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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

掃除機のコンセントの修理代が1万円

2009年11月25日 | 暮らし
 使っているダイソンの掃除機が壊れた。と言ってもコンセントの部分が断線しただけである。なんでそんな所が断線したかと言うと、犬がかじってしまったのだ。それも掃除機を使っている最中に。それはもう二年も前の事で、被覆が破れて線がむき出しになってしまったので、ビニールテープで巻いて保護して使っていた。それがとうとう断線にまで発展してしまった。
 コードの断線は結構あるからいつも自分で直していた。しかし息子が、強い電流が流れる可能性もあるから、単にねじ止めで良い物と、半田付けしなければならない物とがあるから、メーカーに聞いた方が良い、と言うので従った。その答が「修理代は1万円」である。正確には九千八百何十円かなのだが、送料込の修理代である。
 メーカーとしては使用者の自分での修理は前提とはしていない、と言うのである。そのメーカーの方針は分からないでもないが、たかがコンセントに1万円は私には出せない。そこで丁重にお断りをした。
 考えてみれば、過剰な電流が流れるなら、ソケットだって危険になる。だから掃除機だけで考えても意味が無いだろう。
 買った電気店は近所のラオックスなのだが、二年前ほど撤退してしまった。だから秋葉原まで持って行かなくてはならない。だからコンセントの部分を持って近所の量販店に行ってみようと思っている。日本ではほとんど使われていないT字型のコンセントだって売られているのだから、この掃除機に使えるコンセントだってあるはずだ。
 だいたい、いつの頃からか、コンセントはコードと一体型になってしまった。昔はみんなコンセントだけ取り替えられた。日本の電気その物が変わった訳ではないだろうに。

 このラオックスについては、私は開店した時に、店員にこう聞いた。このダイエーでの出店は前の企業はたいてい潰れて撤退したけど、勝算はあるの? 私は出店その物について聞いたのだが、店員は店のサービスが心配なのだろうと思ったようで、ご心配は要りません。私どもの本店は大丈夫ですから、と答が返って来た。
 閉店と聞いて、だから言った事じゃない、と思った。まあ、そんな店で買ったのは、一番高い製品がとても安かったからだ。ほかの店でも安く売ってはいるが、それはずっと値段の安い物だったから、その店で買ったのだ。
 このダイソンの商売は、同じ機能の製品を付属品の違いで値段に差を付けて売る。今でも同じかどうかは知らないが、私が買った時はそうだった。それに使い勝手が良いとはお世辞にも言えない。吸引力や吸った塵を吐き出さないとの点は大いに買うが、細かな作業がしにくい。多分、本国のイギリスでは大きな邸宅で使うからこまごまとした作業はしないのだろう。
 テレビでのCMでは最近になって、日本の掃除機に似た細かな作業の出来る部品も付くようになったが、本来は最初からそうあるべきなのだ。日本人の生活を知らないで日本に乗り込んで来たとしか思えない。同機の方式は特許で真似が出来ないらしいが、日本も早く同じような機能の掃除機を作り出して欲しい。日本人には日本の暮らしに合った掃除機が必要なのだ。
 

菜食について貴重なご意見を頂いた

2009年11月04日 | 暮らし
 きのう、私には菜食は出来ない、とのブログを書いた。それに対して流蛍さんから長いコメントを頂いた。タイトルは「 やはり玄米!」。考えさせられる事ばかり書かれている。コメントとして公開するだけではもったいないので、それに私自身ももう一度考え直してみようと思い、今日のブログにしました。以下はその全文です。〈 〉は私の考えてみた事です。簡単な感想に過ぎない物もありますが。私としてはきちんと考えているつもりです。

玄米を炊くのは何もむずかしくありません。
圧力釜で炊けばベストかもしれませんが、今は玄米が炊ける電気釜が当たり前になっています。炊飯時間が白米よりやや長いだけです。
白米のうまさは小生も承知していますが、もう今や外食でやむを得ず食べる以外は、玄米オンリー。
白米ははっきり言って毒です。
そのわけを書いている間はありませんが、いろいろお調べになればわかります。栄養的に見て、炭水化物だけだから、ではありません。
 〈さてと、どこから調べ始めようか〉

イヌは肉食なのです。ですから納豆とかチーズとかマーボー豆腐などは、食べるイヌもいますが、そういうイヌはお気の毒ですが短命になるでしょう。それにほとんどまちがいなく癌にも。
 〈いや、それは困ります〉

つまり、イヌにとっては肉以外のものは本来胃腸が受け付けないものです。それを味に騙されて食べてしまうと、イヌは喜んでも、イヌの腸は大迷惑なのです。消化に大変な負担がかかります。ごく稀なことならいいのですが、肉以外の、それも人間が加工した食品を恒常的に与えれば、イヌの腸は常に無理を強いられます。
イヌの居住環境も影響しますが、おそらく夏木さんちのイヌはなかなか便の色や形状が一定しないのではありませんか?
 〈いえ、便の色や形状はほとんど同じです。硬さも同じ。それはトイレットペーパーでつまんで捨てているので、よく分かります。時間が経った場合は硬くなりますが、出来立てはいつも同じです。でも消化に無理がかかっている事はきちんと認識をしなければ〉

