夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

言葉に対してなんでそんなにレベルが低いのか

2009年10月03日 | 言葉
 今日の東京新聞に校閲部の記者が書いている。

 NHKのニュース番組で、作家を養成する学校の学生に「ら抜き言葉」のような、誤った言葉の使い方を自分の文章に用いる理由を聞いた。「昔の正しい使い方で書いても、読む人に理解されなければ意味がない」という趣旨の回答があった。
 それについて、この記者は「ちょっと気になる」と言う。ある程度正しい意味や使い方を共通意識として持っていないと、正確に内容が伝わらないことがある、という問題だ、と指摘している。
 確かにその通りである。言葉の意味に対する共通意識無しに意思の疎通が出来る訳が無い。そうでしょう。分かり易い例を挙げれば、「気が置けない」とは「気兼ねなく、気楽に付き合える」の意味だ。それを「油断ならない」と思っている人が増えている。だから「あの人は気が置けないね」と話していて、正反対の解釈になってしまう訳だ。これでは会話は成立しない。
 で、記者は「新聞としてはどうあるべきなのか、あらためて考えさせられた」と言っている。
 冗談を言っては困る。この記者は根本的な間違いをしている。この記者の考えなら、馬鹿が多くなれば、全体のレベルを落とすしか無い、と言う事になる。そうやって日本総白痴化運動でもする気か?

 言葉は変わる。「新しい」は古語では「あらたし」だった。それは「あらためる」などに残っているが、現在では「あたらしい」でなくては通用しない。 「あらたにする」は通用するが、「新しい」の一部に過ぎない。「だらしない」は江戸時代には「しだらない」だったらしい。
 こうした言葉の変化は、当時どうやってこのように変化が定着したのかは今では分からない。だが、現在変化しそうな気配のある言葉は我々はよく分かっている。何が正しいのかもよく知っている。ただ、「ら抜き言葉」は単に間違いだとは私は思っていない。「書かれる」が「書ける」のように変化したのと同じく、受け身と可能の違いを明確にしたい気持の現れだと考えている。そして、そうした流れは無理には止められない。ただ、今の所、「着れる」は「ら抜き」ですよ。正しくは「着られる」ですよ、と根気よく教えるのが新聞とかテレビとか、学校の役割ではないか。辞書などはその最先端に位置すべき物である。

 ところが、「気が置けない」に「気を許して付き合う事が出来ない」の意味をも挙げて、元は誤用にもとづく、などと説明している辞書がある。とんでもない辞書である。こうした辞書は断固として排撃しなければいけない。言葉の指導者たる者が率先して間違い言葉にエールを贈っている。冗談じゃない。そんな説明をしているから、辞書は言葉の規範ではない、などと言われるのである。そうなると、辞書は単に現状を説明するだけの存在に成り下がる。

 先の記者の考え方だが、結局は流れに流されよ、と言っているのと同じだと思う。間違いでも、読む人に理解されなければ意味が無い、との考え方が根本的に間違っている。それに同調してどうなるのか。正しい意味では読む人に理解されないのは、先に言ったように、馬鹿が増えているからだ。その馬鹿に同調して、あなたも馬鹿になりたいですか?
 馬鹿に同調せず、正しいのはこれこれだ、と言わなければならないのは常識である。

 言葉って人間として絶対必要な道具でしょうが。言葉が分かるからこれだけ知能が発達したのだ。言葉無しに考える事が出来ないのは誰だって知っている。頭の中で考えたって、そこには言葉がある。「あー腹減った」って思うにしても「むにゃむにゃむにゃ」ではないのだ。きちんと「腹」「減った」と言葉にしている。と言うよりも、おなかがぐぐうと鳴った時、「むにゃむにゃむにゃ」ではなく、「腹が減ったんだ」と言葉に出来るのが人間なのである。
 この記事のタイトルは「正しい理解って?」である。
 えっ? そんな事に疑問符を付けるのか。正しい理解とはどのような事か分からなくて、よく記者をやってられますね。

 最後に、繰り返すが、言葉は変化する。だが、このような変化はまずい、と思えば正しい意味や言い方に引き戻す努力をするのが知識人との自覚を持つ人々の任務ではないか。そうか、どのような変化がまずいのかも分からないのか。
 この続きを月曜日に発信します。