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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

仕事の現場責任者の役目とは何なのか

2012年02月14日 | 社会問題
 海底トンネルの掘削で孫請けの従業員5人が犠牲となった。一体、誰に責任があるのか。難しい問題だが、私はもっと卑近な事を考えている。
 私のアルバイト先ではスタッフが20人居て、それを1人の女性現場監督が管理している。昨日夕方5時半に出勤すると、彼女の元上司の女性が来ていて、世間話に花が咲いていた。そこにある会社の運転手らしき男性も加わっていて、ひどく賑やかだった。私が「お早うございます」と言って入っていっても、ご苦労様でもない。話に夢中になっている。その職場では、夜でも初めて会う相手にはこのような挨拶をする事になっている。馬鹿な話だが、別に抵抗する必要も無い。
 現場監督に声を掛けてもらいたいと言うのではないが、仮にもスタッフの一人が出勤して来たのだから、世間話に夢中、では通らないだろうと思う。私は彼等の前の狭い通路を通って自分のロッカーの所に行くのである。

 そして話はバレンタインのチョコレートの話になっていた。私は作業着に着替えていて聞くともなくその話を聞いていた。責任者の女性が言う。私なんて、チョコレートを上げるばっかりで、飴一つお返しに貰った事が無いと。
 我々は男だからと言って、バレンタインのチョコレートを貰う必要は無いし、私はそれは、世間の行事を利用して、仕事をしているスタッフに対するねぎらいの気持の表れだとばかり思っていたから、遠慮なく頂戴していた。それで彼女の上司としての役目が果たせるのだと、勝手に思っていた。
 だが、実はそうではなかったらしい。では、何の理由で、彼女はスタッフの男性にチョコレートを配っているのか。

 現場監督の役目とは何なのか。元上司の女性が来ていたのには訳がある。タイムカードの締め切りで、20人分のカードを翌日に本社に発送しなければならないのである。その計算が合っているかどうかを元上司に確認してもらうのである。馬鹿な話だと思う。
 わずか20人分のカードの集計が自分一人では確認出来ないのか。その集計は一日でやるのではない。もっとずっと前から一日ずつの労働時間が書き込まれている。それは原則として決まった時間だから、特別に何らかの仕事をしない限りは一定である。間違いようが無い。欄外に3(時間)とか5(時間)とか書き込んであって、それを集計する。

 こうした現場監督が、何か重大な事が起きた時に、一体どのような責任を取れると言うのだろうか。

JR西日本の尼崎脱線事故で、社長は無罪

2012年01月28日 | 社会問題
 罪を問われた事故当時の社長が無罪になった。事故に明らかに責任がある事が証明されない限り、罪には問えない。ここが裁判と言う制度の泣き所である。もちろん、冤罪で罪を着せられては大変だが、そうかと言ってこのような事故で誰もが責任を問われないと言うのはおかしい。
 一番の責任者は脱線事故を起こした運転士だが、死んでいるから何の証言も得られない。けれども客観的な証言ははっきりとある。

 事故列車の速度計の示している115キロと言う信じられない速度。乗客が思わず恐怖を覚えたほどのスピードだった。
 現場のカーブは時速70キロに制限されている。
 事故列車が停止位置を間違えて遅れ、伊丹駅で2分の遅れが出ていた。
 JR西日本は競合する私鉄に勝つために、運行速度を上げていた。競合する私鉄の軌道は広軌であり、JRは狭軌である。安全なのはもちろん広軌。
 列車の遅延などを起こした運転士には草むしり作業などの処罰が待っている。
 事故列車は尼崎駅で3分後に発車の東海道本線の快速長浜行きに接続していた。
 自動列車停止装置(ATS)は未設置だった。
 JR西日本は、これは他のどのJRとも同じだが、列車の運行を管理するのは鉄道部門ではなく、収益を重視する経営部門だった。一年後に改正はしたが。
 事故列車に乗り合わせていた運転士が会社に事故の連絡をしたが、会社からはそのまま出勤するように命じられた。
 事故を知った同社の社員達は、予定通りボーリング大会に参加していた。

 もっとほかにも様々な情況があるが、こうした会社の風土を考えると、誰に責任があるのかは誰にだって分かるはずである。社長は何のためにトップに座っているのか。取締役や管理職は何のために存在しているのか。

