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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

卒業謝恩会・その続き

2010年03月12日 | 暮らし
 しつこいだろうが、続きを。謝恩会で先生方が卒業する子供一人一人に呼び掛け、でも、来賓の誰一人として、その話の対象になっている子供の確認をする人は居なかった、と書いた。私は、そんな一方的な話があるか、と憤懣をぶちまけたが、考えてみれば、私がおかしいのかも知れない。
 と言うのは、一つにはこれは謝恩会でするべき事柄ではないからだ。これは卒業式にこそふさわしい。だから、来賓達は無視した。そこで一応は先生の言葉を聞く振りをした。振りなんだから、何がどのように語られているかは関係が無い。
 一つには、初めっから、形だけの事として出席した。何と言うとんでもない事を考えるのか、と怒られるかも知れないが、私にはそうとしか思えない。

 私の謝恩会のイメージは先生と父兄が向かい合うような席で、それぞれに思い出を語り、父兄が先生に「恩を謝する」である。何しろ主催者はPTAなのである。しかしあの謝恩会は誰が誰に対して何をしているのかが、今一つはっきりしなかった。
 ただ、進行だけは見事である。まるで学芸会のようにきちんとプログラムが組まれていて、どんどん進行して行く。だから、BGMの音量が大き過ぎて、マイクを使った母親代表の挨拶がまるで聞き取れない情況が生じた時、それが証明されてしまった。みんなそれに気が付いて、先生があわてて音量調節に飛んで行ったが、うまく行かない。やっと調節が出来た時には挨拶は終わっていた。そして会はそのまま進行したのである。
 本当は、お母さん、申し訳有りませんが、手違いでお声が通りませんでした。もう一度ご挨拶をお願い出来ませんか、と言うのが筋であり、礼儀である。あるいは、挨拶を途中でとめても良い。母親は真剣にそれこそ悩みに悩んで挨拶の言葉を考えたはずである。
 以前、野坂昭如氏が大島渚監督をなぐった事件があった。確か大島氏の受賞か何かの記念パーティーだった。そこで野坂氏は挨拶を頼まれていたと記憶している。ところが、それをすっぽかしたのである。怒るのは当然である。

 テレビ時代を反映してか、すべてが番組のような情況で進行して行く。何か、楽しませよう面白がらせようとの思いしか伝わっては来ない。子供達の言葉もすべて学芸会スタイルになっている。決められたせりふを間違いなくしゃべる、そんなつたない演技しかそこには無い。そこには子供達の生の声など微塵も無い。そして、最後まで父兄の生の謝恩の声は聞かれなかった。唯一生っぽかったのが、先生が子供一人一人に呼び掛けたあの挨拶だったのだ。
 私は一応は謝恩される立場で招待を受けたつもりだった。しかし全くの傍観者で終始した。別に謝恩されたいとは思いもしないが、看板にいつわりあり、だと思う。来年も同じような情況なら、招待されても私は出たくない。枯れ木が山の賑わいになるとはとても思えない。

