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about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-7(注・ネタバレしてます)

2016-12-13 20:30:41 | ムサシ
ついで宗矩と沢庵による「侍どもに刀を抜かせない妙案」。
先に乙女の仇討ちを止めようとした際に沢庵は「殺生はいかん」、宗矩は「争いごとはいけませんよ」という言い方で反対を唱えているので、つい彼らが平和主義、ヒューマニズムから刀を抜かせまいとしているかに思ってしまうが、(2)-4で突っ込んだように、彼らが、というか将軍家の兵法指南役兼政治顧問である宗矩が侍に刀を抜かせまいとするのは幕府を安泰に保つため、要は自分が所属している組織の権益を守りたいがゆえなのである。
当然それは将軍家、秀忠と家光の切望するところでもある。むしろ能を隠れ蓑に家光と政治についての相談をしているのだという宗矩の言葉からすれば、沢庵に「侍に刀を抜かせない妙案」を尋ねること自体家光の依頼かもしれない。
自身が地方の一領主から国の頂点に成り上がるまでは武力を存分に用いておきながら、いざトップに立つと真逆のことを始める。宗矩が最初に「侍どもに刀を抜かせない妙案」を沢庵に相談したさいに太閤秀吉の刀狩り令に触れているが、自分の地位を脅かしかねない他人に武力を持たせておくのは脅威であるという心情が最高権力者に共通のものであることを端的に表している。

しかしこの「侍どもに刀を抜かせない妙案」に比べて、妙案を提供する交換条件のはずの〈大徳寺住持選定に対する幕閣の差出口を封じる〉についてはあまりクローズアップされない。宗矩による活人剣の何たるかの説明のあとにそれを応用しての「侍に刀を抜かせぬ策」を沢庵が披露したさいに「大徳寺の件、なにとぞよろしく」「心得た」という会話が交わされるのみである。
この一連の流れについて、武蔵は翌日「侍に刀を抜かせてはならぬという沢庵大和尚の大構想も、わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」と総括しているが、それを言いたいだけなら宗矩が沢庵に一方的に「刀を抜かせぬ策」を相談した設定でもよかったのである。なぜわざわざ大徳寺の件などに言及する必要があったのか。
(3)-4で書いたように天皇家の権威をかさにきる滑稽さを表したかったというのもあるかもしれないが、沢庵の方も交換条件を持ちかけている設定によって、将軍家と天皇家にそれぞれ近しく発言力も大きい二人がこっそり幕府と禁中の先行きに関わる取引を行っているという秘密会合の雰囲気が醸しだされている。
実際宗矩は「その妙案を聞き出そうとおもって、この参籠禅に加わっている」と言い、沢庵も「(大徳寺の件について)秀忠さまや家光さまに、さようお取りなしいただきたいのだよ。宗矩どのをこの宝蓮寺にお誘いしたのも、それがあってのこと」と話している。
上で引いたように宗矩と家光は「お能を政治の隠れ蓑」にしているそうだが、ここでは参籠禅もまた政治の隠れ蓑として利用されている。参籠禅の最中にもかかわらず仇討ちの相談を始める乙女たちを「これが座禅か!」と叱りつけた沢庵だが、自分だって禅を政治に利用しておいて言えた立場かというものだ。こんなところで密やかに国の行く末は決定されているわけである。

ところでこの「能を隠れ蓑に政治に相談をしている」という話のすぐ前で、宗矩は『孝行狸』の筋は家光の発案によるものだと明かしている。
具体的に引用すると「泥舟で沈められたあの古狸に、親に煮似ぬ孝行息子があったとせよ。その孝行子狸の仇討が舞狂言にならないだろうか。宗矩、考えてまいれ」。
なぜ家光はこんな題材で狂言を作ることを宗矩に命じたのか。普通に考えればこれは儒教的な孝の精神を、新作能を通して鼓舞しようとしたものだろう。つまり家光は、子が親の仇を討つことは孝心の証として推奨されるべき事柄だと捉えているのである。
江戸時代は仇討ちが公式に認められていて(武家の場合だが)、むしろ親を殺された犯人が逃亡した場合それを見つけ出して仇を討たなければならない社会的圧力さえあった。
幕府としては別段仇討ちを奨励していたわけではなく、仇討ちを免許制にしたのも逆恨みなどによる不当な復讐を防ぐためだったと思われるが((2)-※18で井上さんも幕府の〈できるだけ刀を抜かせないようにする〉政策の一つとして「仇討ちが免許制になった」ことを挙げている)、一方で乙女のように子が親の、忠助のように家来が主人の仇を討つのは正義の行いであるとする庶民感情は強く、幕府もこれを無視できなかった。というより次代の将軍自身も(朱子学を通して?)忠孝の精神の発露である仇討ちを〈正義が悪をくじく〉勧善懲悪のドラマと見なしていたんじゃないか。
その家光の意を受けて仇討ちがテーマの能を製作中の宗矩が「争いごとはいけませんよ」と乙女の仇討ちを止めようとするのだから、いわば二枚舌である。

二枚舌といえば活人剣自体もそうである。「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」というのが活人剣の定義であり、活人剣を振るうときは己の内の「三毒」を断つことが必須だと宗矩は説明するが、(3)-3で書いたように本気で三毒を断とうとすればノイローゼに陥るわけで、そうなれば結局活人剣を行使することはできない。
万人を救おうと志を立てても剣を抜く前の段階で躓いてしまい、結局万人を見殺しにするほかはない。柳生新陰流の秘伝中の秘伝と言いつつ、つまるところ活人剣とは幻にすぎないのではないか。
宗矩の話を聞いた沢庵が「侍に刀を抜かせぬ策」として「刀を抜くことができるのは、心に三毒を持たない者だけ」とすればいいと提案したさいに「しかし、そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」と答えたのなどまさに語るに落ちたというべきか、活人剣の奥義に従うのなら「だれ一人として」─つまりは宗矩であってさえ刀を抜くことはできない、それでは活人剣とは存在しないも同然であろう。
要するに『ムサシ』を見るかぎり「活人剣」は存在そのものに無理があるのである。

(ちなみに「そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」発言のほんの直前では、この朝の仇討ちのさい自分自身に刀を向けた乙女に向かって「そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免状を贈ろう」などと言っている。
乙女を〈三毒を断った〉と認めたそばから三毒を持たない、断つことのできる人間は「だれ一人としておらぬぞ」とは矛盾も甚だしい。(3)-6で書いたように刀を振るった後になって三毒を断った乙女が活人剣の免状に値するとは思えないので、リップサービスと思って流しておくのが妥当なんだろか)

刀剣はいまや美術品のカテゴリーだが、もともとは人切り包丁である。殺人兵器を携行することは認めておいてしかし使用することは認めないというのは筋が通らない。
「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という武蔵と小次郎の言い分の方がよほど筋が通っている。
それこそ(3)-3でも書いたように刀そのものを取り上げてしまった方がよほどすっきりするし、〈全国諸藩三百万の侍どもが江戸城に押し寄せてくる〉心配などしなくて済むようになるだろう。
秀吉時代に刀狩り例によって民百姓から刀を取り上げ、彼らが一揆や謀叛を企てることができなくした(実際にはそれほど徹底したものではなかったらしいが)事に言及しておきながら、宗矩は武士階級に対して同じことをしようとはしない。あくまで刀を抜かせぬ工夫、武士に刀を帯びさせたままそれを実戦に使わせない形にこだわるのは何故なのか。