日の丸・君が代問題への最高裁判所の判断

2012年01月17日 | 社会問題
 最高裁は処分を甘くする判断を下した。減給以上の懲戒処分には慎重な考慮が必要だ、と。ただし、あくまでも処分の妥当性の問題としてである。
 子供を教育する立場の人間が、自分の信条だけを唯一絶対に正しいとして、子供達に押し付ける事に私は違和感がある。押し付けてはいない、との理屈は通らない。目の前で、恩師がしている行為を見れば、感化されない方がおかしい。
 何で日の丸と君が代が忌避されなければいけないのか。イギリス国歌などは君が代よりもずっと明確に「神代女王を救い給え」と歌っているではないか。そしてその国歌を国民が一部であっても忌避しているとのニュースを私は聞いていない。

 マスコミは、すべての国とは言わないが、主要国家に対して、国旗と国歌を忌避している動きがあるのか無いのかを、きちんと調べて報道すべきだろう。もしもそうした動きが大勢を占めるのなら、日本の教職員の日の丸・君が代忌避は世界的な流れとして認めるしかないのかも知れない。
 けれども、そうした国がほとんど存在しないのなら、やはり、日本の教職員の一部はどこかで道を踏み外しているとしか考えられない。

原子力を扱っているのはのは素人ばかりだと分かった

2012年01月13日 | 社会問題
 12日の東京新聞のトップニュースは、核燃料サイクル事業が批判の中で着々と再開されていると伝えている。

 福島第一原発事故を受けた新たなエネルギー政策が決まっていないのに、使用済み核燃料再利用する「核燃料サイクル」事業の中核的な二施設で、試験運転や建設を再開する動きが出てきた。核燃料サイクルは中止になる可能性があり、そうなれば不要な施設となる。専門家からは批判の声が出ている。

 結局は、中止になる前に荒稼ぎして置きたい、との気持がはっきりと現れている。
 そして今日13日には次の大きな見出しが躍っている。

 原子力安全基盤機構 検査手順丸写し まん延

 原発関連の検査を行う独立行政法人の原子力安全基盤機構が作成した核燃料の検査方法の手順書が、検査を受ける側の燃料加工会社が作った手順書と全く同じだった事が分かったのである。
 検査を受ける側の手順書がどのような物かが分からないのだが、自分達に不利な手順になっているはずが無い。だから厳正で公正な検査をするためには、検査する側が独自に手順書を作る必要がある。ただし、それには検査を受ける側からの設計図や性能などの、検査に必要な情報を得る必要がある。それと、検査の手順書とは発想の方法が違うはずである。
 それなのに、検査を受ける側が自分達に有利に作った手順書をそのまま使って検査をした、と言う事になる。その事について、指摘を受けた原子力安全基盤機構は「完全に自前の手順書など作れない」と言う。新聞はそれを「開き直りともとれる反応」と批判している。
 完全に自前の手順書が作れないのであれば、検査をする権利は無い。けれども、それでは金にならない。そこでいい加減な検査をして荒稼ぎをするのである。

 その東京新聞のコラム「筆洗」は、茶道をたしなむ伊達政宗の逸話を取り上げている。自分の持つ最も高価な茶碗を落としそうになった政宗が思わず動揺した。そして「百万の敵にも動じないつもりの自分が、いくら高価でも茶碗ごときのことでハッとなった。残念至極」とつぶやくや否や、その茶碗を投げ割った、と言うのである。
 その故事を小沢一郎と四億円に結び付けて、小沢は四億円ごときの金ではびくともしない、と豪語しているようだ、と揶揄して、コラムを次のように結んでいる。