契約書と営業部員に騙されるな

2010年02月27日 | 暮らし
 借りている家の更新時期が迫って来た。例によって2年更新だが、私は本当はすぐにも今の所を出たい。と言うのは家賃が高過ぎるからだ。私の周囲に言わせれば、自分の倍じゃないか、とほとんどの人が言う。中には自分の3倍も払っているよ、と言う人さえ居る。今までは何とか貯金を下ろして支払って来たが、それも底を突いた。だから一刻も早く引っ越したい。だが、一緒に住んでいる息子の都合もある。そこで最大限6ヶ月だけ延長して欲しいと頼んだ。
 その頼みは聞き入れられ、更新料も6ヶ月分になった。ところが、契約書は2年のままである。それに6ヶ月後に契約解除をするとの解除申込書を添えて出すのだと言う。そうなると、強制的に掛けさせられている保険も2年契約の2万4千円になる。これはおかしい。
 だから、そう言った。だが、更新事務を担当している女性は保険は別会社だからそうはならない、と言う。そんなはずは無い。保険会社も同じ三井リハウスが代理店になっているのだ。
 実は賃貸借を担当していた部署から契約更新や解約の事務が別の専門の部署に近年になって移った。私はその知らせを受け取った時、いやーな予感があった。直接に交渉をしたその相手ではなく、全く無関係の部署が担当するのだ。多分、杓子定規の事務的な扱いになるんだろうなあ、と思った。そうした無慈悲な事をするためにも、無関係の部署の方がずっとやり易い事は目に見えている。
 そして保険を担当する女性から電話が入った。彼女は途中解約なら、解約返戻金が出ます、といとも簡単に言う。しかし保険の申込書には「途中解約の場合には未経過期間に応じて解約返戻金が出る場合もあります」と明確に書かれている。これは「返戻金が出ます」との意思表示にはならない。「出る場合もある」は「出ない場合の方が多い」と言う事である。それは常識だ。
 しかし彼女はそうではない、と言い張る。それなら、その旨、きちんと契約書に一筆書いてくれますか、と言うと、文章に書いてあるのだから必要が無い,と言う。あなた、日本語分かってますか、と私は言った。彼女は文章をきちんと読み取る能力が無い。それなのに、堂々と契約者に不利になる事をさもそんな事は無いかのように言う。
 結局は更新事務の部署から保険の部署に私が6ヶ月後に退去すると言う正しい情報が何も伝わっていなかった事が判明した。それにしても、6ヶ月の契約を結ぶ人間に平気で2年間の契約書を書かせ、2年分の保険料を支払わせるそのいい加減な魂胆にはあきれ果ててしまう。
 そうか、これで不動産も保険業者もやって行けるんだ。一体、陰でどれほどの人間が悔しい思いをして涙を流しているのだろうか。

地方ネタですが、地下鉄の駅名について

2010年02月13日 | 暮らし
 東京の地下鉄の東京地下鉄が駅名を変えるとのニュースがある。「東京地下鉄」と書いたが、新聞もテレビもこの名前は使わない。みんな「東京メトロ」と呼んでいる。それは当の東京地下鉄株式会社が「当社の正式名称は〈東京地下鉄〉ですが、愛称として〈東京メトロ〉と呼んで下さい」とお願いしたからだ。愛称と言うのは利用者の間から自然に作られるものであって、当事者が決めるのは僭越この上ない、と思っている。それにうさん臭い。
 なぜ「東京地下鉄」では駄目で,「東京メトロ」なのか。前者はださくて,後者はあか抜けしていると言うのだとしたら、とんでもない事だ。首都の地下鉄にフランス語を使って、何が嬉しいのか。因みに駅構内のトイレなどの掃除を請け負う会社は「メトロサービス」と名乗る。親会社の愛称がフランス語なんだから、私は「メトロセルビス」とでも名乗れば、と言いたい。
 そしてもう一つ、東京地下鉄は日本では特殊な、自治体以外が運営する地下鉄なのである。ただ、資本金は国と東京都の折半だが。