その理由は「四海波静かにて・・・・・・という新しいご時勢が、わが柳生新陰流の「争いごと無用」を選んだわけだ。」「その名、天下に隠れもなき二大剣客のご両人、剣を振り回せばことがすむ時代は終わりました」という言葉に総括されているように思える。
戦乱の世が終われば刀の出番はなくなる。のみならず既得権益を維持したい支配階級にとって刀、剣術は自分の足下を脅かしかねない存在として弾圧の対象にすらなりかねない。
宗矩は将軍家の政治顧問であり、大名の国替えなどにも関わっていると自ら明かしていたくらいで辣腕の政治家としての側面を持っていたが、やはり第一に彼は剣客であって、親から受け継いだ柳生新陰流を守っていこうとする立場にあった。
泰平の世で新陰流が、剣術が生き残っていくにはどうすればいいのか。その手段として彼は新陰流がもともと持っていた「争いごと無用」の精神をなお押し進め、活人剣は人を救うための剣、新陰流は泰平の世を治めるための思想と位置づけることによって、新陰流、ひいては剣そのものの生き残りを謀ったのではないだろうか。
本来人を殺すための道具を人を救うための道具だと言い立てるのだから無理矛盾が生じるのは当然のことだ。それを何とか力業でごまかし将軍家を丸めこむことで、泰平の世に剣術を残すことに成功した。
諸般三百万の侍から刀そのものを取り上げなかったのも、宗矩が新陰流だけでなく剣術全般を守ろうと考えていたからだろう。新陰流の安泰を願うだけなら、現代において基本警官と自衛隊員にのみ武器の携行が許されているのと同様に〈旗本御家人など幕臣のみ帯刀を許可する〉という形にしてもよかったはずだ。将軍家に剣術指南役として仕えつつ、こうした幕臣たちを門下生とすれば柳生新陰流の繁栄は約束されそうなものだ。
そうすれば諸般三百万の侍の反乱を気にしなくてもよくなっただろうに。そうしなかったのは、他の流派も含めて剣術そのものが生き残れるよう配慮していたからではないかと思うのである。
もっともその場合新陰流を学んだところで刀の腕を活かした就職口は激減するわけだから、結局は門下生が減ることになってしまうか・・・そういう計算もあったのかもしれない。
ともあれ人切り包丁を人助けの道具と無理やりこじつけて、平和な世の中に剣術を残そうと奮闘している宗矩から見れば、剣術の将来などまるで念頭になく、昔ながらの流儀で刀を振り回し勝敗優劣を競うことしか頭にない武蔵と小次郎は、年下ながら考えの古い、頭の固い人間と思えたことだろう。

つまるところ、「活人剣」──振るい所のない人を活かす剣とは、『ムサシ』の世界においては宗矩本人も実用性を信じていない、〈平和な時代に適した剣法〉の看板を掲げるための方便だった。
そして活人剣を振るうに足る聖人君子が存在しないように、あらゆる侍が処罰怖さではなく良心のゆえに自主的に刀を抜くことを放棄することも──それこそ日本中の侍がノイローゼに陥りでもしない限り─起こり得ない。
これは「アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらう」「アメリカにはその独歩主義を改めてもらう」((3)-※24参照)より以上の難題、というか完全に不可能だろう。人は正気のままでは争いを起こさずにいることができない、という実に悲観的な結論がここには表れている。
そもそも争いごとを起こすまいと思う動機が将軍家においては自身の地位を安泰に保つため、宗矩においてはそんな将軍家の方針下で「争いごと無用」の看板を武器に生き残るためであり、その一方で孝行のための仇討ちはむしろ美談として歓迎する有様である(この点においては宗矩は微妙だが)。子が親の仇討ちを行う分には幕府の足下が脅かされることがないからだろう。
脅威となりうる侍たちをこぞって禅病─ノイローゼにしてしまおうというのも幕府の(つまりは自分たちの)安寧のため──。一見平和主義、ヒューマニズムと見えるものが、実際には多くの場合において権力者の都合でしかないという身もフタもない事実がこのエピソードには読み込まれているのである。

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『ムサシ』(3)-6(注・ネタバレしてます)

2016-12-06 07:09:02 | ムサシ
こうした〈悪意〉を踏まえて『ムサシ』を見直してみると、『孝行狸』のほかにも表面通りではない、裏の意味合いがうかがえるエピソードが散見される。

たとえば乙女の仇討ち放棄。武蔵に教わった「無策の策」を実行し見事に父の仇である浅川甚兵衛の片腕を切り落とした乙女は、しかしとどめを差しにいくかわりに「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と刀を捨てて甚兵衛の手当てを始める。
この作品のテーマとされる「復讐の連鎖を断ち切る」を体現したシーンであり、そもそも「復讐の連鎖を断ち切る」という言い回し自体がここと次のシーンでの乙女の台詞「恨みの鎖を断」つに由来している。
この乙女の仇討ち放棄を受けて、先まで自身も復讐心に燃えていたはずのまいは「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなときではないでしょうか。」「恨みを断ち切ったときの乙女どののあの清々しい姿に、なにかお感じになりませんでしたか。」と小次郎に語りかけ、乙女自身も武蔵に向かって「とても気分がいいんです」「恨みの鎖を断ったせいですわ。すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」などと言うのだが、ちょっと待てよと思う。
「恨みの鎖を断った」と言うが、乙女はともかくも甚兵衛の腕を切り落としているのである。命に別状はなくとも日常の挙措に不自由するようになるのは明らかだし、茶人として剣客・道場主としての生命は断たれたに等しい。先に宗矩が武蔵と小次郎に道場破りをしてもらって甚兵衛の評判を落とし干乾しにする案を出しているが、小娘に敗れたうえ片腕を失った甚兵衛が干乾し─生活に事欠くようになるのはまず間違いないだろう。

つまり乙女はしっかり復讐を果たしているのである。武蔵に剣術指南を乞うた時の「父の恨みをこの刃に込めて、せめて一ト太刀でも、あの浅川甚兵衛に浴びせてやりとうぞんじます」という目標を彼女は実現させているのだから。
本来甚兵衛に一太刀も浴びせることなく一切の報復行動を断念してこそ、初めて「恨みの鎖を断った」と宣言する資格があるんじゃないのか。
乙女に「小次郎さまとの恨みの鎖、思い切って断っておしまいになったら、きっと、すっきりなさるでしょうに」と言われた武蔵が「試合は明後日の朝、それが終われば、わたしも今の乙女どののように、すっきりしているはずです」と答えて乙女をがっくりさせているが、要は〈あなたがすっきりした気分になれたのは決闘を敢行したからこそなんだから自分もそうするよ〉と言っているわけで、これは明らかに武蔵に理がある。

父親を殺されたにもかかわらず腕一本で済ませたのだから十分立派ではないかと言われそうだが、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される〈アメリカ同時多発テロ以降の世界情勢〉にたとえるなら、アメリカが〈飛行機を三機ハイジャックされ、うち二機を世界貿易センターに突っ込まされたにもかかわらず、報復のアフガニスタン空爆を一回実施しただけで止めにした、空爆による死傷者の数も同時多発テロによる死傷者より少ない〉と誇るようなものである。
(もちろん実際には空爆は一度で終わらず、井上さんによれば誤爆によって亡くなったアフガニスタン市民の数は同時多発テロの犠牲者を優に超えている。(3)-※24参照)
やられっぱなしになれということではない。ただ一度でも多少なりとも報復を行った以上、相手に与えた被害が自分が受けた被害より小さいからと平和主義者のような顔をする資格があるのか。
それで「とても気分がいいんです」だの「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分」だのと言い出された日には(さらにそれを同盟国が「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなとき」などと褒めそやしたなら)ふざけるなとしか言いようがない。乙女の行動はこれと同じことである。

そして命は取らず傷も手当てしてやったとはいえ、生涯不自由な体にされた甚兵衛が、この先生活が苦しくなるにつれて乙女を逆恨みして何らかの報復行動に出ないとは言い切れない。「恨みの鎖を断」つどころか、腕を切り落としたことで新たな恨みの芽を残してしまったのである。
それももともと腕一本で勘弁してやるつもりで決闘に臨んだのではなく、殺す気満々だったのがいざ事に及んだらにわかに日和ったという、要はその場の思いつきで行動した結果なのだ。その程度の覚悟なら最初から復讐など企てるんじゃない。
確かにやってみなくてはわからない事、実際やってみて初めて身に沁みてその重大性に気づくという事だって世の中にはあるだろう。乙女も相手に重傷を負わせて初めて血で血を洗う復讐の無残さを実感した。
しかし実際のところやってみなければわからなかった、不可抗力だったで済ませている物事の多くは、想像力不足や怠慢、他人の意見に耳を貸さなかったことによって引き起こされたのではないか。乙女のケースでも沢庵や宗矩が口々に復讐を止めたのに彼らの話を全く聞こうとしなかった。復讐を思い止まる機会は十分あったはずなのに頭に血が上ったためにその機会を見逃してしまったのだ。

