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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

原発ゼロは日本国民の最大のチャンスだ

2012年05月06日 | 社会問題
 原発の稼働が無ければ、電力が不足すると言う。中でも突出しているのが関西電力で、16%を15%に引き下げたが、本当にそんなに不足するのだろうか、と我々はほとんどの人が疑っているはずだ。あれは再稼働ありき、の脅迫だと。
 電力が足りるか足りないか、やってみようじゃないか。電力会社が根拠の無い数字を出すだけなら、それを実地に数字にするのが我々の役目ではないか。

 節電は実行出来るし、それで生活の質が落ちる事は無いだろう。今まで、やたらと贅沢と無駄をして来たに過ぎない。
 しかし原発の事故は、その被害を食い止める事が出来ない。生活の質は格段に落ちるし、現に落ちている。その原発を稼働させて来た力が、我々のやたらと贅沢で無駄な電力の消費だった。

 ここからの計算は小学生でも出来る。出来ないのは再稼働ありき、の政治家や財界人や電力会社の、いい歳こいた大人だけである。そんなにも既得権益に群がっていたいのか。原発の事故で泣いている人々が考えられないほど大勢居ると言うのに。
 原発ゼロで稼ぎが無くなる人々は現実に居る。そして原発の事故で人生がめちゃくちゃになってしまった人々が現実に居る。
 稼ぎは真っ当な事でするべきだ。人類をいつ破滅に追い込むか分からないような危険な物で稼ぐのは邪道の最たるものだ。

 原発再稼働でエネルギーが十分になるとしよう。ではその十分になったエネルギーで、原発で蒙った人々の損害をすべて補償出来るのか。十分なエネルギーはまた新たな贅沢と無駄を生み出すに違いない。
 再稼働ありき、の人々を今すぐにも福島の放射線がぎりぎり許容範囲の地域に強制移住させたらどうなるか。それでも彼等は再稼働に賛成するのだろうか。

居眠り運転が危険なのは誰だって知っている

2012年05月02日 | 社会問題
 承知していて居眠り運転をする馬鹿は居ない。脇見運転をする運転手などは決して少なくはないのだろうが、これは承知してやっている。けれども居眠り運転は違うはずだ。だからなぜ居眠り運転をしてしまったのか、の原因が追及されるべきだろう。ガードレールと防音壁の接点の構造の問題を取り上げたりしているが、考えがずれているとしか私には思えない。

 現在は自転車の運転しかしない私は、走行中、あらゆる事に気を配っている。先方に四つ角があれば、こちらが優先道路であっても、油断はならない。飛び出して来る気配は無いかと窺いながら、出来るだけ道の中央に寄ってスピードを落として走る。それでも先日、二日も続けて私は横から突然に飛び出した中年女性にぶつけられた。一人は切れて、私に文句を付けて来た。だから、そちらには「止まれ」と道に書いてあるでしょう? 文句を言うなら、110番して聞きますよ、と言ったら、やっと「御免なさい」と言って去って行った。
 正しく左側走行している自転車の方がずっと少ない。だから私は正面からぶつかるように走って来る自転車にはたいていは道を譲らない。相手を道の中央に寄せて走らせる。そうしなければ、こちらが中央寄りを走らされて危険になる。

 居眠り運転に戻るが、居眠り運転をしてしまうような労働環境が改められなければならないはずだ。もしも運転手個人の問題なら、そうした不適正な人間に免許証を与えるべきではない。免許の更新時にもっとずっと厳格なテストをしなければならないだろう。仕事で車が欠かせない事業では、国の監査機関が、安全な運行が出来る体制かどうかを監査する仕組みは作れないのか。
 この所、車の死傷事故が続いている。車は当然に現代の我々の生活には欠かせない。しかしすべてが欠かせない訳ではない。簡単に凶器になり得る機械・装置を「文明の利器」とは呼べないはずだ。「利器」を「利器」たるべくするには、扱う人間の英知が必要だろう。
 今の日本には、カネ儲けばかりがはびこって、英知を育てる事が疎かになっている。政治機構は自分達の保身の事しか考えようとはしていない。

カネを出せ、でも口は出すな、と東電は言う

2012年03月30日 | 社会問題
 東電への援助で政府は東電の「議決権比率」の75%を占める事になるそうだ。つまり、事実上の国営になる。しかし東電はそうはさせじと、議決魂の無い特別な株を組み合わせると言う。そんな巧妙なやり方があるとは知らなかったが、その東電のやり口を知って、みすみす我々の税金を渡す訳には行かない。
 東電の真実の姿を表現出来る言葉が見付からない。

