二俣城は、16世紀初めに,二俣氏が、天竜川と旧二俣川で三方を囲まれた天然の要害の丘陵地に築いた山城です。永禄10年(1567年)以降は今川氏の城であったが、桶狭間の戦い後に徳川氏の城となり、元亀3年(1572年)武田氏が信濃から遠江に侵攻して奪い、さらに長篠の戦いの後、徳川氏が奪い返すなど、激戦が繰り広げられた。丘陵の上を階段状に曲輪が設けられ、城の中心である本丸や二の丸には、土塁や石垣がめぐらされ、本丸の奥には、天守台があります。城郭の基本的な姿は今川氏や徳川氏によって形づくられ、石垣や天守は、徳川氏が関東に移封後、豊臣方の堀尾氏によって築かれたものと思われます。慶長5年(1600年),関ヶ原の戦いの後に廃城となる。現在、二俣城の周囲には、二俣城の支城、または二俣城を攻めるために築かれた付城など、多くの城遺構が現存します。
[所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣]
<アクセス>天竜浜名湖鉄道二俣本町駅下車徒歩約10分
▼二俣城の概要
▼二俣城をめぐる城郭群
▼二俣城の復元図
▼二俣城の縄張り
主要部の本丸・二の丸を中心として尾根上に曲輪が連なる連郭式になっている。主要部は石垣造りであるが、堀切りや曲輪の形態は山城の様相である。
▼二の丸大手口
▼二の丸 ▼土塁
▼本丸
▼天守台
本丸の西側に天守台が現存している。天守台は、堀尾氏の時代(1590年~1600年)に築かれた。
▼天守台より見える天竜川
▼北曲輪・手前の橋の下は堀切り
北曲輪と本丸(手前)の橋は、廃城後、北曲輪に神社が出来てから設置された。
▼堀切り
2016/04/17 訪城
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二俣城攻防戦(1) 元亀3年(1572年)10月
元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃経由で遠江に侵攻し、武田勝頼の軍が二俣城を攻撃した。武田勝頼は力攻めをせず、二俣城の水の手を断つ作戦を開始した。徳川軍の城兵が崖に櫓を建てて、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を大量に流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2ケ月ほどで二俣城は落城した。
二俣城攻防戦(2) 天正3年(1575年)5月
天正3年(1575年)5月,長篠の戦で武田勝頼に勝利した徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃を開始した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原等5ケ所に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は、7ケ月で食糧が底をつき、城兵の安全な退去を条件に、ついに城代依田信蕃書は、二俣城を開城した。そして、二俣城には徳川家康の重臣、大久保忠世が入城した。
◆松平信康自刃事件 天正7年(1579年)9月15日
大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名な徳川家康の長男・松平信康自刃事件がある。一般には、松平信康と母築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が松平信康を切腹させるように命じたとされている。徳川家康はこれを受けて松平信康を天正7年(1579年)9月15日,二俣城で切腹させた。この事件は、松平信康自刃事件として知られています。
▼清龍寺・松平信康廟
二俣城から峯続きで、北東約500mに清龍寺・松平信康廟があります。