瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

復食

2005年10月22日 | 瞑想日記
◆瞑想合宿レポート
瞑想合宿レポートは、今日で最後にするつもりであったが、もう一回分書かなければならない。瞑想合宿後の自分がどうなったかのレポートでしめくくりである。実をいうと瞑想合宿後に目に見える形での変化がいちばん大きかったのは今回である。それは、私の心の底にしっかりと根ざしたものだが、それをうまく表現できるかどうか、明日書きながら確認していことになる。

◆復食
これまでの一日断食は、夜9時ごろの食事から翌日の断食、翌々日の昼の復食まで計39時間ほどだったが、今回は48時間、丸二日。しかも前日は昼食のみで量も少ないから、すこしハードな断食だった。

明け方寝床の中でシーンとした脳の静まりがあり、頭痛は完全に消えていた。これで爽快な一日が始まるかと思ってトイレに立ったら、少しからだの力が抜けた感じで、オヤっと思った。少し寝てから座禅。先ほどほとのだるさはない。瞑想を続けるうちに力が湧いてくる。しかし、瞑想そのものは、これまでの一日断食のときほどリラックス感も深まりもない。

階下に行って床を拭く。猫がまたまた床におしっこだ。床拭きのときもやはりちょっと力が入らない感じだった。ただし、そのあと復食までパソコンに向かったりしているときは、体のだるさはまったくなく、空腹感もなく快調であった。

全体としては、瞑想への効果ははっきりしない。また、昨日の頭痛などを含め、けっこう大変だという感想。これまでの39時間断食も、だんだん体が慣れていったので、48時間の場合も同じように慣れるかももしれない。しかし、48時間断食はしばらく2週間に一回ぐらいの留めておきたい。

瞑想合宿レポート15

2005年10月22日 | 瞑想合宿レポート
◆誰かが泣いている
面接の順番が一回りしたので、9日目は夕方また明るいうちに面接があった。最初に「『フォレスト・ガンプ』は慈悲の映画だったんですね」と伝えた。つい先ほどの、その「発見」が思わず口を突いて出た感じだった。それから、ダンマトークのときに包まれた心地よいバイブレーションのこと、それに乗って深い瞑想をしてやろうと何回か試みたがだめだったこと、そして最後に、自分が包まれたバイブレーションが地橋先生から、あるいは地橋先生を通して何ものかからやってくる「慈悲」の波動だと感じたことなどを話した。

その話を始めたときから何かがこみ上げてきていた。それはすぐに激しい嗚咽になって、しばらくの間、何も話せなくなった。人前でこのように泣いたのは、ごく幼い頃以来なかった。一方で嗚咽している自分を冷静に眺めている自分がいた。私という「自我」を超えたところで誰かが泣いているような奇妙な感じがあった。日常的な「自我」である私よりももっと深いところで、慈悲の波動に触れて自分の無明に気づいた誰かが泣いているようだった。

地橋先生は、「何ものかからやってくる慈悲」という私の表現に対し、それは「三宝(仏法僧)」からやってくる慈悲」だと言いなおした。「三宝」という言葉は、私にはあまり実感がなかったが、生身の人間の我によって汚染されていない透き通った波動として実感していたのは確かだった。

私がまだ泣いている間に先生は静かに話し始めた。その内容はほとんど覚えていない。しかし、これまでの面接で話してもらったことなどと重ね合わせると、だいたい次のようなお話だっただろう。私が修行に向かって行けば行くほど感じてしまう家族との乖離の淋しさ、それは一般的には愛執の煩悩だという。人をこの世に留めさせる家族への愛執は強烈だ。しかし慈悲と愛執とを混同してはならない。愛執は煩悩である。エゴ性をかぎりなく捨てて愛執から自由になっていく。至難の技だが、限りなく慈悲に近い愛、純正な愛で家族に接することができれば、在家の修行者とし最高に素晴らしい。まして二人が教育に携わるのであれば、「法友」として共に歩んでいくことができるのだ‥‥‥。

48時間断食の詳細

2005年10月21日 | 瞑想日記
昨日の食事内容。午前中はミネラルウォーターと柿の葉茶。昼は、何種類かのサラダを450グラムほど(いつもより多め)。カロリーは分からない。生の胚芽玄米、0.4合くらい。乾燥プルーン、五個。かたくちイワシ少し。夕食は食べず、夜は野菜ジュースを一杯。

今日は、夕方まで水と柿の葉茶、砂糖を入れない紅茶など飲み物だけ。夕方から軽い頭痛。仕事には差しさわりない。5時間近く試験問題作りに根を詰めた。軽い頭痛が少し気になたったので、ココアをマグカップ3分の1ほどのむ。体の疲れやだるさなどは全くない。帰宅後、親指の先ほどの黒砂糖を二つほどなめる。夜、若干の空腹感がある。頭痛は夕方よりやや強くなっている。

これまでの経験から、頭痛はやはり断食に関係するようだ。甲田氏の本では、一種の好転反応として頭痛がある場合がある、と書かれている。その生理的メカニズムは、人によって違うらしく、私の場合はよく分からない。事例で紹介されていたのは、宿便が動き出し、出ようとするのに伴う頭痛だが、私の場合は違う感じがする。

前回は、前日は夕食一食(プラス夜の補給)で一日断食に臨み、すこぶる調子がよかったが、今回は頭痛があるので調子がよいとはいえない。

48時間の断食へ

2005年10月20日 | 瞑想日記
最近、いろいろなことが順調にスムーズに進んでいる、という感じがする。職場での教育相談活動もまずは順調に始まった。次男との英語の勉強もうまくいっている。私がいやな顔をしないで家事をやるので、妻との関係もよい。

帰宅後、夕食をとらずにまずはゆる体操(寝ゆる)。始めた頃に比べるとずっと体がゆるんでいて、軽やかにゆらすことができる。それから瞑想。10分か15分ほどだったが、体のバイブレーションを感じながらリラックスして座った。

今日は夕食をとらず、明日は一日断食、土曜の昼に復食の予定だ。48時間の断食パターンを試みる。不思議なものでこれから断食だと心が割り切ってしまうと、食べたいという気持ちがほとんど起こらない。いつもは夕食前にかなり間食してしまうのに。

断食は体の浄化であると同時に、私にとっては心の浄化をも意味していると感じる。体の必要以上に食べたたくなるむさぼりは、食以外へのむさぼりとも関係している。食へのむさぼりが静まることは、他のむさぼりが静まることにつながっている。

体の気を意識する

2005年10月19日 | 瞑想日記
昨日、4時から1時間ちょっとの会議の間、体の気を意識することが多かった。今日も、自転車での行き帰り、外界の対象より、体感にサティすることが多かった。もちろん周囲の動きには充分注意をしているが。これまでは、このように意図的にできるだけ気を意識しようとしていたことはなかった。

もちろん、The Power of Now を読み直して影響されている。インナーボディに意識を集中させれば、思考は自動的にストップするので、心は静まり「いまに在る」状態に戻れるという。そして、気はインナーボディのエネルギーで、その源泉が「目に見えない世界」である。気は「目に見える世界」と「目に見えない世界」の中間に位置し、物質としてのわたしたちと「目に見えない世界」をつなぐ、パイプ役を果たしているという。

以前にもこの部分を要約して日記に触れたのだが、同じ言葉がいま全く違う意味深さをもって私に訴えかけてくる。うまく表現できないのだが、まさにこの本に書いてあるように、私に実行するよう訴えかけてくる。本のこの箇所を読んだことが、ストレートに実行につながった。いまこうしてパソコンに向かっているときも。いまこの時期に出会うべき言葉だったのかもしれない。