 さて、問題の駅名は「明治神宮前」。これを「明治神宮前〈原宿〉」とする。変更と言うよりは付け加えである。なぜそうするかと言うと、この駅はJRの原宿駅とほぼ同じ位置にある。そして「原宿」は現在は有名な若者の街である。それなのに「明治神宮前」ではまるで違う駅のように思えて、だから利用者が少ないのだと言う。
 でもね、元の「明治神宮前」だって、あまり都民に親切な駅名とは言えない。何しろ、そこは「原宿」で通っている。原宿駅の都心から見て外側のホームはもう明治神宮に繋がっている。それほどの駅でも、駅名は「原宿」なのだ。だから今更「明治神宮前」と名乗られてもね。愛称の付け方と言い、この駅名と言い、どうも同社には都民の目が欠けているように私には感じられてしまう。
 実は「明治神宮前」と言う駅名は昔からあった。「明治」は付かないが、「神宮前」と言う駅が同社の銀座線にあった。原宿駅からまっすぐに広い参道を都心に向かって、約1キロ離れている。私はそのすぐそばにある会社に勤務していた。そこは本社であって、事務所が新橋にあった。それで新橋の社員が本社に来る時、ほとんどが間違った駅で降りてしまうとの話を聞いた。一つ手前に「外苑前」と言う駅がある。都民にとっては「神宮」と言えば「明治神宮」で、「外苑」と言えば「明治神宮外苑」なのだ。それで「神宮前」と「外苑前」が混乱してしまう。
 神宮前駅に千代田線が乗り入れる事になって、その千代田線は「明治神宮前」その物とも言える「原宿」を通る。そして同線は「原宿」ではなく、「明治神宮前」を採った。それで「神宮前」を「表参道」と変えた。言うまでもなく明治神宮の表参道の入口に当たる。考えてみれば、1キロも明治神宮と離れているのにも拘らず「神宮前」と名乗った、そもそもの考えがちょっと想像が付かない。

 結局、彼等地下鉄の人々にとって、駅名と言うのがどのような役割をするのかの実際的な考え方が無かった話になる。昔、原宿の駅はさびれた駅だった。唯一の特徴は、少し離れて皇室専用駅がある事ぐらいだった。だから地下鉄は「原宿」よりは「明治神宮前」の方が乗客を集められると踏んだのだろう。しかし案に相違して、「原宿」が有名になってしまった。「原宿駅」と「明治神宮前駅」とが同じ駅である事を知らない人の方が多い。
 駅名を付けるのはその鉄道の権利だろうが、既に「原宿」と言う駅が古くから存在しているのに、それを無視して、ほとんど同じと言える駅に全く別の名前を付けると言う、その魂胆も想像しにくい。
 本当にみんな勝手だ。昔は営団だった地下鉄の銀座線に「淡路町(あわじちょう)」と言う駅がある。そこに後から都営地下鉄が通って、駅を作った。最も近い所では改札口が真向かいに並んでいる。しかし都営新宿線はその駅を「小川町(おがわまち)」と名付けた。千代田区の神田地区は小さな町がまだ残っている。だからちょっと離れるとそこは違う町名だ。でも乗客は町名と駅名の関係はよくは知らない。乗客にとって、同じ所にあると言える駅なら同じ名前の方が便利に決まっている。
 まだ都電があった頃、大きな東京駅の北側には「東京駅北口」停留所が、南側には「東京駅南口」停留所があった。それとまるで同じ事をやっている。路面電車と地下鉄は駅(停留所)の性格がまるで違うのだから、つまり地下鉄は路面電車よりはずっと大きな目で地域を見ているのだから、駅名もそのように付けるのが当然なのだ。

恵方巻きを私は食べない

2010年02月04日 | 暮らし
 昨日は節分。今日は立春。これでなくちゃあ季節感は味わえない、と思う。私は豆まきをした。しかし近所のどこからも「おにわーそと、ふくわーうち」の声が聞こえて来ない。昔は一人が豆をまき、もう一人があわてて戸を閉めると言う事をどこの家でもやっていた。もしかしたら、子供が学校とか幼稚園などでやっていて、親はそれで済んだと思っているのかも知れない。そうだとすれば寂しい事だ。
 しかし商魂だけは逞しい。スーパーではどこも豆まき用の豆を売っているし、中でも恵方巻きは盛大に売り場を占領している。恵方に向かって太巻きを丸かじりすると言う,それが決して恰好良い物ではないから、と言うよりむしろ醜いから私はやらない。なぜか二三年前から東京でも流行って来た。もちろん、商魂のしからしむる所である。
 どこだったか、鬼を追い払うのは避けて、「ふくわーうち」としか言わない所があったが、心優しい風習だと思う。そうした豆まきの風習に比べて、恵方に向かって太巻きを食べるだけ、と言うのは好きにはなれない。多分、立春も何も無いのだろう。

