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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート15

2005年10月22日 | 瞑想合宿レポート
◆誰かが泣いている
面接の順番が一回りしたので、9日目は夕方また明るいうちに面接があった。最初に「『フォレスト・ガンプ』は慈悲の映画だったんですね」と伝えた。つい先ほどの、その「発見」が思わず口を突いて出た感じだった。それから、ダンマトークのときに包まれた心地よいバイブレーションのこと、それに乗って深い瞑想をしてやろうと何回か試みたがだめだったこと、そして最後に、自分が包まれたバイブレーションが地橋先生から、あるいは地橋先生を通して何ものかからやってくる「慈悲」の波動だと感じたことなどを話した。

その話を始めたときから何かがこみ上げてきていた。それはすぐに激しい嗚咽になって、しばらくの間、何も話せなくなった。人前でこのように泣いたのは、ごく幼い頃以来なかった。一方で嗚咽している自分を冷静に眺めている自分がいた。私という「自我」を超えたところで誰かが泣いているような奇妙な感じがあった。日常的な「自我」である私よりももっと深いところで、慈悲の波動に触れて自分の無明に気づいた誰かが泣いているようだった。

地橋先生は、「何ものかからやってくる慈悲」という私の表現に対し、それは「三宝(仏法僧)」からやってくる慈悲」だと言いなおした。「三宝」という言葉は、私にはあまり実感がなかったが、生身の人間の我によって汚染されていない透き通った波動として実感していたのは確かだった。

私がまだ泣いている間に先生は静かに話し始めた。その内容はほとんど覚えていない。しかし、これまでの面接で話してもらったことなどと重ね合わせると、だいたい次のようなお話だっただろう。私が修行に向かって行けば行くほど感じてしまう家族との乖離の淋しさ、それは一般的には愛執の煩悩だという。人をこの世に留めさせる家族への愛執は強烈だ。しかし慈悲と愛執とを混同してはならない。愛執は煩悩である。エゴ性をかぎりなく捨てて愛執から自由になっていく。至難の技だが、限りなく慈悲に近い愛、純正な愛で家族に接することができれば、在家の修行者とし最高に素晴らしい。まして二人が教育に携わるのであれば、「法友」として共に歩んでいくことができるのだ‥‥‥。

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