親父が亡くなってから10日余り経った。生活はすっかり日常ペースに戻っている。
約2年半の闘病生活を経て、7月26日の夜遅くに亡くなった。病院や老健施設で最期を迎える人が多い中、本人の希望であり、またおふくろの希望でもあった在宅介護をずっと続けていた。完全にベッドに寝た切りになったのは亡くなる直前の数日だけであり、おかげさまでそれまで十分にコミュニケーションが取れた。息を引き取る時も家族で見守ることができた。通夜も葬儀もたくさんの人に来ていただき、故人を偲んでくれた。
父について他者からの共通する評価は「温厚かつ善良」。あまり自分の心情を語ったりすることがない、弁えた人だった。
そんな親父が一度だけ私に自分の意志を話してくれたことがある。いつだったかは忘れた。少なくとも10年以上前だ。何をきっかけにそんな話をしたのかも覚えていない。
親父は養子だった。彼の父の弟、すなわち叔父のところに中学2年生の時にもらわれたのである。
岐阜県の片田舎で育った親父は、幼少時代、そのまま成人して家業の農業をする自分を想像していた。それが嫌で嫌で仕方なかった。その頃、自分の叔父が大阪で和装関係の商売を初めた。もちろんまだまだ小さい商いだった。しかし親父は、それが自分にとってのチャンスだと感じた。叔父を頼りに大阪で一旗挙げたい。そんな折、子供の居ない叔父からも、兄すなわち親父の実父に「R(親父の名前)を養子に欲しい」という申し出があった。渡りに船だった。迷いは全くなかった。そうして叔父の養子となり、大阪に出てきた。地元の中学へ転向し、商業高校を卒業し、晴れて養父の会社に入った。先代を支えながら、その後、二代目として事業を継承した。色々と苦労を重ねながらも、持ち前の堅実さで、大儲けというほどではないにしろ、質重視の経営を着実に行ってきた。
私にとっては、物心ついたときから常に黙々と仕事をしていた父だった。経営者や商売人としての信条や哲学みたいなことを聞いたことは一度もなかった。何となく敷かれたレールに自然に乗っかってきた人生かと思っていた。それだけに話を聞いた時は、新鮮な驚きがあった。野心や底意地みたいなものが心の中にあったからこそ、この人は上手くいっているのだ。そう改めて感じた。そして親父がそんなことを語ってくれたのは、後にも先にもこの時だけだった。
葬儀・初七日が終わるともう夕方、母と叔父(母の弟)と弟家族とうちの家族が実家に戻った。夕飯を作る気力はない。「ピザでも取るか」という話になり、ピザとサイドメニューをしこたま注文して、ビールと子供たちのジュースで献杯して即席の打ち上げを行った。そしてその場は盛り上がる盛り上がる。ここでは決して書けない禁断の話なんかが飛び出して、笑いが絶えない。二男が「今日の晩ご飯めっちゃ楽しいわ」と思わず本音。あれ、もしかしてこういうのって不謹慎? いや、そうではない。大変だった通夜・葬儀を滞りなく行えたという安堵感と、親父に対してやるだけのことはやってあげられたという家族の自負の表れなのだ。
家族にとっても実家の商売にとっても、精神的支柱を失ったことは大きな痛手である。でも逆に、それを更なる発展の機会として捉え、残された全員で頑張っていく。それが親父への何よりの恩返しなのである。
約2年半の闘病生活を経て、7月26日の夜遅くに亡くなった。病院や老健施設で最期を迎える人が多い中、本人の希望であり、またおふくろの希望でもあった在宅介護をずっと続けていた。完全にベッドに寝た切りになったのは亡くなる直前の数日だけであり、おかげさまでそれまで十分にコミュニケーションが取れた。息を引き取る時も家族で見守ることができた。通夜も葬儀もたくさんの人に来ていただき、故人を偲んでくれた。
父について他者からの共通する評価は「温厚かつ善良」。あまり自分の心情を語ったりすることがない、弁えた人だった。
そんな親父が一度だけ私に自分の意志を話してくれたことがある。いつだったかは忘れた。少なくとも10年以上前だ。何をきっかけにそんな話をしたのかも覚えていない。
親父は養子だった。彼の父の弟、すなわち叔父のところに中学2年生の時にもらわれたのである。
岐阜県の片田舎で育った親父は、幼少時代、そのまま成人して家業の農業をする自分を想像していた。それが嫌で嫌で仕方なかった。その頃、自分の叔父が大阪で和装関係の商売を初めた。もちろんまだまだ小さい商いだった。しかし親父は、それが自分にとってのチャンスだと感じた。叔父を頼りに大阪で一旗挙げたい。そんな折、子供の居ない叔父からも、兄すなわち親父の実父に「R(親父の名前)を養子に欲しい」という申し出があった。渡りに船だった。迷いは全くなかった。そうして叔父の養子となり、大阪に出てきた。地元の中学へ転向し、商業高校を卒業し、晴れて養父の会社に入った。先代を支えながら、その後、二代目として事業を継承した。色々と苦労を重ねながらも、持ち前の堅実さで、大儲けというほどではないにしろ、質重視の経営を着実に行ってきた。
私にとっては、物心ついたときから常に黙々と仕事をしていた父だった。経営者や商売人としての信条や哲学みたいなことを聞いたことは一度もなかった。何となく敷かれたレールに自然に乗っかってきた人生かと思っていた。それだけに話を聞いた時は、新鮮な驚きがあった。野心や底意地みたいなものが心の中にあったからこそ、この人は上手くいっているのだ。そう改めて感じた。そして親父がそんなことを語ってくれたのは、後にも先にもこの時だけだった。
葬儀・初七日が終わるともう夕方、母と叔父(母の弟)と弟家族とうちの家族が実家に戻った。夕飯を作る気力はない。「ピザでも取るか」という話になり、ピザとサイドメニューをしこたま注文して、ビールと子供たちのジュースで献杯して即席の打ち上げを行った。そしてその場は盛り上がる盛り上がる。ここでは決して書けない禁断の話なんかが飛び出して、笑いが絶えない。二男が「今日の晩ご飯めっちゃ楽しいわ」と思わず本音。あれ、もしかしてこういうのって不謹慎? いや、そうではない。大変だった通夜・葬儀を滞りなく行えたという安堵感と、親父に対してやるだけのことはやってあげられたという家族の自負の表れなのだ。
家族にとっても実家の商売にとっても、精神的支柱を失ったことは大きな痛手である。でも逆に、それを更なる発展の機会として捉え、残された全員で頑張っていく。それが親父への何よりの恩返しなのである。