 今年は今日が立春で、14日が旧1月1日である。そうした季節感があってこその豆まきだろうと思う。
 太巻きについては、私にはショックだった事がある。小学生の遠足の時だった。弁当の時間になって、みんなが取り出したのは、細ーい海苔巻きだった。具はかんぴょうだけ。そんな海苔巻きを私は見た事がなかった。母は東京の芝で生まれて神田で育ったから江戸っ子だと威張っていた。その母が作る海苔巻きは具のたくさん入った太巻きだったのだ。それが海苔巻きだと思い込んでいたから、細い海苔巻きを見てショックを受けた。そしてそれが東京の海苔巻きだと知った。
 そんな日常の食べ物だった太巻きが仰々しく恵方巻きだなどと銘打って売られており、それを縁起を担いで喜んで食べているのが私には馬鹿馬鹿しいのだ。昔は豆だって自分の家で煎った。商売人の作った海苔巻きを食べて幸運を招こうと言うのではあまりにも御都合主義だろう。せめて自分で作った海苔巻きで幸福を招きたい。

安心して歩けない歩道

2010年01月22日 | 暮らし
 新聞に投書があった。歩道が凸凹していて安全に歩けないと。歩道は車道より一段高くなっている。しかし家々の車の出入りのために、家の前だけくぼんでいる。それに気が付かずに歩いていると、ガクン、と足にショックを受ける。私は何度もそうした目に遭っている。いつも通っている道でさえ、ついうっかりほかに気を取られていて足下がおろそかになって、ガクン。怖いし危ない。
 前々から思っているのだが、なんで歩道だけ一段高くしなければならないのか。今はたいてい歩道と車道との境には柵が出来ている。車が乗り入れて来る心配は要らない。だから車道と歩道を同じ高さにして、間に柵を設ければそれで済む。段差が無いから、柵を植え込む場所にも苦労はせずに済む。現在は段差があるために、車道から10センチとか入り込んだ所に柵を作る。その分だけ歩道は有効面積が狭くなる。馬鹿げている。ただでさえ狭い歩道なのに、更に狭くしてどうなると言うのか。

 自分の家の前が低くなって、車道との出入りがスムーズに出来るのを好むのは分かる。しかし車の出入りは一日に何度もある訳じゃない。しかしその歩道を歩く人は何百人にも達していて、中には私のように一日に数回も歩く人間もいる。どちらを優先すぺきかは簡単に分かる。
 これはまた別の話だが、歩道は補修とかガスや水道の工事の後,何であんなに継ぎはぎだらけのままにしておくのか。車道はもっときれいに舗装し直しているぞ。多分、車からは税金が取れるが、歩行者から税金が取れないのが理由なのだろう。

 道一つ歩くのにこんなにも難関がある。政治家は多分、移動には送り迎えの車を使っているから、歩行者の悩みや苦しみなんてとんと分からないに違いない。だからこそ私は思う。金持でぬくぬくと育ってしまったような連中に政治をやらせてはいけないのだ。だが、選挙運動にもカネが掛かる。余程の有名人でない限り、カネを使わない限り当選は難しい。だから、裕福な人間ばかりが当選して、政治家のための政治になってしまっている。
 私がこんな事を言うと、小沢は正しい,検察は民主党を潰そうとしているのだ、と言う人々が居るが,4億円もの大金を知らぬ存ぜぬで通るとは庶民は思ってはいない。
 道の話から小沢問題にまで発展してしまったが、これこそ現在の日本の抱えている大問題なのだと思う。我々の身近な所にまで変な思惑と金儲けが入り込んでいるのである。

