瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート13

2005年10月02日 | 瞑想合宿レポート
◆無明と慈悲と
ダンマトークの時に包まれた波動の意味は、静かにゆっくりと私に沁みこんできた。地橋先生から、地橋先生を通して伝わってきた「慈悲」の波動は、私の「無明」を揺さぶった。私は、世間の平均的な夫よりははるかによく家事を手伝っているつもりだった。しかし、そのどこかに「やってやっている」という意識が忍び込んでいた。私は、自分の仕事に、そして精神世界の探究に忙しい。「それを犠牲にしてこれだけやっているではないか」という意識がどこかにあった。いや、もしかしたらそれがほとんどではなかったのか。 

これまでの私の妻への態度には何かが欠けていた。地橋先生からの「慈悲」の波動に触れて、その欠けているものが徹底的に見えてしまった。これまでの私の妻との関係は、そしてその他の人間関係も、結局は私のエゴ性の上に成り立っていた。少なくともあのような「慈悲」の波動の上には成り立っていなかった。その「無明」がはっきりと見えてしまった。

日常の人間関係を生きてきた自分の利己性、そしてその「無明」への無自覚。いや、そんなことはどこかで分かっていた。しかし、やはり分かっていなかった。私の体に、そして心に沁みこんできた「慈悲」のバイブレーションが、その違いを歴然とさせた、「慈悲」にもとづいた態度と「無明」の行為との違いを。


「慈悲」、エゴに歪められない眼で、あるがままのその人に触れること、受け入れること。エゴに汚されない心の透明性から発せられる波動。それはかつてカウンセリングや心理療法で学んできたではないか。無条件の肯定的配慮。それが、現実の人間関係のなかに沁みこんでいくことこそが大切であったはずだ。「慈悲」の波動は、そんなことを思い出させ、その深い意味を実感させてくれた。

たしかに煩悩深き凡夫にとって、日常の人間関係を「慈悲」に徹することはかんたんなことではない。しかし少なくとも、エゴ性の上に成り立つ自分の日常的な行為や、背後の心の動きをつねに自覚していることはできる。それが「無明」を一歩抜け出すことにつながるだろう。

今度の瞑想合宿に参加しようとした動機も、煎じ詰めれば私のエゴ性に根ざしていた。合宿に参加する直前のあの夢も、研究所に向かう途中で感じたあの後ろめたさも、再びその意味をより深く私に開いたようだった。
コメント (4)
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