日弁連が死刑制度廃止の統一見解を打ち出した、と新聞が伝えている。
日弁連が死刑制度廃止を訴える動機は二つある。東京新聞によれば、次のようになる。
一つは、足利事件など冤罪事件が相次いだ上、福井の女子中学生殺害事件や静岡の袴田事件で再審開始に向けた動きが出始めるなど、冤罪の恐れが大きくクローズアップされている。
一つは、オウム教団関連の裁判終結を機に死刑の執行が懸念されている。
東京新聞の記事からは上のように理解される。
しかしこの二つは明確に違う。冤罪はあってはならないのである。だが、オウムの裁判終結は全く意味が違う。裁判所が冷静に知を結集して合法的に被告に死刑判決を出したのである。これは記事が悪いのだと思うが、「死刑の執行が懸念されている」との言い方は、既に死刑その物が悪である、との判断をしている言い方である。つまりは、裁判所の判断が間違っていると言っている事にもなる。
そして記事の最後には次のようにある。
日弁連で制度廃止の議論を進めてきた小川原優之弁護士は「内部で議論を重ね、死刑存置派だった会員からも理解を得た。被害者支援が進んでいる今こそ、冷静な議論ができるのではないか」としている。
小川原氏に問いたい。被害者支援が進んでいる今、だと言うが、どうやって殺された被害者を生き返らせる事が出来ているのか、と。
殺害事件の被害者は殺された人である。どうやって殺された被害者の支援をすると言うのか。
恐らく、彼は殺された本人の遺族などを被害者だと考えているに違いない。確かに遺族は被害者だが、被害者の一部にしか過ぎない。真の被害者は殺された本人以外にはあり得ない。
多分、日弁連の弁護士達は、殺された本人はもう何も分からない状態になっている。本当に苦しんでいるのは残された遺族だけなのだ、と考えているに違いない。
だが、本当にそう考えて良いのだろうか。
死刑制度で人が人を殺すのには確かに問題がある。けれども、死刑制度で殺される人間は、既に、何の罪も無い人、または人々を殺しているのである。この両者を同質に考えろと言うのか。
このように言うと、絶対に、死んでしまった人間をとやかく言っても始まらない、と言う意見が出て来る。それよりも生き残っている人間の事が大事だ、と。
もちろん、私はそれに反対はしない。けれども、それは結果論に過ぎない。その結果を招いたのは誰だったのか。言うまでも無く、原因があって結果がある。その原因が見えなくなって、結果だけが見えている。だから、見えている結果だけを大切にせよ、は筋が通らない。原因は見ようとすれば、簡単に見えるのである。ただ、多くの人々が見ようとしていないだけの事なのである。
日弁連が死刑制度廃止を訴える動機は二つある。東京新聞によれば、次のようになる。
一つは、足利事件など冤罪事件が相次いだ上、福井の女子中学生殺害事件や静岡の袴田事件で再審開始に向けた動きが出始めるなど、冤罪の恐れが大きくクローズアップされている。
一つは、オウム教団関連の裁判終結を機に死刑の執行が懸念されている。
東京新聞の記事からは上のように理解される。
しかしこの二つは明確に違う。冤罪はあってはならないのである。だが、オウムの裁判終結は全く意味が違う。裁判所が冷静に知を結集して合法的に被告に死刑判決を出したのである。これは記事が悪いのだと思うが、「死刑の執行が懸念されている」との言い方は、既に死刑その物が悪である、との判断をしている言い方である。つまりは、裁判所の判断が間違っていると言っている事にもなる。
そして記事の最後には次のようにある。
日弁連で制度廃止の議論を進めてきた小川原優之弁護士は「内部で議論を重ね、死刑存置派だった会員からも理解を得た。被害者支援が進んでいる今こそ、冷静な議論ができるのではないか」としている。
小川原氏に問いたい。被害者支援が進んでいる今、だと言うが、どうやって殺された被害者を生き返らせる事が出来ているのか、と。
殺害事件の被害者は殺された人である。どうやって殺された被害者の支援をすると言うのか。
恐らく、彼は殺された本人の遺族などを被害者だと考えているに違いない。確かに遺族は被害者だが、被害者の一部にしか過ぎない。真の被害者は殺された本人以外にはあり得ない。
多分、日弁連の弁護士達は、殺された本人はもう何も分からない状態になっている。本当に苦しんでいるのは残された遺族だけなのだ、と考えているに違いない。
だが、本当にそう考えて良いのだろうか。
死刑制度で人が人を殺すのには確かに問題がある。けれども、死刑制度で殺される人間は、既に、何の罪も無い人、または人々を殺しているのである。この両者を同質に考えろと言うのか。
このように言うと、絶対に、死んでしまった人間をとやかく言っても始まらない、と言う意見が出て来る。それよりも生き残っている人間の事が大事だ、と。
もちろん、私はそれに反対はしない。けれども、それは結果論に過ぎない。その結果を招いたのは誰だったのか。言うまでも無く、原因があって結果がある。その原因が見えなくなって、結果だけが見えている。だから、見えている結果だけを大切にせよ、は筋が通らない。原因は見ようとすれば、簡単に見えるのである。ただ、多くの人々が見ようとしていないだけの事なのである。