84 計画と光
真珠の使いがきたのは少し前になる。マスタングもアームストロングもあの使者はもう本国に帰ったと思っていた。
しかし、使者はもうひとつの命令を抱いてまだアメストリスにいた。
エドワード・エルリックを誘拐してつれて来いという命令を。
『無理をしないで。危なくなったら、何もかも捨てて逃げてください。あなたの命より大切な物は無いのですから』
誘拐の計画はできた。アメストリスにもシン人は結構いる。もちろん公式の訪問者ではない。アンダーグランド経済の住人だ。使者はそんな連中を利用してエドワード・エルリック誘拐計画を立てていた。
そう、計画はできた。
だが。
本国を出る前にあの黒髪の女の言った言葉が使者の胸を締め上げる。あの女はなぜあんなことを言ったのだろう。そして自分はなぜ女一人の言葉に締め上げられているのだろう。
リン様のご命令なのだ。それ以外のことが自分にあるわけは無い。
自分の家はヤオ家に仕えているのだから。
あの国家錬金術師2人が西に出れば、あの館は病人と子供と女、それに車椅子の男が最近増えた様だがそれだけだ。外の警備員は数にも入らない。
そして、もうすぐ彼ら2人は西に行く。軍に潜り込んだスパイからの情報だ。間違いない。
その時に、・・・・・・・リン様のご命令だ。エドワード・エルリックを誘拐する。
「石を作るつもりだっただと」
先日のセントラル炎上未遂はすべてデル博士の責任として処分された。これは本人が「それだけのことができるのはわしのような天才だけだ」と豪語したことを理由として判断された。どうせ終身刑で刑務所に戻されるデルに一つや二つ罪状が増えようが減ろうが誰も気にしない。本人もだ。むしろ自分の才能を刑務所でも自慢しまくっている。
「そうです。工場の警備状況を見てまたやります」
「やめておけ」
「なぜです。石さえあればエドを救えるかも、最悪でも時間を延ばせる。その間にアルを」
「あぁ、それはそのとおりだ」
「それならなぜ、俺ではできないとでも言いたいのですか。それは、准将のように四大元素の筆頭と言われている人から見れば俺は子供でしょうけど。でもすくなくとも一度は石を作り上げて、ご存知でしょう。エドが報告したはずだし前にも言いましたから」
「覚えている。不完全な石といったな」
「 そうです。でもそれでもいいのです。とにかく力はある。材料の質量を増やして大きな石にすれば時間稼ぎぐらいできます」
マスタングは細くなった腕を振り回すように説明する若者の姿に一度目を閉じた。この子は知らないのだと。赤い石あれがどういうものか。当初この子が作ったと言った石の不完全品は、そもそも本物ではないのではとロイは推測していた。赤い石を造った術師としてはこの子は透明すぎる。だが、ラッセルが以前練成陣の暴走で死にかけてから、ロイは彼の過去を本人すら知らないことまで調べ上げた。彼の父のことを特に詳しく。
その中にこんなデータがあった。
ナッシュ・トリンガムは死んだ。その後赤い石の元となる液体の原料となった。それを元に石を造った。造った術師はラッセルだった。
ラッセルは知らない。裁判を傍聴した人々も後で記録を見た人もあまりのことに彼ら兄弟にはそのことを隠した。それは彼ら自身の罪を隠すためも大きかった。
エドたちと出会ったころ、ラッセルは液体を分析していた。今回はそのデータを元に人工血液を完成させた。
だが、分析しきれない微量成分があった。それが何かロイは知っている。
命。
だから、いくらラッセルが必死になっても赤い石ができるはずが無いのだ。
それでもと、ロイも思いたかった。本物の石でなくても何かの力を持ったものができないかと。それで時間を稼げればと。
だが。ロイは目を開いた。一年だ。たった1年であまりにも彼は変わった。来た当時も細身で白い肌ではあったが、あのころは鍛え抜かれた鞭の強さがあった。今彼の肌はまったく血の気を感じさせない。あまり力も入らないようだ。力は落ちても戦闘力は落としていないと本人は言い切るし、事実そのとおりだが。
それでも重装兵相手の訓練後急に脈を半減させ倒れたのを、マスタングはひそかに報告されている。おそらく長時間の戦闘には耐えられないのだろう。髪は銀色に変じている。いや、これは直接の関係は無いかもしれないが。
