俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ミスと捏造

2015-10-23 09:41:34 | Weblog
 偽装は3ランクに分けられる。①単純ミス②ミスを隠蔽③捏造。
 単純ミスならすぐに発覚する。それは本人が気付かずにやった失敗であり隠そうとする意思も無いからだ。誰かがチェックすればすぐに見つかる。これに悪意は無い。
 ミスに隠蔽工作が加わると見つけにくくなる。ミスを犯した時点で悪意は無いが、隠蔽工作は保身であって悪意がある。朝日新聞が初めて「従軍慰安婦の強制連行」の記事を掲載した時は、虚言癖のある吉田某に騙された訳であり朝日新聞も被害者だった。これは情報の選択ミスだ。しかしその後がいけない。嘘と指摘されると強弁に強弁を重ね詭弁の限りを尽くして取り繕おうとした。嘘と認める直前まで「無かったことを証明せよ」などと論理的に誤った非存在証明まで要求する始末だった。この時点で既に、嘘であることを自覚していたと思われる。流石にこれ以上は無理と悟ったから嘘と認めたのだろう。
 出発点がミスであれば辻褄の合わないことが沢山見つかる。この時点でミスと認めれば大きな恥晒しにはならない。隠蔽しようとするから問題が大きくなる。14日の朝日新聞は「トルマリンで殺菌するシャワーヘッド」というもし本当なら画期的な新商品を紹介していた。まるで怪しげな通販のようないかがわしい記事だ。記事を信じた介護施設などが購入して被害が広がらない内に、最近ではすっかり人気コーナーになった「訂正して、おわびします」の欄で取り上げたほうが実害も少なく恥の上塗りにもならないだろう。誤ったら早く謝ったほうが良い。
 捏造は最初から悪意があるから発覚しにくい。嘘がバレないように予め仕組まれている。旭化成建材の社員による杭工事データの捏造はマンションが傾かなければ発覚しなかっただろうし、ノバルティスファーマ社による高血圧症治療薬ディオバンの臨床データの改竄、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)のクライメートゲート事件、そして残念ながら小保方晴子氏らによるSTAP細胞騒動、これらは最初から悪意を持った捏造だったのだろう。だから私も騙された。
 情報の垂れ流しがますます目立つようになった。これはマスコミの怠慢であり能力不足の現れだ。官公庁や政治家による誤った発表を報じても「○○が発表したということは事実だ」と言い逃れをする。権威ある人や組織の発表であろうとも鵜呑みにせず批判的なコメントを付け加えるぐらいの情報識別力を持たないようではプロの文筆業者として恥ずかしい。私のような素人ブロガー以下のレベルだ。