あげくにまいや忠助をも巻き込み(彼らが積極的に巻き込まれたとはいえ)彼らをも死地に立たせておきながら、勝手にもう復讐は止めると宣言して〈いち抜け〉してしまう。
普通ならまいや忠助、僧侶のくせに自分も仇討ちに参加しようとまでしていた平心から〈今さら何を言ってるんだ〉と抗議の声が上がってもおかしくない。
彼らだけでなく仇討ちのため是非にと乞うて剣術を指南してもらった武蔵に対しても大概失礼である。いきなり仇討ちを途中で(半端に)止めたあげく上から目線で「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」とはどの口が言うのか。今度は〈さっきまでのわたしは燃えたぎる日輪でしたが、今はお月さまのように大人しく光っているのです〉とでも言うつもりか。
宗矩は「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と言って自分自身に刃を向けてから刀を捨てた乙女を、自身の心の三毒を斬った、無自覚のうちに活人剣の奥義を究めたものとして「乙女どのには、そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免許状を贈ろう」と賞賛したが、すぐ前で宗矩自身が語っているように、活人剣はあくまで「己れの心のうちの三つの毒を切り捨ててから、相手に刃を向け」るのが肝要。まず刀を向け、相手の片腕を切り落としてから三毒を断ったのではまるで手遅れである。
そりゃ全く反省しないよりは反省した方が、殺すよりは半殺しで思い留まる方がまだしもではあろうが、到底活人剣の免許皆伝には当たるまい。そもそも腕を切り落としたこと自体は、後悔してる気配が全くないしなあ。

もっともこれらは全て乙女が書いた芝居だとわかってみれば一応は理解できる。もともと馴れ合いの芝居だったからこそ、平心もまいも乙女の突然の変心に驚きも怒りもせずに彼女の決意を褒めそやす─褒めそやすのにかこつけて、ここぞとばかり武蔵と小次郎に恨みの鎖を切ることの素晴らしさを説こうとする。
二人とも乙女の決意に感銘を受けそれを支持するというのなら、まず乙女に倣って甚兵衛たちの手当てに向かって当然の状況である。まいなど自身の手で敵の額に傷を負わせているのにまるで他人事のような顔をしているが、一連の騒動が武蔵と小次郎を教化する目的で仕掛けられたものであるゆえに、本当の意味で怪我をしたわけでもない斬られ役の介抱などより二人の説得の方が優先するのだ。
沢庵や宗矩が乙女らの仇討ちを止めようとするさいに「殺生はいかん、命あるものを殺めてはいかん」「争いごとはいけませんよ。つまらんことだ」と言うばかりで〈返り討ちにあって命を無駄に捨てるだけだから止めなさい〉とは言わない、多くの弟子を抱えるほどの剣客に素人が挑もうというのだから逆に殺される可能性が高いのに彼女たちの命を気遣う様子が見られない不自然さも、この決闘が狂言とわかってみれば納得できる。乙女(たち)の命を慮る発言をしたのはこれが芝居だとは知らない武蔵の「切ると同時に、あなたも切られるよ」くらいなものだ。
戯曲のト書きには乙女が刀を捨てて甚兵衛の血止めに行った直後に「まだ茫然としている武蔵に平心が、小次郎に、まいが寄り添って」、恨みの鎖を切るのがうんぬんの話を聞かされた二人が「なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる」「二人の様子を、一同がひそかに窺っている気配がある」とあって、乙女仇討ちエピソードの不自然さ、武蔵と小次郎を除く一同が二人に何かを仕掛けている気配を観客に対して匂わせているのだが、実際の舞台ではそれがあまり感じられなかったのは少し残念なところだ。

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『ムサシ』(3)-5(注・ネタバレしてます)

2016-11-28 19:53:58 | ムサシ
第一幕の間、宗矩によってたびたび演じられる新作能『孝行狸』。
二幕になってから続きが語られなくなってしまったこの作品は物語の終盤、正体を明らかにした幽霊たちが成仏する段になって、宗矩が「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と唐突にそのオチを話しだす。
内容は「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は鷺になって、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。
初見では幽霊たちが悲願叶って成仏するという神々しい場面の中に差し挟まれた突然のダジャレネタに笑ってしまったのだが、改めて見返してみて愕然とした。ウサギ→ウ+サギというダジャレのしょうもなさで誤魔化されていたが、子狸はウサギを真っ二つにして斬り殺している。つまり仇討ちは完遂しているのだ。
〈復讐の連鎖を断ち切れ〉〈命を大切にしろ〉という幽霊たちの訴えに剣客二人がついに刀を収めたその時になって、〈親の敵を見事に討ち果たしました〉という小話が得々と語られるとは。しかもダメ押しのように「めでたしめでたし」と締める。ここまでの物語はいったい何だったのか!?

(2)-7で書いた通り『孝行狸』の元ネタは朋誠堂喜三二の黄表紙『親敵討腹鼓』。井上さんにとっては若い頃に自分の心を救ってくれた思い出深い作品である(※49)
しかしだからといって「復讐の連鎖を断ち切る」がテーマ(であるはず)の『ムサシ』のまさにクライマックスに、仇討ちの成功を描いたこの話を引用するのはあまりに不似合いではないか。

しかも『親敵討腹鼓』は『孝行狸』のように単純に憎い親の敵を討ち果たしてハッピーエンドという話ではない。
『カチカチ山』でタヌキに殺された婆の息子・軽右衛門は主人のため兎の生き肝を欲していたが、母の仇討ちをしてくれた恩人だからとウサギを子狸の手から庇おうとする。
そうと知ったウサギは軽右衛門と子狸、二人の孝心に応え、加えて軽右衛門が出世できるようにと、自ら切腹して軽右衛門に生き肝を取らせたうえで子狸に討たれている。ウサギはむしろ善玉として描かれているのである。
かえって井上ひさし選『児童文学名作全集 1』の浜田義一郎氏による校注(挿絵の解説部分)では「悪い狸」「狸はいかにも敵役らしく」とすっかり子狸が悪者扱いになっている。

泣く泣く生き肝を得た軽右衛門は主人に重用されるようになって老父を引き取り幸せな生涯を送る。
一時ウサギをかくまった江戸の鰻屋「中田屋」は、日照りのため商売物の鰻も泥鰌も手に入らず困っているところへウとサギが飛んできて、大量の鰻と泥鰌を吐き出してくれたおかげで商売繁盛、吐いた鰻の蒲焼だからと当初は「へど前大蒲焼」と看板を出したが、名前が不潔っぽいからと「江戸前」に改名してさらに繁盛したというこれまたダジャレオチ。
この鰻屋の「へど前」→「江戸前」エピソードについては、井上さんも(2)-32であげたエッセイの多くで「ウサギ→ウ&サギ」と合わせて言及してます。

一方で管見の限りエッセイで言及されたことがないのが子狸のその後。
もともと子狸は仇討ちを志したさいに猟師の宇津兵衛を味方につけるべく、宇津兵衛を白狐・むじな・猫又ら化仲間の会合に密かに案内して、狐三匹を撃たせてやった経緯があった。それを恨んだ狐の子が子狸と宇津兵衛の両方を討ち果たすべくまず子狸を買収、子狸に宇津兵衛を穴に誘い込ませたうえでともどもに刺し殺すのである。
親の仇討ちのためとはいえ化仲間を犠牲にし、仇討ちの協力者だった恩人宇津兵衛を売った子狸は自身も親の敵として殺される。子狸の親も仇討ちで命を落としたことを思えば、これこそ「復讐の連鎖」ではないか。

