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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

幼稚園・保育所での待機児童を減らす署名活動

2011年10月29日 | 社会問題
 タイトルのような事を要求する署名が回って来た。言っている内容が複雑で簡単には飲み込めない。そして私はこの事に関しての知識が欠如している。そこで署名はしなかった。
 待機児童が多いと言うのは、それだけ施設が少ないと言う事であり、それだけ働く母親が多いと言う事である。しかし、働く母親が多い事に私は一つの疑念を抱いている。それはそうした母親との接触が多いある女性の話なのだが、母親が働かなくてはならないその原因の一つにケイタイの料金の支払いがあると言う。何万円ものカネの掛かるケイタイとは何なのだろうか。
 そして母親同士の交際にも原因があるらしい。言うまでもなく、飲み食いや行楽の費用である。
 そうした事どもを少しばかり控えれば、外で働いて子供を預ける、などと言う必要は無くなる。何よりも、子供は自分の手で育てるのが一番なのだ。それが子供にとっても一番の幸せであるのは言うまでも無い。

 更には日本の経済の仕組みのまずさがあるだろう。二極化が進んでいる。それなのに、根本的な解決を考えずに、浮ついた事ばかりを考えて解決しようとする傾向が今の日本にはある。その典型的な例が、エネルギー不足を解決しようと原発に走る事に現れている。
 保育の施設を増やす前に、もっとやるべき事があるのではないのか。根本的な解決を目指すよりも、身近な事の解決の方が早いし安上がりだったりもするのだろう。しかしそれに目を奪われてしまっては、日本はめちゃくちゃになる。
 総理大臣が安易な事に走りがちだから、我々がそれを注視し、道を開かなくてはならなくなる。一体、何のために総理大臣が存在しているだろうか。過去の保守政権の安易な道を繰り返してはならないからこそ、野党だった民主党政権が誕生したはずである。もう一度原点を見詰め直す必要がある。

警察庁が自転車の走行に目を光らせ始めたと言うのだが…

2011年10月27日 | 社会問題
 大変良い事である。遅きに失した事である。自転車は軽車両なのに、あまりにも無謀な運転が無視されて来た。私は毎日自転車に乗っているし、学童の登下校の安全誘導をしているから、自転車の走行には特に気を使っているが、左側走行をしている自転車など、それこそほんの2割にも満たない。平気で右側を通り、左側走行のこちらとぶつかりそうになると、右側に避けるのである。だから私は危険な車側に寄る事になる。他人を危険な目に遭わせて平気の平左なのである。多分、左側走行をしなければならない義務があるなどとは思いもしないのだろう。
 信号無視など日常茶飯である。ある時、凄い青年に出会った。雨の日に、傘を差してしかもケイタイを見ながら運転している。あんまりびっくりしたので、どうやって傘を差しながらケイタイを見ていたのか、覚えていない。

 私は自転車にも運転免許証を発行すべきだと前々から思っている。人間に危害を加える恐れのある自転車を無知な人間に運転させてはならないのである。気違いに刃物、と言うと差別用語だと怒る向きもあろうが、それほどの事なのである。
 そして警察側も注意が足りない。自転車走行の規則を徹底させようとはして来なかった。そして取り締まりも緩過ぎる。私はある時、交番の巡査に、自転車の信号無視と傘差し運転は処罰の対象になるか、と尋ねた。若い巡査だったが、傘差し運転は事故を起こさなければ処罰の対象にはならない、との答が返って来た。警察官がそんな程度なのである。

 道路の片側には歩道があって、反対側には無い場合、そこには歩道であるのを示す白線が引かれている。ところが、これを自転車通交帯だと勘違いしている人が私の知人に実際に居る。そして自転車通行可の歩道なら、右左は関係が無いからとの理由で、右側走行をしている自転車が無いとは限らない。聞いた事が無いので分からないが、これだって、警察の周知徹底がいい加減だから起きているのだろう。
 そして、「歩道通行可」の意味の周知徹底などしようともしない。横断歩道を自転車に乗って通る事も禁止なのに、それも無視である。横断歩道のすぐ脇に自転車走行帯が白ではっきりと描かれているのに、ほとんど守られていない。「じてんしゃ」と平仮名で大きく書かれ、自転車の絵まで描かれているのに、何のためにあるのか、意味の分からない人間が圧倒的である。そしてその周知徹底をしない。
 「歩道通行可」の標識だっておかしい。歩道の片方にはあるのに、反対側には無い場合など決して少なく無い。ここは自転車が通れないのだな、と安心して歩いていると、反対側から自転車が来る。ここは自転車は通れないよ、と言うと、ちゃんと通行可の標識があったから通っているんだと、反対に文句を言われる。これなど絶対に警察の怠慢である。