・ぬすっと(盗人)たけだけしい=悪事や不義理などで良くない事をしていながら、かえって居直ったり、他を責めたりして極端にずうずうしい。
・盗人に追い銭=損の上の損のたとえ。
・居直り強盗=空き巣やこそ泥が、家人に見付けられて急にすごんで強盗になる。

 支援総額は3兆5千億円にも膨らむと言うから、とても上のような喩えでは東電の真実の姿の足元にも及ばない。
 テレビに堂々と顔をさらし、寝言のような「たわけ」をしゃべっているあの西沢社長と言うのは、一体人間なのか、と思ってしまう。いくら「背に腹は代えられぬ」とは言っても、社員は恥ずかしいだろうし、家族はさぞかし肩身が狭かろう。
 社員達を恥ずかしい目に遭わせても、社長自らも恥ずかしい姿を晒しても、それでも旨みのある「商売」はやめられない。
 もっとも、真人間に戻ろうとしても、そうはさせじとする黒幕達が居る。黒幕だから陰に隠れて旨い汁が吸える。黒幕がどう言う連中かはメディアは分かっているはずだ。

 新会長のなり手が居ないのを、経営者の一人が次のように言っているそうだ。

 飛ぶかどうか分からない飛行機に乗って、飛ばしてみろと言われているのと同じ。誰もが尻込みする。

 私なら、次のように言う。

 東電の陰で旨い汁を吸っている人間を退治せずに、会長になれ、と言われているのも同じ。誰もが尻込みする。

東電の大口契約者はなぜ契約を重く見ないのか

2012年03月29日 | 社会問題
 東電が自分勝手な料金値上げに卑怯な方法を採っている事は、もはや知らない人は居なくなってしまった。だからすぐにも破綻させて、国家権力が介入すべきだと考えるのは当然の事である。長い間、「料金の値上げは企業の義務であり、権利である」と考えて来た企業に、心の底から正しい事を分からせるにはそれしか無い。

 東電がまだ契約期間の残っている大口契約者に、4月1日からは値上げ料金に従わなければならないような態度を取っているのは大問題で、しかも、東京都などには、公にしないでくれ、と頼み込んだと言うのである。とんでもない会社だ。
 ただ、契約者はもっと真剣に自分の契約条件の事を考えるべきではないのか。猪瀬副知事は、中小企業は契約の事に気が回らない事もある、と言うが、そうだろうか。コストにはねかえる電気料金を、しかも一年契約で更新して来たと言うその事実を簡単に忘れて良いのだろうか。
 私は高額の賃貸家賃を払っているから、その契約期間と契約更新時の一ヶ月分の支払いを片時も忘れた事は無い。私の場合、家賃は直接に生活費に響く。だから死活問題になる。けれども多くの企業は電気料金が上がっても、逃げ道があるのではないのか。商品あるいはサービスの値上げである。もちろん、それはこの不況下に簡単には出来るはずが無い。無いけれども、その手はあり得る。だから真剣に考えないのではないか。

 契約期間が長ければ、例えば10年契約などであれば、契約の事は念頭か去っても仕方がない。しかし一年契約なのである。企業は様々な契約を抱えて商売をしているだろう。だから、電気料金だから契約の事を忘れてしまった、とはならないと思う。

 ついでに、テレビで東電を「とおでん」と「と」にアクセントを付けて発音する人々が居る。私は確かテレビ朝日で聞いている。日本テレビ(読売テレビ)でも聞いている。ただ、フジテレビなどでは聞いた記憶が無い。
 周囲の人達に聞くと、みんな「当然」と同じような平坦なアクセントだと言う。だから関西が本拠と思われる二つのテレビ局では関西風のアクセントになるのだろうか。私は気になって仕方が無い。

東京新聞の「こちら特報部」が面白い

2012年03月28日 | 社会問題
 昨日の朝刊、見開きで、まず中央に「無謀な原発再稼働」とある。その隣はもちろん野田総理の写真。そして四角く囲んだ形で大きな見出しが並んでいる。右回りに、
・倫理の崩壊か
・代弁が「政治判断」の意味か
・本来なら刑務所に入るべき
・除染、賠償…被害者救済が先だ
・広域での反対の声、無視できない
・与野党上層部に「電力利権」議員
 これだけでほぼ内容は分かる。もちろん、それぞれの見出しのすぐそばに解説の本文記事がある。
 そして「デスクメモ」と称する「まとめ」は次のように言う。