ひるがえって恩あるウサギを庇った軽右衛門、義侠心からウサギを匿った鰻屋は繁栄する。
恩に報いようとする軽右衛門の心に感じ、軽右衛門と子狸の孝を重んじて自ら命を断ったウサギはウとサギに転生し、転生の後も鰻と泥鰌を鰻屋に届けることで「前生の恩」に報いている。
つまり『親敵討腹鼓』は恩を重んじる者は栄え、恩をないがしろにしたり仇討ちを志す者は滅びるという教訓話なのである。ウサギがウサギとしては死ななくてはならなかったのも、彼が人助けとはいえ仇討ちを行った報いであろう。

しかるになぜ『孝行狸』は原拠の〈復讐否定〉要素をすっぱり切ってしまって単純な復讐譚に仕立てられたのか。
あくまで『ムサシ』という芝居のごく一部にすぎない以上あまり複雑な筋立てにできないのは確かだが、「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマをラストで粉砕するような、そんな物語を何のために入れ込んだのか。
──さんざん頭を悩ませてみたが、〈「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板を素直に信じた観客をあざ笑うため〉以外の理由を思いつけなかった(・・・あとからもう一つ思いついたことがないでもない。これについては後述)。
そう考えると評論家の方々が『親敵討腹鼓』に(『孝行狸』のオチに、と言うべきか。『親敵討腹鼓』との関係に触れなくても復讐否定の物語の最後に復讐肯定の挿話が配置されている違和感は指摘できるはずだから)一言も触れなかったのも頷ける。
『ムサシ』は9.11以降の世界情勢を背景に血で血を洗う報復の連鎖を断ち切ることの重要性を説いた芝居である、として話を綺麗にまとめようとすれば『孝行狸』のオチは夾雑物でしかないだろうから。

(3)-4他で書いたように、井上さんは天皇の戦争責任を語るさいに必ずといっていいほど一般民衆の戦争責任についても言及している。
加えて井上さんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・」という座右の銘からも、誰にでもわかる平易な言葉で、つまりインテリではなく「フツー人」に向けて物語や思想を綴る(※50)(※51)、庶民の味方というイメージが強いと思うが、一方で民衆のしたたかさ・残酷さを繰り返し描いてきた。
そのキャリアの初期から中期に書かれた「江戸三部作」のうち『雨』(初演1976年)と『小林一茶』(初演1979年)はいずれも自分たちの安寧な暮らしを守るためによそ者をスケープゴートに仕立てて平然としている庶民の残酷さをまざまざと描いている。
「江戸三部作」の残るもう一作『藪原検校』(初演1973年)においては主人公をスケープゴートとして処刑するのは幕府であるが、そこには彼を見せしめとすることで民の綱紀粛正を図ると同時に人々の残酷趣味を満足させてガス抜きをしようとする計算が働いていた。
ほかにも特に初期の井上戯曲において主人公が一種のスケープゴートとして殺害されて終わる作品は『十一ぴきのネコ』(初演1971年)、『珍訳聖書』(初演1973年)など少なくない。
演劇評論家の扇田昭彦氏はこうした主人公たちに「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリスト」の投影を見るが(※52)キリストが自らの意志で民を救済するための犠牲となることを選んだとされるのに対し、井上作品の主人公たちは一応は望まずしてスケープゴートの役を押しつけられる。
(一応としたのは、死が間近に迫ってきたときに自ら望んだわけではないが穏やかにその理不尽さを受け入れたキャラクターもいたからである)

こうした庶民の人間性に対する辛辣な評価は、終戦を境に態度が180度変わってしまった(※53)周囲の人間、とくに大人たちに対する不信感と、早くに亡くなった父親が左翼の活動家だったために幼少期に近隣から「アカの子」扱いされたり(※54)、中学三年から高校三年までカトリックの孤児院で育った井上さんの生育史に関わる部分が大きいと思われる。
「フツー人」を優しく啓蒙しようとする一方で滲み出してくる「フツー人」への悪意──それがフツー人を主とする観客に向けられるのはごく自然なことなのではないか(※Ⅱ)




※49-余談だが井上さんの直木賞受賞作『手鎖心中』(文春文庫(新装版)、2009年。初版1975年)には、ヘボ戯作者の栄次郎が書いたという設定で『吝嗇吝嗇山後日哀譚』なる『カチカチ山』の後日談が登場する。内容は悪狸を退治したウサギがカチカチ山一帯に善政を敷くが、節約好きが高じていろいろ下らないうえ有害なお触れを出す。ついに民衆の非難の声が殺到して兎を退位させるが、後を引き継いだ六人の老兎は凡愚でその隙にカチカチ山は悪狸の遺子たちに攻めとられるというもので、狸は田沼意次、兎は松平定信の見立てとなっている。『カチカチ山』の後日談を劇中劇めいた形ながら自身でも書いてみるあたり、『親敵討腹鼓』に対する井上さんの思い入れを改めて感じる。

※50-「戦後の新メディアであるテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一)と非難されもしたが、しかし常に大衆と向き合っていたことだけは確かだ。放送界に身を置くことで、戦後本格化する大衆社会の進展を直に感じ取った井上ひさしは、観客に対して知的で開かれた演劇形式の必要性を強く意識したのだろう。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※51-「「井上ひさしは、はるか遠くからもどかしげに手招きして導くたぐいの啓蒙家ではなかった。同じく社会変革の理想をかかげながらも、戦後的知識人の多くとことなるのはこの点である。保守革新、右派左派を問わず傲岸な権威はもちろん無意識の権力もからかい、笑いのめすと同時に、笑うみずからをも痛烈に笑った。困難な状況にあっては、安定した特権的なポジションは誰にも許されていないことを、井上ひさしはみずからを笑って示した。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※52-「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリストこそ、ある意味ではもっとも典型的にして聖なる道化なのだ」(扇田昭彦「神ある道化──井上ひさし論」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録。初出は『國文学 解釈と教材の研究』1974年12月臨時増刊号「野坂昭如と井上ひさし」。その後改訂加筆して『書下し劇作家論集Ⅰ』(レクラム社、1975年)に収録。

※53-たとえば『夢の痂』(初演2006年)には「八月十五日を境に、わたしたちの考え方がすっかり変わってしまいましたね。(中略)百年戦争だ、最後の一人になるまで戦うぞ、みんなでそう絶叫していました。でも占領軍がやってくると、とたんにウエルカムでギブミーチョコレートでしょう。わたしたち、いったいどうしてしまったのだろう」「変わり方のうまいのが、たしかに、わたしのまわりにもいた。次の作戦でかならずマッカーサーを地獄に叩き落としてやる!作戦会議のたびにそう息巻いていた連中が、いまはそっくりマッカーサーに雇い上げられている。そればかりじゃありませんぞ。連中はマッカーサーに「ねえ、あいつは戦争犯罪人です」「あいつもそうですよ」と入れ知恵している。情けない話だ」という会話が出てくる。


※54-「当時(注・戦時中)、子どもにとっての最高のおやつといえばアイスキャンディーでしたが、いつも僕はイチゴのキャンディーしか買えませんでした。まわりから「おまえはアカの子どもだから」と言われ、それしか買うことを許されなかったのです。「おまえはアカの子だから、赤いキャンディーでいいんだ、白いのとかあずきが入ったのはとんでもない」というのです。それは、いじめというより、当時の大人の常識で測ったものの見方でした。国の方針に従わないのは非国民と言われ、ちょっとでもずれると全部非国民として扱われるのが普通だったのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年)、「近所にアイスキャンディーを買いにいっても『お前は赤いの食ってればいいんだ』と言って、イチゴのアイスキャンディーしか売ってくれないんです。ぼくだって小豆やミルクのアイスキャンディーが食べたいのに、いつもイチゴですよ。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年))。ただ『井上ひさし伝』は少し後で「アイスキャンディー?覚えないな。何から何まで物資がなかったときに、甘いもんなんかあったかね?ひさし君は、本当のことはいわないで、茶化してしまって書いていることが多いからね。茶化さないではいられない心の屈折したところを汲み取ってあげればいいのにな、と思いますね」という五つ上の兄・井上滋の発言を記している。この本は井上さんの生前に上梓された、事前に当人に許可を取りインタビューも行っているにもかかわらず、井上さんの発言の矛盾を明らかにするような箇所がたびたびあって(「一九四五(昭和二十)年八月十五日のことを、ひさしは自筆年譜にこう記している。 〈近くの山で、松根油にする松の根を掘っていると、老教師が泣きながら走ってきて、「日本は戦さに負けた」と告げた。それを聞いてわたしたちは思わず歓声をあげたが、これは松の根掘りが相当の重労働だったせいで、他意はない〉 川西町町民記念講演会では、同じ日のことをこう話した。 「八月十五日は、長井の軍需工場で淡谷のり子の慰問ショーがあるというので、なんとか見ようと朝から出かけてそこに潜り込んでいましたね。淡谷のり子は、音程がはずれていてうまくないと思いました。玉音放送も全然知らないで帰ってきたら、戦争に負けたらしい、と聞いたのです。(後略)」とか)著者の公正さを感じる。

