俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

定額と定率

2015-10-15 09:45:33 | Weblog
 〔問〕同じ店で使えるが同時には使えない千円券と1割引券を1枚ずつ持っていればどう使い分けるのが最も得か?
 〔答〕千円券を低価格品の購入に、1割引券を高価格品の購入に使う。
 〔理由〕1,500円と10,000円の商品を買うなら、正しく使えば2,000円得をするが、間違った使い方をすれば1,150円しか得をしない。お釣りの出る千円券であれば極力安い品に使ったほうが得だ。もし10円の商品を買えば990円の現金を入手できる。
 千円券のような定額券は低価格品の購入に使い割引券は高価格品の購入に使うべきだ。定額と定率には異なった特長がありそれを理解すれば、それぞれの長所を生かした使い分けが可能になる。
 消費税は定率の税制だ。この税制の最大の欠点は「平等性」だ。富裕者にも貧困者にも平等に課税する。富裕者にとってたった8%の税金など気にならないが、貧困者にとってはたった1円でも惜しい。1円の重みが違うから平等な課税は不公平だ。
 この不公平さを改善するためには軽減税率を含めた税率の見直しよりも定額制の給付金のほうが有効と思える。定率である消費税の欠陥は定額制によって補完できる。全員に定額を給付した場合、富裕者にとってははした金だが、貧困者にとっては貴重な収入になる。敢えて全員とするのは、制限を設ければその手続きのために無駄なコストが掛かるからだ。そんなことに経費を使うよりも富裕者も含めた全員に給付したほうが却って国費の負担は少ない。
 しかしやはり制限は必要だ。失敗例がある。リーマンショックの時、オーストラリア政府は景気対策として一人当たり約60,000円をバラ撒いたそうだ。これが招いたのは空前のギャンブルブームだったと言われている。国民がアブク銭と考えればこんな乗数効果の乏しい出費のために浪費されかねない。
 給付金よりも用途を制限した給付券のほうが良いと私は考える。地域限定にしたり、購入対象品や対象店舗を絞ったりして、しかも申し込み制にする。給付券に魅力を感じない富裕者であればわざわざ申し込まない人もいるだろう。こうすることによって給付を必要とする人を優遇する政策となり得る。

間接金融

2015-10-13 10:30:25 | Weblog
 企業への融資は直接金融と間接金融の2種類がある。社債や株式などを購入すれば直接金融で、預金されたお金が銀行などから融資されるのが間接金融だ。
 日本国民は多くの国債を持っている。直接金融はごく一部に過ぎず多くは間接金融だ。金融機関が預貯金の一部を使って国債を購入している。日本の国債残高が膨れ上がってもギリシャのような財政危機に陥らないのは、国民による間接金融が中心になっているからだ。預貯金が充分である限り国民による間接金融という構造は変わらない。国家財政を支えているのは豊かな国民だ。
 こう考えると一抹の不安を感じる。最多数者である団塊の世代が預貯金を取り崩し始めれば金融機関が国債を買うための資金が足りなくなって国債が暴落するのではないか、ということだ。
 そんな不安を持って調べてみたら、9月30日に日銀が家計金融資産の推移を発表していた。もしこれが中国政府の発表であれば絶対に信じないような驚くべきデータだった。何と家計金融資産は増え続けていた!
 データは2001年から15年までであり、その総額は01年の1,407兆円から15年の1,717兆円まで、08年と09年に一時減少したもののほぼ一貫して増え続けている。その内、現金・預金は01年の771兆円から15年の893兆円まで、04年から07年の減少以外はやはり増え続けている。この驚くべき事実をどう解釈したら良いのだろうか。
 これは高齢者がまだ資産の取り崩しを始めていないということだろう。定年後に削減された賃金と乏しい年金の範囲内で暮らしているからこそ家計金融資産が増え続けているとしか考えられない。
 こういう情報をマスコミは余り報じない。国の借金の増加ばかりを騒ぎ立てるから私もこのデータを知るまでは悲観的になっていた。この国の老人は意地汚くしかも逞しいようだ。マスコミが良いデータを無視して危機を煽ってばかりでは狼少年になってしまう。良いデータも悪いデータも対等に扱うべきであり朝日新聞の得意技の「角度を付ける」報道は公正とは言い難い。それは政府に批判的な人に迎合しているだけだ。
 7日の朝日新聞にはこんな記事があった。見出しは「法人所得 バブル期超え最高」だった。ところが記事を読めば「法人などが源泉徴収した所得税(中略)は、12.6%増の16兆6870億円で5年連続の増加。」と書かれていた。所得税が増え続けたのは給与が増えたということだろう。このことはついでに触れられただけだ。
 マスコミが幾ら批判をしても政府が国債残高を減らそうとしないのはちゃんとデータの裏付けがあっての政策だったようだ。

