苗苗中国語教室的白戸文明同学的随筆又在《中文導報》発表了!
敬請一読為盼!
http://www.chubun.com/modules/article/view.article.php/c64/180172
《女诗人金子美铃》
『中文導報』2019年1月1期
白戸文明
看完2018年5月24日中文导报刊登的李长声的《天性烂漫的童谣》,我便一时兴起想去《金子美铃纪念馆》(山口县长门市仙崎)。一周后的6月3日我干脆坐上了前往山口县的电车。
女诗人金子美铃(1903∼1930年:明治36年∼昭和5年)在大正时代末期如彗星一样突然登场,但仅六年后因服毒自杀又迅速消逝了。之后,半世纪的时光流逝。直到1984年(昭和59年)《金子みすゞ全集》发行前,她的诗歌完全没有引起注目。我很想了解她经过什么得以重新苏生呢?
1966年早稻田大学新生矢崎节夫在都营电车内偶然发现《日本童谣集》(岩波文库)中金子美铃的一首诗《大渔》 。看到金子美铃不以人类为中心的视野,他感受到出现180度转变般的冲击。矢崎节夫大学毕业以后也以童谣作者的身份活跃在文坛上,然而他也同时开始“寻求诗人美铃”的旅程,探访诗人美铃的出身、来历、作品等。
经过16年的时光,矢崎节夫1982年(昭和57年)终于找到了美铃的亲弟弟上山雅辅。同时,十分幸运地得到了美铃手写的3册遗稿,也就是《美しい町》、《さみしい王女》和《空のかあさま》。
1984年(昭和59年)《金子みすゞ全集》(全3卷:JULA出版社)问世,女诗人金子美铃终于重生了。
现在金子美铃的作品在全世界得到很高评价。那么,诗人金子美铃的根源是什么?
金子美铃表彰会事务长草场睦弘认为,诗人美铃的根源也许是“鲸鱼墓”(1692年建于仙崎对面的青海岛向岸寺),往昔仙崎是捕鲸基地,非常繁荣。在仙崎出生长大的美铃从小常常仔细地倾听祖母和亲人诉说“给被捕获的母鲸和腹中胎鲸起名以示吊丧”的传说。这些传说成为美铃的原体验,也许这就是后来她的 “鱼的生命和人的生命有完全一样的价值”思想的源头。
金子美铃的故乡仙崎十分有乡土风味。一踏上仙崎站前仅1.1公里长的街道,竟然发现两旁的民居都挂着各自挑选的一篇美铃的诗。这个市的市民都以美铃的重生为骄傲。这条路叫做“みすゞ大街” (美铃大街)。美铃作诗的时期铁道山阴线还没通车。2007年(平成19年)JR西日本公司观光列车 “みすゞ潮(しお)彩号(さいごう)”(美铃潮彩号) 开始每日在新下关站至仙崎站的美丽的日本海沿线行驶。
金子美铃诞生一百周年的2003年(平成15年),《金子美铃纪念馆》在美铃老家的旧金子文英堂开馆,展示着美铃的遗稿集、照片、遗品资料、和服等。每年有大约十五万人前来访问。美铃的作品不但被日本小学校课本采用,还被海外11个国家翻译出版。
我和小鸟和铃铛 译:吴菲
我伸展双臂,也不能在天空飞翔,
会飞的小鸟却不能像我,在地上快快地奔跑,
我摇晃身体,也摇不出好听听声响,
会响的铃铛却不能像我,会唱好多好多的歌,
铃铛、小鸟、还有我,我们不一样,我们都很棒。
这是诗集《寂寞的公主》的一首。美铃不争优劣,而是承认人、小鸟和铃铛各自的好处,并且把自己摆在最后边。我第一次遇见这么简明、柔和,深深沁人心脾的日语。
金子美铃的童谣世界时隔半世纪才复活。我认为,她的重生不是一时偶然的现象,而是如同拔动了矢崎节夫青年的心弦一般,诗人的魂魄创造的奇迹。
女流詩人:金子みすゞ
中文導報紙上で“天性烂漫的童谣”(2018年5月24日:李长声)を読み、6月3日(日)急遽思い立って山口県長門市仙崎の《金子みすゞ記念館》を訪問した。金子みすゞ(1903~1930年:明治36年~昭和5年)は大正時代末期彗星のごとく現れ僅か6年間で消えていった女流詩人である。金子美鈴が命を絶って以来1984年(昭和59年)《金子みすゞ全集》が刊行されるまで半世紀、彼女の詩は社会の注目の外にあった。では、どういう経緯で復活したのか…知りたいと思った。
1966年(昭和41年)早稲田大学1回生矢崎節夫氏が都電の中で《日本童謡集》(岩波文庫)の中に偶然目にしたのが金子美鈴の詩“大漁”。人間中心の目線を180度ひっくり返すほどの衝撃を受けたという。矢崎節夫氏自身その後生業を童謡作家としたが、この時の衝撃以来矢崎氏の“みすゞ探し”が始まったのである。金子美鈴とはどんな人なのか、他にどんな詩があるのか…。16年間の紆余曲折を経て1982年(昭和57年)矢崎氏は美鈴の実弟上山雅輔氏に出会い、三冊の美鈴の手書きの遺稿集…《美しい町》《さみしい王女》《空のかあさま》に辿り着いたのである。これが1984年(昭和59年)《金子みすゞ全集(全3巻)…(JULA出版社)として世に出て、女流詩人:金子みすゞが復活した。
今日世界的に評価されている詩人:金子みすゞの原点…それは生まれ育った仙崎の対岸青海島向岸寺に1692年(江戸時代元禄5年)建立された鯨墓ではないか、と金子みすゞ顕彰会事務局長:草場睦弘氏は語っている。往時仙崎港は捕鯨基地として栄えた。美鈴は、捕獲された母鯨とともにその胎児にも名前をつけて弔ったという話を幼い頃から祖母らに聞かされた。これが原体験となり“魚の命も人の命も変わらない”という思いを育んだというのである。
美鈴が育った仙崎駅前の1.1キロの街並みは、今は鄙びてはいるが家々は軒に美鈴の詩を書いた札を掛けていて、町全体が詩人:金子みすゞの復活を誇りとしている。正式には “みすゞ通り”という。
美鈴の時代には無かったJR山陰線には2007年(平成19年)以降新下関駅―仙崎駅間を“みすず潮(しお)彩(さい)号(ごう)”が走っている。
金子美鈴生誕100年に当たる2003年(平成15年)美鈴が幼少期を過ごした旧金子文英堂の地に《金子美鈴記念館》が開館し、美鈴の遺稿集・写真・着物などを公開、年間15万人が訪れている。美鈴の詩は日本の小学校教科書に採用されただけでなく、海外11か国でも翻訳出版されているのである。
私と小鳥と鈴と
「わたしが両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、地面(じめん)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」
金子みすゞ
《さみしい王女》の中の1篇。優劣をつけるのではなく、それぞれの良さを認め、それからわたし、とわたしを最後に置いている。
私はこんなに平易で柔らかな、しかも深く心に染み入る日本語に初めて出会った。
金子美鈴の童謡の世界は半世紀ぶりに復活したが、この復活はブームではなく、若き矢崎節夫氏の琴線を揺り動かした“正に詩人の魂が為せる業”ではないか…と思う。
苗苗中国語教室
Copyright (C) 2005 MM Chinese All rights