ファン

2015-10-21 10:21:13 | Weblog
 1996年、キリンビールは主力商品の「ラガービール」を生ビールに切り替えた。「ラガー」とは今流行りのラグビーのことではなく「加熱処理」を意味する。だからラガービールとは「加熱処理したビール」という意味であり、これを「生」にするとは論理的にはおかしい。そんな矛盾など気にしていられないほどにキリンは追い詰められていた。一時は独占禁止法に基づいて企業が分割されそうになるほど強かったキリンだが、アサヒビールの大躍進によって急激にシェアを失いつつあった。ラガービールの「生化」はスーパードライに対抗するための切り札の筈だったのだが、このことで自ら墓穴を掘った。ラガーの売上は大幅に減り、長年守り続けていた業界トップの座をアサヒビールに明け渡すことになった。実はこれとよく似た失敗をした企業があり、その教訓を活かさなかったことからマーケッターの失笑を買った。
 1985年、アメリカのコカコーラ社はニューコークを発売した。当時のコカコーラはペプシコーラの追撃に遭いジリ貧になりそうだったからだ。そこで20万人のモニター調査を背景にして自信を持ってニューコークを発売した。ところがこれがとんでもない騒動を招いた。苦情は約40万件、各地では不買運動やデモまで起こり、急遽「コカコーラ・クラシック」を再発売して騒動を鎮めた。
 なぜこんなことが起こったのか。ファンの心理を理解していないからだ。ファンは今のままであることを望む。仮に今よりも良い品質になっても「これまでと違う」ということで低い評価しか得られない。ずっと選んでいた味こそ最高のものだからだ。もしビートルズがリンゴ・スターをクビにしてもっと優秀なドラマーを採用していたらその時点で見限られていただろう。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人であってこそビートルズであり、一人でも欠けたら別のグループになってしまう。
 キリンビールはファンの存在を軽視しただけではなく対応も遅れた。1998年と99年に復刻ラガーが当たるキャンペーンを行ったところ2,600万口という空前絶後の反響があった。このことでようやく旧ラガービールのファンの存在を思い知らされた。2001年になって「クラシック・ラガー」を売り出したが時既に遅し。他の銘柄に移った顧客は帰らなかった。
 ファンとは不思議な人々だ。あらゆるジャンルにファンがいる。私はチキンラーメンを現在市販されている最も不味いラーメンだと思う。麺もスープも時代から取り残された前世紀の遺物だとまで思う。しかしファンがいるから今尚ベストセラーだ。これはソウルフードと似ている。決して旨い料理ではなくても、昔馴染みの味を好ましく思う。この保守性を否定する気は無いが、文化の進歩を阻害して世代間の好みの違いを生みだす一因だろう。あるいは「惚れた目にはアバタもエクボ」と言う。「恋は盲目」という諺もある。一旦好きになってしまえば始末に負えない。だから「贔屓の引き倒し」ということまで起こる。

形骸化

2015-10-21 09:37:48 | Weblog
 「『我々が神を殺した』と狂人は言った」(「悦ばしき知識」125)。ニーチェの代名詞とも言える「神は死んだ(Gott ist tot)」は「ツァラトゥストラ」から引用されることが多いが、その前年の作品「悦ばしき知識」において初めて表明された。神は死んだのではなく人々によって殺された。ニーチェの功績は神を殺したことではなく、神が既に死んでおり、神という虚構に頼らずに生きねばならないと知らしめたことだ。
 憲法を形骸化させたのは安倍首相の率いる自民党ではない。我々日本国民が憲法を形骸化させた。憲法は既に死んでいる。自衛隊の存在を認めることと集団的自衛権の容認など五十歩百歩の違いだ。どちらも明らかに憲法違反だ。
 もし憲法を守るなら国防を完全にアメリカ軍に委託して自衛隊は解散すべきだ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と明記されているのだからそれ以外の選択肢などあるまい。これが「護憲派」の御意に適うだろうか?
 博覧会で営業施設の管理を担当した時にこんな経験をした。業者は㎡当り幾らで契約するから少しでも自分の領地を広げようとする。私はそのことを知っていたから契約地からのはみ出し営業を一切許さなかった。ところがある日、参加者と博覧会幹部(県庁職員)の懇親会があり、どこかの業者が規制が厳し過ぎると申し入れた。出席していた役員は軽率にも「明日から規制緩和をする」と約束してしまった。翌日それを命じられた私は従うしか無かった。私は所詮民間企業からの出向者であり、主催者は県庁の組織だ。私が規制を緩めると1週間もせぬ内にはみ出し営業が常態化して、通行の妨害をする業者まで現れた。苦情があったらしく「以前のとおり規制せよ」と命じられた。しかし一旦緩んだタガを締め直すことは容易ではなかった。
 これは博覧会などのイベントに特有の現象だ。通常の商取引であれば今後の関係を良好にするために仁義を守る。イベントは1回限りの付き合いだから少しでも多く稼ごうとする。業者の多くは「覧会屋」とも呼ばれる出店のプロ、つまりテキ屋だ。油断や隙を見せれば忽ち付け込まれる。
 曖昧なルールは曲解を生む。人は自分に都合が良いようにルールを解釈する。自転車での傘差し運転は道路交通法違反だが黙認されていた。ところが今年から罰則が適用されるようになると途端にレインコートが飛ぶように売れた。目溢しがルールを空文化させる。
 憲法が軍隊を禁じようとも目溢しをしていれば際限無く曲解され続ける。これを防ぐためには曲解を許さない明確な憲法に修正する必要がある。憲法の条文を一字一句変えさせまいとする護憲を騙る勢力こそ平和の敵だ。