※Ⅱ-「私は自分の忙しさを棚に上げ、世間が慌ただしく井上ひさしを「ヒューマニストの作家」のように乱暴に片づける姿が耐えられない。 井上さんは「悪意の作家」だ。それもやすっぽい偽悪作家ではなく、手間暇かけて磨き上げた「悪意」がいつも作品に込められていたように思う。それが私の誤読だというのであれば、恐らく私は、井上さんの本の「悪意」に見えるところが好きだった。そして、それを言葉だけで目の前に立ちあがらせる井上さんの劇作家としての腕力は、私のようにせっかちにモノを書く人間からすると、本当にうらやましい限りだった。」(野田秀樹「叶わなくなったコトバ」、『悲劇喜劇 2010年7月号』(早川書房、2010年)

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『ムサシ』(3)-4(注・ネタバレしてます)

2016-11-21 18:06:18 | ムサシ
(3)-1で井上さんが「初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた」と書いたが、井上作品で八月十五日について語られるとき必ずと言ってよい割合で言及されるのが天皇および一般人の戦争責任の問題である。

一般人の戦争責任についてはひとまずおいて、天皇の戦争責任について言及した作品をあげるとすると、その筆頭はいわゆる「東京裁判三部作」(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』)だろう。
『夢の裂け目』(初演2001年5月)は東京裁判が天皇を免責するためにアメリカと日本が共同演出した「仕掛け」であることを暴き、『夢の泪』(初演2003年10月~11月初演)では極東委員会が日本の占領方針として天皇の免責を決めたことが語られ、『夢の痂』(初演2006年6月~7月)では天皇の東北巡幸のさいの宿に決められた家の住人たちがもてなしの予行演習をするうちに熱が入りすぎて天皇役を務めた主人公が戦争責任について国民に詫びて退位を宣言してしまう。後へゆくほど天皇の戦争責任に対する追及がより鋭くなっている感がある。

(やや話が逸れるが、『井上ひさしの劇ことば』は、『夢の裂け目』は成功作だが、イラク戦争の頃に書かれた『夢の泪』とその後の『夢の痂』ではテーマが大きく観念的になりすぎて芝居としての面白みは減じてしまったと指摘している。アメリカ同時多発テロ以前に上演された『夢の裂け目』の時に比べて「あの裁判は一体、何だったのだろう」という問いかけが井上さんの中でより切実になったために、観客との向き合い方もより切迫した余裕のないものになってしまったんじゃないだろうか)(※33)

また『紙屋町さくらホテル』(初演1997年)と『箱根強羅ホテル』(初演2005年)はともに〈皇室の安泰と国体の護持にこだわって「ご聖断」が遅れたために多くの国民が命を落とした〉ことへの批判を強く打ち出している(※34)(※35)。両方とも新国立劇場中劇場、つまり国立の劇場のため(『紙屋町~』はこけら落とし公演)に書き下ろした作品だというのがまた挑発的ではある(※36)

それだけ天皇が戦争責任を取っていないことを繰り返し取り上げていながら、井上さんが2004年に文化功労者に選ばれた際にこれを辞退せず天皇主催のお茶会にも出席したこと、さらに2009年には反体制的文学者が多く辞退している芸術院会員にもなったことに対する批判もある(※37)
井上さんは2001年に上梓された『井上ひさし伝』のインタビューでは過去につい国の賞をもらってしまったことへの後悔を述べていたはずだが(※38)、数年のうちにどんな心境の変化があったものか。
ちなみに同じ2004年に文化功労者に選ばれた蜷川さんは、プロレタリア作家だった父親を戦争で亡くした奥さんに遠慮してお茶会には欠席したという(もっともその後文化勲章の時には行ったそうだ。どうも欠席したことでいろいろ煩わしいことがあったらしく、井上さんはそのへんを察して大人しくお茶会に出席したのかもしれない)(※39)。蜷川さんは「井上さんは、興味があったんじゃないの(笑)。」と書いているが、今上天皇が皇太子時代に現皇后と成婚した「世紀のご成婚」の際のパレードを見物した時のエピソードなど読むと〈要はミーハーなだけなんじゃないの〉という気もしてくる(笑)(※40)

あるいは戦争責任を問われるべきはあくまで昭和天皇であって今上には責めるべき理由がないと考えたからだろうか。
しかし「天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。(中略)いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。」(※41)「何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない(中略)わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」。」(※42)といった発言からすれば、井上さんが批判するのは昭和天皇個人ばかりではなく─明らかに昭和天皇個人に向けた批判の言葉も少なからず(主として1989年の昭和天皇崩御直後にあちこちに寄せた文章の中に)ある(※43)には違いないが─天皇制というシステムだと見るべきだろう。
(女権拡張論者に噛みつかれて反論した際には、「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある」、天皇制は「日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源」とまで表現している)(※44)


(3)-1で書いたように、『ムサシ』には終戦を境に日本が軍国主義から民主主義へと転換した現代日本の姿が投影されている。ならば井上さんの多くの戯曲やエッセイで終戦とセットで語られる天皇の戦争責任はどのように扱われているだろうか。
もとより江戸初期を舞台とする『ムサシ』では正面から昭和天皇の戦争責任が取り上げられることはない。しかし物語の中で天皇についてはたびたび言及されている。
具体的には四ヶ所、寺開きの挨拶の中で平心が沢庵のプロフィールを説明しようとする場面、参籠禅二日目に大徳寺住持の選定に幕府が口出ししてきた件について沢庵が宗矩に相談する場面、沢庵が俗世間では三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してよいことになっているらしいと話す場面、そして小次郎が次仁親王のご落胤だったというエピソードである。

最初の沢庵プロフィールは、後に沢庵が大徳寺住持選定の問題を持ち出すにあたってのいわば仕込みだが、平心の挨拶が長くなりがちなのをたびたび「手短かに」と叱る沢庵が、平心が〈大徳寺は大きなお寺すぎて何から話していいか迷う〉と言ったのを受けて「帝じきじきの勅命によって開かれた臨済禅の大本山、というところから始めてはどうか。さもなくば、大徳寺住持を任命できるのは帝だけである、というところからかな。」「こう始めるのもいい。大徳寺とは、あの信長公の御葬儀をとりおこなった寺であるとな。」と自分の寺の自慢を(宗矩・まい・乙女も乗っかって大徳寺の特徴を次々並べ立てたせいもあるが)長々話すあたり、いかに彼が大徳寺とその寺の住持であることに強い自負心を抱いているかを感じさせる。
(平心が「お静かに!」「寺開きの挨拶が終わっておりませんが」と話をぶった切っているが、宝蓮寺に直接関係ない大徳寺褒めが延々続くのにさすがに苛立ったんだろう)