同化

2015-10-13 09:44:15 | Weblog
 明治維新以降、日本人は西洋人と同化することによって文明国の仲間入りをしようと努力をし、欧米以外では唯一の先進国となった。この成功体験があるから新たな領土である台湾や朝鮮や南太平洋諸島においても同じ政策を選んだ。
 欧米の軍事力は圧倒的に優れていた。日本人はペリーの来航以来それを痛感させられていたから近代化しなければ植民地にされ奴隷の地位に落とされると恐れた。だから新天地においても文明化は急務でありその地域独自の文化を否定せざるを得なかった。
 文化の多様性を認める現代の価値観に基づけばこれは誤った統治だ。それぞれの文化を尊重せねばならない。最悪なのは土着の言語まで失わせたスペイン・ポルトガルによる南米支配だ。しかし当時の世界観では文明国と未開地の差は歴然としていた。だから農業改革や教育の充実、あるいはインフラや衛生環境の整備、更には身分制度の廃止などを、たとえ住民の反対があっても強行せざるを得なかった。これらの施策を「過酷な植民地支配」と捕えるか文明化のために必要な措置と捕えるかは極めて主観的な価値判断になる。私は第二次世界大戦後の新しい価値観で過去を評価すべきではないと考える。
 現代においては民族自決が原則だ。それぞれの民族の独自性が肯定され余所者による文化の蹂躙は否定されている。しかし旧ユーゴスラビアのような他民族国家では激しい内乱の末、国は四分五裂した。アラブの春が招いたのは大混乱とIS(イスラミックステート)の台頭と大量の難民だ。先進国においてもイギリスやスペインやカナダなどでは分離独立運動が起こっている。
 中国のウィグルやチベットをこれらと同列に扱うべきではなかろうが、漢族による同化策に無理があることは明らかだ。中国の歴代の王朝の多くが農民と新興宗教集団の反乱によって滅んだ。歴史に学ぶ民族でありしかも宗教を否定する共産党の一党独裁体制なのだから、イスラム教や仏教との妥協はあり得ない。漢族による文化の破壊と同化を否定するなら分離独立以外に解決策はあり得ない。
 韓国が奇妙な動きを見せている。アメリカによる庇護を否定して中国に急接近する二股外交を試みつつある。北朝鮮に影響力を持つ中国に頼ることは理解できるが、ウィグル族やチベット族に対する植民地支配をどう評価しているのだろうか。二股外交だけではなく二枚舌外交なのではないだろうか。

一貫性

2015-10-11 10:48:21 | Weblog
 DV(ドメスティック・バイオレンス)の被害者は相手を庇うことが多いらしい。これは必ずしも愛情からではなく、自分が彼を選んだという判断を否定されたくないからだろう。
 結婚詐欺の被害者も被害を認めたがらないそうだ。この傾向は特に男性に顕著だと言う。これはプライドだけではなく、美しい思い出を穢されたくないからだろう。結局、男女共に、自分の過ちを認めたくないということだ。
 朝日新聞がミスではなく故意に、誤報ではなく捏造の」レベルでの酷い記事を書き続けたのも似た心情が原因なのかも知れない。朝日新聞には大きなトラウマがある。昭和20年の9月、GHQによって2日間の発行停止処分を受けた。朝日新聞の記者は驚愕した。言論の自由の庇護者と思い込んでいたGHQに裏切られたからだ。このショックは絶大だった。これ以降、朝日新聞はGHQに迎合する記事しか書けなくなってしまった。
 当初は渋々従っていたがやがてそれが主体的行動に変質した。これはストックホルム症候群の一種だろう。1973年にストックホルムで起こった銀行強盗人質立て籠もり事件では人質が強盗に協力して警察に敵対した。1974年にはアメリカの新聞王の孫娘のパトリシア・ハーストは自分を誘拐した犯人グループに協力して銀行強盗になった。このように人は、強制されているという事実を否定したいがためにそれを自ら意志するという奇妙な行動を選ぶことがある。
 GHQによる言論統制が終わった時、朝日新聞にはジレンマがあった。弾圧が無くなったのだから本来の自由な報道をするか、それともそれまでの記事との一貫性を重視するかを自ら選ばねばならなかったからだ。
 多分その時点では、アメリカに迎合する記事を書くことに罪悪感を覚えない非良心的な人々が主要なポストを占め、偽りの記事に抵抗する人は閑職に追いやられたり自ら会社を去ったりしていただろう。そんな企業風土になっていたから朝日新聞は言論統制下と全く同じ論調の記事を掲載し続けた。このことはそれまでの記事との一貫性を保つためにも有効だった。
 しかしこれは正常な心理状態ではない。GHQの弾圧に脅え遂にはその意思を我が意とするという心理は尋常なものではない。DV被害者と同質の異常心理だ。
 こんな職場では狂気が支配する。新たに入社した人も感化されるし上司や諸先輩を否定することも難しい。狂気が支配する社会では正常な人が狂人として扱われる。先日の「吉田調書」と「吉田証言」について調査した外部のスタッフは「角度を付ける」という言葉が頻繁に使われることに驚いたそうだ。これは「朝日新聞らしい記事を書く」という意味であると同時に「事実を多少脚色する」という意味でもある。こんな報道機関にあるまじきことが朝日新聞では常識になっていた。こんな新聞が世論をリードしたから日本人の多くが狂気に感染した。多くの日本人を狂わせ世論を操作した罪は重い。