 交通安全週間とか旬間とかになると、町会の人達が出て来て「交通安全」の旗を持って交差点などに立ったりするが、自転車の危険な走行も見て見ぬ振りである。下手に注意するとトラブルになるからと、警察から止められているとも聞く。ただ立っているだけで抑止力になるのだと言う。冗談じゃない。そんなでくの坊のような人間なら何人立っていようが役に立つはずが無い。交通の赤信号よりずっと効き目の無い、単なる民間人なのである。

 26日の東京新聞の一面には大きく「『自転車は車道』徹底」と「危険走行摘発も」の大きな見出しが躍っているが、一体、どこまでやる気があるのか、とても疑わしい。
 自転車で車道を走っていると、道路端に駐車している車があって、そこだけ大きく車道にはみ出さないと通れない事などしょっちゅうである。車道に駐車させて料金を徴収している所もあるから、そこではどうしようと言うのか。
 中途半端な思いでは徹底も摘発も絶対に出来ないだろう。本当に一から考え直して始める必要がある。そこにどれほどの知恵と根性を注ぎ込むつもりなのだろうか。口先だけに終わってしまいそうな危機感が私にはある。

原発の事故の恐ろしさをまるで考えない人々が居る

2011年10月21日 | 社会問題
 チェルノブイリの原発事故当時まだ生まれていなかった人達が深刻な病気にかかっていると言う。それなのに相変わらず能天気な人々が居る。多分、自分には関係が無いと考えているからだろう。20日の東京新聞のトップニュースでは、計画・建設中の12基の原発の内、7基が計画通りに推進される、とある。計画・建設中の七つの電力事業者へのアンケートで分かった。中止に言及している所はゼロである。
 七つの電力事業者とは、表と記事を順を追って読んで、次の事業者であるのが分かった。
 電源開発、日本原子力発電、中国電力、九州電力、東北電力、東京電力、中部電力。
 もっと明確に書くべきだと思う。
 7基の内、電源開発がやっている大間原発は青森県にあるが、2014年11月に運転再開の予定である。それ以外はすべて東日本大震災の影響が小さかった地域である。被害の出た東北電力と東京電力、浜岡原発を停止した中部電力は建設を進めるかどうかは申し上げられる段階にはない、とコメントしていると言う。

 みなさん、「他山の石」のことわざをご存じないらしい。元々の意味とは違って、他人の意見や言動が自分を磨く助けになる、との意味で使われている。英語には「自分のより、隣の人の受けた損害から学べ」が、フランス語には「愚か者が賢者に忠告する」がある。
 人口に膾炙していることわざすら知らない馬鹿なのか、と言うと決してそうではない。単に金の亡者になっているだけの事である。読売新聞は19日の編集手帳で次のように書いている。

 (九州電力は)世間の批判など、何するものぞ。地域独占の傲(おご)りゆえか、「弊社がお気に召さない方は、どうぞ買えるものなら、よそから電気をお買いあそばせ」と言わんばかりの図太い神経には恐れ入る。経営者は、たとえ一瞬でも、「公益企業」の看板に顔を赤らめる時はないのだろうか…。

 顔を赤らめるようなそんな玉じゃないのである。図太い神経と言っているが、カネがすべてを狂わせているのである。いつも思うのだが、こうした世間の常識に反する、そして我々善良な庶民の気持を逆なでするような考えの持ち主は、こうしたアンケート調査の発表の際に、是非とも、お名前とご尊顔を記事に添付すべきだと思う。明確に企業とし意見を発表しているのだから、プライバシーを損なう事にはならないはずだ。それに「公益企業」なのである。

