2006年初夏に、勝地くんが『吉祥天女』に出演するという情報が聞こえてきたとき、嬉しいと同時に「なぜ今ごろこの作品を映画化?」という疑問が頭をよぎりました。
20年以上前の作品だし知名度もそこまで高いわけではない(それなりのヒット作品ではありますが、一般に少女マンガのヒット作は少年誌・青年誌のヒット作とは売れ行き・知名度のケタが全く違う)。30~40代になってるだろう当時の読者がメインターゲットだったのか。
格別の集客力を持つキャストがいるでもなく、よほど作品としての質が高くないかぎり、興業的には難しいだろうというのが最初の印象でした。
翌年映画が公開されましたが、やはりヒットには至らず・・・。観た方の感想も賛否両論、それも誉めているのはおおむね原作未読の人で、原作ファンからの評価は全体に芳しくなかったようです。
それはやはりメインキャラのイメージが違う―キャストの外見もさることながら、性格設定と作中での立ち位置が違っているのも大きかったように思います。
例えば(1)でも書いた遠野涼の場合、軟派なプレイボーイ然とした振る舞いとその裏に押し殺した気性の激しさ・純粋さのコントラストに多く彼の魅力があったのですが、軟派な描写が全然出てこなかったので魅力が半減してしまった感があります。
しかも原作では涼がたびたび陰ながら小夜子を助ける場面があるのに、これもオールカット。
暁に襲われかけた小夜子がガラスの破片を暁の首に突きつけて身を守ったのは涼の示唆によるものだとか、ライダーの格好で顔を隠して小夜子を救出するとか(あとでそれが知れてリンチされるとか)の格好いいエピソードが全然出てきません。
彼が唯一小夜子を守ろうと動くのは映画オリジナルの暁に猟銃を向ける場面だけで(原作では銃を向ける相手は小夜子)、それも銃の暴発によって自身が致命傷を負ってしまう。涼のヒーロー性はここぞとばかりに奪われてしまっている。
ここまで徹底してると、むしろ意味あってそうしているのだろうと周辺を見回してみると、他にも興味深い改変が行われているのに気づいた。
原作では、登場する男たちが皆小夜子の魔の手に導かれ卑小さもあらわに破滅していく中で、三人だけ例外が存在している。遠野涼、小夜子の守り役ともいうべき小川雪政、浅井由似子の兄・鷹志である。
雪政は小夜子の魔的魅力に(ある意味誰よりも深く)捉えられた人物であるには違いないのだが、小夜子に関わった多くの男たちが理性を見失い結果身を滅ぼすのに対して、雪政はあくまで理性的なままに小夜子と共にあることを選びとった。
涼は小夜子に惹かれながらも理性によってぎりぎりで彼女を拒絶し、鷹志は小夜子の異質さをいち早く見抜き、それゆえに関心を引かれながらも小夜子に惑わされることなくオブザーバー的な立場を貫いた。
その彼らの映画での扱いはどうかというと、涼は上述の通りヒーロー性を剥奪され、鷹志に至っては由似子の姉・鷹子=女性に変更されている。
ちなみに映画化にあたって設定が女性に代わったキャラといえばもう一人、小夜子の祖父の役割が、原作では早くに亡くなった祖母・(あき)に振り替えられているが、この祖父も小夜子にとっては唯一の頼りになる身内というべき人物で、病中であっても威厳を漂わせ周囲に睨みをきかせていた人格者だった。
つまり映画ではヒーロー的男性性、「格好良い男」というものがほぼ完全に消滅させられているのだ。
三人の中で原作通りの立ち位置にあるのは雪政一人で、原作の雪政が持つ荒っぽい雰囲気は大分和らげられているものの、小夜子のためなら人殺しも辞さない(のだろう)凄みがあるところは変わっていない。
(つづく)