少数派

2015-10-19 10:28:54 | Weblog
 シリア情勢は訳が分からない。アサド政権と西欧的な民主化勢力とIS(イスラミックステート)、更にクルド人。これだけで四竦みだ。これにアルカイダやスンニ派が絡み、米国主導の有志連合やロシアまで参戦して、最早、世界戦争の縮図のようだ。これでは国民は堪らない。もし中国で共産党による独裁体制が崩壊した時にはこれと同様の災厄が13億人民に及ぶと考えればその惨状は想像を絶する。
 シリアのことが分からないのは日本のマスコミ各社が自社の社員を派遣していないことも一因だろう。人命尊重という理念からすればこれは当然のことではあるが実は裏がある。雇用関係の無いフリージャーナリストを利用しているからだ。一切契約関係の無い彼らが死んでもマスコミ各社は責任を問われない。しかしフリージャーナリストは少しでも良い記事を書きたいから「自らの意思で」危険地域へと赴く。私は彼らを「使い捨てライター」と名付けた。
 シリアなどの中東がこんな酷いことになった原因はアメリカがフセイン政権を倒したからだ。「フセイン政権は大量破壊兵器を持っている」という嘘に基づいて打倒したものの、その後のシーア派を中心とする政府は統治能力を欠いているようだ。フセイン政権の残党がISの中心になっているとも言われている。
 民主的に選ばれた筈の政府がなぜ統治できないのか。逆説的な言い方だが、多数派による政府だからではないだろうか。国民の6割を占めるシーア派は「シーア派のシーア派によるシーア派のための政治」を行おうとする。これではシーア派以外の少数派が不満を持つのは当然だ。これは多数決に基づく民主主義の暗黒面の露呈だろう。
 フセイン政権は僅か2割に過ぎないスンニ派が中心になっていた。少数派による政権だからこそ勝手なことはできず、シーア派やクルド人の意向も採り入れていたのではないだろうか。再び変な言い方をするが、権力者が少数派だったからこそ妥協に基づく公正な政治が可能だったのではないだろうか。かつてのイラクでの政治力学については欧米の情報偏重の日本にいてはさっぱり理解できない。
 翻って日本を見れば、自民党が変な方向に向かっている。元来自民党は多様な意見を包含できる懐の深い政党だったのだがその長所を失いつつある。一強だからこそ「正義は我にあり」と思い上がっているのではないだろうか。数こそ正義という暴挙を許さないためには、これまた無茶苦茶な理屈で民主主義に反するとは思うが、少数派に権力を握らせたほうが却って良いのではないかとさえ考えてしまう。