悪税

2015-10-11 09:53:27 | Weblog
 私は消費税を悪税と考えている。それは世間でよく言われているように「逆進性」があるからではなく「平等性」に基づく税制だからだ。日本人の常識として、平等は良いことだ。だから「平等だから悪い」とは言えずに「逆進性」という嘘を根拠にする。根拠が嘘であれば「消費税は悪い」という結論まで嘘に思われてしまう。これは財務省による巧妙なトリックなのではないだろうか。アガサ・クリスティの短編「検察側の証人」をビリー・ワイルダー監督が映画化した「情婦」という作品の大どんでん返しに私は仰天したが、それにも匹敵する巧妙な仕掛けではないかとさえ疑う。
 逆進性の根拠は、消費されない所得には課税されないということに基づく。つまり消費性向の低い高額所得者の負担が少ないということだ。それは消費税÷所得という数式によって算出される。この論理の欠陥は現在しか見ていないことだ。お金は使われない間は抽象的な存在に過ぎず使われて初めて実体化する。今使われなくてもいずれ必ず使われる。その時の消費税÷所得は税率よりも高くなる。多分その時には税率そのものも上げられているだろうから所得があった時点での消費よりも税負担が重くなる。消費税の負担増を免れるためには消費税制度の無い国で消費するか外国で還付制度を利用するかしか無い。もし使わなければ相続税によって目減りする。逆進性などどこにも無い。こんな誤った理屈を使う御用学者がいるから、彼らに対する不信も手伝って日本人が不思議なほど消費税を受け入れているのではないだろうか。
 税金は「平等に」ではなく生活に余裕のある人が多目に負担すべきだろう。これこそ消費税が悪税である根拠だ。平等を正義と信じるから消費税が正当化される。
 人頭税という税制がある。これは等しく受益者である国民全員に一定額を負担させる税制でありこれほど平等な税制は無かろう。しかしこれが悪税であることは言うまでも無い。平等は悪く不平等が正しい。これは常識には背くが、常識やタテマエに捉われていれば事実を見逃す。
 日本の所得税は個人の所得に課税する。これを根本的に見直すべきではないだろうか。フランスでは世帯所得が課税対象になっている。だから夫婦に子供2人の家庭であれば、世帯の総所得を4で割った金額に課税をしてその4倍を収める。家族が多いほど税率が低くなるからこそフランスでは出生率が高いのではないだろうか。勿論、親も世帯に含めれば税率は更に下がる。
 現役世代が親を扶養しないために老人の生活保護が増えているという現状を改めるためにも税制のこんな見直しがあっても良いのではないだろうか。この税制は少子化対策にも有効だ。訳の分からない、実効性の乏しい子育て支援策などよりも、税制を改めたほうが遥かに良かろう。
 このように税制度を改めるだけで様々な問題が一挙に解決するということは、逆に、悪税こそ社会問題の根本原因ということなのではないだろうか。