九州電力とはとんでもない会社だと分かった

2011年10月15日 | 社会問題
 九州電力の報告に関して、枝野経済産業大臣は「理解不能」と切って捨てている。
 やらせ問題があったのは確実である。それは自分達の電気事業がうまく立ち行くための手段に過ぎない。だから不利な部分を有利なように見せ掛けるやらせを行った。電力会社に不利な部分とは、我々庶民には有利な部分になる。我々にも不利なら、なにもごまかす必要は無い。しかしながら、九電の社長は居直って、第三者委員会の見解を簡単に無視した。
 いわく、「私どもには私どもの見解があった。第三者委員会は第三者委員会の見解があった」と、それで終わり。馬鹿言ってる場合か。「私どもの見解」が世間では認められない見解だからこそ、第三者委員会が正しい見解を示したのである。それを全く無視して我を通すなら、それははっきり、国益に反する事業体だと言うしか無い。
 こんな「馬鹿で阿呆で、無知で冷酷な」指導者が指揮している事業体など絶対に存続させてはならないのである。それが独占企業だから、何が何でも存続は許されないのである。(馬鹿で阿呆で、と同じような言葉を繰り返しているのは、地方によっては、愛情ある言葉とも取られてしまうので、東西両方の言い方を挙げた)

 第三者委員会の委員長は「問題の本質を捉えた部分を一切無視しており、愕然とした」と言っているが、真剣に立ち向かった立場としては「愕然」であろう。でも言葉が足りない。「愕然としたし、唖然とした」と言ってもまだ言い足りない。つまり、どんな言い方をしても、この九電の社長に対する驚きは表現不可能なのである。それほどの人物である。もちろん「人物」に「人格や能力が水準以上の」の意味など一切無い。誤解を招かない言い方をするなら、「それほどの奴なのである」。奴でも足りないか。人と言ったら一番ふさわしくなるか。
 それにしてもこんな社長を頂いている九電の社員は情けないだろう。いや、もしかしたら、誇りに思っているかも知れない。でもそれではあまりにも我々が悲しく、寂しくなるから、そうは思いたくない。つまり、この出来の悪いどうしようもない社長は社員達の顔に厚い泥を塗ったのである。社員達が泥を塗られたと思わないのだとすれば、タイトルのように、九州電力はとんでもない会社になる。
 だからこそ、社員達が立ち上がらなければいけない。でも安定した生活のためには、自分を無にするしか無いのか。

東京の南部と横浜の北部で異常に高い放射能が検出された

2011年10月13日 | 社会問題
 福島の原発からは200キロ以上も離れている。風に運ばれて、雨となって地上に降り注ぎ、土壌にたまった。強力な水の力で洗浄しても消えない。水で流されるだけだから、消えるはずが無い。
 今回の事故は天災と人災とが重なった千年に一度の事故だとしても、まだまだ原発は日本中にある。
 それなのに、再稼働にゴーのサインを出し、廃止は考えていないと言う人々が居る。そしてすぐに「エネルギー無しでは日本はやって行けない」と言う。確かにエネルギーは必要だ。だから、代替エネルギーを考え、同時に少ないエネルギーでどうやって日本を維持し、発展させて行くのかを考えるべきではないか。そちらの方がずっと紺本的な解決が出来る。すぐ安易に「エネルギーが」と口走る人間は、考える事の出来ない人間だと私は思う。従来のレールから少しでもはずれる事が恐ろしくて出来ない馬鹿で勇気の無い人間だと思う。

 今朝のテレビでは電気自動車が大きな蓄電池になる、との話をしていた。まだ蓄電池は高いから簡単には設置が出来ない。それが電気自動車の普及で出来るとなれば、考え方も変わる。もちろん、電気は様々な手段での発電を目指す。
 そう言えば、みのもんた氏も言っていたが、発電と送電を別会社にする案はどうなったのだろう。電力会社の独占も改める必要もある。独占だから電気料金の値上げが簡単に出来てしまう。その原価計算が間違っていると言うではないか。取り過ぎていた分をすぐにも返せ、と言いたい。
 またまたそう言えばだが、東京電力に損害の請求をしたのはまだわずかに6世帯くらいらしい。一刻も早くと思う損害のそれも本当にわずかな補償が出来ないのである。払う気が無いから難しい手続きを踏むようにしてある。これなど、もっも国の力で強制力を発揮して、どうにかせよ、と言いたい。
 そう言えば、政府が今何をやっているのか、何を目指そうとしているのか、我々には何も伝わっては来ない。