住持選定の件についても「長老たちが、これはと見込んだ僧を新しい住持として選び、それを帝にお認めいただく。これが、後醍醐帝の仰せによってつくられた勅願寺、大徳寺の寺作法」という表現に勅願寺─天皇の傘の下にあることを誇る気持ちがありありと現われている。
だからこそそこに幕府が口出ししてきたのが自分たちやその背後の天皇に対する挑戦と感じられて面白くない。ゆえに友人であり将軍に顔のきく宗矩を抱きこんで、口出しを封じ、これまで通りのスタイルを通そうと画策する。
しかし「大徳寺の寺作法」に差出口をしてきた幕閣内のある人々を「われら大徳寺禅の仏敵」と呼んで敵意を明らかにしている沢庵は、三毒のうち「怒ること」(「欲張ること」も?)を持っていることにならないか。翌晩まいの生んだ子供・蝉丸が現天皇のイトコチガイになるとわかったとき、まだ小次郎=蝉丸だと明かされていない(〈ご落胤〉が目の前にいるとは知らない)のにふらふらと倒れかかったりしているのも、いかに彼にとって天皇家が絶対的な権威であるかを示していて、三種の神器を持つ=天皇の権威を帯びているか否かで正義の行方が決まることを「滑稽な理屈」だと言っておきながらのその反応は、三毒のうちの「愚かなこと」に該当しそうだ。
名高い高僧沢庵からしてこうも三毒にまみれているとは。まあこの沢庵は本物ではないし、〈心に三毒を持たないものなど(自分自身を含めて)いない〉と言っているのだから矛盾してるわけではないんだが。

そして三種の神器の話。これは言うまでもなく神話の時代から天皇家に伝わる、いわば天皇の象徴である。「武蔵が三種の神器を持っているとせよ。そうすると、武蔵は官軍、賊軍の小次郎を殺してもよいという資格を備えることになる。」「では、小次郎どのが三種の神器を持っていなさると、あべこべに?」という沢庵とまいの会話は、この翌晩の小次郎ご落胤騒ぎへと繋がっていく。
思えば自分は皇位継承順位第十八位だと吹き込まれた小次郎は、〈自分はいわば官軍であり、武蔵を殺してもよいという資格を備えている〉と唱えてさらに居丈高に武蔵に挑んでもおかしくなかったのである。頭に血がのぼって気絶してくれたからよかったが、乙女たちの目論見は逆効果になりかねなかったわけだ。
ここで上でも書いた「三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる」ことの馬鹿馬鹿しさを指摘しておいて、いよいよここまでの流れで強調してきた「天皇の権威」を、武蔵と小次郎の決闘をやめさせるための仕掛けとして投入してくる。曰く、小次郎と戦うことは帝に刃を向けることに等しいのだ、と。

これら天皇に関わる話題に共通するキーワードは「権威」ということである。勅願寺や親王のご落胤など天皇の権威を帯びたものに手をかけることがあってはならない、それは天皇自身を汚すことに通ずる、天皇の権威の象徴である三種の神器を持つものが官軍となるのもそれゆえであり・・・・・・それは滑稽な理屈であると。
要するにこれら一連のエピソードは天皇の権威を有難がる者、その威を借りて自身のために利用する者たちを揶揄しているのだ。

『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)には明治期の陸軍参謀児玉源太郎が山県有朋中将に「(乃木が連隊旗を喪失した事件については)陛下から乃木連隊長に「決して自決はしてならぬ。乃木の命はしばらく朕が預かっておく」という御言葉を下しおかれるべきである、と。つまり、そうすることによって、陛下は将校ならびに兵隊の生命を自由になさることができるのだ、と国民に教え込むわけです。人間の生命を自由にお扱いになる・・・・・・、こんなことができるのは神だけです。ということは、天皇陛下は神になられる・・・・・・。」「天皇陛下をすべての拠り所として国民が打って一丸となる。そうでないとこの日本は列強の餌場になるのほかありませぬ。」(※45)と話す場面がある。
幕府が倒れ、日本が天皇家を頂点に戴く近代国家となったことで、近世以前から脈々と流れてきた天皇尊崇の念、天皇の権威に対する絶対的信仰をさらに強化すべきだと考えた者たちが、天皇を現人神に祭り上げるプロセスがここでは描かれている。そして神である天皇を奉じた官軍─皇軍として、日本は昭和二十年八月十五日まで軍国主義国家としての道をひた走ることになるのだ。
また『人間合格』(初演1989年)では津島修治(太宰治)が戦後実家の番頭格である中北を「あんたたちはみんな古狸だよ。(中略)まんまと化けやがって。それじゃああんまり天皇陛下が哀れじゃないか。(中略)天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーが来りゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら、世の中が変ろうが変るまいが、あの御方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」(※46)と激しく責めている。
さらに『太鼓たたいて笛ふいて』(初演2002年)では林芙美子が「こうなったのは軍部が悪い。天皇さまに責任がある。戦を煽った新聞とラジオがいけない。・・・・・・責任をほかへなすりつけようとする人たちが、この村にも大勢いるわ。(中略)でも、ウソッパチな物語を信じ込んでいたことではみんな同じ愚か者よ。そんな物語をつくりだしたやつ、そんな物語を読みたがったやつ、だれもかれもみんな救いようもない愚か者だったのよ」(※47)と訴える──。

冒頭で書いたように、井上さんが八月十五日について語るとき必ずと言ってよいほど言及するのが、天皇および一般人の戦争責任の問題である。上では「一般人の戦争責任についてはひとまずおいて」おくとしたが、実のところ井上作品では天皇より以上に一般人の戦争責任の方が大きく扱われているのである。
天皇の戦争責任を扱った作品の代表格である“東京裁判三部作”にしても一般人の戦争責任もセットで語られている。すぐ上で引いた『人間合格』など権威として担がれ放り出された天皇にむしろ同情し、担いだ側の民衆をなじっている(もっとも「今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」という修治の台詞は井上さんの創作ではなく、本当に太宰がそう主張していたそうだが)(※48)
直接には十五年戦争を描かない『ムサシ』も、天皇の権威に対する揶揄的な態度を見るに、同様のスタンスなのではないだろうか。つまり『ムサシ』が示唆するものは、天皇自身の戦争責任ではなく、天皇を権威として祭り上げ利用した者たち─国の上層部の責任であり、その権威を素直に有難がり信じたフツー人たちの責任ではないだろうか。



※33-「『夢の泪』は、二〇〇三~〇四年にかけて上演されました。その当時、世界の動きで大きな出来事はイラク戦争の開戦でした。この問題はテーマのうえで重要なかかわりをもってきます。井上はこう述べています。 「ただひとつ確かなことは、アメリカがあの裁判で日本を裁いたことによって、逆にアメリカも、それを守らなければならなくなったことです。ところが、今度のイラク戦争を見ていますと、アメリカは国連の決議を得られないと単独でやる。イギリスと手を組み、イラクを攻撃し、日本もそのあとにくっつく。とすると、あの裁判は一体、何だったのだろうと。もっと厳しい言い方をすれば、アメリカはあの裁判を行ったことで、自分たちは絶対に「人道」と「平和」に対する、「罪」は犯さないと誓いをたてたのに、自分たちの作ったルールを自分で破っている。そんな無責任な行為は許されるものではない。 果たして、アメリカは「人道」と「平和」に対する「罪」を犯していないかどうか、あの東京裁判によって、世界の人たちがアメリカを裁くことができるようになった。そこが、書きたいんです」 井上の問題意識はよく分かります。が、芝居の具体的テーマが集中せずに、ことばもインテリ的、観念的になったきらいがあります。」「『夢の裂け目』は庶民の目ですが、『夢の泪』『夢の痂』の中心はインテリの議論になっています。そこでは、相手(観客)に東京裁判とはこうなんだと「教示する」演説ことばになっていて、「開示する」劇ことばになっていないと思います。そうなると芝居としては面白くなくなります。」「『夢の裂け目』が成功作であったのに、『夢の泪』『夢の痂』では芝居としての面白みが減じていったのは、やはりそのテーマが大きく観念的になっていき、観客の生活する世界との接点となる人物(たとえば紙芝居屋・田中留吉)が登場しなくなったからでしょう。田中留吉は、予行演習をやりながら東京裁判の実体について「発見」をしていきます。おそらく井上ひさしも発見していったでしょうし、観客も発見していくのです。だから劇的なのです。 ところが「痂」の場合「瑕」とよばれたテーマ(天皇の免罪と国民の(管理人注・国民による東京裁判の)無視)は最初から結論が分かっていて、新しい発見がない。だから観客にとっても教えられたことを受け止めるだけで、受け入れたものをふくらましてはいかない、劇的ではないのです。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※34-「大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。(中略)沖縄の守備隊が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(中略)さらに長崎があった。その上、ソ連が攻めてきた。そのあいだに、いったい何百万の同胞の生が断ち切られたと思うのか。(中略)戦の本質は喧嘩である。喧嘩であるから、わが国にも、アメリカ、イギリスにも、それぞれ理があり、非がある。立場がちがうのだから、どちらが良くて、どちらが悪いということはできない。したがって、陛下は連合国にたいしてどんな責任もお持ちになる必要はない。(中略)しかし、和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民にたいして責任がある。御決断の、あのはなはだしい遅れはなにか。あれほど遅れて、なにが御聖断か。」(『紙屋町さくらホテル』、『井上ひさし全芝居 その六』、新潮社、2010年)