アサヒ

2015-10-19 09:51:01 | Weblog
 横浜市の欠陥マンション事件は旭化成建材の社員による意図的とも思える手抜き工事が原因だったらしい。当初は加害者と思われた三井不動産も実は被害者だったようだ。
 旭化成建材によるデータ偽装を朝日新聞は非難できるのだろうか。旭化成建材は今後マンションの立て直しなどによって莫大な損失を蒙り経営難に陥るだろう。これは避けられないことだ。
 その一方で朝日新聞はどのような形で捏造記事の責任を取っただろうか。読者離れが進んだことだけで責任が果たされたとは到底考えられない。旭化成建材が今後の営業活動が困難になるだけではなく不良マンションの全責任を負うように、朝日新聞には世界中に広めた誤った情報の総てを訂正する義務があるのではないだろうか。それが企業としての責任だろう。
 罪は「従軍慰安婦の強制連行」だけではない。ユネスコが世界記憶遺産に「南京大虐殺」を登録したことについても朝日新聞には重大な責任がある。
 「南京大虐殺」は東京裁判で作り出された虚構だ。しかし政府はサンフランシスコ平和条約において東京裁判を承認させられており、「南京大虐殺」を公然と否定できない立場だ。東京裁判を否定すればサンフランシスコ平和条約を否定することになってしまう。
 日本にできることは1つしか無い。政府ではなく民間人が「南京大虐殺」の嘘を暴くことだ。しかし朝日新聞はそうしなかった。それどころか中国に迎合して「南京大虐殺」の存在を肯定する記事を書き続けた。少なくとも疑問を挟む記事を読んだ覚えが無い。朝日新聞のこんな姿勢が学者を萎縮させて自由な言論が阻害された。
 私は日本軍が悪事を働かなかったなどとは考えない。民間人犠牲者が1万人に及ぶと言われる重慶爆撃は、特殊な事情があったとは言え、日本史に残る汚点だ。アメリカは東京裁判において当初はこれを戦争犯罪として裁こうとした。ところがすぐに重大な問題に気付いた。1万人が殺された重慶爆撃を戦争犯罪にすれば、広島・長崎への原爆投下は勿論、東京大空襲なども戦争犯罪であることを認めざるを得なくなる。だから約1万人が犠牲になったという事実が確認できる重慶爆撃を不問にして、通常の戦闘があった南京で大虐殺があったという虚構をでっち上げた。重慶で20万人が殺されたということにはできない。約1万人が殺されたという証拠があるからだ。南京であれば20万人が殺されたという証拠など無くても20万人が殺されなかったという証拠も無い。事実無根だからこそどちらの証拠も無い。これはUFOや雪男の存在証明と同じような話であり、全くの虚構であればこそ証明も反証も困難だ。
 重慶爆撃が記憶遺産に登録されても文句は言わない。しかし「南京大虐殺」は違う。学者やマスコミが事実を暴かなかったことによって定着させてしまった偽りの歴史だ。朝日新聞社はこの歴史の捏造についても大きな責任がある。旭化成建材が欠陥マンションの責任を負うように、朝日新聞社には全資産と全労力を費やして偽りの歴史を改める責任があると私は考える。

消えた年金

2015-10-18 09:38:37 | Weblog
 マイナンバー制度の是非を問う前に、かつての大事件を思い出す必要がある。2007年5月に発覚した「消えた年金」事件だ。誰のものか分からない年金が5千万件もあることが分かり大変な騒動になった。この年7月の参議院選挙では自民党は惨敗し、「ねじれ国会」を経て「政権交代」にまで至った。政変まで招いた「消えた年金」事件だが、なぜ5千万件もの年金記録が失われたのか?この原因を明かさない限り失敗は繰り返される。
 根本的な問題は名前と生年月日によって年金が管理されていることだ。同姓同名で同じ生年月日であれば区別できないという酷い仕組みだ。住所や職業が変わらなければ管理可能だが転居するだけで同一人物かどうかが分からなくなってしまう。
 それだけではない。人の名前は結婚や養子縁組などによって変わる。在日朝鮮人であれば本名以外に通称名も認められている。名前が違えば別人として扱われる。この状況は今も続いている。最低限、年金のための個人ナンバーは不可欠だ。
 中小零細企業なら名前だけで管理できるだろうが、それなりの企業であれば必ず社員コードを設定して管理する。それでもミスは起こる。私と似た名前の人に宛てた書類が人事部から間違って届けられたことがある。
 社員の異動を管理できる企業でさえ社員コードが必要なのだから、転居が自由である国民に個人番号が無ければ管理は不可能だ。「消えた年金」は過去の問題ではない。
 実は1983年に一旦納税者番号制度が定められたのだが有耶無耶の内に廃止された。収入を把握されては困る国会議員が大勢いたからだろう。現在の反対論の多くがこれと同レベルであり、二重就業ができなくなることがしばしば指摘されている。これは要するに、会社に無断で水商売などで働いているということであり、当然脱税でもある。
 マイナンバー制度に関する汚職事件で厚生労働省政策担当参事室室長補佐の中安容疑者が逮捕されたが、皮肉なことに、マイナンバー制度が稼動すればこんな汚職も減る。賄賂や裏の顧問料などが表に出されるからだ。
 マイナンバー制度は年金や脱税対策に有効なだけではなく汚職防止にも役立つ。大半の先進国では既に導入されている制度であり危険を防ぐ仕組みも多く考案されている。「脱税が難しくなって困る」などとは言えないから、おかしな因縁を付けたり恐怖を煽ったりしているのだろう。
 なお民主党はマイナンバー制度に反対しているが、1998年に発表した「基本政策」では納税者番号制度の導入を掲げている。その後この方針は一度も撤回されていない。民主党の政策の支離滅裂ぶりを象徴する一件だろう。