薬効

2015-10-09 10:23:20 | Weblog
 大村博士の発見に基づいて開発されたイベルメクチンは3億人を救ったと言われている。しかし、薬が世界を救う、などと早合点すべきではない。薬の本質は有害物であり、何にとっての有害物であるかによって薬と毒に分けられる。イベルメクチンは寄生虫にとっては有害物どころか猛毒だ。だから効く。敵の敵だからこそ味方になっている。
 良い薬は2種類だ。寄生虫に有害な薬と病原菌に有害な薬であり、どちらも特定の生物にとっての有害物質だ。寄生虫や細菌にとっては猛毒で人間に対する有害性の少ない毒物が薬として使われている。しかしウィルスは生物ではないから殺せない。だから最もありふれたウィルス性疾患である風邪でさえ治療できない。
 では病気の原因が病原体ではない時に薬はどう働くのか。人体そのものに異常反応を起こさせる。下痢止めは腸の活動を抑え、鎮痛剤は痛覚を麻痺させるだけだ。こんな対症療法薬によって不快感は軽減されるが治療効果は全く無い。
 動物には自動調整機能が備わっている。その状況において最適な状態に自動的にセットされ、これはホメオスタシス(恒常性)と呼ばれている。暑ければ汗を出し、寒ければ鳥肌を立てたり震えたりする。無為自然を讃えるつもりではないが、体温や血圧などが高くなるのは、そうすることが生体にとって必要であることが多い。解熱剤や降圧剤などによって強引に下げることは大抵の場合、有害だろう。
 抗癌剤は細胞を破壊する毒物だ。癌細胞も正常細胞も攻撃する。そんな毒物を使わざるを得ないのは癌が侵入者ではなく自分の細胞の変異体だからだ。癌細胞は異物ではないから癌を攻撃すれば正常細胞も傷付く。どちらが先に死ぬかの我慢比べであり癌細胞と競うチキンレースのようなものだ。共倒れを厭わない玉砕戦術なのだから、抗癌剤の毒性が強く重い副作用を伴うのは当然のことだ。
 毒ではなくしかも有効な薬もあるがこれは本来の薬ではなく栄養素だ。脚気に対してビタミンB剤が有効だ。同様に様々なビタミンやミネラルの欠乏症、あるいは必須脂肪酸や必須アミノ酸の欠乏症にはサプリメントが有効だ。これらは偏食が招いた障害であり本来の病気ではない。
 生活習慣病患者の多くは運動欠乏症だろう。栄養素の不足が障害をもたらすように、運動不足が肉体を錆付かせているだけだ。薬に頼るよりも適度な運動をしたほうが有効だ。これは栄養失調の患者にとって、食生活の改善のほうがサプリメントの摂取よりも有効なのと同じことだ。

微生物

2015-10-09 09:39:53 | Weblog
 先日ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村智特別栄誉教授は非常にユニークな人のようだ。高校時代には2度も国体に出場し、定時制高校の教師を勤め、美術館の館長であり、温泉施設やそば屋のオーナーでもある。こんな様々な経歴を持つ人は珍しい。
 失敗についての話も興味深い。「絶えず失敗しないと駄目なんです。成功した人は失敗のことは言わないんです。私もそうですが、成功の蔭にはその何倍もの失敗がある。そのことを忘れないでほしいですね。}(毎日新聞より。朝日新聞では「何倍」ではなく「3倍」)
 素人がイチロー選手の投げる143㎞/hの速球を打つことはほぼ不可能だ。しかしバットを降ればマグレ当りで掠るかもしれないが振らなければ絶対に当たらない。どうせ当たらないからと諦めずに練習していればたまには当たることもあるだろう。試みは殆んどが失敗するのだから成功するためにはその何倍も失敗することが必要だ。成功は僥倖だが、棚ボタで成功することは殆んどあり得ない。何度でも挑戦して初めて成功し得る。
 エジソンは「10,000回実験しても成功するのはほんの10回程度」と言った。成功する確率はそれほど低い。所謂ポジティブシンキングの「やればできる」や「夢は叶う」は嘘っぱちだが、挑戦しなければ成功はあり得ない。
 大村博士は寄生虫病の治療薬の開発によって受賞された。この薬は伊東市で採取した土に含まれていた放線菌が作る物質を改良したものだ。人類最初の抗生物質のペニシリンも青カビが作る物質から抽出した薬だ。微生物は思いもよらない物を作り出す。数十億年に亘る試行錯誤の賜物だろう。
 牛は自力ではセルロースを分解できない。胃に棲んでいる微生物が分解している。牛は4つの胃を持っているが胃酸を出すのは第4の胃だけで、他の3つは微生物がセルロースを分解するための場所として使われている。この微生物を殺してしまうとセルロースを分解できなくなるために牛は草を幾ら食べても餓死してしまうそうだ。パンダは元々肉食動物の熊の一種だ。パンダの消化器もセルロースを分解できない。竹を消化しているのは腸内細菌だ。
 微生物の役割はそれだけではない。大半の動物がミトコンドリアと共生している。酸素呼吸をするのは細胞内のミトコンドリアに酸素をエネルギーに変えさせるためだ。人類もミトコンドリアを働かせるために呼吸をしている。
 最近、生物学の勉強を怠っていたが、大村博士の偉業を機に学び直そうかと思っている。

