延元元年,北朝の建武3年(1336年)の12月21日、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇は、吉野へ向かう途中、同月23日に西吉野に立ち寄られました。天皇を手厚くもてなした地元の郷士「堀孫太郎信増」の邸宅は、その後、南朝三帝(後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)の行宮(あんぐう)となり皇居としての役割をはたします。1348年には、後村上天皇が、1373年には、長慶天皇が、1392年には、南朝最後の天皇後亀山天皇もこの行宮に入られました。南朝の忠臣北畠親房公も献身の甲斐なくこの地でお亡くなりになりました。ようやく南北朝が合一されたのは、尊氏の孫の足利義満が将軍になってからのことです。それから六百有余年、今も賀名生の地は南北朝の面影を漂わせています。茅葺きの、平屋建ての主屋は、全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています。賀名生皇居跡は現在も堀元夫様が住居として使用されておられます。
[所在地:奈良県五条市西吉野町賀名生1]
<アクセス>JR五条駅から五条西吉野線のバスで『賀名生和田北口』下車20分
▼賀名生皇居跡(堀家住宅)
▼茅葺きの主屋(重要文化財)
2013/03/24 訪問
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◆北畠親房(1293~1354)
南朝方の公家の重鎮。後醍醐天皇に登用されて大納言となり、一時、隠棲するが、建武の新政でカムバックし、1333年、陸奥の守に任じられた嫡男・顕家を補佐し、御醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州に下る。建武政権の崩壊後、京都に戻り、吉野に朝廷を開くことを企画して、南朝の指導的地位につく。常陸で南朝の勢力拡大に努めたが失敗し、吉野に戻る。この間「神皇正統記」を執筆して、南朝の正当性を主張した。晩年には南朝方は次第に追いつめられて、大和国・吉野の賀名生で孤独な死を迎える。
▼北畠親房公の墓・・・・・賀名生皇居跡から北に200m