人間もそうですが、夏木さんのお宅ではイヌは室内で飼っておられるようですから、「我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る」となると、うっかりすると、ついつい人間の食べるおやつとか、オカズの一片などを始終あげてしまいがちです。
そうすると、イヌの腸はいよいよ休まるときがありません。本来野生の狼や狐は、恒常的に飢餓状態にいるのが普通で、それが彼らにとって当たり前ですから、腸は休止している時間のほうが長いのです。でも人間に(それも室内で)飼われると、のべつエサが与えられます。
 〈これは私も知っていた。三日や四日食べなくてもそれが普通なのだと。でも理性が感情に付いて行かない。それで次のような批判に該当してしまう〉

これはイヌの気持ち(?)としては、嬉しいでしょうが、本来の腸の活動とは相容れない事態なのです。
長く生きさせ、健康を維持したければ、イヌも(人間も、ですが)少食に越したことはありません。


人間の腸、とくに農耕民族であった日本人の腸は肉食に向いていないのです。
ですから肉を食べると調子が悪いと夏木さんがおっしゃるのが当然なのです。
 〈私は間違い無く日本人だった。ただ、私の腸は許容範囲が狭いせいもあるらしい。だから胃の検査でバリウムを飲むと、すぐに出てしまう。多くの人が出なくて困っていると言うのに。変な物を食べるとてきめんに結果が現れる〉

例えば、平安時代を考えてみてください。京都に住んでいた貴族は別として、庶民は肉は一生食べる機会はなかったでしょう。魚も海岸線に住む人でもなければめったにクチにできなかっらはずです。
川や池で魚をとるのがせいぜいですが、それもわずかなもの。ほとんど菜食だったのです。
それでいて、彼らは冬でもろくな暖房もない小屋に住み、常に薄着で元気に働いていたのですよ。
だから短命だったという意見もあるでしょうが、ちゃんと50や60まで生きる老人もいたのですし、今みたいにみんながなにかの病気持ちなんてことはなかったはずです。
それはわれらの先祖は、菜食であり、玄米や雑穀を主食にたべていたからです。
 〈うーん、そうなると海岸近くに住んでいて魚を食べていた人々は短命だった?〉

食事も楽しむものですから、禅坊主のような食事をしろとはいいませんが、カレーや餃子のような「料理」はたまの贅沢にしておくべきものと思います。
それから。
蟹はまず養殖ではないので安全ですが、牡蠣はほとんどが養殖ものですから、これは癌のもとです。天然ものなら癌にはならないでしょう。
 〈天然の牡蠣と言えば、岩牡蠣くらいしか無いか。そうなると、海老もほとんどが養殖らしいし〉

魚であれば、イワシ、カツオ、サンマ、じゃこのような養殖してないものなら安心です。
ウナギ、マグロ、タイなど養殖物は避けることです。
 〈はい、マグロやタイは出来るだけ天然物を買っています〉

肉は、もれはもう「養殖」そのものですから、最悪の癌のもとです。どうしても食べるのであれば、広大な牧場で育てたオーストラリアの牛肉とか、ニュージーランドの羊肉がまあ安全です。
 〈これは大変嬉しい。霜降りなんて、私にはとても贅沢だから。肉を食べると調子の悪い私でも、時々は食べたくもなります。日本人がオーストラリアで牛を養殖しない事を祈ります〉

野菜でも肉でも、大地(地球)から離せば離すほど、癌になりやすくなります。
しかし、短命でもいいし、癌になってもいい、おいしいものを食べて満足したいというのであれば、誰も止めません。
 〈いえいえ、私は図々しくも、おいしい物を食べて長生きしたいんです。結局、何をおいしいと思うかですね〉

よく有名人が癌で死ぬでしょう?
あれは彼らほどグルメをやるからです。テレビでもよくやっていますね、タレントがご贔屓の店を紹介するなんてのを。
ああいう凝った「料理」を日常、食べるからタレントは癌で死ぬのです。
 〈そう言えばそうですね。私の周辺には癌で死んだ人はほとんど居ませんものね。そうそう、私の伯母は100歳まで長生きしましたが、ラーメンには「カンスイ」が入っていて体に悪いから、と絶対に食べませんでした。その他の食生活はあまり知りませんが、今でもはっきりと記憶に残っています〉

 以上で引用は終わります。私は今晩からこれらの注意事項に留意して行こうと思っています。

菜食について貴重なご意見を頂いた

2009年11月04日 | 暮らし
 きのう、私には菜食は出来ない、とのブログを書いた。それに対して流蛍さんから長いコメントを頂いた。タイトルは「 やはり玄米!」。考えさせられる事ばかり書かれている。コメントとして公開するだけではもったいないので、それに私自身ももう一度考え直してみようと思い、今日のブログにしました。以下はその全文です。〈 〉は私の考えてみた事です。簡単な感想に過ぎない物もありますが。私としてはきちんと考えているつもりです。