正社員を活用して店の活性化

2010年01月14日 | 暮らし
 NHKのテレビで正社員を活用したスーパーの活動ぶりを紹介していた。多くの店と違い、アルバイトやパートより正社員の数の方がずっと多い。それだけ人件費も掛かる。だが、正社員ならではの商売がそこにはある。番組では野菜売り場の店員を紹介していたが、その動きが凄い。単に、朝品物を並べ、無くなれば補充して、などと言う単純な作業ではない。四六時中、客の動向に気を配っている。そしてそれに応じて商品の並べ替えをする。
 夜、勤め帰りの女性客が多くなると、簡単に調理の出来るような野菜を一番目に付く場所に置き換える。それはほんの一例だが,そうした事をずっとやっている。商品をよく知っているから、客が迷っていればすかさず助言をする。聞かれれば、即座に正しく答える事が出来る。

 そう、店は生きているのだ。客の動向に応じて動かなくてどうする。ただ、これはとても難しい仕事だろう。よほど真剣に客の身になってみなければ分からない。
 私がひいきにしているある安いスーパーは、朝8時30分からやっているから、朝の仕事を終えてからすぐに買い物が出来る。ところが、9時過ぎになっても、まだ商品を並べている最中なのだ。商品のカートがあちことに置かれているから、邪魔でしょうがない。何しろ通路の半分をふさいでいる。品物だって手に取れやしない。
 そう言うと、朝8時から仕事を始めているんですが、邪魔で申し訳ありません、と店員は謝罪するが、8時では遅いのだ。8時30分に開店なんだから、その前にすべての準備を終えているのが当然なのである。早朝からだと、アルバイトやパートに割り増し賃金を支払わなくてはならなくなるのだろう。だからぎりぎりに仕事をさせている。
 これが正社員だったら、賃金の事ばかりは考えないはずだ。少なくとも、これからの社員はそうでなくては務まらない。アルバイトやパートなら店のためではなく、賃金のために働いても文句は言えない。しかし社員は違う。店のために働く事が、ひいては自分のためにもなる。客から喜ばれてこその店ではないか。

 私は様々な店で、ここをこう改善すれば、もっと客が分かり易く、買い易くなるのに、と思う事が多々ある。店側はいつも見慣れているからそれで少しも不便だなどとは思わないのだろう。だが、時々しか見ない客にとっては、店は不案内の場所なのである。幾つもの店に行く客にとって、それぞれの店の商品の配置を覚えるなんてとても出来やしない。初めての客にでも簡単に商品の配置が分かる工夫とか、見やすい値札とか、工夫はもっと色々と出来る。
 ある店でアボカドの食べ頃を尋ねた。店員は分からないと言った。その店のアボカドは安かったが、私は買う気を無くした。自分が扱っている商品の事ぐらいしっかりと勉強しろよ。私は店で様々な事を聞く。一つには自分が分からないからであり、もう一つにはその店がどれほど商品に対する知識を持っているかを見るためである。決まり切った商品で値段も明確なら、安い店で買う。だが、肉や魚、野菜、果物などは見た目だけでは分からない。もちろん、見た目で判断出来るような勉強をする事が客にも必要だが、店に店員が居るのは、何も金と商品の受け渡しだけのためではないだろう。

 人件費の節約とか言って、正社員を減らし、アルバイトやパートを増やす事は、長い目で見れば、絶対に得な事は無いはずだ。客が移り気な事も原因ではあろうが、もっと長い目で見た商売をすべきだろうと私は思う。店の質が向上すれば、客だってそんなに移り気にはならないはずだ。