原発抜きで日本は生き残れるのか、と櫻井よしこ氏は言うのだが

2011年10月03日 | 社会問題

 櫻井よしこ氏が「原発抜きで日本は生き残れるのか」と、10月2日の「頂門の一針」に書いている。
 安全な原発を作る技術は日本が最高なのだそうだ。だから日本が脱原発で手を引けば、その技術は守れなくなり、世界的にも大きな損失になるらしい。
 この話の結末は次のようになっている。

 「秀逸な技術を活かして、日本の経済基盤を支え、世界のエネルギー供給にも貢献するには、なんといっても専門家と良質な人材の育成が急がれるということだ。F1事故が人災だったとの自覚こそ必要だ。」

 上記の「秀逸な技術」とは、安全な原発を作る技術で、日本が世界最高だと言う。従って、それを輸出する事で「日本の経済基盤を支え」、しかも「世界のエネルギー供給にも貢献する」事になる。その論理は正しい。
 しかし、そのための絶対必要条件が「専門家と良質な人材の育成」だと言う。福島第一原発事故が人災だった、と言うのは正しい。つまり、福島では、専門家と良質の人材の育成が出来ていなかった、と言う事になる。絶対必要条件がかなえられていなかった。それは所詮は人間のやる事なのだから、完全に出来るとの保証は無いだろう。それを同氏はどうやって保証出来ると考えているのだろうか。

 福島では、技術的な専門家が揃って東京電力と政府および官僚にべったりだった。そうなると、同氏の言う「良質な人材」とは、専門家であり、かつ、カネに転ぶような事も無く、常に厳しい態度で自らを律し、他から尊敬されるような人材を育成する、と言う事なのか。それが果たして可能だろうか。
 原発の技術で「日本の経済基盤を支え」と言うが、安全性が完璧に守れるとの保証の無い技術でそれをやる必要は無いと私は思う。今、日本はエネルギー不足に対処出来る新しい生き方を模索している最中である。それに水をぶっかけるような事は言わないでもらいたい。
 「世界のエネルギー供給にも貢献する」とも言うが、ドイツは脱原発に舵を切った。それにもまた、水をぶっかけるおつもりか。日本ではエネルギーが無駄な事に使われ過ぎていた、との反省がある。それは外国とて同じだろう。

 今日、10月3日の新聞には「脱原発掲げ『緑の党』中沢新一氏ら来月にも」の大きな見出しが躍っている。そしてその新聞の下の本の広告欄には、雑誌『SIGHT』の広告が載っていて、そこには「総力特集・私たちは 原発を止めるには 日本を変えなければ ならないと 思います。」と呼び掛けている。
 エネルギーがどうのこうの、だけではなく、我々の考え方その物を変える必要がある、と多くの人々が考えている。我々の考え方を変えると言う事は、我々の生き方を変える事である。

 核融合反応を急激に行わせるのが核爆弾であり、徐々に行わせるのが原子力発電だと聞いている。速いか遅いかの違いだけで、結局は破壊的な力を持つ核融合反応なのである。そして核融合反応を人間が止める手立ては無い。せいぜいが、核燃料を冷やして隔離する事ぐらいではないか。そんな物騒な物を、神ならぬ人間の身で持とうとするのがおかしい。スリーマイル島の事故もチェルノブイリの事故も人災だと言うのなら、世界的にも専門家と良質の人材の育成はとても難しい事になる。


全日空機の背面飛行事件

2011年09月29日 | 社会問題
 全日空機が1900メートルも急降下したとの話は既に知っていた。しかしそれが背面飛行だった事が明らかにされた。フライトレコーダーの分析によるのだが、乗務員は知っていたに違いない。しかし誰も真実を語らなかった。前代未聞の恐ろしい出来事だから、語れなかったに違いない。乗客は重力で座席に押し付けられている状態だかったから、気が付かなかったとしても、トイレから戻って来た機長は立っていた訳だから、当然に気付くし、無事だったのが不思議なくらいである。

