまったのだ」
「はい、女房にすまないと思いながら、老いて尚元気な我が身を持てあましてしまったのでございます」
「では最後に訊く、何故に病に伏せる女房を捨てて大河に身を投げた」
「はい、死神様に逢いたかったからでございます」
「儂に逢ってなんとする?」
「私が残したこの愛しい寿命を、女房に与えてほしいのです」
病に伏せていた女房は、医師の診たてに反して見る見る回復していった。女房は、行方知れずになった権爺が忘れられず、町の生活を捨てて権爺の里に行った。権爺の息子に訳を話して近くに空き家を借り、息子の仕事を手伝いながら権爺の帰りを待つことにした。
女房は、権爺がしばしばお詣りをしていた死神の祠の話を聞き、権爺に代わってお詣りをすることにした。
「死神様、権爺はどこへ行ったのでしょうか? 逢いとうございます」
女房は、ひととき権爺の思い出話をし、そして、嘆いて、
「神様、また来ます、今日はこれで…」
そう呟いて帰って行くのだった。
ある日、死神は権爺の女房の夢枕に立った。
「これ女房どの、お前は権爺の帰りを待ち焦がれているが、権爺は既にこの世の者ではないのだよ」
女房は驚いた。
「今、お前が元気で居るのは、権爺の寿命をお前が貰ったからなのだ」
「どうして、そのようことになったのですか?」
「お前の寿命が無くなりかけたときに、権爺がお前に苦労をかけた償いだと、儂が権爺にやった寿命を返すから女房にやってくれと、大川に身を投げたのだ」
「なんてことを…」
その三日後、
「この寿命を、権爺に返してください」
そう言って、女房も大川へ身を投げた。
「死神に近付くと、権爺の女房のように命を落す」
村人たちの噂が元に戻り、再び祠に誰も近付かなくなった。
(添削改稿) (原稿用紙8枚)
その村の外れに、死神を祀(まつ)った小さな祠(ほこら)があり、近くを通る村人たちは必ず祠に立ち寄り、お供えをしてお詣りをするのだった。縁起の悪い死神にお詣りするとは、何と恐れを知らぬ人々かと思うかもしれないが、寧ろ死神を縁起が悪いだの、恐ろしい存在だのと思う方が、死神に対して無礼千万なのある。
死神は、まだ寿命のある者を無理矢理に冥途へ引き込んだり、誘い込んだりすることはない。それは逆なのである。手厚い医療を尽くせばまだ生きられる寿命の有る人々を護っているのだ。桑畑村の人々はそのことがよく解っている。だからこそ、死神に敬意を払っているのだ。
林の中で灌木に埋まっている祠が見付けられたのは十年ほど前の夏だった。これは大変なことだと村の人々が寄って、木々を切り、路を付け、祠を掃除して、作業が進んだある日、祠の奥壁に書かれた「死神」という文字を発見した。
人々は触ってはならないものに触ってしまったことを後悔して去り、翌日からは近付かなくなってしまった。ただ、権爺だけは別だった。濁り酒の徳利を下げてやってきては、死神にお供えをして、自分もまたちびりちびりと飲みながら村であったことを話すのであった。それは、たわいのない出来事や噂の類ではあるが、話の種が尽きると「よっこらしょ」と腰を上げて、
「神様、また来ますのでな、今日はこれで…」
そう言って、そそくさと帰っていくのであった。
死神は、権爺が来るのを待ちかねるようになっていたある日、元気のない足取りでやってきた権爺を見て、寿命が尽きようとしていることを知った。
「権爺、お前に話したいことがある」
不意に死神から話しかけられ、権爺は腰を抜かすほど驚いた。
「実は、お前の寿命が尽きようとしている」
「教えて頂き有難うございます。天命ですから、どうぞ連れて行って下さい」
「そうではなくて、儂は折角親しくなった権爺を死なせたくはない」
「と、申しますと?」
「ここに儂の止めるのも聞かずに心中した若い二人の寿命がある、これを一つお前に与えようと思う、どうだろう、長生きしてみるか」
「ありがとうございます。願ってもないことです」
医者に匙を投げられた権爺が、死神にお詣りを続けたお陰で、元気を取り戻したばかりか、若返ったことで村人たちに評判が広がり、祠にお詣りする人が増えていった。
「死神様は、人々の寿命を護る神様だ」
「寿命が有る者を、不慮の死から護ってくれる」
それからは、権爺も徳利を下げてひょうひょうとやって来ていたが、ある日から急に来なくなってしまった。どうしたのかと心配になった死神は、権爺の家に様子を見に行くと、権爺は居なかった。どうやら、身も心も若くなった権爺は養蚕の仕事を息子に譲り、若い嫁を娶り町に出て、嫁の稼ぎで楽しく暮らしているらしい。
死神は、権爺が伸びた寿命を精一杯楽しんでいるのだな、と微笑ましく思った。しかし、様子は違っていた。
最初は仲睦まじく暮らしていたのだが、女房が稼いだ金を持ち出しては女遊びをする、博打は打つ、やくざと喧嘩をしては家に踏み込まれ、金で片を付けることになる。女房は心労で寝込んでしまった。
権爺は、女房を医者にみせたところ、心の臓が弱り余命幾ばくもないことを知らされた。権爺は恩ある女房を捨てて息子のところへ帰る訳にもいかず、思い立って大橋から身投げをしようと決心したのであった。
「死神様、申し訳ねえ、折角頂いたこの寿命ですが、お返し申しますだ」
呟くなり、権爺はドボンと大川に飛び込んだ。
「権爺、お前も不器用な男だ、普通に桑畑で暮らしておれば良いものを、どうして女に走ったのだ」
「早くに先の女房を亡くし、寂しかったのでございます」
「そうか、では新しい女房の元で、どうして荒れてしまったのだ」
「はい、女房にすまないと思いながら、老いて尚元気な我が身を持てあましてしまったのでございます」
「では最後に訊く、何故に病に伏せる女房を捨てて大河に身を投げた」
「はい、死神様に逢いたかったからでございます」
「儂に逢ってなんとする?」
「私が残したこの愛しい寿命を、女房に与えてほしいのです」
病に伏せていた女房は、医師の診たてに反して見る見る回復していった。女房は、行方知れずになった権爺が忘れられず、町の生活を捨てて権爺の里に行った。権爺の息子に訳を話して近くに空き家を借り、息子の仕事を手伝いながら権爺の帰りを待つことにした。
女房は、権爺がしばしばお詣りをしていた死神の祠の話を聞き、権爺に代わってお詣りをすることにした。
「死神様、権爺はどこへ行ったのでしょうか? 逢いとうございます」
女房は、ひととき権爺の思い出話をし、そして、嘆いて、
「神様、また来ます、今日はこれで…」
そう呟いて帰って行くのだった。
ある日、死神は権爺の女房の夢枕に立った。
「これ女房どの、お前は権爺の帰りを待ち焦がれているが、権爺は既にこの世の者ではないのだよ」
女房は驚いた。
「今、お前が元気で居るのは、権爺の寿命をお前が貰ったからなのだ」
「どうして、そのようことになったのですか?」
「お前の寿命が無くなりかけたときに、権爺がお前に苦労をかけた償いだと、儂が権爺にやった寿命を返すから女房にやってくれと、大川に身を投げたのだ」
「なんてことを…」
その三日後、
「この寿命を、権爺に返してください」
そう言って、女房も大川へ身を投げた。
「死神に近付くと、権爺の女房のように命を落す」
村人たちの噂が元に戻り、再び祠に誰も近付かなくなった。
(添削改稿) (原稿用紙8枚)