それでも生体への連続する練成などという、ロイでさえ聞いたこともないような技を使わせなければこんなにやつれさせることは無かったはずだ。いや、心臓の欠陥ももう数年は表に出なかったかもしれない。あの時、エドを救えなくても支える方法があると聞いたとき、マスタングはリスクを訊かずにGOサインを出した。まぁ、彼の性格を見ればマスタングのGOサインなど無くても実行しただろうが。
「とにかく、石を造るのはあきらめろ。外の方法を考えよう」
マスタングは結論だけ押し付けた。
ロイは亡き親友にあることを訴えてきたばかりだった。
あまりに恥ずかしくて「あいつ以外には聞かせられない」ことを。
軍の墓地は管理人がいるし遺族もよく来る。だから墓地と言ってもどこかにぎやかだ。うち捨てられた死体放置所とは雰囲気がまるで違う。それでも月明かりしかない深夜に揺らめくランプひとつもって墓所を訪ねる酔狂者はマスタングぐらいだろう。
軍が付けてくれている副官も運転手も帰らせ、ロイは一人で親友と話に来た。
墓石の前に座り込み酒を開く。自分が呑むわけにはいかない。明日も軍だし、いやもう今日か。
「もらい物で悪いな。コニャックだ」
墓石の前に酒を注ぐ。
「お前の好きなものを持って来たかったが家に帰れないんだ」
「ヒューズ。お前が探してくれた道を俺はたどっているだけだ。だから教えてくれ。これからどうしたらいい。時間が無くなった。こんなに早く。お前があの子の手を引いて連れて行くのか。早すぎる。
私はどうしたらいいんだ」
「あの子こそは奇跡だ。扉を開けてなお生き残った。いや、あの子達が奇跡を呼び起こすのか」
「『火をつけたのはあんただ』か。違う。あの炎はもともとあったのだ。私は行きあわせただけだ。あの子を欲しかった。最初から。だから軍に引っ張り込んだ。あの子がもう一度奇跡に向けて走れば私も手に入れられると思った。
ヒューズ。私はただあの子を失いたくないだけだ。だが、そのために・・・。
追い詰められたくは無いな。追い詰められると人は本性に戻る。自分がこれほど卑しいとは知らなかった。あの子を欲しい。あの子を失いたくない。そのために何かを誰かを犠牲にしても・・・。私は・・・。何をする気だ・・・。
知らなければ良かった。真理の話など。エドに写真を見せなければ知らずにすんだ。(あの時は、間違いなくラッセルをすくう気だったが、皮肉なものだ。あのときの言葉が教える)
ラッセルの背中の命の樹の練成陣、あれを使えばエドを救えるかもしれない。手遅れにならないうちに二人とも失わないうちに、もしどちらかしか救えないなら、 私はいったい何を」
(ヒューズ、お前の声が聞こえない。お前に見捨てられたのか。私がこんな男だと知ってあきれ果てたのか。ヒューズ)
墓所は静かだ。深夜に来る酔狂者はマスタング一人。と、明るすぎる月の光の中、軍特有の靴が歩みを進める。サイズは23センチ。軍人としては少し小さい。静かな足音。行くべき場所を熟知しているように靴は動く。
目的の場所で靴は止まる。
「大佐。やはりこちらでしたの」
歩いてきたのは東方時代の副官。リザ・ホークアイ。
このところ書類仕事を真面目にこなしていたはずの元上司が書類を放り出して逃げたと聞き、おそらくと見当を付けて軍の帰りに墓所に来た。彼女は知っていた。ロイは重過ぎるものを抱え、さらに追い込まれ神経が切れかけていた。それでも外見は取り作らなければならない。そして書類の山を見たとき逃げた。
その行動は一見書類を嫌がって逃げたようにしか見えない。ロイがそう見せかけていたし、事実でもあった。だが、彼は必死にバランスを取ろうとしていた。東方時代の行動をなぞるように実行し、まだ大丈夫と言い聞かす。そしてここにたどり着いた。
たった一人の何でも話せる友の所へ。
「やぁ、やっと来たのか」
来るのがわかっていたような答えだ。
「大佐の行動は派手ですからどう移動したかはすぐわかります」
「セントラルは華やかな美女が多いな。子供にばかり女の相手をさせずに私も現役復帰したくなった。リザ、セントラル一の美女に見つけてもらえて光栄だよ」
「大佐、酔っておられますね」
「飲んだのはヒューズだけだ」
「アルコールではありません。思いに酔っています」
「中尉」
「私は錬金術はわかりませんがあの二人がぎりぎりまで来ていることは知っています」
「声が聞こえないんだ。あいつの声が」
「大佐。あなたは聞こうとされていません。違いますか。