玄米を炊くのは何もむずかしくありません。
圧力釜で炊けばベストかもしれませんが、今は玄米が炊ける電気釜が当たり前になっています。炊飯時間が白米よりやや長いだけです。
白米のうまさは小生も承知していますが、もう今や外食でやむを得ず食べる以外は、玄米オンリー。
白米ははっきり言って毒です。
そのわけを書いている間はありませんが、いろいろお調べになればわかります。栄養的に見て、炭水化物だけだから、ではありません。
 〈さてと、どこから調べ始めようか〉

イヌは肉食なのです。ですから納豆とかチーズとかマーボー豆腐などは、食べるイヌもいますが、そういうイヌはお気の毒ですが短命になるでしょう。それにほとんどまちがいなく癌にも。
 〈いや、それは困ります〉

つまり、イヌにとっては肉以外のものは本来胃腸が受け付けないものです。それを味に騙されて食べてしまうと、イヌは喜んでも、イヌの腸は大迷惑なのです。消化に大変な負担がかかります。ごく稀なことならいいのですが、肉以外の、それも人間が加工した食品を恒常的に与えれば、イヌの腸は常に無理を強いられます。
イヌの居住環境も影響しますが、おそらく夏木さんちのイヌはなかなか便の色や形状が一定しないのではありませんか?
 〈いえ、便の色や形状はほとんど同じです。硬さも同じ。それはトイレットペーパーでつまんで捨てているので、よく分かります。時間が経った場合は硬くなりますが、出来立てはいつも同じです。でも消化に無理がかかっている事はきちんと認識をしなければ〉

人間もそうですが、夏木さんのお宅ではイヌは室内で飼っておられるようですから、「我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る」となると、うっかりすると、ついつい人間の食べるおやつとか、オカズの一片などを始終あげてしまいがちです。
そうすると、イヌの腸はいよいよ休まるときがありません。本来野生の狼や狐は、恒常的に飢餓状態にいるのが普通で、それが彼らにとって当たり前ですから、腸は休止している時間のほうが長いのです。でも人間に(それも室内で)飼われると、のべつエサが与えられます。
 〈これは私も知っていた。三日や四日食べなくてもそれが普通なのだと。でも理性が感情に付いて行かない。それで次のような批判に該当してしまう〉

これはイヌの気持ち(?)としては、嬉しいでしょうが、本来の腸の活動とは相容れない事態なのです。
長く生きさせ、健康を維持したければ、イヌも(人間も、ですが)少食に越したことはありません。


人間の腸、とくに農耕民族であった日本人の腸は肉食に向いていないのです。
ですから肉を食べると調子が悪いと夏木さんがおっしゃるのが当然なのです。
 〈私は間違い無く日本人だった。ただ、私の腸は許容範囲が狭いせいもあるらしい。だから胃の検査でバリウムを飲むと、すぐに出てしまう。多くの人が出なくて困っていると言うのに。変な物を食べるとてきめんに結果が現れる〉

例えば、平安時代を考えてみてください。京都に住んでいた貴族は別として、庶民は肉は一生食べる機会はなかったでしょう。魚も海岸線に住む人でもなければめったにクチにできなかっらはずです。
川や池で魚をとるのがせいぜいですが、それもわずかなもの。ほとんど菜食だったのです。
それでいて、彼らは冬でもろくな暖房もない小屋に住み、常に薄着で元気に働いていたのですよ。
だから短命だったという意見もあるでしょうが、ちゃんと50や60まで生きる老人もいたのですし、今みたいにみんながなにかの病気持ちなんてことはなかったはずです。
それはわれらの先祖は、菜食であり、玄米や雑穀を主食にたべていたからです。
 〈うーん、そうなると海岸近くに住んでいて魚を食べていた人々は短命だった?〉

食事も楽しむものですから、禅坊主のような食事をしろとはいいませんが、カレーや餃子のような「料理」はたまの贅沢にしておくべきものと思います。
それから。
蟹はまず養殖ではないので安全ですが、牡蠣はほとんどが養殖ものですから、これは癌のもとです。天然ものなら癌にはならないでしょう。
 〈天然の牡蠣と言えば、岩牡蠣くらいしか無いか。そうなると、海老もほとんどが養殖らしいし〉

魚であれば、イワシ、カツオ、サンマ、じゃこのような養殖してないものなら安心です。
ウナギ、マグロ、タイなど養殖物は避けることです。
 〈はい、マグロやタイは出来るだけ天然物を買っています〉

肉は、もれはもう「養殖」そのものですから、最悪の癌のもとです。どうしても食べるのであれば、広大な牧場で育てたオーストラリアの牛肉とか、ニュージーランドの羊肉がまあ安全です。
 〈これは大変嬉しい。霜降りなんて、私にはとても贅沢だから。肉を食べると調子の悪い私でも、時々は食べたくもなります。日本人がオーストラリアで牛を養殖しない事を祈ります〉

野菜でも肉でも、大地(地球)から離せば離すほど、癌になりやすくなります。
しかし、短命でもいいし、癌になってもいい、おいしいものを食べて満足したいというのであれば、誰も止めません。
 〈いえいえ、私は図々しくも、おいしい物を食べて長生きしたいんです。結局、何をおいしいと思うかですね〉