死刑囚

2015-10-07 10:23:59 | Weblog
 4日に名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚が享年89歳で獄死した。多分、政府は獄死することを待っていたのだろう。物的証拠の乏しい事件であり自白に頼ったかなり怪しい判決に基づいているから冤罪の可能性が少なくない。だから死刑確定後43年間も死刑にできなかった。勝手に終身刑に減刑していたのではないかとも思える。
 イギリスにはとんでもない事例がある。1950年にエバンス氏は妻子を殺した罪で死刑になった。ところがそれから3年後、真犯人が見つかった。これは究極の冤罪事件であり国家による殺人事件だ。イギリスはこれに懲りて1965年に死刑制度を廃止した。
 奥西死刑囚を死刑にした後、もし真犯人が名乗り出たら第二のエバンス事件になってしまう。政府はそれを恐れ、どの法務大臣も死刑執行を命じられなかったのだろう。大体そんな疑わしい死刑囚が存在すること自体おかしい。推定無罪、つまり疑わしきは罰せず、であるべきだろう。
 私は2人の死刑囚について疑問を持っている。一人は和歌山砒素カレー事件の林眞須美死刑囚であり、もう一人はオウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚だ。
 林死刑囚は冤罪だと思う。判決文を読んでも、物的証拠が乏しく状況証拠の寄せ木細工で有罪という結論を導いている。「推定無罪」の原則を守るべきだろう。マスコミが犯人と決め付けたことによって裁判官が誤誘導されたとさえ思える。物証とされた砒素の鑑定も不十分であり、近々、再審が認められるのではないだろうか。事件の場に居合わせた人が潔白であることを証明することは極めて難しい。だからこそ有罪とする決定的な証拠が無い限り無罪とすべきだ。
 松本死刑囚は狂人だから死刑にできない。刑法第39条には「心神喪失者は、罰しない」と書かれている。現在の松本死刑囚が狂人であることは明らかだ。親族との会話さえできず、所構わずマスタベーションを始めると伝えられている。犯行時、つまり地下鉄サリン事件を命じた時点で既に狂っていたと思える。
 この二人は国民から嫌われている。だからマスコミは国民感情を逆なでする報道を避ける。しかし法治国家では感情よりも法を優先する。「悪法も法なり」と言って毒杯をあおいだソクラテスが法治国家の理想であり、全く守るつもりの無い日本国憲法を自らの権力拡張のために悪用し続けている日本共産党は法治国家に巣食う毒虫だ。

加工貿易

2015-10-07 09:40:42 | Weblog
 資源に恵まれない日本が経済大国であるのは加工貿易の恩恵だ。自動車であれ家電であれ時計であれ、原料を輸入してそれに付加価値を付けて輸出している。加工貿易は日本のお家芸とさえ言える。輸入に頼らない輸出品は漫画とアニメぐらいしか無いのではなかろうか。
 TPPが概ね合意に達したようだが、もっと早く日本が食品の門戸を開いていれば加工食品の輸出大国になっていただろう。農業を守るという口実で省益を追及した農林水産省の罪は重い。国賊の名に値するほどだ。
 世界一大量に小麦を輸入する国をご存知だろうか。イタリアだ。イタリアは輸入した小麦をパスタに加工して輸出している。食品の加工貿易の手本だ。
 僅か10%の自給率しか無い小麦を守るという口実での異常な関税が日本に無ければ日本はイタリア以上のパスタ大国になっていただろう。異常に高い小麦を使ってインスタントラーメンを作っても異常に高いラーメンにしかならないから日本のメーカーは海外生産をせざるを得なかった。これは国内での雇用機会を奪った。もし小麦の価格がまともであれば、インスタントラーメンを国内で生産してそれを世界中に輸出することによって、小麦農家の何万倍の雇用を生み大量の外貨を獲得して国を富ませていただろう。
 ビールも同じだ。資源に恵まれない日本だが水資源には恵まれている。水道水をガブ飲みできる国など殆んど無い。これほど水に恵まれていれば飲料の製造において絶対的に有利だ。もし大麦に異常に高い関税が掛けられていなければ日本は世界有数のビール輸出国になっていただろう。少なくとも韓国から低品質のビール紛い品を輸入することなど無かっただろう。
 農家を守るために必要な措置だ、と農水省は言う。これは嘘だ。確かに当初は農業保護が目的とされていたが今では、品不足が続くバターも含めて、農水省の利権を守るための悪政に過ぎない。おかしな過剰保護が無ければ農家は市場に受け入れられる農作物を作るなり転職するなりして自立する。農水省が国民に高額の食料品を押し付けるという暴挙を行ってまで特定の農産物を保護したのは利権のためだ。これは国営のぼったくりバーのようなものだ。
 かつては人口の5割を占めた農業人口は今では5%にも満たず、しかも大半が兼業あるいは退職後農家だ。最早水田は票田ではない。
 旧・通商産業省(現・経済産業省)も悪政を行った。大規模小売店舗法などによって零細小売業者を保護したが、それが招いたのは日本全国に見られるシャッター商店街だ。おかしな保護政策は事業者の甘えを呼んで保護行政の元でしか生き延びられない虚弱者を短期間温存するだけであり、事業の進化を妨害する。