惰性になった年賀状

2009年12月19日 | 暮らし
 12月に入っての周囲の関心は、年賀状書かなきゃ、だった。今年はどんなデザインと内容にしようかなあ、ではない。「書かなきゃ」と言う義務観念が真っ先に来ている。義務で書いた年賀状に果たして気持が込められているか、などと言い出すとどうしようもなくなるが、ああ、めんどくさい、と思いながら書くなんて。
 宛名まで印刷の年賀状なんて、私は嫌だなあ、と言うと、賛成する人の方が多い。本当は肝心の年賀の方も手書きに越した事はないのだが、これには版画などが一番ポピュラーだろうし、そもそもが「印刷」に向いている。
 そこでせめて、表書きくらいは、一人一人、相手の事を思い浮かべながら手書きにする、と言うのが王道だろう。

 ところが、これが結構面倒である。私が一番面倒だと思っているのが郵便番号。本来は市区町村名などを省けるシステムなのだが、そうなると、一文字違っても届かなくなる危険性がある。それに市区町村名を省いてみると、なんだかとても間が抜けているように思えてしまう。やはり、○○県とか、せめて○○市ぐらいから書きたい。
 そうした場合にパソコンを使う方式は非常に便利だ。入っているデータから出したい人を選べば、もうそれで半分は仕事が済んだ事になる。
 表も裏も全部印刷なんて年賀状、私は嫌だねえ、と言うと、だから文面に添え書きをしている、と言う。でも全部の人にそれぞれ違った添え書きをすると言うのも大変だろう。すると、「今年もよろしく」などを手書きにすればいい、と言うのだが、それなら宛名を手書きにするのとそう変わりはない。それに決まり文句なら、それこそ書く方は事務的になってしまう。

 私は毎年、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤を繰り返し、出来上がるのはいつも25日の締め切りぎりぎり。去年はさて出来上がった、と印刷にかかろうとしたら、何と、カラープリンターが故障している。何でチェックしておかなかったかと悔やんでももう遅い。普段はモノクロプリンターで用が足りているし、その方がずっと効率が良いので、カラーの方は年賀状くらいにしか使っていなかった。
 仕方なく、カラーの絵を入れる予定の所を簡単な手書きにして、文章の配置を急遽変えて文面だけ印刷した。版画や手書きならそんな馬鹿な事は絶対に無いし、機械頼みはやはり一抹の不安がある。
 何でもかんでも便利便利と機械頼み、人頼みにする事が増えている。テレビだって消し忘れを防ぐためにかどうかは知らないが、自動的に消えるシステムを入れている。そのせいで、そうした回路の部分が壊れて、私はテレビを買い替える羽目になった。地デジは時の流れだが、まだもう少しアナログで良いと思っていたのに。テレビなんて必須じゃないからね。
 このカラープリンターも、直すと法外の値段になる。それならもっと効率の良い機械がちょっと上乗せした金額で変える。テレビもそう。修理費用が高過ぎる。部品はわずかに数千円だったりするのに。

 年賀状だが、毎年、儀礼的な賀状が減っていると言う。年賀状は素敵な年中行事だと思う反面、うまく郵政省に長年乗せられて来たなあ、とも思う。出したい人だけが出せば良いのに、何か強制的に出させられている。周りがみんな出すから、自分も出さなきゃ義理を欠く。
 考えてみれば年中行事なんてそんな物かも知れない。ただ、年賀状は相手が居るだけにそんな簡単には済ませられない。

第三のビールが旨い

2009年12月15日 | 暮らし
 「リキュール」と書かれた第三のビールを馬鹿にしていた。その時は発泡酒が旨いと思っていた。本物のビールと比べて値段の割に旨いと思っていた。アメリカ産のフルーツの味がちょっとするビールが旨いと思い、韓国産の国産よりも安いビールが旨いと思った。息子は安いから旨いと思うんじゃないの? と憎たらしい事を言うが、気にしない気にしない。
 味覚なんて、意外にもろいもんだと思う。以前は夫婦共にずっとヱビスがお気に入りだった。ハイネケンの生ビールを飲んだ時も、心から旨いと思った。ただ、ヱビスはずっと飲み続けているとだんだん旨さを感じなくなった。何でもそうだろう。で、黒ラベルに切り替えた。私らはサッポロのファンなのである。