よく有名人が癌で死ぬでしょう?
あれは彼らほどグルメをやるからです。テレビでもよくやっていますね、タレントがご贔屓の店を紹介するなんてのを。
ああいう凝った「料理」を日常、食べるからタレントは癌で死ぬのです。
 〈そう言えばそうですね。私の周辺には癌で死んだ人はほとんど居ませんものね。そうそう、私の伯母は100歳まで長生きしましたが、ラーメンには「カンスイ」が入っていて体に悪いから、と絶対に食べませんでした。その他の食生活はあまり知りませんが、今でもはっきりと記憶に残っています〉

 以上で引用は終わります。私は今晩からこれらの注意事項に留意して行こうと思っています。

私には菜食は出来ない。そして愛犬は?

2009年11月03日 | 暮らし
 サプリメントの害を告発している流蛍さんは菜食だと言う。玄米を食べていますか、と聞かれたが、玄米の良さは知っているが、炊くのが面倒らしいし、と今一つ乗り気になれない。そして私は魚を食べるのをやめる事が出来ない。何しろ蟹には種類が何であれ、目が無い。それにこれからは蟹も牡蠣も旬だしなあ。今の所、懐具合が悪いので蟹は我慢しているに過ぎない。牡蠣は殻付きの新鮮なのが30個入って1500円程度で買えるから、何とか食べられるが。お陰で牡蠣の殻剥きも最近はかなり上手くなった。
 愛犬はテーブルの肉や魚の臭いを嗅ぎ付けて、自分の餌は半分ほど残して、我々の足元にやって来る。腹一杯では旨いものが食えない。魚までやめてしまったら、犬は一体どのような反応を示すのだろうか。
 と思ったが、そんな心配は無駄だった。何しろ、納豆かけご飯を喜んで食べるのだ。くれくれとしつこいから、妻が面白半分にやった。私は、おいおい、いくら何でも食べないよ、やめとけよ、と言ったのだが、案に相違してぺろりと平らげた。そしてお代わりを要求した。お代わりも残さずきれいに食べた。納豆だけは駄目だ、と言う人も少なくないのに。
 以前、大阪に行った時、飲み屋で納豆で酒を飲んでいる男性達を何人も見掛けた。へーえ、大阪の人も納豆食べるんですね、と私は馬鹿な質問をした。それまで、納豆は関東の物だとばかり思っていた。東京でも鱧を食べる時代なんだから、関西の納豆に驚いていてはいけないのだ。
 でも、東京で飲み屋で納豆を食べている人はほとんど見掛けないのだが。

 愛犬は中辛のカレーライスもマーボ豆腐ご飯も大好物だ。もちろん玉葱が入らないようにして与えているが、なんであんな辛い物が好きなのか。今までは多分肉の臭いに釣られているのだと思っていた。だが納豆で、臭覚ではないのかも、と考えるようになった。納豆のあの臭いが素晴らしい、と思う人はほとんど居ないだろう。人間と犬が大いに違うとも思えない。人間が旨いと思う物は犬でも旨いと思うのだから。
 息子は何でもやるからだよ、と我々を非難するが、朝晩にちょっとだけ犬と会っている人間に何が分かるか。我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る。ちょっと外に行っただけでも、帰って来れば、大はしゃぎして、いつまでも跳び付いて困る。言う事を聞かず、こんちきしょう、と思う時もあるが、無邪気な顔を見ているといつか、そうかそうか、よしよし、との心境になってしまう。だから足の裏まで可愛く思えてしまう。ホント、あばたもえくぼである。
 変な話だが、私は犬の黒くて濡れて冷たい鼻が大好きだ。あの鼻で触られると、ぞくっとしてしまう。冷たく濡れた鼻をずっと触っていたいと思うのだが、そんな事をしたら鼻が乾いてしまいそうなので、やめている。濡れていないと臭覚が利かないのだそうだ。

 菜食の話が犬の話になってしまったが、私も野菜や果物は大好きだ。でも菜食になったら、献立に困るだろうなあ、などと思ってしまう。それに野菜だけで元気はつらつ、の自信が無い。まあ、だから禅寺では胡麻豆腐やがんもどきのような優れた味覚の物を作り出したのだろうが。私は魚は平気で食べるくせに、肉はちょっと躊躇してしまう事がある。何とか動物を殺さずに植物などから肉を作り出せないものか、と思う。牛にビールを飲ませて霜降り肉にするなどの話を聞くと、無惨だなあ、と思う。そんなにしてまで霜降り肉を食べたいとは思わない。オーストラリア産の肉だって、うまく調理すれば柔らかく、味も良く食べられる。身近に牛を見ていないで肉だけを食べているから平気で居られるのだろうが。だから、子牛でも子羊でもぱくぱく食ってしまうくせに、鯨は駄目だ、などと抜かす欧米人は偽善者だと思っている。
 今日は文化の日。あんまり文化的じゃないなあ、と思いながら発信しています。

