8月11日付のブログ「根源的ないのち」で、昔読んだ紀野一義の本を紹介した。その記事にコメントをくださった方がいて、紀野一義の『生きるのが下手な人たちへ』を手に入れ、読み始めてくださったとのことだった。こんなブログでも、読んで下さる方がいるのはありがたいことだ。それがきっかけとなって、私のサイト『臨死体験・気功・瞑想』の『覚醒・至高体験事例集』に、紀野一義氏の体験や氏の本から収録した体験を掲載していたのを思い出した。
実はこのサイトや姉妹サイトの『日本の気功家たち』の更新ができない状態になっている。Dream Weaberというソフトでこれらのサイトを作成したのだが、以前のパソコンにインストールしていたそのソフトが古いバージョンでそれが見つからない。新しいパソコンには購入した最新のバージョンをインストールしようと思いながらまだやっていない。古いバージョンのパスワード等も紛失し、再び更新できる状態になるかも不明だ。近々何とかいたいとは思っているのだが。
それはそれとして、紀野一義氏の体験を掲載したページは以下である。冒頭の部分だけ、ここにも載せておく。
「わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。‥‥」
続きは、以下を見てほしい。
◇紀野一義氏
紀野一義氏のいくつかの本から収録したのは、以下の体験である。
◇高史明氏
◇北原敏直少年
氏の本は多く読んでいたので、それだけ事例集に載せたくなる体験例にぶつかることも多かったのである。ところで、氏の本を整理するに当たりノートを作っていると書いたが、その作業の中で拾った言葉を一つだけ紹介しておきたい。
「心の種々相」
この世に生きていると、いろんなことがある。
不思議としかいいようのないことが起こる。
人間が一人で生きているのじゃないこと、
何か大きなものにうながされ、生かされていること、
そういうことに気づかされる。
気づかない者も大勢いるが、
気づかされた者も、また大勢いる。
その大きなものを「こころ」という。
人間の小さな「心」ではない。
永遠の生命そのものとしての「こころ」、
その「こころ」に生かされていることに、
凡夫ながら、気づかなくはならない。
鈍い私も、二度の脳梗塞でようやくその大きな「こころ」に気づかされたようである。「ようである」という曖昧な言い方をするのは、油断しているとその「根源的ないのち」に背く生活を始めかねないからである。いや、まだその「こころ」に沿う生き方を徹底しているとはとても言えない。だからこそ、その「こころ」に背かないように「いつまた3度目があるかわからい」というリスクを与えられたのである。食生活の話だけではない。けちな損得勘定に囚われていると、3度目を誘発するストレスに晒されることになる。残り何年か分からないが「頂いたいのち」なのだから、一切の損得勘定から解放されてせいせいと生きれば、ストレスからも解放されるだろう。
実はこのサイトや姉妹サイトの『日本の気功家たち』の更新ができない状態になっている。Dream Weaberというソフトでこれらのサイトを作成したのだが、以前のパソコンにインストールしていたそのソフトが古いバージョンでそれが見つからない。新しいパソコンには購入した最新のバージョンをインストールしようと思いながらまだやっていない。古いバージョンのパスワード等も紛失し、再び更新できる状態になるかも不明だ。近々何とかいたいとは思っているのだが。
それはそれとして、紀野一義氏の体験を掲載したページは以下である。冒頭の部分だけ、ここにも載せておく。
「わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。‥‥」
続きは、以下を見てほしい。
◇紀野一義氏
紀野一義氏のいくつかの本から収録したのは、以下の体験である。
◇高史明氏
◇北原敏直少年
氏の本は多く読んでいたので、それだけ事例集に載せたくなる体験例にぶつかることも多かったのである。ところで、氏の本を整理するに当たりノートを作っていると書いたが、その作業の中で拾った言葉を一つだけ紹介しておきたい。
「心の種々相」
この世に生きていると、いろんなことがある。
不思議としかいいようのないことが起こる。
人間が一人で生きているのじゃないこと、
何か大きなものにうながされ、生かされていること、
そういうことに気づかされる。
気づかない者も大勢いるが、
気づかされた者も、また大勢いる。
その大きなものを「こころ」という。
人間の小さな「心」ではない。
永遠の生命そのものとしての「こころ」、
その「こころ」に生かされていることに、
凡夫ながら、気づかなくはならない。
鈍い私も、二度の脳梗塞でようやくその大きな「こころ」に気づかされたようである。「ようである」という曖昧な言い方をするのは、油断しているとその「根源的ないのち」に背く生活を始めかねないからである。いや、まだその「こころ」に沿う生き方を徹底しているとはとても言えない。だからこそ、その「こころ」に背かないように「いつまた3度目があるかわからい」というリスクを与えられたのである。食生活の話だけではない。けちな損得勘定に囚われていると、3度目を誘発するストレスに晒されることになる。残り何年か分からないが「頂いたいのち」なのだから、一切の損得勘定から解放されてせいせいと生きれば、ストレスからも解放されるだろう。