 扉の開閉のスイッチと方向舵のスイッチは十数センチ離れていると、今朝の東京新聞は書いているが、テレビはその実像を見せている。数十センチなどと書かずに、それが斜め方向にずれている事も新聞は書くべきである。その実態を知れば、なぜそんな間違いをしたのかと誰だって不思議に思う。単に数十センチ離れている、では分からない。
 実際に機長を務めていた人でさえ、間違うはずが無いと言っている操作を間違えた。スイッチまでの距離感と方向感で間違うはずが無いと、素人でさえ思う。体の真横にある操作盤なのだから、体で位置を覚えていなければ、操作は出来ないだろう。
 銀行の窓口係が計算機のキーを指で覚えていて、キーなど見ずに正確に入力出来るように、パソコンのキーボードを見ずに正確に文字入力が出来るように、そんな事は常識である。今、この文章を入力している私も、キーボードは一切見ていない。目はただただ画面を見詰めているだけである。操縦士は当然に前方を見詰めていて、様々な操作は手と指の感覚でしているに違いない。もちろん、キーボードと操作盤とではスケールも全く違うのは当然だが、その当然の事が出来て一人前の操縦士なのではないか。

 新聞によると、国土交通省はバランスが回復したのは偶然に過ぎない、と言っている。と言う事は、本当に大惨事に至る一歩手前だった。偶然に過ぎない、との意味は極めて重要だ。当然にこの副操縦士はこの仕事を続けられないだろうし、そうした職員を当然のように抱えている会社自身にも大きな問題がある。「深くお詫びを申し上げます」で済む事ではないし、それで済ませる事は絶対に許されない事である。

原発推進の住民エゴは許してはならない

2011年09月28日 | 社会問題
 静岡県牧之原市が御前崎市にある浜岡原子力発電所の廃止を決定した。テレビの取材では御前崎市市長は、中部電力のこれまでの投資金額を考えると簡単に結論は出せない、と言うような意味の事を言っている。何を馬鹿な。中部電力は自分達の利益を見越して投資しているのである。誰が損してまで、地域住民はもとより、広範囲の人々の幸せのためを思って投資をするか。言うならば、投資の方針を間違っただけに過ぎない。それなのに、市長はそうした企業の肩を持つ発言をしている。発言だけではなく、心底、肩入れをしているのだろう。
 そして御前崎市の住民もテレビの取材に限っては、廃止したら財源に困るなどと抜かしている。自分達だけよければそれで良いのか。万一原発に事故が起きたら、福島の二の舞になる。それも常に見ていながら、こうした自分達の財源の事しか考えない連中が居るのである。財源の恩恵に与れる御前崎市民だけではなく、ずっと広範囲の人々に甚大な被害を与える原発に対して、損得勘定でしか物を考えられない人々の恐ろしさ。

 原発の安全神話は完全に崩れ去ったと言うのに、それすら分かっていない。こうした人々の姿を見ていると、私は日本の政治が惨めである事は決して不思議も何でもないのだ、と変に納得してしまう。見識も何も無いような議員が当選してしまうのは、そうした住民が支持しているからだ。そしてそうして当選した連中の中から、日本を導く総理大臣が生まれるのである。
 政治家が悪いのではなく、悪いのはそうした政治家を選んでしまう国民が悪いのだとは観念的には分かっているつもりだったが、こうして庶民の生の声を聞くと、それがすべての声だと言うのではないのはもちろんだが、ああ、やっぱり、自分で自分の首を絞めているんだとつくづくと感じてしまう。
 自分の首を絞めている奴は自分の事だから勝手にしてもいいよ、でもそうした奴に首を絞められる人の身にもなってみろ。

原発による交付金と自治体の財政との関係が分からない

2011年09月26日 | 社会問題
 山口県上関町で新規原発推進派の現職が三選された。福島の原発事故の終息に見通しが立たない情況だと言うのに、一体何を考えているのだろうか、と大いに不審がある。しかし町議会の言い分は「決して原発が欲しいわけではない。他に財源があるなら教えてほしい」である。言い分は分かる。けれどもその財源は何に使うのかと言うと、記事ではそれはよくは分からないのである。分かるのはわずかに、次のような事である。