 なぜ、野田政権が乱暴に再稼働を急ぐのかを考えた。いま決めないと、準備期間もあるので、夏に再稼働できない。となると「原発ゼロ」状態で夏を乗り切られかねない。そうすると「やっぱりいらない」世論が高まる。脱原発へ一直線だ。この流れを恐れているのだろう。逆に言えば、いまが正念場だ。

 そう、「本来なら刑務所に入るべき」は野田政権を指している。京大原子炉実験所の小出裕章助教授が次のように言っている。

 もともと想定内の事柄に対して、安全だと言っているだけで、まったく意味がない。彼らは全員〝犯罪者〟。本来なら刑務所に入れないといけない。再稼働だけでなく、原子力発電のすべてをやめるべき状況なのに、どうしてこんなことが許されるのか私にはさっぱり分からない」

 分からないのはあなただけではないのですよ。我々庶民はみんな分からない。もちろん、野田総理だって分からない。でも自分の保身を考えれば、こうするしか無い。
 この記事のすぐ左に「本音のコラム」がある。鎌田慧氏が書いている。

 国民の八割が嫌だというのに、先頭で向かってくるのは独裁者のやることです。若き日のように、駅頭に立って民の声を聞いてみたらいかがですか。

 もう民主党なんて、誰も信じちゃいない。あーあ、総選挙が楽しみだ。

全原発の停止が視野に入った

2012年03月26日 | 社会問題
 現在稼働中の北海道の1基も5月には点検に入って停止になると言う。
 やっとここまで漕ぎ着けたか、と我々は思う。だが、政府は性急に再稼働に動いているらしい。そして東京新聞は「原発依存 住民に動揺」の大きな見出しを付けている。この見出しは誤解を招く。「原発への依存が住民に動揺を与える」と思えてしまう。だが、本当は「原発に依存している住民に動揺を与える」である。

 詰まらない事が気になってしまったが、地元住民の心は複雑だ。新聞の言う通り、原発への不安と、運転停止が長引いた場合の雇用や地域経済への懸念が交錯している。原発がもたらして来た恩恵は強い依存心も植え付けており、多くの住民が現状を受け止め切れないでいる、と言うのも事実である。
 しかし、これは原発の安全神話があってこその話である。国は安全神話を作り上げ、我々を騙し続けて来た。それが分かったのだから、考え方を完全に切り替える必要がある。安全とは言い切れない原発に恩恵を受けたり、依存したりする事は、自らの死と引き換えにしても良い、くらいの覚悟が要るはずだ。

 ところが、そうはならない。
 第一には、安全とは言い切れないのと同時に、危険だとも言い切れない、との思いがある。
 第二には、たとえ危険性の方が絶対に大であると思っても、自分の地元がそうなるとは限らない、との思いがある。あるいは、自分が生きている間は大丈夫だろう、との思いがある。
 これは本当に自分勝手な考え方である。自分さえ良ければ、他の何万人もの人々が苦しんでも、構わない、と言う事になる。現に福島の多くの人々が苦しんでいると言うのに、まだ目が覚めない。

 これは単なる経済的な問題なのではない。我々の生き方の問題なのである。そうは言っても、我々が生きて行くためには、経済的な裏付けが必須である。それで、短絡的な思考が働いてしまう。私個人の事を言えば、現在、必死になって二つのアルバイトをしてどうにか食べている情況にある。私のアルバイトは人のためにはなっても、人に害を与える事は絶対に無いからやって行けるのだが、これが少しでも人に危害を与える恐れがあれば、いくら、自分が生きて行けないと思っても、何とかして別の仕事を見付ける努力を私はする。しなければ人の道にもとる。

 しかし、原発への依存はそうではない。現に福島の人々の苦難のほんの一部ではあるが、テレビで見て、新聞で読んで知っているにも拘らず、自分が加害者になる恐れがあるのを認識しようとはしない。
 では、こう考えてみてはどうだろうか。
 現在、原発で利益を受けている人々や自治体は、原発の被害が出たら、その被害者の全部の損害を補償する必要がある、とするのである。原発への依存とは、そうした事だと思う。