※35-ソ連を仲立ちとしてアメリカと和平を結ぶことを目指していた外務参事官の加藤は、箱根強羅ホテルでの二日間の体験を通してそれが甘い期待に過ぎないと悟り、局長に「最良の和平ルート」として「陛下が御自らラジオのマイクの前にお立ちになること」を進言する。「「陛下が全世界に向けてひとこと、『朕はやめたい。もう負けました』とおっしゃれば、和平はいますぐ成就いたします」・・・・・」「加藤さんの進言がもし容られていたら、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連の満州侵攻・・・・・・どれも起きていませんでした。」(『箱根強羅ホテル』、『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年) 

※36-『井上ひさし全芝居 その六』巻末の扇田昭彦「解説」は、「国が建設した新国立劇場」のこけら落としに新作(『紙屋町さくらホテル』)を書くにあたり井上さんが留意した点の一つとして、「戦前と戦時中に新劇を厳しく弾圧し、戦争で多くの国民を死に追いやった日本の国家指導者たちの責任を浮き彫りにすることを通して、これからの国と演劇の新しい関係を探ること。」を挙げている。

※37-「比較文学者の小谷野敦氏はこう言う。「彼の戯曲『化粧』(82年)と『紙屋町さくらホテル』(97年)は高く評価できます。特に『紙屋町さくらホテル』は、天皇の側近が戦争について詰られる場面があり、その展開はすばらしかった。しかし、その後、井上氏は天皇のお茶会に出たり、藝術院会員になったりしています」」(「追悼 井上ひさし氏が遺した「遅筆」の伝説」、『週刊新潮』2010年4月22日号)

※38-「ひさしが「うかうか三十、ちょろちょろ四十」で芸術祭脚本激励賞に入選したのは一九五八年十一月のことであった。ひさしは、直木賞受賞直前の一九七二年三月には「道元の冒険」で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。 「お上からの賞はもらわないことに決めていたのに、あのころはついもらっちゃったんですね。新人賞も断わるべきでした。賞をもらってからしばらくは、新年の歌会始めとか園遊会とかの招待がきていた時期があったんですよ。モーニングか羽織袴でこい、と書いてあったからモーニングがないからなどと言って断わっていたんですが、だんだんと、こいつは含むところがあるのだろうということなのか、そのうちまったくこなくなりましたね。天皇の戦争責任のことを書いて、お上のやることに逆らうことばかり書いているのですから、本当はもらわなければよかったのですが・・・・・・」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※39-「井上さんと一緒に文化功労者になった。授与式のあとに、宮中でお茶の会があった。それで、ぼくは行かないで、女房と一緒に帰ってきた。「井上さん、じゃあ失礼しまーす」と言ったら、井上さんは「え、蜷川さん行かないんですか?あの、ぼくはちょっと中が見たいんで行ってきます」って、井上さんは興味があったんじゃないの(笑)。ぼくは行かなかった。(中略)うちの女房のお父さんは『文藝春秋』の記者で、プロレタリア小説を書くようになった生江健次という作家だったんです。軍報道班員としてフィリピンへ赴き、女房が一歳か二歳ぐらいのときに戦死している。(中略)ぼくの家族には戦死者はいないんですけども、女房にはそういうことがあったから、女房を連れて天皇陛下とお茶なんか飲めないなあと思って。それで「帰ろう帰ろう」って。(中略)「お前の気持ち、そうだよね、そんな赤紙一枚で命を落としたのでしょう」そう思って、行かなかった。(中略)そのあと文化勲章で行きましたけどね(笑)。それはもういいやと思った。来ない、来たっていうのは、あっちではたいへんな話なんだよね。そしたら、文化勲章のとき、天皇は覚えてるんだよ。文化功労者のときはいらっしゃっていただけなかったんですけど、お会いできてよかったですって。すごいよね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』、2013年1月号)

※40-「見物人がどっと歓声をあげたのは六頭立ての馬車が目の前を通りすぎてからである。目の底に丸顔の美人と顎骨の張った青年の笑顔が残った。馬車の後部に向って見物人が手を振ってバンザイを叫び、それに釣られて、日頃は天皇制がどうのこうのとナマな口を叩いていた筆者も、思わず右手を二度三度と振っていた。そしてその日一日、手を振ってよかったのかどうか、かなり深刻に思い悩んだことを憶えている。」(井上ひさし「論文の書き方 昭和三十四年」、『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)。もっとも井上さんは読者を楽しませるために露悪的偽悪的な方向に話を盛ることが多いので鵜呑みにはできないが。

※41-「天皇の戦争責任もあります。がしかし、天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。つまり万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治するのですから、つまり「過去」が天皇の拠りどころ、権威伝統の源であるわけで、天皇の責任を裁くことは「過去」を裁くということになる。いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。ひっくるめていえば、日本人が開発してきた政治システムは、「責任の所在を明らかに示さない制度」だったのです。変な云い方ですが、これはじつに巧妙なシステムですね。」(井上ひさし「昭和庶民三部作を書き終えて」、『悪党と幽霊』(中公文庫、1994年)収録。初出1988年)

※42-「(尊皇攘夷を掲げていた薩摩侍が体制側に立つや鹿鳴館文化に狂い、西洋人を手本としていたはずが突然「鬼畜米英」を叫んだかと思えば終戦を境に彼らを民主主義の手本と仰ぐようになった)体制側のやり口のこの脈絡のなさ、支離滅裂ぶりを支えているのは「悠々不変の天皇制」であることは言うまでもないが、何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない。体制は国民の生命と国体の護持をはかりにかけ、結局連中は国体の護持のほうを撰択したのだ。下卑た言い方をすれば、わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」(井上ひさし「われわれの専売特許はいつまでも「呆然自失」か」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)収録、初出1975年)

