「遺体 震災、津波の果てに」石井光太 2011(10/25)新潮社 (2012‐02/10 10刷)
『週刊ポスト』2011年06月24日号、『新潮45』2011年06月~07月号 加筆修正+書下ろし
映画「遺体 明日への十日間」(2013年02月公開)
東日本大震災・津波 遺体安置所(釜石)ルポルタージュ
被害に遭った個人と、現場で処理にあたっている人間、そして他所からマスコミの情報を見ている人間にはこの世の終わりのように思えたはずの災害。
その緊急時においても、行政は粛々と決まり通りに進めていく。後は現場の裁量と覚悟か。
一つ一つの個人の反応も現場の対応も全て、その場においては納得するしかない。そうだろうと思う。みんなその中で頑張った。
それはすべて、『復興』のため。
この場合の復興は、著者の最後の言葉の中にあるように、「そこで起きた悲劇を受け入れ、一生背負っていく決意を固めて」はじめて進むもの。
遺体処理(火葬)
溺死・焼死、遺体の状態、その経時変化、死後硬直と漏れ出る液体、見つかりにくい場所ほど酷くなっていく。
身元を明らかにするための記録付け、搬送、チェック
景色、臭い
棺、ドライアイス、防腐剤
精神的負担
家族(遺族)の混乱
消防団、自衛隊、医師、歯科医、役人、住職
過剰な使命感
続く地震、大量の瓦礫、使える施設とキャパシティー
周りの他の自治体も同じような状況
国からの土葬許可(14日)も、他での受け入れによって回避。
慣れによる遺体への経緯の欠如、人であったモノの尊厳は
身元不明、永代供養
なぜ火葬にこだわるのか。私にはよくわからない。
衛生面はあるが、ほとんど行政側の利権としか思えない。
供養なんかは生き残った側の癒し(自己満足)のため。
私個人としては死んだあとなんかは自由にしてくれてもいいが、本当にそこに私の魂があったならば、うるさいことはしてもらいたくない。読経なんて最悪!このような大災害なんかで亡くなると、そういった個人の思いも容れられないようになってしまうわけだ。怖い(怖くない)