 「天下国家」に比べれば、国民など…。

 気の聞いたオチだと思う。そのオチは、この原子力安全基盤機構にもぴったりと当てはまる。
 「原発推進」に比べれば、国民など…。

めどの立たない事業に無駄遣い。それを推奨する学者馬鹿

2012年01月05日 | 社会問題
 原発から出る使用済み核燃料を再利用する「核燃料サイクル」事業にこの45年間で少なくとも10兆円が投じられた事が、東京新聞の調べで分かった。国は総費用を計算していないと言う。
 核燃料サイクルの実現化はほど遠いのが現状で、欧米では原発大国とも言えるフランスを始め、アメリカ、ドイツ、イギリスでも撤退しているのだそうだ。その財源はどこから出ているかと言えば、ほとんどが電気料金に上乗せされている。
 10兆円を日本の人口の約1億人で割る。10兆は1の後に0が13個付く。1億は0が8個だから、一人当たり100000円、つまり10万円になる。それが45年間だから、一人当たり年間2000円を負担してきた事になる。電気料金の上乗せで、我々が支払って来た訳だ。4人家族なら、年間8000円の負担である。
 金額としてはそれほど大きな金額ではないが、無駄金だから大きな金額と言える。
 それを、費用では論じられないと言う学者が居る。名古屋大学の榎田洋一教授(原子力化学工学)で、次のように語る。

 太陽光や風力など再生可能エネルギーが発電の主役になるのは百年以上先。ウランも今後枯渇していく中で、高速増殖炉を中心とした核燃料サイクルは、電力需要を何とかしのぐために必要だ。エネルギー問題は、コストが高い、安いだけでは論じられない。

 供給が追い付かないのであれば、供給に応じた需要で我慢するより仕方がないではないか。そこに創意工夫があるのではないか。供給を上回る需要があるのは、それこそ飽く事無い欲望があるからではないのか。その欲望を満たすために、子孫にツケの回るような危険な事をしてはならない。
 日本の国家財政は借金が膨らむ一方である。無駄を削らずにあれもこれもと欲張るからそうなる。それと同じ事をこの学者は考えている。現状では満足出来ないと言って、借金までして欲望を満たす事が果たして正当と言えるのか。一体、この学者は何のためにエネルギーを使いたいと言うのだろうか。それが見えないのに、コストの高いエネルギーが必要だ、と言うのは理解出来ない。

 学者は自分の専門分野の研究で報酬を得ている。だから、それが要らないような世の中になれば、食って行けないのだろう。学者が生きて行くために要らない物を作る必要はさらさら無い。世の中の幸不幸に全く関係無く、自分の研究にしがみついている学者を私は「学者馬鹿」と言っている。本当は「馬鹿学者」と言うのが正しいのかも知れない。

真実を知る人はいつの時代にも居るが、理解出来ない人が圧倒的に多い

2011年12月25日 | 社会問題
 アメリカのロックフェラー財団会長のフォスディック氏が、アメリカの原爆投下直後にそれを厳しく批判している手紙が発見された。
 私がその中で一番印象に残ったのは、次の言葉だ。

 「日本の降伏がほとんど視野に入っていたのに、その機会を犠牲にした」

 原爆の投下を正義だとする人々は、日米両国の犠牲者をそれ以上増やさないためだったと強弁している。真実は、黙って何もしなくても、日米両国の犠牲者はそれ以上は増えなかったのだ。
 手紙は更に言う。

 「私たちは原爆の使用を合法化し、無差別殺戮に『認証済み』のシールを貼った。あらゆる兵器に道徳的なお墨付きを与えたのだ」

 東京新聞の解説では、フォスディック氏が単に人道主義者であるだけでなく、国際的な視野を持つ弁護士だったことと無関係ではないだろう、と言い、彼はこの手紙で、原爆投下による惨劇はやがて米国に返ってくると警鐘を鳴らしている、と言っている。
 残念ながら、新聞に載った手紙文の要約にはそれは無い。
 そしてこの解説は次のように言って締めくくっている。

 「米国がいつか被害に遭うという予測は、残念ながら2001年9月11日の米中枢同時テロで当たってしまった」

 しかし私はそうは思わない。米国が遭うと予測された被害があの同時テロだとするなら、広島・長崎の被害とは比べるべくも無いと思う。「米国がいつか被害に遭うと言う予測の『ほんの一端が』」と言わなくては正しくないだろうと思う。
 同時テロのあの惨劇は、我々はテレビで見て知っている。だから衝撃は大きい。それに対して、我々の多くもそうだが、広島・長崎の惨劇は多分、この解説者は体験していないのだろう。だから、同じ程度に考えてしまうのかも知れないが、非常に不用意な発言だと私は思う。

 そしてこの手紙が第一面のトップに載っている東京新聞のその隣には、12年度予算案決定と題しての記事で「増税前提 綱渡り」とあり、第三面には「脱原発 響かぬ野田流」の大見出しが躍っている。
 ここにもまた真実の全く見えぬ御仁が居る。それが我が国の総理大臣なのだから、お先真っ暗、としか言いようが無い。