住民投票

2015-10-05 10:45:39 | Weblog
 昨日(4日)愛知県小牧市で市立図書館の指定管理者をCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)とすることの是非を問う住民投票があり、案の定、否決された。一部の住民による「市民の声を聞け」という要求に応えたものだが、こんな住民投票の乱発にはうんざりする。そして市議会議員の無責任さに呆れる。私ならツタヤ図書館の是非よりも議員全員に対するリコールに参加したいところだ。
 議員の立場としては、住民が決めたいと言っているのだから決めさせてやれば良い、ということだろうが、そんな投げやりな姿勢で良いのだろうか。これが議会制民主主義の否定であり、議員に対する不信任の表明であることに全く気付いていないようだ。
 ツタヤ図書館に長所も短所もあることは佐賀県武雄市の例があるからよく分かる。それを実際に調査して総合的に判断することが議員や市役所職員の役割だ。それを市民に丸投げするような働かない担当者など要らない。
 公共図書館の貸し出し数は年間約7億冊らしい。国民一人当たり7冊ほど借りているという計算になるが、利用者は全国平均で38%、つまり1/3の人しか利用していないということだ。そんな状況で住民投票をすれば利用していない62%の人の意向が反映される。私がいきなり「案の定、否決された」と書いたのはこの住民投票が「現在の図書館建設計画」に対する賛否を問うからだ。多数派を占める図書館不要論者の意向が反映されるからどんな図書館の案でも否決されるだろう。もし将来、公営図書館の案が住民投票に掛かってもやはり否決される。民意は「図書館など不要」だからだ。多数決は不合理な制度だ。もし「外国人の居住禁止」という住民投票があれば多くの自治体で可決されるだろう。
 中学生の時こんな経験をした。私が3年生の時になぜか突然、生徒全員のクラブ活動への参加が奨励された。私は軽い気持ちで音楽鑑賞部を選んだらいきなり部長に選ばれてしまった。
 元々30人くらいの部員数だったが突然100人以上の新入部員を迎えることになりその場で部長を選ぶことになった。なぜか私は下級生にも人気があったために新入部員でありながら部長に選ばれてしまった。選ばれたから仕方がない、部長としての方針を出さねばならない。私はクラシック偏重を脱して幅広い音楽を楽しもうと提案して多数を占める新入部員を大喜びさせた。
 それからが大変だった。私は当時「不良の音楽」と位置付けられていたビートルズの大ファンであり当然その公約を果たさねばならない。当時は未だ「レット・イット・ビー」は勿論のこと「ヘイ・ジュード」も「サムシング」も存在しない。クラシックファンの巣窟である音楽鑑賞部でビートルズの曲が流されたのは多分、日本で最初だったと思うが、「イエスタデイ」だけは辛うじて従来の部員にも受け入れられたが他の曲は酷評された。なお私の主な支持層だった新入部員は大半が幽霊部員になった。
 こんな個人的な体験を書いたのは多数決が不合理であることの実例を示すためだ。新入部員を加えずに生え抜きの部員だけで投票していれば私のような変な部長が選ばれることなど絶対に無かっただろう。図書館の運営についても、利用者と将来利用する意思のある人だけで決めるほうが良かろう。無関心の人まで加えれば民主主義ではなく衆愚主義になってしまう。