公益

2015-10-17 10:13:07 | Weblog
 倫理に基づいて秩序が生まれることは好ましい。可能な限りそうあるべきだ。公共の場でのマナーはルールではなくモラルに基づいている。しかしそれが可能なのは利害が一致する時に限られる。目的が同じであれば利害も一致しようが、目的が異なれば、どちらも正当性を主張するからモラルでは解決できない。
 夏の屋外プールには、明確に2種類の人が集まる。泳ぎたい人と水遊びをしたい人だ。困ったことだが、水遊びをしたい人のほうが圧倒的に多い。だからどこのプールも水遊びの場所にされ、私のような泳ぎたい人はシーズンオフか朝や夕方の空いている時間に利用することを強いられる。
 ある小売店主が「良い商品を売りたい」と思ったとする。ところが良い商品の定義は人によって異なる。もし無農薬野菜と無添加食品に特化した店であれば私は絶対に立ち寄らない。無農薬や無添加には意外な危険性があり、私はそんな商品を買いたくない。これは独り善がりな「良い商品」に過ぎない。むしろよく売れる商品を充実させた店のほうが「顧客ニーズに応えた良い店」だろう。
 政府は道徳教育を充実させようとしているがそんな余計なお節介はやめてもらいたい。偽善の匂いがぷんぷんする。親孝行を奨励するよりも扶養親族控除額を増額すべきだろう。そうしたほうが、子供に見捨てられて生活保護にしか頼れない不幸な老人は少なくなるだろう。
 教室で道徳を教えるよりも団体スポーツに参加させたほうが有効だろう。そのほうが相互信頼や助け合い、あるいはフェアプレイなどについて多くを学べるだろう。フェアプレイを学ぶために最適の球技は野球だと思う。サッカーやラグビーなどでは、審判の目を盗んだ反則が意外なほど多い。巧妙な反則の一部はテクニックとまで位置付けられている。その点、野球の反則は極めて少ない。選手同士の接触プレイが少なく、ボールのある場所では審判が目を光らせているからだ。盗塁でさえスチール(steal)と言いながらも正々堂々としたフェアなプレイだ。野球におけるアンフェアなプレイはビーンボールと一部のラフプレイだけしか無いのではないだろうか。
 どの企業も「社会に貢献する」ことを社是に掲げる。こんな大層な主張などせずに、良い製品や良いサービスを売り、従業員には充分な報酬で報いてくれれば良い。社会に貢献する前に関係先や従業員に報いるべきだ。
 私はアダム・スミスのように、利己的行動が「神の見えざる手」によって公益に繋がると無邪気に信じている訳ではない。しかし「衣食足って礼節を知る」と言うように、まずは自分達の利益を追及すべきだろう。その場凌ぎではない長期的利益まで考慮すればそれは自ずから公益に適ったものになる。手抜き工事などで一時的に儲けを増やしてもそれが発覚すれば大損害に繋がる。