エドワード君を失いたくないのは大佐だけではありません。アルフォンス君もラッセル君も私もあの子の輝きを一度でも見たものはみんなそう思うのです」
リザは子供でもあっかっている気がした。この人はわかっている。それでも苦しくて誰かに止めて欲しいのだ。何かを止めて欲しいのだ。
「聞いてください。ヒューズ准将はいつも大佐を見ておられます」
マスタングはゆっくりと立ち上がってリザの方に向いた。
折からの風に黒い雲が集まり、月を隠す。小さな雨粒が落ちてきた。たちどころに大粒となる。
「いかん、車に走るぞ」
「はい、大佐」
ばしゃばしゃ
石で舗装された小道はたちまち小川になった。ヒューズの墓からかけられたばかりのコニャックが流されていく。足元が暗い。ランプはとっくに消えてしまった。火をつけようにも濡れ鼠状態だ。
ずるっ
危ないとは思っていたがつい走った。そのままの勢いでマスタングは見事にしりもちをついた。その上にリザが落っこちる。見た目よりはるかに質量のある胸がマスタングの上でバウンドした。
『お、役得じゃないか。ロイ。この道を行って正解だろ』
「ヒューズ、からかってないで助けろ」
『もう大丈夫だな。お前は自分で歩ける。迷ったら蹴飛ばしてやるよ。お前は自分に対して間違ったことはしない。光が照らす。まっすぐな道を行け
「いたた、あ、ごめんなさいロイ」
ロイをクッションにしたことに気づいたリザがあわてて起き上がる。
自分が相手をどう呼んだかには気づかない。
「いや、なかなかいい感触だったよ。うらやましいだろ、ヒューズ。 ヒューズ」
振り返ると墓石に月の光がやさしく差し込んだ。通り雨は二人を濡らすと満足したかのように去った。車までの10分間。二人は無言だった。うかつに口を開くと何を言うかわからない。それでも手が離れない。
ずっと後になって、25年も過ぎたころ、大総統官邸と大統領官邸を兼ねる書類まみれの屋敷で二人は懐かしい思い出に浸ったあと口げんかをした。あの時手を離さなかったのは自分ではなく相手だったと言い合う。数時間後、結論はヒューズ(准将)に会ってからしようと雪崩を起こした書類を前に持ち越しとなった。
真珠の使いがきたのは少し前になる。マスタングもアームストロングもあの使者はもう本国に帰ったと思っていた。
しかし、使者はもうひとつの命令を抱いてまだアメストリスにいた。
エドワード・エルリックを誘拐してつれて来いという命令を。
『無理をしないで。危なくなったら、何もかも捨てて逃げてください。あなたの命より大切な物は無いのですから』
誘拐の計画はできた。アメストリスにもシン人は結構いる。もちろん公式の訪問者ではない。アンダーグランド経済の住人だ。使者はそんな連中を利用してエドワード・エルリック誘拐計画を立てていた。
そう、計画はできた。
だが。
本国を出る前にあの黒髪の女の言った言葉が使者の胸を締め上げる。あの女はなぜあんなことを言ったのだろう。そして自分はなぜ女一人の言葉に締め上げられているのだろう。
リン様のご命令なのだ。それ以外のことが自分にあるわけは無い。
自分の家はヤオ家に仕えているのだから。
あの国家錬金術師2人が西に出れば、あの館は病人と子供と女、それに車椅子の男が最近増えた様だがそれだけだ。外の警備員は数にも入らない。
そして、もうすぐ彼ら2人は西に行く。軍に潜り込んだスパイからの情報だ。間違いない。
その時に、・・・・・・・リン様のご命令だ。エドワード・エルリックを誘拐する。
「石を作るつもりだっただと」
先日のセントラル炎上未遂はすべてデル博士の責任として処分された。これは本人が「それだけのことができるのはわしのような天才だけだ」と豪語したことを理由として判断された。どうせ終身刑で刑務所に戻されるデルに一つや二つ罪状が増えようが減ろうが誰も気にしない。本人もだ。むしろ自分の才能を刑務所でも自慢しまくっている。
「そうです。工場の警備状況を見てまたやります」
「やめておけ」
「なぜです。石さえあればエドを救えるかも、最悪でも時間を延ばせる。その間にアルを」
「あぁ、それはそのとおりだ」
「それならなぜ、俺ではできないとでも言いたいのですか。それは、准将のように四大元素の筆頭と言われている人から見れば俺は子供でしょうけど。でもすくなくとも一度は石を作り上げて、ご存知でしょう。エドが報告したはずだし前にも言いましたから」