小学校の卒業式に出席した

2012年03月24日 | 社会問題
 毎回スタイルは同じだが、あまりにも見事に演出されているのに驚いてしまう。きちんと台本が出来ていて、表紙には「台本」と書いてある。それに従って、生徒達は何度も何度も練習をしたのだろう。会場への入って来る歩き方も、出て行くその歩き方も堂々として危なげが無い。とても小学六年生には思えないほどである。立つのも座るのも見事だし、体の向きを変えるのも本当に「一斉に」である。
 在校生に語り掛けるのも、それぞれに台詞が割り振られていて、重要な言葉は全員で繰り返す。それもまた、小さな声で聞き取りにくい子供も居るが、乱れる事が無い。

 見ていて、とても良く訓練されているのは感心するが、何となく肌寒い感じがしないでもない。北朝鮮の色々な儀式とそっくりなのである。
 卒業生全員で50人しか居ないから、一人一人に卒業証書が渡せるし、それはそれで子供の自立心に繋がるから悪い事ではない。ただ、あまりにも儀式になり過ぎている観がしなくもない。そして、この先、子供の数が増えて来たら、どうなるのだろうか、との思いもある。
 テレビを見慣れているから、誰もが演技をする事に違和感が無いのだろう。そして「仰げば尊し」も無ければ、「蛍の光」も無い。あるのは、我々年配者の知らない歌である。
 私は「仰げば尊し」で感極まって泣いてしまった、昔の卒業式が懐かしい。

「脱原発」支持8割の真実

2012年03月18日 | 社会問題
 新聞の第一面の「脱原発」支持8割、を見て、そうか、分かって来たのだな、と思った。ところが、円グラフを見ると、賛成43・7%、どちらかといえば賛成35・9%なのである。賛成は半分にも満たない。
 「どちらかと言えば賛成」に私は大きな不信感を持っている。特に「脱原発」などについては、賛成・反対ははっきりと分かれると思う。脱原発なら、当面、エネルギーの不足の問題があるだろう。それは我々の暮らしに直接に跳ね返って来るだろう。原発依存なら、その心配は無いが、その代わり、いつ事故が起きるか分からないと言う不安がある。
 これは生き方として大きな問題だから、エネルギーの問題なら脱原発反対で、事故の問題なら脱原発賛成だ、などと言う考え方が出来る道理が無い。

 だから、「どちらかと言えば」には、「ねえ、どうなの? 本当にどうなの?」としつこく聞かれて、「まあ、強いて言えば」と渋々と答えている、とのニュアンスが感じられてしまう。そんな「賛成」に信頼が置ける訳が無い。そんな賛成なら、簡単に反対にもなってしまうだろう。
 「どちらかと言えば」は、普段は何も考えていない、との証でもあると思う。きちんと考えていれば、そんな曖昧な態度にはなり得ない。
 そしてそんな中途半端な考え方を入れて「支持8割」と歌い上げる事には大きな不信感が拭えない。

 そして現在停止中の原発については、「電力需給に応じて必要分だけ再稼働を認める」が54%にもなる。そんな日和見的とも言える意見があっての、脱原発賛成「43・7%」なのでもある。
 「電力需給に応じて必要分だけ」との考え方が分からない。必要と思えば必要になるし、必要ではない、と決心すれば、容易に必要ではなくなるはずである。要するに生き方の問題である。「必要分だけ」との考え方はずるずると流れに流される考え方である。どこかで、きっちりと決断しなければならないのが、今の日本の生き方ではないのか。

子供の名前を知らない謝恩会

2012年03月03日 | 社会問題
 昨日の3月2日、卒業を控えた6年生のPTA主催の謝恩会が開かれた。子供達の交通安全誘導が仕事の我々にも子供の名前で招待状が来ている。我々は寸志を包んで出席した。
 でも、子供達の半数近くは我々誘導員の居る所を通らない。だから、ほとんど顔を合わせる事が無い。それは仕方の無い事だとしても、半数近くの子供達の顔は見知っているのだが、名前を知らない。
 いつも遅刻する子や帰りに道草を食って我々の手を焼かせる子供は名前を覚えてしまうが、それ以外の普通の子の名前は知らない。私は先生にお願いして、それぞれの登校班別の子供達の名前をリストで頂戴した。それは学年別になっているから、班長として先頭に立っている子供の名前の見当は付く。しかし、目の前に居るのが確実にどの班なのかは分からないし、幾つもの班が一遍に来た時にいちいち聞く訳にも行かない。そして班長の名前を聞く訳にも行かない。だから何となく推定して知るしか方法が無い。