反対理由

2015-10-17 09:31:28 | Weblog
 ツタヤ図書館の案が住民投票で否決された愛知県小牧市の市長の談話を15日の朝日新聞で読んで呆れ果てた。市長も記者も全然分かっていないと思った。あるいは分かっていながら、それが民主主義の否定に繋がりかねないからわざと無視しているのかも知れない。
 「反対理由は金額か、民間との連携か、デザインか、投票結果だけでは判断できない。」と山下市長は語ったそうだ。一番大きな理由が考慮されていない。だからこそこんな馬鹿な住民投票を実施した挙句、否決されたのだろう。
 図書館の利用者は全国平均で38%だそうだ。つまり62%の人は図書館を全く利用しない。この「多数者」は図書館をどう評価するだろうか。多くの人は。図書館など一部の人に阿る無駄な施設と考えているだろう。
 私自身、大学生の頃は大学の図書館に通ったものだが、卒業後はほんの数回しか利用していない。しかし図書館は必要な施設と考える。私の友人である高等遊民は殆んど毎日図書館に通って、五大紙や地方紙だけではなく英字新聞まで読んでいた。だから私は図書館を否定しない。しかしここ10年間、週刊誌以外の本を読んでいない人にとって図書館など無駄な施設としか思えないだろう。
 全体の6割を占める図書館を利用しない人全員が反対票を投じた訳ではなかろう。しかしその7割程度は反対票だっただろう。つまり有権者の4割が、ツタヤ図書館だけではなく図書館の存在そのものを否定していたということだ。
 住民投票の結果は反対56%、賛成44%だった。もし図書館を不用と考える人を除けば、圧倒的多数の人がツタヤ図書館を支持していたということになるだろう。
 トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭にはこんな言葉が掲げられている。「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭は不幸さがそれぞれ異なる。」これと同様、賛成する人の意見は一致しているが反対する人の意見は様々だ。だから具体案の賛否を問えば大半が否決される。
 マスコミはこのことをよく知っている。だからアンケート調査では極力、二択を避けて三択や四択を使う。多数決によって選ばれる政治家は、多数決の欠陥と安易に賛否を問うことの愚かさを理解せねばならない。

新々ジャンル

2015-10-16 09:48:26 | Weblog
 多くの人が同じメーカーのビールと発泡酒・第3のビールを飲んでいるだろう。私の場合はスーパードライとクリアだ。アサヒビールにとってスーパードライが理想の味だろうから、それと似た味の第3のビールを作るのは当然と思える。
 第3のビールのトップブランドを持つキリンビールは違った戦略だと思う。のどごし〈生〉は一番搾りにもラガーにも似ていない。むしろサッポロビールの黒ラベルに似ている。これは面白い戦略だ。かつて戦略ミスによって業界1位の座を失っただけに、現在のマーケティング担当者の能力はアサヒ以上なのかも知れない。
 アサヒの戦略が最悪だ。スーパードライの愛好者をクリアとプライムリッチが奪ってしまう。この点キリンは賢い。社内競合を避けてスーパードライの味を真似ても既にクリアやプライムリッチをアサヒが作っているから敵いそうに無い。だからサッポロビールのシェアを奪おうとしているのではないだろうか。しかし私のようなアサヒのファンにとってはのどごし〈生〉は旨くない。なぜこれが第3のビールのトップ商品なのか分からない。多分キリンのブランドが高齢者にとっては今尚有効だからだろう。
 その一方で、発泡酒№1の「淡麗〈生〉」がリニューアルされて「淡麗極上〈生〉」に変わった。かなりラガーの味に近付いたように思う。かつてキリンビールはラガーを「生」に変えることによって日本のマーケティング史に残る大失態を演じた。これはアメリカでのコカコーラの失敗をそのまま踏襲してしまったということもあり大変な恥晒しになった。そんなキリンにとって主力商品のリニューアルはかなり勇気の要る決断だっただろう。
 製造方法が限定されているビールとは違って発泡酒や第3のビールには製法の自由がある。昨年サッポロの極ZEROが大ヒットしたが、糖質やプリン体を除くというマイナス発想ではなく付加価値を付けるというプラス発想の新商品を開発できないものだろうか。
 ビール類の摂取量は他の飲料と比べて桁違いに多い。だからほんの少しのビタミンやミネラルでも充分な量を摂取できる。あるいは悪酔い・二日酔いの予防に有効と言われるウコンでも良い。「楽しく美味しく健康」というコンセプトで新しい飲料を開発して欲しいと思う。
 ノンアルコール飲料では5月に「サッポロプラス」が特定保健用食品として発売されたが、トクホとして認定される必要は無い。高付加価値であることさえ認められれば、極ZEROと同様に充分な需要を喚起できる。ビール類を飲んで健康増進が期待できるならビール好きにとっては朗報だろう。酒飲みが健康に無関心な訳ではない。
 