「覚えている。不完全な石といったな」
「 そうです。でもそれでもいいのです。とにかく力はある。材料の質量を増やして大きな石にすれば時間稼ぎぐらいできます」
マスタングは細くなった腕を振り回すように説明する若者の姿に一度目を閉じた。この子は知らないのだと。赤い石あれがどういうものか。当初この子が作ったと言った石の不完全品は、そもそも本物ではないのではとロイは推測していた。赤い石を造った術師としてはこの子は透明すぎる。だが、ラッセルが以前練成陣の暴走で死にかけてから、ロイは彼の過去を本人すら知らないことまで調べ上げた。彼の父のことを特に詳しく。
その中にこんなデータがあった。
ナッシュ・トリンガムは死んだ。その後赤い石の元となる液体の原料となった。それを元に石を造った。造った術師はラッセルだった。
ラッセルは知らない。裁判を傍聴した人々も後で記録を見た人もあまりのことに彼ら兄弟にはそのことを隠した。それは彼ら自身の罪を隠すためも大きかった。
エドたちと出会ったころ、ラッセルは液体を分析していた。今回はそのデータを元に人工血液を完成させた。
だが、分析しきれない微量成分があった。それが何かロイは知っている。
命。
だから、いくらラッセルが必死になっても赤い石ができるはずが無いのだ。
それでもと、ロイも思いたかった。本物の石でなくても何かの力を持ったものができないかと。それで時間を稼げればと。
だが。ロイは目を開いた。一年だ。たった1年であまりにも彼は変わった。来た当時も細身で白い肌ではあったが、あのころは鍛え抜かれた鞭の強さがあった。今彼の肌はまったく血の気を感じさせない。あまり力も入らないようだ。力は落ちても戦闘力は落としていないと本人は言い切るし、事実そのとおりだが。
それでも重装兵相手の訓練後急に脈を半減させ倒れたのを、マスタングはひそかに報告されている。おそらく長時間の戦闘には耐えられないのだろう。髪は銀色に変じている。いや、これは直接の関係は無いかもしれないが。
それでも生体への連続する練成などという、ロイでさえ聞いたこともないような技を使わせなければこんなにやつれさせることは無かったはずだ。いや、心臓の欠陥ももう数年は表に出なかったかもしれない。あの時、エドを救えなくても支える方法があると聞いたとき、マスタングはリスクを訊かずにGOサインを出した。まぁ、彼の性格を見ればマスタングのGOサインなど無くても実行しただろうが。
「とにかく、石を造るのはあきらめろ。外の方法を考えよう」
マスタングは結論だけ押し付けた。
ロイは亡き親友にあることを訴えてきたばかりだった。
あまりに恥ずかしくて「あいつ以外には聞かせられない」ことを。
軍の墓地は管理人がいるし遺族もよく来る。だから墓地と言ってもどこかにぎやかだ。うち捨てられた死体放置所とは雰囲気がまるで違う。それでも月明かりしかない深夜に揺らめくランプひとつもって墓所を訪ねる酔狂者はマスタングぐらいだろう。
軍が付けてくれている副官も運転手も帰らせ、ロイは一人で親友と話に来た。
墓石の前に座り込み酒を開く。自分が呑むわけにはいかない。明日も軍だし、いやもう今日か。
「もらい物で悪いな。コニャックだ」
墓石の前に酒を注ぐ。
「お前の好きなものを持って来たかったが家に帰れないんだ」
「ヒューズ。お前が探してくれた道を俺はたどっているだけだ。だから教えてくれ。これからどうしたらいい。時間が無くなった。こんなに早く。お前があの子の手を引いて連れて行くのか。早すぎる。
私はどうしたらいいんだ」
「あの子こそは奇跡だ。扉を開けてなお生き残った。いや、あの子達が奇跡を呼び起こすのか」
「『火をつけたのはあんただ』か。違う。あの炎はもともとあったのだ。私は行きあわせただけだ。あの子を欲しかった。最初から。だから軍に引っ張り込んだ。あの子がもう一度奇跡に向けて走れば私も手に入れられると思った。
ヒューズ。私はただあの子を失いたくないだけだ。だが、そのために・・・。
追い詰められたくは無いな。追い詰められると人は本性に戻る。自分がこれほど卑しいとは知らなかった。あの子を欲しい。あの子を失いたくない。そのために何かを誰かを犠牲にしても・・・。私は・・・。何をする気だ・・・。
知らなければ良かった。真理の話など。エドに写真を見せなければ知らずにすんだ。(あの時は、間違いなくラッセルをすくう気だったが、皮肉なものだ。あのときの言葉が教える)