 懐具合とも相談して発泡酒になり、そして第三のビールを飲んでみた。するとこれが旨かった。田村正和に騙された訳ではないが、麦とホップ。発泡酒よりもずっと旨いと思った。日本酒でもそうだが、純米酒よりも醸造用アルコールを混ぜた物の方が旨いと感じる事がある。多分、味を操作しているのだろう。ただ、どんなに舌を騙しても、それは作った味だ。それに醸造用アルコールなどと言っているが、あれは工業用アルコールだ、と読んだ。工業用では売れないので、名前を変えたに過ぎない。で、よほどの事が無いと、そうした日本酒は飲まない。少々味が弱いな、と思っても純米酒を飲む。
 第三のビールはまさにこうして味を作ったビールだと思うが、こちらは日本酒のようなこだわりをなぜか私は持っていない。大体が、ビールはそんなに旨い物だとは思っていない。旨いビールを飲んだ事がないからだよ、と言われても、日本ではそう簡単には旨いビールは飲めない。聞く所によると店でグラス一杯千円もするヨーロッパのビールは本当にコクがあって旨いそうだ。

 サントリーの金麦を飲んでみた。麦とホップとは違って甘い味がするが、これまた旨い。両方を変えて飲んでみると、どうも麦とホップに前ほどの旨さを感じなくなっている。慣れなんだろうか、ちょっとした味覚の変化なのか。そして今度はサントリーが旨いと思った。
 そうそう、私が本物のビールを敬遠しているのは50%もの税金が掛かっているからでもある。取り易い所から取る、そうした役人根性が汚くて嫌だから、飲むたびにそうした思いに駆られるのは不愉快なのだ。そうでしょう。誰だか知らないが、汚い顔してにやにやした役人が頭に浮かんで、それでビールを飲むなんて、胸くそが悪い。

 テレビでビールが大好きな犬を見た。だが我が家の愛犬はビールはダイッ嫌いだ。そのほかの酒は日本酒でもワインでも喜んで舐めるのに、ビールは顔をそむける。多分、臭いが嫌なんだろう。まさか酒を注いで飲ませる訳には行かないが、指に付けて、はい、駆け付け三杯ね、と言って舐めさせている。
 この犬が酒が好きだと分かったのは床に置いた日本酒の瓶の口をぺろぺろと舐め回していたからだ。ワインも同じ。そしてある時、私は床に寝転がってワインを飲みながらテレビを見ていた。ふと、ぴちゃぴちゃと音がするのに気が付いた。見ると犬がワインのグラスに鼻を突っ込んで舐めているではないか。それも渋い赤ワインを。
 酒が好きだと言う点でも、犬と私は大の仲良しなのである。

小学校の学芸会を見た

2009年12月06日 | 暮らし
 やっぱりテレビ時代なんだろうなあと思う。みんな結構演技力がある。その学校は全校生約260名だから、学年ごとの演目で全員が出演出来る。昔はそんな事は無かった。選ばれた子供だけが出た。その点では大変民主的でよろしい。
 しかし全員が出るから、どうしたって集団演技になる。それが1、2年生だとセリフが聞き取りにくかったりとの欠点にもなる。全員が歌って踊って演技して、でなくても良いと思う。例えば、効果音などは録音したテープなどを先生が操作しているが、子供が何かの道具を使って擬音係になったっていい。私は中学生の時、擬音係で波の音担当をやらされた事があって、当時は普通にあったコウリに大豆を入れてそれをザザッーと動かす訳だが、どうしても数粒残ってしまい、それがコロコロと音を出す。それを出さないようにと担任に何度も言われて、大変だった。今はあまりにも便利過ぎるのかも知れない。