日弁連はどのようにして、殺された被害者を生き返らせる事が出来るのか

2011年12月18日 | 社会問題
 日弁連が死刑制度廃止の統一見解を打ち出した、と新聞が伝えている。
 日弁連が死刑制度廃止を訴える動機は二つある。東京新聞によれば、次のようになる。
 一つは、足利事件など冤罪事件が相次いだ上、福井の女子中学生殺害事件や静岡の袴田事件で再審開始に向けた動きが出始めるなど、冤罪の恐れが大きくクローズアップされている。
 一つは、オウム教団関連の裁判終結を機に死刑の執行が懸念されている。
 東京新聞の記事からは上のように理解される。

 しかしこの二つは明確に違う。冤罪はあってはならないのである。だが、オウムの裁判終結は全く意味が違う。裁判所が冷静に知を結集して合法的に被告に死刑判決を出したのである。これは記事が悪いのだと思うが、「死刑の執行が懸念されている」との言い方は、既に死刑その物が悪である、との判断をしている言い方である。つまりは、裁判所の判断が間違っていると言っている事にもなる。
 そして記事の最後には次のようにある。

 日弁連で制度廃止の議論を進めてきた小川原優之弁護士は「内部で議論を重ね、死刑存置派だった会員からも理解を得た。被害者支援が進んでいる今こそ、冷静な議論ができるのではないか」としている。

 小川原氏に問いたい。被害者支援が進んでいる今、だと言うが、どうやって殺された被害者を生き返らせる事が出来ているのか、と。
 殺害事件の被害者は殺された人である。どうやって殺された被害者の支援をすると言うのか。
 恐らく、彼は殺された本人の遺族などを被害者だと考えているに違いない。確かに遺族は被害者だが、被害者の一部にしか過ぎない。真の被害者は殺された本人以外にはあり得ない。
 多分、日弁連の弁護士達は、殺された本人はもう何も分からない状態になっている。本当に苦しんでいるのは残された遺族だけなのだ、と考えているに違いない。
 だが、本当にそう考えて良いのだろうか。

 死刑制度で人が人を殺すのには確かに問題がある。けれども、死刑制度で殺される人間は、既に、何の罪も無い人、または人々を殺しているのである。この両者を同質に考えろと言うのか。
 このように言うと、絶対に、死んでしまった人間をとやかく言っても始まらない、と言う意見が出て来る。それよりも生き残っている人間の事が大事だ、と。
 もちろん、私はそれに反対はしない。けれども、それは結果論に過ぎない。その結果を招いたのは誰だったのか。言うまでも無く、原因があって結果がある。その原因が見えなくなって、結果だけが見えている。だから、見えている結果だけを大切にせよ、は筋が通らない。原因は見ようとすれば、簡単に見えるのである。ただ、多くの人々が見ようとしていないだけの事なのである。

国民総幸福量とはいい言葉だ

2011年11月19日 | 社会問題
 何とも素晴らしい言葉ではありませんか、ブータン国の「国民総幸福量」とは。何かと言うとすぐに「国民総生産」を持ち出す国とは大違い。「国民総生産」には一人一人の「生産量」はまるで感じられないが、「国民総幸福量」には、はっきりと一人一人の「幸福量」が感じられる。多分、「幸福」が具体的で分かり易いからだろう。
 この言葉を流行らせて、流行語大賞を与えたい。もちろん、「幸福」の実行を伴わなければ意味が無い。
 一人当たりの預貯金額には借金も含まれてしまうと言う統計学の世界とは、全く別の世界である。
 ブータンについて我々はほとんど知らないが、もっともっと知るべき国だと思う。日本の国会で30分も演説出来る国王も素晴らしい国王だ。もちろん、理想的な所ばかりあるのではないだろうが、理想的な所が多そうな国ではある。敬虔な仏教国である事も、良さを助長していると思う。どこかの宗教のような、熱心を通り越した狂信的な所が無いのだろう。

 日本人は多神教だが、神も仏も信じてなどいない。時と場合に応じて、寺院に行き、神社に行くと言うのは宗教心ではない。単なるご利益目当てである。それじゃあ、神様だって仏様だって、言う事を聞いてはくれまい。
 何を信じても構わないが、宗教心は持つべきだろう。神や仏を畏れる心が人間を謙虚にする。そうした心が無いから、やりたい放題ではないか。

