3年ぶりにお母さんとAさんに会った。
お母さんはもちろん、実の母ではない。
12年前、1996年に来日した2ヶ月後の7月に、人生初のアルバイトを始めた。
近所の商店街の焼肉屋さんで募集の紙を見て、夫に電話の問い合わせを頼んだ。わずか2ヶ月間の日本語学習暦では電話での日本語会話にはまだ程遠いから。
面接の日、また夫に頼んで付き合ってもらった。一人だと何も聞き取れないからだ。
それは、運命の出会いと言っても過言ではないと思う。
親子二人で経営する小さい焼肉屋だが、ほんとうに心の優しい人たちで、私にとって、バイト先というより、親戚の家のようだった。土日の夜だけの勤務だったが、あっという間に5年間が過ぎてしまった。
「いらっしゃいませ」さえうまく言えなかった私に、お母さんとお兄さんのようなAさんは一つ一つ丁寧に教えてくれた。私のたどたどしい日本語も忍耐強く理解してくれて、お店の仕事だけではなく、生活のこと、学校のこと、日本のことなど、いろいろと優しく教えてくれ、励ましてくれた。
日本語別科、大学、大学院入学までの5年間、ずっと温かく見守ってくれ、私のわずかの進歩だけでも、自分のことのように喜んでもらった。
大学に入ってから、ほかに楽なバイトのチャンスもあったが、巣立ちたくない小鳥のように、どうしてもその小さくて温かいお店から離れたくなくて、週末の夜は、ずっとそこで過ごしていた。
ところが、商店街の不振とともに、お店の経営は一日一日と厳しくなってきた。大変なのは身がしみるほどわかるが、もっと頑張ったら乗り越えられると心の中で期待し信じ続けていた。
5年半経ったある日、お店をたたむことになったと告げられた。これ以上辛くさせてはいけないと分かりながら、涙を抑えることができなった。うちに帰っても、抑えようのない悲しさが込み上げてきて泣きながら母に電話をしたのはまだ昨日のようだ。
そして、また6年が過ぎた。
お互いに自分の目標を目指して忙しい日々を送っているため、頻繁に会うことができないが、東京のとこかで、私のことを見守ってくれる人がいる、私のことを誇りに思ってくれる人がいると思うと、心が落ち着いてゆく。
住めば都、と、たくさんの人が言う。
が、私は、すこし違うと思う。
東京が大好きな自分にとって、ともに歳月を生き、ともに笑い、泣き、悩み、喜びを分かち合い、お互いの幸せを心から願っている人がいるからこそ、異国の東京は、故郷にかなう都になるのだ。