サプリメントの害について

2009年10月31日 | 暮らし
 「アメリカのサプリメント事情」と題する「心に青雲」の10月27日のブログから。

 凝った料理を大衆に興味を持たせ、「うまいものを食いたい」という願望を植え付けておいて、生活習慣病に誘い込み、そしてサプリメントを大量に摂取させ、それを過剰に摂取した人間がついには病院に駆け込むような仕掛けになっているのだ。

 でも、何でそんなにテレビに影響されるのだろうか。私は素直さが足りないせいか、テレビで勧められた物で従ったのはわずかしか無い。その中で唯一今もやっているのは、落花生を薄皮を付けたまま食べる事くらい。これは薄皮に非常に体に良い成分が含まれていると言うのだ。その名前や効能は忘れてしまったが、赤ワインと同じ効能があるのだけは覚えている。
 それで、今も続けているのは、単にその方が私にとっては旨いからに過ぎない。皮付きで食べるのに慣れてしまったので、皮を剥いて食べると味が物足りない。愛犬はそんな事は知らないから、薄い皮を器用に剥いて食べる。食べた後に、薄皮が元のままの丸い形で残っている。
 そうそう、もう一つやっている事があった。みかんが出る頃にやるのだが、みかんをきれいに洗って、中身を食べて残った皮を焼酎漬けにする。それに蜂蜜などを入れて一週間ほどできれいな色の「みかんの皮酒」が出来る。盃一杯くらいを寝る前に飲むとぐっすりと眠れる。
 私は体に良いと言われる物は自分で作る事にしている。にんにくのたまり漬けなども売っているのはほとんどが中国産のにんにくを使っているから、青森産のにんにくを買って作る。らっきょう漬けも国産とはあっても肝心のらっきょうが中国産が多い。そこで自分で国産の泥付きらっきょうを買って漬ける。
 そう言えば、もやしも「国産」と書いてあるが、ある店では材料の豆の原産国がきちんと「中国」と表示されている。それがほとんど。そして豆が国産のもある。だが、たいてい売り切れになっている。高いがすぐに売れてしまうらしい。今度はもっと早い時間帯に買いに行こう。

 テレビで凝った料理を見せられても、あまり食べたいとは思わない。大体、出演者の食べ方がとても汚い。だから旨いとも思えない。料理番組などでおいしく安く簡単に作れると言って紹介された物くらいにしか興味が湧かない。それに、興味が湧くのは自分で作ってみようかな、と思ったのに限られる。
 そうやって作って食べている限りは生活習慣病などにはならないと思っている。ただ、酒が好きなので、尿酸値だけは気になる。と言っても限度の7.0。それでも医者は薬を飲めと言う。男性は3.8~7.0が基準値、と検査報告書にはある。その7.0でなぜ薬を飲まなければいけないのか。基準値とは一体どのような意味なのか。尿酸値が高いと分かったのは、一度かかとが激痛に襲われた。ある大病院の整形外科ではアキレス腱が成長し過ぎた結果だと言う。えっ? いい歳になってもまだアキレス腱は成長するのか。
 そして一年ほど経って同じ場所が二度目の激痛になった時、近くの病院にかかった。そこで検査をして尿酸値が高いのが分かった。だが、私はかかとの激痛の尿酸値の高い事による「通風」の発作であるとの医者の意見を全面的に納得している訳ではない。それもあって、だから私は薬は要りません、と断っている。

 普通の食生活をしていて、どうしてサプリメントが必要なのか、私にはさっぱり分からない。年齢相応に老けるのだし、年齢よりも若く見える人と老けて見える人がいたって、それはそれぞれの個性に過ぎないし、運動の量にもよるだろう。それをサプリメントで補えるとはとても思えない。
 私はパソコンなどで目を酷使するから、ブルーベリーエキスなどが良いと思い、一時飲んでいた。でも、飲んでも飲まなくても、ほとんど変化が無い。と言うか、変化が分からない。酒を飲む人のための何とか言うサプリメントもあるが、何もサプリメントを飲んでまで酒を飲みたいとは思わない。何事もほどほどに控えて、運動をし、明るい気持で毎日を送れば、それで十分ではないか。
 サプリメントの恐ろしさは多分、効き目がはっきりしないから、大量に持続的に摂取する結果にもなり、それだって満腹感も無いし、味も素っ気も無いから、そのまま続けてしまい、それが何らかの害を体に与えるのではないか。そう言えば、この間、テレビでサプリメントの取り過ぎで、害になる症例を見せていたっけ。サプリメントに関心が無いから、何の事だったか忘れてしまったが。
 何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なのだ。高いカネを掛けて「過ぎたる」になるよりは、カネを掛けずに「及ばざる」になる方がずっと良い。及ばないのは、ほかの事で補う事も出来る。