1 この12月に交付金を活用した温泉施設がオープンする。施設の維持も交付金で賄う。
2 中学生以下の医療費の無料化。
3 町民全員を対象にしたインフルエンザ予防接種の無料化。

 こうした事に私には大きな疑問がある。
 温泉施設とは何なのか。町民の福利厚生の施設なのか。そしてそれは必須なのか。
 中学生以下の医療費の無料化は絶対に必要なのだろうか。例えば、私の住んでいる東京都23区では中学生以下の医療費無料化を実施しているのだろうか。
 インフルエンザの予防接種は無料である必要があるのだろうか。私の住んでいる所では有料である。
 まことに自分勝手な考え方になるが、私は住んでいる所に福利厚生施設として温泉施設は要らない。
 中学生以下の医療費無料化も不要である。
 インフルエンザ予防接種は現行通り、有料で良い。
 もちろん、上関町が欲しがっている財源はこれだけの事に使うのではないだろう。しかし、主な物がこうした事であるなら、それと引き換えに危険な原発を誘致する事は絶対に間違っている。許してはならない事である。

 上関町の幹部は「脱原発と唱えるのは簡単だが、とにかく財源が欲しいのだ」と言うのである。こうした考え方が我々、上関町以外の人間にとっても同じような切実な問題だと理解出来るかどうかは、ひとえに、何のための財源なのか、にかかっている。それを明確にしなければ、こうした論議は成り立たない。新聞もいい加減な記事ではなく、そうした事を明確に書くべきである。
 この記事は東京新聞の第一面のトップニュースだが(9月26日朝刊)、記事のしめくくりもどうも納得が行かない。

 福島原発の事故後、町長は町議会で「原発なしでの町づくりも選択肢に入れる必要がある」などと答弁。開発推進派も原発なしを視野に入れた議論に異存はないが、国の方針が定まらない限り、方向性を見いだせないのが実情だ。

 言い遅れたが、現在、政府の上関原発に関しての方針は不透明で、交付金の行方にも暗雲が立ち込めているのである。しかし、町の幹部は財源を原発に頼っている。それでいて原発なしを視野に入れた議論が出来ると言うのだろうか。
 私にはこの記事では、町長を始め、町の幹部がどのように考えているのか、そして何のための財源で、それが町のために、と言うよりも町民のために絶対に必要なのかがさっぱり分からず、何のための記事なのかも分からないのである。


賠償金を払いたくない東京電力

2011年09月23日 | 社会問題
 原発の被害への賠償金支払いで、被害者達が困惑している。難しい申請書とその説明書。分かりにくくして、賠償請求を諦める人が少しでも増える事を東電は狙っているに違いない。迷惑を掛けているとの反省があれば、少しでも易しく、分かり易くと考えるのが通常の人間である。つまり、東電には通常の人間は居ないと言う事になる。多分、エリートばかりなのだろうが、そのエリートとは他人への思いやりなど全く無い自分の事しか考えていないガリガリ亡者なのである。

 所得税の申告の季節になると、税務署では分からないと言う庶民のために、相談窓口や申告書の作成を手伝ってくれる窓口が開かれる。だから東電もそうした窓口を被害者の居るあらゆる所に開設すべきである。人手が足りないなどとは言わせない。どんな無理をしてても窓口を開設する義務があるはずだ。高給取りの監査役とか利権に群がっている連中の報酬を一切やめて、その分を書類作成の手伝いをする人々を雇う資金に回せば良いだけの事ではないか。

 原発の資料をほとんど黒塗りにして提出し、知的財産だと嘯いているが、何が知的財産なものか。人類に危害をもたらす技術なのだから、悪魔の財産と言うべきである。悪魔の財産だから公表出来ないのは当然である。
 その汚い東電を、大株主や大企業、電力会社に利権を持つ省庁などが寄ってたかって応援している。すべて自分の利益が少しでも損なわれる事を防ごうと躍起になっている。
 その姿の何と浅ましく汚い事か。庶民にはすっかり分かっている。分かっていないのは、それらの連中の明確な素顔だけである。それだって、正義心のあるメディアが公表すればきちんと分かる。