ラッセルの背中の命の樹の練成陣、あれを使えばエドを救えるかもしれない。手遅れにならないうちに二人とも失わないうちに、もしどちらかしか救えないなら、 私はいったい何を」
(ヒューズ、お前の声が聞こえない。お前に見捨てられたのか。私がこんな男だと知ってあきれ果てたのか。ヒューズ)
墓所は静かだ。深夜に来る酔狂者はマスタング一人。と、明るすぎる月の光の中、軍特有の靴が歩みを進める。サイズは23センチ。軍人としては少し小さい。静かな足音。行くべき場所を熟知しているように靴は動く。
目的の場所で靴は止まる。
「大佐。やはりこちらでしたの」
歩いてきたのは東方時代の副官。リザ・ホークアイ。
このところ書類仕事を真面目にこなしていたはずの元上司が書類を放り出して逃げたと聞き、おそらくと見当を付けて軍の帰りに墓所に来た。彼女は知っていた。ロイは重過ぎるものを抱え、さらに追い込まれ神経が切れかけていた。それでも外見は取り作らなければならない。そして書類の山を見たとき逃げた。
その行動は一見書類を嫌がって逃げたようにしか見えない。ロイがそう見せかけていたし、事実でもあった。だが、彼は必死にバランスを取ろうとしていた。東方時代の行動をなぞるように実行し、まだ大丈夫と言い聞かす。そしてここにたどり着いた。
たった一人の何でも話せる友の所へ。
「やぁ、やっと来たのか」
来るのがわかっていたような答えだ。
「大佐の行動は派手ですからどう移動したかはすぐわかります」
「セントラルは華やかな美女が多いな。子供にばかり女の相手をさせずに私も現役復帰したくなった。リザ、セントラル一の美女に見つけてもらえて光栄だよ」
「大佐、酔っておられますね」
「飲んだのはヒューズだけだ」
「アルコールではありません。思いに酔っています」
「中尉」
「私は錬金術はわかりませんがあの二人がぎりぎりまで来ていることは知っています」
「声が聞こえないんだ。あいつの声が」
「大佐。あなたは聞こうとされていません。違いますか。
エドワード君を失いたくないのは大佐だけではありません。アルフォンス君もラッセル君も私もあの子の輝きを一度でも見たものはみんなそう思うのです」
リザは子供でもあっかっている気がした。この人はわかっている。それでも苦しくて誰かに止めて欲しいのだ。何かを止めて欲しいのだ。
「聞いてください。ヒューズ准将はいつも大佐を見ておられます」
マスタングはゆっくりと立ち上がってリザの方に向いた。
折からの風に黒い雲が集まり、月を隠す。小さな雨粒が落ちてきた。たちどころに大粒となる。
「いかん、車に走るぞ」
「はい、大佐」
ばしゃばしゃ
石で舗装された小道はたちまち小川になった。ヒューズの墓からかけられたばかりのコニャックが流されていく。足元が暗い。ランプはとっくに消えてしまった。火をつけようにも濡れ鼠状態だ。
ずるっ
危ないとは思っていたがつい走った。そのままの勢いでマスタングは見事にしりもちをついた。その上にリザが落っこちる。見た目よりはるかに質量のある胸がマスタングの上でバウンドした。
『お、役得じゃないか。ロイ。この道を行って正解だろ』
「ヒューズ、からかってないで助けろ」
『もう大丈夫だな。お前は自分で歩ける。迷ったら蹴飛ばしてやるよ。お前は自分に対して間違ったことはしない。光が照らす。まっすぐな道を行け
「いたた、あ、ごめんなさいロイ」
ロイをクッションにしたことに気づいたリザがあわてて起き上がる。
自分が相手をどう呼んだかには気づかない。
「いや、なかなかいい感触だったよ。うらやましいだろ、ヒューズ。 ヒューズ」
振り返ると墓石に月の光がやさしく差し込んだ。通り雨は二人を濡らすと満足したかのように去った。車までの10分間。二人は無言だった。うかつに口を開くと何を言うかわからない。それでも手が離れない。
ずっと後になって、25年も過ぎたころ、大総統官邸と大統領官邸を兼ねる書類まみれの屋敷で二人は懐かしい思い出に浸ったあと口げんかをした。あの時手を離さなかったのは自分ではなく相手だったと言い合う。数時間後、結論はヒューズ(准将)に会ってからしようと雪崩を起こした書類を前に持ち越しとなった。
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