 他人との一番親密な接触方法はその人のまずは名前を知る事から始まるだろう。もちろん、名前を知らずに世間話をしている事などざらにあるが、それはあくまでも責任の無い世間話での事である。
 我々と子供達との接触は、我々にしっかりと責任があっての事である。何しろ、子供達の安全が掛かっている。無法な交差点では、車の信号がとっくに赤になり、歩行者の横断用の信号がとっくに青になっているにも拘らず、横断者の目の前を猛スピードで横切って行く車が絶えない。それが都バスにもある。
 だから我々はマニュアルにある、「車道に出てはいけない。歩道に立って誘導せよ」などは守ってなどいない。横断歩道の真ん中まで出て行かなくては安全が確保出来ないのである。

 そうした事と子供達の名前を知る事とは関係が無いが、こうやって謝恩会などに出席すると、つくづくと我々は子供達の名前も知らないのだ、と言う事を痛感してしまう。そして最近は、嫌な事も目撃している。
 我々が仕事をしている小学校の下駄箱から、子供達の名前が消えたのである。今の所、それは4年生だけに限られているが、下駄箱には番号だけが貼られている。どうもプライバシーの問題があるらしいが、ここは部外者が簡単には入れない場所である。どうやってプライバシーが侵害されるのだろうか。
 そうした事もあってか、以前には「仲良し班」の名前で、子供達の写真と氏名が廊下に掲出されていたが、それも無くなった。だから、我々は誰が誰やらさっぱり分からない。

 そうか、我々は自分の仕事だけをすれば良いのか、と腹をくくって掛かるしか無い。もちろん、始めからそうした事しか考えていない誘導員も居るが、ほとんど毎日のように顔を合わせていれば、親しみが湧いて当然ではないか。そうした親近感を強引に断ち切る思考がどうも着々と根付いて来ているようで、不気味になる。

光市母子殺害事件の死刑判決は妥当

2012年02月23日 | 社会問題
 多くの新聞のコラムが死刑判決を妥当としているのを見て安堵した。
 確かに死刑制度には問題がある。法の裁きによるとは言っても、結局は人を殺すのである。反対する考え方があって当然である。死刑判決を受けた被告がいくら他人を殺したからと言っても、また「殺人」と同じ行為を繰り返す事の是非が問われてしかるべきではある。
 ただ、そうは言っても、殺された人間の事も考えなければいけない。

 この事件で、無期懲役刑が言い渡されたのは、被告の更正の可能性を考えた事にある。確かに犯行当時18歳だった被告には更正の可能性はある。しかし、殺された被害者には更正の可能性など皆無なのである。何しろ、生きる事さえ叶わなかったのである。
 そんな不公平さのある中で、どうしたら、更正の可能性、などと言えるのだろうか。
 本村洋さんが、無期懲役なら、少しでも早く被告を出所させて欲しい。そうしたら、自分が彼を殺す、と言っていたのは当然過ぎるほど当然である。

 被告の更正の可能性を取り上げて無期懲役刑を言い渡した裁判官を私は軽蔑する。と言うよりも唾棄したい。被告は獄中から、どうせ途中で釈放されるのだから、と言って、全く自分勝手な言いたい放題の事を言っていたのである。そこには自分が殺した母子はもちろんの事、遺族への何の謝罪の気持も無かった。
 死刑制度反対との理由から、約30名にも上る弁護団を組んだ弁護士達も唾棄すべき存在である。被害者を何とか生き返らせようと強姦した、と弁明していたのである。誰もがそんな馬鹿な、と思ったはずだ。彼等は弁護士の仮面をかぶった殺人鬼集団だった。彼等の名前を我々はきちんと覚えて置く必要がある。

 先日、警察署による学童を対象とする交通安全の講習会があった。話をした警察官が、裁判官の衣裳はなぜ黒いのか分かりますか、と問い掛けた。私は知っていたが、答える気力は無かった。何色にも染まらないようにと、黒なのである。
 けれども、平気で何かの色に染まっている裁判官が実際に存在している。最近判決の下された御殿場事件もそうだ。あの裁判官ははっきりと検察の色に染まってい事が見え見えである。普通の常識が通じない世界の色に染まってしまう裁判官など要らない。

 先の裁判官の衣裳の色だが、あの話は、子供は何色にも染まってしまうから、家庭のしつけが需要なのだ、との話である。