 私は一番前の来賓席に座らせて頂いたのだが、遠慮して一番端に座ったが、そんな前でも聞き取れない事がある。でも結構面白おかしくて思わず笑ってしまう。だが、私の周辺では誰も笑わない。すぐ後ろは優先席で、出演している学年の親だけが座れる。だからその度に移動がある。
 その親達からの笑い声が聞こえて来ない。何でだろう。そして気付いた事がある。ほとんどの人がビデオかカメラで撮っている。またそのための優先席でもあるらしい。だから多分、見る事に夢中になっていない。撮る方に気を取られている。撮って取られて、なんて駄洒落を言っている場合じゃない。

 私も息子の運動会などで写真を撮った。見ればその時の事が思い出されるが、それは単に、ああ運動会でそう言えば頑張っていたなあ、くらいの事だ。だが、息子がカーブの外側で内側の子を抜いた時は思わず興奮してしまって、いまだにその興奮は忘れられない。写真なんかに撮らなくても、いや、撮らなかったからこそ、その場の成り行きに一喜一憂する事が出来ていたのだ。
 運動会や学芸会では、親は子供と一緒になって楽しみましょうよ。写真の記録ではなく、自分の心の記録に刻み込みましょうよ。割と冷静になって見ている親達に私は失望を覚えた。親だって、家で子供のセリフを覚えるのを手伝ったりしただろうに。何か、一体感と言うか、臨場感と言うか、そうしたものが足りないんだよね。
 そうそう、運動会では始まる1時間も前から親が良い場所を取ろうと、並んでいた。確かにゴール前は特等席だ。でも、果たしてその時の感激を親達は今もなお持ち続けているのだろうか。

12月だと言うのに朝顔が咲いた

2009年12月03日 | 暮らし
 きのう、朝顔が咲いた。そして夕方の4時過ぎになってもまだ朝と同じように咲いていた。赤みがかった紫色で、形は少し小さいが、私はこの色の朝顔が欲しかった。きのうは12月の2日だ。こんな季節にもまだ花を咲かせる。しかもこれは切り花なのだ。と言うのは小さなつぼみを三つほど付けた茎を切り取って来て、水に生けている。それが二週間ほど前の事。毎日つぼみが大きくなっているから、これは絶対に咲くぞ、と楽しみにしていた。妻が、ねえ、朝顔が咲いているよ、とびっくりして報告に来た。
 これは西表(いりおもて)朝顔と言う品種。一カ所に三つも四つもつぼみが付く。種が出来ず地下茎で年を越すらしい。らしいと言うのは、私はまだ生育する所を見た事がないからだ。その気になって探すと、半径一キロほどの所には結構咲いている。通る度に楽しんでいたのだが、ある所である日突然にまだたくさん咲いている最中にほとんどが切られてしまった。そこで、残ったわずかの中からほんの少しもらって来たと言う訳。茎から発根している訳では無い。その内に発根するから、それを待っている。
 切る時に、鋏なんか持ってなかったので、ブロックの角で茎をこすって切った。だから水揚げが良いのかも知れない。なかなか発根しないのは、気温が下がって来たからか。

 そして今日3日、何と同じ花がまだ咲いている。それも夜の7時になってもまだ凛としている。花の勢いがきのうよりほんのわずか衰えているかな、と言う程度だ。やはり気温の低さがそうさせているのか。
 以前、有名な入谷の朝顔市で初めて鉢植えを買ったが、あまり咲かなかった。大枚をはたいたのに損したと思った。まあ、あれは季節の行事でご祝儀相場みたいなもんだから、と思ってはいたが、あまり嬉しくはない。今年は近所で苗を二本買って来て植えたが、期待したほどの事は無かった。もしかしたら土が悪かったのかも知れないが。それに比べると、この朝顔は本当に素晴らしい。なにしろ、根が無いのにこんなに元気で、こんなに美しいのだから。
 根が出たら土に植え替えて、そして来年が楽しみだ。でも、あちこちで、まだ花が咲いているのに切ってしまうのはどうしてなのだろうか。余裕を持たせて来年の花付きを良くするためなのだろうか。