 民族の体はその長い食習慣などで作られているはずだ。日本人は当然ながら和食でその体を作って来た。魚など、頭から尻尾まで食べた。骨も食べた。昔、さんまの骨を焼いて食べたが旨かった。私の魚の食べ方を見て、息子はまるで猫みたい、と言うが、ちっとも恥ずかしくはない。それに私は肉を食べると、どうも翌日、腸の調子が良くない。肉の消化に向いていないらしい。欧米人に比べて何が足りないなどと考える必要は無い。欧米人の体が理想的なはずも無い。単に背が高く、脚が長く、格好が良いだけの事。その代わり、肌などとても粗くて汚いではないか。それにメタボも多いじゃないか。
 ハンバーガーなどファストフードが流行るから、足りない成分が出て来る。それをサプリメントで補おうと言う。食品業者と薬品業者の恰好の餌になっている。

テレビの買い替えで考えた

2009年10月20日 | 暮らし
 テレビが壊れたので、買い替えた。テレビが壊れたと書いたら、流蛍さんが、安い部品を使って安い手間賃で作っているからすぐに壊れるんだ、と教えてくれた。それと同じ事をその店でも言う。10年前の製品だから部品も無いだろうし、修理は高く付くと言う。従って買い換えになると言う。
 本当は52インチが欲しかったのだが、ちょっと大き過ぎるし、46インチにした。それだって、店で見ればそんなに大きくはないが、家に持って来たら、やはり大きい。前から思っていたのだが、画面が大きくなると、字幕などの文字もバカでかくなる。これなど、画面に応じて文字の大きさが変わる仕組みがあっても良いと思う。つまらない番組だと画面の大きさがバカらしく、番組自体も何か虚しく見えてしまう。
 そう、精細になって細かい所まで見えるのだが、あらもまたよく見えるのだ。

 私はテレビ放送にはあまり魅力は感じていない。だが、レーザーディスクやDVDを再生して好きな映画を存分に楽しみたい。映画だけならプロジェクターと言う手もあるが、部屋を暗くしなければいけないし、家族も楽しめなければ意味が無い。
 結構高い買い物なので、通販大手のある会社で買おうと思った。スピーカーを備えたラックとブルーレイレコーダーが付いて約28万円。30回払いで無金利が魅力だった。
 申し込む直前にラックの寸法が気になった。カタログのどこにもその寸法は書かれていない。テレビとセットの写真でおおよその寸法の見当を付けた。すると、私の今持っている3種類の機器がどれも入らない。高さも幅も大幅に足りない。客が自分で組み立てる物なので、スピーカー部分だけを使えるなら、現在のラックに乗せて使おうかと思ったのだが、問い合わせてそれが駄目だと分かった。そしてテレビ単体だけでは売っていない。
 そこで近くの大手家電店に行ってみた。何と、買いたいと思っていた製品が実質15万円で買える。先着5台とあり、いつからなの、と聞くと今日(10日土曜日)からだと言う。まあ、5台は宣伝文句だろうが。価格COMで調べたところでは、最安値で約14万円だから、5年間保障も付いて15万円は絶対に安い。通販はラックとブルーレイレコーダーで13万円になる計算だ。この店が特別に安いのだが、セット商品は割安と見せて、そんなに安くはないと分かった。DVDレコーダーは多機能の物を持っているから今は要らない。配達は二日後と迅速である。
  
 結局、物は安くなったが、持ちが悪くなり、決して安くなってはいない。新しい機能が付け加わっているかも知れないが、それをどこまで利用しているか。多くの人が宝の持ち腐れになっている。結果的には物を粗末にして、資源をどんどん浪費している。
 メーカーとしてはどんどん買ってもらわなければ商売が成り立たない。そこで安かろう悪かろうの製品が跋扈する事になる。なんだなんだ、メーカーの金儲けのために資源と我々のカネが無駄に使われているんだ。こうして見ると、本当に資本主義と言う物は正義なのか、と大いに疑問になる。今更昔の物々交換には戻れないが、かと言って、このまま資本主義をのさばらせていて良いのか。
 利益の追求が世の中を発展させている面は確かにある。だが、飽くなき利益の追求が世の中を決定的におかしくしているのも事実だ。利益の追求をしてその結果大金持ちになったような人が議員として多数存在するような政党が、庶民に優しく出来るだろうか。
 余裕があるから思いやりの心を持てると言うのも真実だろうが、とことん辛い目を見たりしない限り、本当の思いやりの心は持てないのではないか、と思う。現在の民主党に果たしてそうした人がどれほど存在しているのだろうか。私の好きなブログのkojitan さんは、百害あって一利くらいだとおっしゃっているが、うーん、私は甘いから利害半々ではないかと思っている。楽観的過ぎるかも知れないけど。せっかく我々が選んだ政権なんだから、せめてそれくらいの希望は持ちたいと思う。もっとも、私は民主党は選ばなかったけどね。

味と値段の問題・その続き

2009年10月17日 | 暮らし
 久しぶりに朝風呂に入った。妻が入っていい湯加減だよ、と言うので、それじゃあ、と入った。風呂は東側にあるので、朝日が入って気持がいい。夜に入るのとはまた別の気分が味わえる。
 だが、何となく暗い。ちゃんと明かりは付いているのに、なぜか暗い感じがする。そうか、半透明のドアで仕切られている隣の洗面所の明かりが付いていないのか。だが、明かりは付いていた。じゃあ、一体、何で暗い気がするのか。
 多分、慣れていないせいだろう。いつもは夕方か夜に入っているから、浴室の明かりが十分明るいと感じている。だが、今朝はそれよりももっとずっと明るい朝日が差し込んでいる。しかし、電気の明かりに慣れ切った目には、いつもの明かりが負けていて暗いと感じてしまうのではないか。