有害物

2015-10-15 10:26:54 | Weblog
 薬は有害物だ。どう有害であるかによって3種類に分類できる。①病原体にも人にも有害②病原体にのみ有害③人にのみ有害。
 大半の薬は人にも病原体にも有害だ。「毒を以って毒を制す」が薬の本質だ。そんな毒物が薬として使われるのは、メリットのほうがデメリットよりも大きいからだ。命を救うためであれば多少の副作用など無視してでも使わざるを得ない。
 理想的な薬は、病原体にのみ有害な薬だ。大村博士の発見に基づく寄生虫病治療薬のイベルメクチンや抗生物質などがそれに近い。しかし実際には人体に全く無害という訳ではなかろう。有害性がかなり低いだけなのだから過信して常用すべきではなかろう。
 人にのみ有害な薬とは妙な薬だと思われるだろうが、退治すべき病原体が無ければ人体に異常反応を起こさせることによって症状を緩和する。対症療法薬がその典型だ。下痢止めは腸の機能を鈍らせ、鎮痛剤は痛覚を麻痺させるだけであり、原因は放置されるから治療効果は全く無い。
 生活習慣病の患者に投与される薬は検査数値を下げるだけだ。降圧剤は血圧を下げるだけでありなぜ血圧が高いのかを問わない。昔、水道水に含まれる塩素を塩酸に変えることによって塩素の検出値をゼロにする「浄水器」があった。塩素よりも塩酸のほうが一層有害なのではないだろうか。降圧剤で血圧を下げることもこの「浄水器」の使用と似た愚行と思える。検査数値を下げることばかり考える人はフォルクスワーゲン社のディーゼル車の偽装工作を笑えない。
 抗癌剤は細胞破壊薬だ。毒物のレベルだ。実際に抗癌剤に「毒」と表示している病院もあるそうだ。癌細胞も正常細胞も破壊するから、運が良ければ多少の延命効果が期待できるというレベルの薬に過ぎない。
 抗精神病薬は人を狂わせる有害物だ。過酷な仕事や重大な問題を抱えた家庭事情が原因で欝状態になった人を薬で治せる訳が無い。生活環境が変わらない限り苦境は続く。そんな苦しみを感じなくさせる薬は治療薬ではなくロボトミー手術と同様の精神破壊だ。
 栄養障害の人に対する栄養補給剤以外の薬は総て毒物だ。寄生虫や病原菌を殺すから薬効を発揮する。ウィルスは生物ではないから殺せない。だから風邪に効く薬は無い。毒を飲んで健康になれる訳が無い。昔から「馬鹿に付ける薬は無い」と言うが、巷に溢れ返っている薬の大半が、薬の有害性を知らない「馬鹿のための薬」だ。