里の家ファーム

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米がない「食料危機」?

2024年09月09日 | 食・レシピ

印鑰智哉ブログ 2024/09/08

 何か音を立てて崩れている気がする。「米がない」。しかも生産量は十分あるのに。なぜ、そんな事態が起きたかということに関してはいくつも記事がでているので、それに付け加えようとは思わない。だけど、その記事には書かれない、問われるべきことがどうしてもまだあるので、そのことを書いておきたい。

 結論を先に書いておくと、食料主権がなければいつまでも食料危機になってしまうということ。食料主権とはひとりひとりの食料の決定権。今、その決定権がここのところ急速に危うい状態になっている。

 食料危機を単に食料のない状態と定義してしまえば、食料をどこからか持ってくれば、その時点で食料危機は表面上からは消える。だけど、その食料が地域社会の中でしっかり作られており、生産・流通・分配まで、人びとがその権利を確保していれば、問題ないが、そうでなければ、いつでも危機になりうる。

 今後、このような「食料危機」は常態化するかもしれない。その危機がどうやって作られたか、知らなければ、人びとはパニックに陥るだろう。その状態はある特定の勢力からすれば好都合だ。

 つねに「危機」的な状況に置かれると人びとの選択肢は狭められてしまう。食べられればなんでもいい、ということになってしまう。気候変動など長期的な環境保護や健康よりも、当面の命の維持に関心が切り詰められる。本当にしなければならないことは棚上げにされ、「緊急」策だけに関心が行くようになってしまう。

 スーパーにお米が並び始めたら、忘れてしまうかもしれない。あれば何でもいい、というパニック状態の中では、この危機がなぜ生まれたか、どうしたら繰り返さないかということを考える余裕もなくなってしまうが、それでは困る。問題となる政策を変えることこそが危機対策になる。

 たとえば、備蓄米があるからそれを活用すべき、と主張すると、お米の市場価格が下がってしまうからできない、として政府は動かない。そもそも市場価格といっても、市場原理は農業には適さない。農業は他の産業とは違う。市場価格で農家の収入が決まるのではまずい。農家の所得を補償することは不可欠だ。農家の割合は先進国では人口の1%〜数%であり、その所得を守ることが不可能な規模ではない。

 工業製品と違って、農産物はなければないで済ますわけにはいかない。農産物が誰にも手に入る価格で提供される必要はあるし、それと同時に農家の所得を補償することは政策さえあれば両立できること。それをまったくやっていないのは日本政府くらいだろう。すでに今年のコメ農家の倒産・廃業は過去最多になることが確実だ。そもそも農家の所得は限界を超えて下がっている。その所得を守る政策がずっとなかったことがこの危機をさらに深刻なものにしている。この政策を変えることは必須だ。

 世界でも農産物での市場原理主義を排除することは切実な問題となってきている。WTOなど自由貿易の対象として農産物を扱うことで、各国農業に大変な問題が引き起こされ、世界の多くの市民が農業への市場原理主義の適用をやめることを求めている。自由貿易協定の対象からも農産物を外すことが要求されている。にも関わらず、その古いルールを日本政府は金科玉条のように守り続けている。

 こうしたルールによって必然化されるもっとも深刻な一つの例が「飢餓輸出」だろう。国内で飢餓状態が発生しているから、国内で生産された農産物は輸出せずに、国内の飢餓状態の解消に使いたい、と考えても、この自由貿易体制の中では、それはできない。その国は農産物輸出が実質義務付けられており、国内の飢餓状態が解消できなくなっている国は少なくない。

 「飢餓輸出なんて日本は関係ない」、そう思うかもしれないが、今、国内のスーパーにお米がないのに、日本米の海外輸出は過去最高である。輸出するお米があるなら、国内のスーパーに回すべきと思っても、それができない。政府が日本の農業の成長の鍵は農産物輸出だ、と言う度に、それは「飢餓輸出」をもたらすと批判してきたけれども、そんな深刻な構造が日本にはすでにできつつある。そんな輸出優先主義政策をさらに続けさせていいわけがない。

 この状況の中で、急速に進んでいるのが、食の企業化・独占だ。発酵食品の規制が強化され、それまで家内工業的に作っていた人びとが市場から追い出されている。発酵食品以外でも大きな企業以外のプレーヤーの排除が進みつつある。種子、農産物生産、食品加工、流通において、企業独占の傾向は近年ますます高くなっている。そのプロセスの中で、「みんなのもの」としてあった食が少数者による独占物に変えられようとしている。いつの間にか、お米も自家採種できないものに変えられようとしている。食べられればなんでもいいということになれば、「みんなの食」としてあったものは失われてしまう。

 政府の施策に声を上げると同時に、直接消費者が生産者を支援する関係を今一度、学校給食など含めて、いろんな場面で作り直すことが必要だろう。食は今日明日の命を保つ上でも重要だが、同時にこの社会や環境が崩壊しないためにも、最重要なのだから、作られた「食料危機」に対して、何を言うべきかもしっかり確認しておきたい。


農家のお年寄りやご婦人団体・サークルなどで作る漬物などである。
そして「種」。
農民は育てる野菜から良い性格の作物を見極め、その種を採取してきた。
土地が変われば気候も変る。
自分の畑に一番適した品種を創ることは農民の権利である。
「世界で一番企業活動ができる」とは、このような個人的活動を潰し、企業に明け渡すことを意味する。
自公政権では必ず「食糧危機」に見舞われるであろう。
だから「政権交代」が望まれる。
そして各家庭がどのように「食糧主権」を行使するか、考えておかなければならない課題だ。
「新婦人」と「農民連」との連携などの取り組みも注目である。