 そんな事を考えていたら、きのうの日本酒の事を思い出した。息子が時々買って来てくれる日本酒は私が普段飲んでいる四、五倍くらい高い。さすがに旨いと思う。だが、普段の酒の四、五倍も旨いかと言うと、当然だが、そんな事は無い。価格の差と旨さの差を比べるなよ、と言われてしまうだろうが、旨さなんて、結局はそんなものなのだ。
 その旨い酒だって、いつも飲んでいればすぐに慣れて、そんなに旨いとは思わなくなってしまう。いつもではなくても、一升瓶なら、最初の一口目はすこぶる旨いが、その旨さは徐々に薄くなって行き、最後には初めの感激ほどの旨さは感じなくなっている。

 絶対音感と言うのはあるが、絶対味覚なんて無いのではないか。そして味にはその人の好みがある。幸いにして、今の私にはいつものあの安い純米酒の旨さが合っている。好きな純米酒でその3倍以上の価格の酒がある。これは確かに旨い。だが、3倍以上の価格であるのを考えると、安易に「旨い」とは言っていられない。
 まあ、がばがば飲む物じゃないんだから、食事の旨さを引き立てるための酒なんだから、値段がどうのと思いたくはないのだが、現実問題としては、やはり引っ掛かる。そうして考えていると、どうも私は何と言う事か、価格に大きく影響されている事に気が付いた。高くなくても旨けりゃいいのよ、と言いながらも、やっぱり値段にこだわっている。値段に関係なく買えて食べて飲めて、と言う情況には無いからこそ、値段にこだわるのだろうと思う。

味覚と値段の問題

2009年10月16日 | 暮らし
 カマンベールチーズをフランス直輸入の製品と国産の製品とを買った。値段はもちろん、直輸入の方がずっと高い。倍の値段だ。量は同じ。物はチーズだし、当然にフランス直輸入の方が旨いに決まっている。でも、価格が倍だからと言って、味が倍旨い訳ではない。妻が買い物籠に両方を入れているのを見て、私は国産だけにしようと言った。だが妻は私が払うからいいじゃない、と反抗してそのままになった。
 ところが、私の味覚では、国産の方が断然旨い。もちろん、私の味覚がどれほどのものかは問題だ。でもほかにも例がある。赤ワインだ。国産の600円ほどのワインと、フランスやドイツの1500円くらいのワイン。ある国産の一つの銘柄に限っては、私は国産の方がずっと旨いと思う。
 それはあるコンビニの店長の意見で裏打ちがされている。その店では、私が旨いと思ったワインは欠かせない商品だと言う。日本人には旨いワインなのだと店長は信じている。日本人と欧米人の味覚は違うと信じている。だから絶対に品切れにはしないと言う。そして、ちゃんと客が買っている。これ以上雄弁な説明は無い。
 理屈がどうであれ、由緒がどうであれ、旨い物は旨いし、まずい物はまずい。それを正直に言って何が悪いのか。何が恥ずべき事なのか。恥ずべきは、ブランドに頼って、自分の味覚をないがしろにしている人々だ。それが味覚の専門家に居るとなれば、こんなに恐ろしい事は無い。

 東京の都心ではあるが、下町でもある神田・神保町に車で野菜や果物を売りに来る商人が言った。この値段で山の手の杉並や中野で売ったら、売れないよ、と。安過ぎて駄目なのだと言う。そこの人々は高くないと駄目な商品だと思い込んでいるのだと言う。
 そうした、本質が分からずに価格だけで判断する人々が、例えばパリなどでブランド品で騙される。パリの女性はそんな物なんか買わないと言う。日本人はいい鴨にされているに過ぎない。自分の感覚を信じないで、値段で判断する愚かさ。

 ただ、その「旨い」と言う事にも問題がある。私が特に問題にしているのは、日本酒。吟醸酒などは確かに旨い。そして値段は高い。それに対して、純米酒は吟醸酒ほど高くはないが、吟醸酒ほどは旨くはない。だが、醸造用アルコールは使っていない。純米吟醸と言うのもあるが、それは措く。
 無味無臭の醸造用アルコールで薄めてもまだ旨い、と言うのは素晴らしい事だ。はっきりとした事は分からないのだが、醸造用アルコール添加の旨い酒と、純粋の純米酒の旨さを比べた時、まあ、旨いに越した事は無いが、酒なんてそんなに旨くなくてもいいのではないか、そこそこ旨いと思って飲めればそれでいいではないか、と思う。そうした時、醸造用アルコール添加の酒よりも、純米酒の方をどうしたって選んでしまう。
 私が今、一番気に入っている純米酒は非常に安い。少々味が淡白だとは思うが、何しろ安い。そしてそれはある安売り店でしか手に入らない。うっかりするとすぐに品切れになってしまう。つまり、それだけ多くの人々に好まれている訳だ。
 同じように安い酒なら、醸造用アルコール添加の酒が幾らでもある。それでもこの純米酒が好まれているのは、本当に味の分かる人々がそれだけ居ると言う証拠だと、私は安心をしている。