 民間よりも遥かに高給取りの公務員が、民間よりも遥かに格安な家賃の公務員住宅に住んでいる。人間の心を持っていれば、そのような情況でのほほんとしてなどいない。既得権益を守る事で必死になって、肝心の仕事がお留守になっている。でも高級な人間だと思い込んでいる。高級ではなく、単に「高給」なだけなのに。
 人間の心を喪失しているのは、神も仏も畏れる心が無いからである。そうした人を増上慢と呼ぶ。

「みんな知り始めた」と井形慶子さんが言っている

2011年11月16日 | 社会問題
 今日、16日の東京新聞の「本音のコラム」である。
 私達は自分の目で確かめるのを敬遠する、と言う。それは恐れから遠ざかりたいからで、正しくは、真実から遠ざかりたいのかも知れない、と言う。
 そしてその話はTPPに繋がる。踏み出す不安よりも、将来、いかに農家を守っていくか、現状を直視すべきだ、と語る。それは彼女が英国の農家を取材した経験からの言葉である。英国で、生き残りを賭けて家業を継承すべく有機農法に取り組み、輸出で成功した農家を幾つも見た経験からの話である。
 イギリスは二度の大戦で経験した食料不足を、政府は作れば補助金を払い、自給率を上げて来た、と言う。

 そうした経緯は私はよく知らないし、その評価は様々あるだろうが、私が言いたいのは彼女の次のような言葉だ。

 「今後の暮らし向きがどうなって行くのか、新聞やニュースをいくら見ても分からないのは、私達が日本の農業を本当の意味で理解していないからではないか。」

 そして日本のお家芸である付加価値を付ける。不得手な交渉の腕を磨く。それが大切だ、と言う。そして最後の言葉。

 「それにしても、震災で原発、TPPで農業。私達はなぜ、こんな大切なことに長年無知だったのだろうか。」

 この言葉がタイトルの「みんな知り始めた」に繋がる。
 そう、我々はやっと「知り始めた」のである。それなのに、何とかして知らないようにして置こうとする勢力が存在する。電力会社やその提灯持ちばかりではない。新聞やテレビなどのマスメディアの一部にそれがある。
 マスメディアだって、最高権力を握っている人間を除いては、そこで働いている人々は我々と同等で、特別に恩恵を蒙れる訳でもないのに、何か思い上がっていて、真実を知らせたくないと思っているらしい。
 前にも書いたが、我々が知り始めたのは、今回の被害があまりにも大きかったからで、しかもその被害からの復旧が何も出来ていないから、関心があるのだ。だから被害からの復旧が出来てしまえば、喉元過ぎれば熱さ忘れる、のことわざ通りになるだろうと、私は危惧している。
 せっかく「知り始めた」のだから、何とかして、この熱意を持ち続けたいものだと思う。

福島県双葉町が独自弁護団を結成

2011年11月08日 | 社会問題
 東電への損害請求が非常に難しい事は様々に言われている。請求の金額に確実性を要求するのは当然の事である。しかし場合が場合である。しかも東電は堂々と請求書を出しなさい、と言える立場ではない。二葉町の町長は「加害者(の東電)が作った請求書に応じるのはおかしい」と正論を述べている。
 そして率先してこれを実現した事が素晴らしい。
 町議会議員からは「他の自治体と足並みを揃えるべきでは」との意見が出たが、町長は「双葉町が行動に出たことで、他の自治体からも声が上がると思う。首長同士の集まりでも協議し、連携していきたい」と語っている。これまた正論である。
 とかく、他の動向も見て、のような考え方が横行するが、そんな事をしていたら、自分の立場だけを後生大事に守っている非常に保守的な、そして住民のためには全くならないような議員の思うままになってしまう。何で自分が率先して、と言う勇気が持てないのだろう。

 同町は東電の賠償問題をめぐって、9月以降、「一方的な経緯と手順で進められている」と東電の説明会開催を拒否していると言う。
 久しぶりに胸がスカッとするような記事を読んだ。今の日本、上に立つ立場の人間が本当にだらしがない。総理がそうだから、以下、上に習え、なのか。