前に、古文での旧仮名遣いの事を考えた。そこで少しでも理解を深めようと、福田恆存氏の『私の国語教室』を読み返した。だが、旧仮名遣いがなぜ合理的と考えるのかが、私にはよく分からない。もちろん、古典は旧仮名遣いによる必要があるが、現代文は現代仮名遣いで良いと思っている。ただし、手直しは必要になる。『私の国語教室』を私なりに解釈すると、その一部として、どうも音便の表記に利点があるらしい。例えば「ありがたう」。これは「ありがたい」の活用形「ありがたく」+「ございます」が言い慣れて「ありがたくございます」ではなく「ありがたうございます」になったので、「ありがたい」の原形を残している「ありがたう」が理想的だ、と言うのらしい。
しかし音便の形になって、発音は「ありがとー」になったはずである。もちろん「ありがたう」を「ありがとー」と読むと言う方法はおかしくはない。文字の綴りと発音は違って構わない。欧米語などはみなそうなっている。ただ、欧米語は一つ一つの単語から成っているとの事情がある。つまり、一つの綴りが明確になっている。ところが日本語ではそうは行かない。「単語」の概念が希薄である。だから分ち書きが出来ない。従って「ありがたう」をそれだけ、一つの綴りとして際立たせる事が出来ない。と言う事は、これが「ありがたく」の音便の形だと明確に認識する事が難しい。そうなれは、これを「ありがとー」と読むのも難しくなる。
もちろん、これもまた慣れの問題だから,解決不可能ではない。だが、日本語がずらずら書きだとの性格を考えれば、元の形を温存する事がそれほど有利だとは思えない。「ありがたう」になった時点で、発音は「ありがとー」になっているのだ。
ここで無視出来ないのは、これは漢字を使えば「有り難う」あるいは「有難う」であって、このどこにも「ありがたう」の形は無い事だ。ここには発音の「ありがとー」しか無い、と私は思う。だから「ありがとー」と書いておかしい事があるだろうか。
それに「ありがとー」も同じだが、「ありがたう」に「有り難い」の意味を感じる事は出来にくい。「ありがたう」の形にこだわるのは、「ありがたく」を意識したいがためであって、その「ありがたく」は仮名書きでは「有り難い=滅多に無い」の意味は感じられない。
もっと言うなら、「有り難う・有難う」の表記に「がたい」を感じる事が出来ている。だから何も「ありがたう」にこだわる必要は無い。もちろん、この「有り難う・有難う」の「う」の表記が合理的ではない事は承知している。
「ありがとー」なんて表記は無い、と言うかも知れない。それが先述した「手直しが必要」と言う事である。助詞の「は・へ」が変則的でおかしい、と言うのは「を」と同じく、本当は違う仮名の「は・へ」を考えるべきだったのだ、と私は考えている。
同じように、え列の長音とお列の長音の表記がおかしくなっている。特にお列の長音がおかしい。長音表記を許さないから、「高利・公理・功利」は「こうり」となって、「小売り」の「こうり」と区別が付かなくなる。前者を「こーり」とすれば、解決が付く。そうすれば、「氷=こおり」と「王様=おうさま」などに悩む事も無くなる。もっとも、漢字で書けばそんな問題は起きないが。
「ありがたう」と「ありがとー」一つで旧仮名遣いと新仮名遣いの問題が解決する訳は無いが,考え方の一つとしては有力だと思う。
促音の「っ」にしても、ローマ字表記にすれば一目瞭然だが、本来は次の発音の子音である。「にっぽん」はNippon、「はっこう」はhakkoで、前者の「っ」はpであり後者の「っ」はkである。それを「っ」で代用している訳だから、綴りとして納得していれば済む。撥音の「ん」にしても同じ。nだったりmだったり、鼻に抜けるnだったりする。それを綴りとして「ん」としている。
旧仮名遣いを云々するよりも、新仮名遣いをもっと突き詰めて、より合理的な表記にする事の方がずっと大事だと思う。
しかし音便の形になって、発音は「ありがとー」になったはずである。もちろん「ありがたう」を「ありがとー」と読むと言う方法はおかしくはない。文字の綴りと発音は違って構わない。欧米語などはみなそうなっている。ただ、欧米語は一つ一つの単語から成っているとの事情がある。つまり、一つの綴りが明確になっている。ところが日本語ではそうは行かない。「単語」の概念が希薄である。だから分ち書きが出来ない。従って「ありがたう」をそれだけ、一つの綴りとして際立たせる事が出来ない。と言う事は、これが「ありがたく」の音便の形だと明確に認識する事が難しい。そうなれは、これを「ありがとー」と読むのも難しくなる。
もちろん、これもまた慣れの問題だから,解決不可能ではない。だが、日本語がずらずら書きだとの性格を考えれば、元の形を温存する事がそれほど有利だとは思えない。「ありがたう」になった時点で、発音は「ありがとー」になっているのだ。
ここで無視出来ないのは、これは漢字を使えば「有り難う」あるいは「有難う」であって、このどこにも「ありがたう」の形は無い事だ。ここには発音の「ありがとー」しか無い、と私は思う。だから「ありがとー」と書いておかしい事があるだろうか。
それに「ありがとー」も同じだが、「ありがたう」に「有り難い」の意味を感じる事は出来にくい。「ありがたう」の形にこだわるのは、「ありがたく」を意識したいがためであって、その「ありがたく」は仮名書きでは「有り難い=滅多に無い」の意味は感じられない。
もっと言うなら、「有り難う・有難う」の表記に「がたい」を感じる事が出来ている。だから何も「ありがたう」にこだわる必要は無い。もちろん、この「有り難う・有難う」の「う」の表記が合理的ではない事は承知している。
「ありがとー」なんて表記は無い、と言うかも知れない。それが先述した「手直しが必要」と言う事である。助詞の「は・へ」が変則的でおかしい、と言うのは「を」と同じく、本当は違う仮名の「は・へ」を考えるべきだったのだ、と私は考えている。
同じように、え列の長音とお列の長音の表記がおかしくなっている。特にお列の長音がおかしい。長音表記を許さないから、「高利・公理・功利」は「こうり」となって、「小売り」の「こうり」と区別が付かなくなる。前者を「こーり」とすれば、解決が付く。そうすれば、「氷=こおり」と「王様=おうさま」などに悩む事も無くなる。もっとも、漢字で書けばそんな問題は起きないが。
「ありがたう」と「ありがとー」一つで旧仮名遣いと新仮名遣いの問題が解決する訳は無いが,考え方の一つとしては有力だと思う。
促音の「っ」にしても、ローマ字表記にすれば一目瞭然だが、本来は次の発音の子音である。「にっぽん」はNippon、「はっこう」はhakkoで、前者の「っ」はpであり後者の「っ」はkである。それを「っ」で代用している訳だから、綴りとして納得していれば済む。撥音の「ん」にしても同じ。nだったりmだったり、鼻に抜けるnだったりする。それを綴りとして「ん」としている。
旧仮名遣いを云々するよりも、新仮名遣いをもっと突き詰めて、より合理的な表記にする事の方がずっと大事だと思う。