テレビの買い換えを決心した

2009年10月13日 | 暮らし
 この間からおかしくなっていたテレビがとうとう付かなくなった。電源は入るのに、すぐにスタンバイ/オフタイマーになってしまう。多分、ちょっとした回路の故障なのだろう。しかし修理に来てもらうと出張費だけで1万円以上は掛かる。部品など二、三千円だったりするのに、出張費が高い。それでんみんな嫌気がさして、本体価格が安い製品なら、新しく買い替えた方がずっと安く済むし、品物は新しくなる。これでは馬鹿馬鹿しくて直してまで使い続けようとは思わない。
 こうして貴重な資源がどんどん失われて行く。今時、時給800円だとか、900円だとか言っているのに、何で出張費が1万円もするのか。
 テレビにスタンバイとかオフタイマーなどの機能が必要だろうか。スタンバイなどは余分な電力を消費する。オフタイマーだって寝ながら見ていて、眠りについた頃に消えていて欲しい、などと虫の良い事を考えるから必要になる。ただ、必要ではなくても、メーカーが既にそうした機能を盛り込んでしまっている。
 そして、そうした機能の部品が壊れるのだろう。もっとも、私の23年も使っているテレビはそうした機能を持ちながら、いまだに健在ではあるが。しかも一般的には技術面ではあまり評価が高くはないサンヨー製品だ。壊れてしまっているテレビの方は10年前のソニー製品だ。世間の評価は当てにはならない、と言う事か。

 ある時は付いたり、ある時は付かなかったりと、あまりにもテレビに馬鹿にされて悔しいから、買い替える事にした。どうせ2年後にはアナログは見られなくなるし。デジタルチューナーを買って使い続けようかとも思っていたのだが、止めた。候補はシャープだ。ここもカルテルを組んだりして許されない事をしているが、まあ、どこも同じような体質だから。それに私はシャープのあの「目の付けどころがシャープでしょう」と言う下らない駄洒落のCMが好きなのだ。
 駄洒落ではあっても、変に英語など使って、命令するようなCMは頭に来るから、日本語で語っているこのCMが好きなのだ。
 無料回収されたテレビは東南アジアで第二の人生を送っていると知ったが、下取りされて部品が壊れているのはどうなるのだろうか。私のは29インチで、まだまだ画面もきれいなのだから、何とか余生を生かして欲しい。自分で捨てておきながら、何とも虫の良い話だが。

小中学校は2学期制になっていた

2009年10月09日 | 暮らし
 タイトルのような事、知っていました? 私は今日まで知らなかった。今日、10月9日は1学期の終了日で、今日は終業式。通信簿ももらう。そして連休明けの13日が2学期の始業式になる。
 なんか、けじめがまるで感じられない。以前は夏休みの前までが1学期、夏休みが終わって2学期が始まって、冬休み前で2学期が終わり、正月が終わると3学期が始まる。これはこれで十分に日本の暮らしと密着していてけじめがついていた。
 そもそも、「学期」とは何なのか。勉強には終わりなんて無いのだから、一年が一つの学期でもおかしくはない。学年は学業の進歩に従って変わるのは自然だろうが、学期はあまり関係が無いと思う。それなら、自然の暦と同調していてどこが悪いのか。
 学期があれば、そこで一応は成績の決算が行われるから、反省も出来る。だから2学期制だって3学期制だって決算が出来て反省も出来る点では変わりが無い。その反省が1回が良いのか、2回が望ましいのか。
 反省と言う点では、その機会は多い方が良いはずだ。でもそれなら、毎日反省した方がもっと良い。しかし毎日点数を付ける訳にも行かない。そうであれば、暮らしの暦と同調した3学期制で反省するのが一番ぴったりと来るのではないだろうか。

 まあ、きちんと考えて2学期制にしているのだろうから、私ふぜいがとやかく言っても始まらないが。事のついでに、連休にして少しでも休みを有効に使うと言う点で、成人の日や敬老の日を第三月曜日にしたのはそれなりに理由があるが、祝日の意義が損なわれてはいないだろうか。
 もちろん、元の1月15日や9月15日にそれほどの季節的意味は感じられないが、それでも一定の日に決まっているからこそ、祝日の意義が感じられる。現行のような、単に休みが長く取れると言う事だけで決められてしまうと、祝日の意義よりも休日の意義の方がずっと重んじられているようで、納得が行かない。
 そして体育の日だが、以前は東京オリンピックの開会日の10月10日だった。それがカレンダーを見たら、10月12日になっている。あれっ、これはどうして12日になったんだっけ。
 なんか、すべて、休めりゃ何だっていいじゃないか、って言う気がして、意義も無く休んだってしょうがないでしょう、と思ってしまう。学校の2学期制と言い、国民の祝日と言い、どんどん季節感が失われてしまうようで、寂しい。