※43-「一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。」(井上ひさし「作曲家ハッター氏のこと」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『テアトロ』1989年5月)、「昭和天皇がこの世から身を退かれたことをロンドンの宿のテレビで知って、覚えず、しまったと呟いた。昭和を五十四年間も生きてきたのに、昭和最後の日に立ち会うことができないとは、まったくドジな話ではないか。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「天皇にも戦争責任があるというのが筆者の基本的態度である。むろん重臣たちにも責任があり、さらに丸山真男氏の指摘する第一類型の中間層(筆者流にいえば、在郷軍人会や愛国婦人会や国防婦人会の、各地の中核部分)には多大の責任がある。そしてこれら第一類中間層の燃料になったきは当時のマスコミだったから、そのあたりの方々にも責任を痛感してもらわなければならない。がしかし何にもまして天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(大日本帝国憲法第四条)「陸海軍を総帥」(同第一一条)し給うておられたお方である。大元帥陛下として「総帥の頂点に立ち、すべての命令を裁可してきた天皇」(藤原彰氏)に責任がないなどと、どうしていえようか。たしかに私人としては誠実で、真面目な方であったろう。天皇の記者会見をすべて読む機会があったが、その印象を一言にしてつくせば「邪気なきお人柄」と拝察される。私的には「よき人」であられたようだ。しかし天皇は公人の中の公人でもあった。(中略)物事の進行や集団などを一定の方向に導くリーダーとして、天皇にも責任があったといっているつもりだ。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「開戦前の御前会議で天皇が、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引用されたり、近衛首相や杉山参謀総長に、戦争準備よりも平和的な外交を先行させるようにと仰せ出されたことを知ってい。しかし同時に私たちは帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を暗誦したし、「統帥系統がかかわる軍のすべての行動は、天皇の裁可した大命によるものであった」(藤原彰)ことも知っている。 私人としてはよいお人柄のお方だろうと拝察申し上げるが、公人としてはどうか。はっきりと責任をお認めになれば、それこそ内に醇風を育て、外に信頼をかちとられたのではないか。かつて少年飛行兵になって大君の辺にこそ死なめと決意したこともあった私としてはそれが口惜しくてならぬ。この口惜しさがおさまらぬうちは私の昭和は決して終わらない。」(井上ひさし「心の内 昭和は続く」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『読売新聞』1989年1月13日)、「大人になってあのころのことを調べたり先学の書物に学んだりして改めて振り返れば、昭和時代の病患は、せいぜい餓鬼大将の論理をふりかざすのが関の山の、大義名分の欠落にあったのではないかと思い当る。米英との開戦を決定した御前会議の三日前、すなわち昭和十六年十一月二日、東条首相は天皇から、「(開戦の)大義名分を如何に考うるや」と問われた。そのときの東条首相の返答は、あの大戦争の空しさあやしさをみごとに浮き彫りにしているのではないだろうか。東条首相はこう答えたのだ。 「目下研究中でありまして何れ奏上致します」 三日後の御前会議で開戦が決定した。しかし戦争をなぜ仕掛けなければならないのか、その名目(口実でもいいのだが)が決まらない。決まったのは、さらに六日後の連絡会議においてである。「自存自衛」が開戦の名目だった。 当時の支配層の考え方の筋目のなさは、これより少しさかのぼって、同年夏、対米英との戦争の第一原因となった南部仏印進駐の際の、天皇御裁可のお言葉にさえうかがわれる。 「国際信義上ドウカト思フガマア宣イ」 宣くないのです、陛下。筋目を立て、それを堂々と世界に問うて、それから行動をとるべきでありました。」(井上ひさし「餓鬼大将の論理」、『餓鬼大将の論理』、(中公文庫、1998年)収録、初出『文藝春秋』1989年3月)。読み比べるとあっちとこっちで言ってることが違ってたりするが、媒体に合わせて表現を変えた+全く同じ内容を繰り返すのがためらわれたという、よく言えばサービス精神の表れなのだろう。そのまま一冊のエッセイ集に(読み比べるとあちらとこちらで矛盾してるのがあらわなのに)収録したあたり潔いというべきか。

※44-「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある。(中略)天皇は自分から「わたしは神ではない。人間である」と宣言された。したがって、『人間天皇』という位を「男系の男子が、これを継承する」のは、重大な女性差別ではないのか。(中略)「天皇は別よ」と、おっしゃるなら、それはすでにあなたがたが、天皇を人間として認めていないということであり、これまた天皇を差別することになるのではないか。(中略)天皇はなぜ天皇だろう。むろん、天皇だからである。そこに特別の理由はない。すくなくとも日本人には答えられない。この考え方の極にあるのは、に対する差別、女性に対する差別だろう。民は、そしてなぜ女性はなぜ普通人や男性より劣った、低いものと見なされなければならないのか。むろんこの理由もない。つまり、天皇を天皇である、とあがめたてまつる気持と、「民は」、「女性というものは」、と見下す気持とは、見事な対になっているのだ。したがって『女たちの会』の世話人方や『中ピ連』の幹部連が、本気で女性差別と闘うつもりがおありなら、その闘いは、まず、この日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源へ向わねばならない。」(「怪電話の怪婦人に与う」、『ブラウン監獄の四季』(講談社、1977年)収録。初出1976年頃)

※45-『しみじみ日本・乃木大将』(『井上ひさし全芝居 その三』(新潮社、1984年)収録)

※46-『人間合格』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※47-『太鼓たたいて笛ふいて』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※48-「若い頃の彼がなぜ社会主義運動にのめり込んで行ったか、そして敗戦直後、人びとが天皇を「天ちゃん」などと言い始めたまさにそのときに、なぜ「いまこそ天皇陛下バンザイ!ぶべきだと息まいたのか、この劇はその謎を解くためのものでもありました。」(井上ひさし「人間合格──再演にあたって」、『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1992年)。この「天皇陛下バンザイ!」という主張は1946年に発表された回想記『十五年間』(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1570.html)、2009年)の終盤に登場する。正確には当時仙台新聞に連載中だった長篇小説『パンドラの匣』の一節を引用した中に登場するのであって、小説中のキャラクターの主張が作家本人の主張とイコールとは限らないが、あえて回想記のラストにこの箇所を引用したことと『十五年間』全編に横溢する一種の潔癖さからいって、「闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」という台詞は太宰本人の思いであると見ていいだろう。

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『ムサシ』(3)-3(注・ネタバレしてます)

2016-11-14 00:54:28 | ムサシ
ここでまた蒸し返すのだが、自己本位の生き方をやめて他人のために働こうとすることと、剣客として生きることとは並び立たないものだろうか。
武蔵と小次郎、日本一を競いあうほどの剣の技量の持ち主がその腕を腐らせるのはいかにももったいない。むしろその腕を弱い人々のために用いることの方が、慣れない農作業よりもよほど人の役に立てるのではないか。たとえば人々の生活と命を脅かす無道な盗賊を叩き斬るとか。
つまりは〈一人を殺すことによって万人を救う〉、柳生新陰流の活人剣の思想である。

(3)-2で述べたように、彼らはもともと剣を持つ者はその腕を弱い者のために役立てるべきだという思想を持っていた。二人に責められた宗矩は「目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです。つまり、「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と尻すぼみにならざるを得なかった。
その宗矩が、乙女が「恨みを断ち切っ」て父親の仇討ちを放棄した後に、沢庵の話を受ける形で「争いごと無用」の唯一の例外として「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」と活人剣について説明する。

この「一人を殺すことで万人が救われる」ことを正義とする思想は、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)にもキャラクターの台詞のうちに登場してくる。
「ぼくはこれでも三菱商事の切れ者で通っているんだ。来月からは満鉄へ出向することにもなっている。ここだけの話だけれども、関東軍の石原莞爾作戦主任参謀と組んで満州に一大ユートピアをつくろうというわけだ。ちかぢか満州はわが帝国の手引きで独立するんじゃないかな。(中略)立正護国会の指導者のあの井上日召も、それからいま、陸軍の青年将校たちに圧倒的な人気のある北一輝という思想家も、ともに日蓮宗なんだ。(中略)両先生は、「いま、国は、財閥や政府高官のよこしまな私利私欲によって、誤った方向へ流されつつある」という答をお出しになっている。さて、この誤りを、どう正すのか。両先生曰く、「それは法剣によってのみ可能である」。わかるかい、法の剣だぜ。仏法の剣によって私利私欲をむさぼる奴等を倒す。一殺多生。一個の悪を殺して大勢を生かす」(※20)
日蓮宗の僧侶だった井上日召は「血盟団」を結成し、「一殺多生」「一人一殺」を唱えて〈私利私欲のために国と民を軽んじる極悪人〉と見なした政財界の要人たちの連続暗殺(血盟団事件)を企てた人物である。北一輝は国家社会主義(社会主義と国家主義の両面を併せ持つ)的思想家で、「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げて二・二六事件を起こした将校たちの思想的基盤となった人物。つまり両者ともテロリストの思想的主導者といってよい。
そして日蓮宗の一派である国柱会(宮沢賢治も会員だった)に所属していた石原莞爾は台詞のとおりに「満州に一大ユートピア」、王道楽土を建設すべく満州事変を引き起こした。
彼らは─少なくともその思想を奉じて実際に「一殺」を実行した末端の人間の多くは、本気で自分は世直しのため正義の剣を振るっているのだと信じていただろう。しかしそれは視点を替えれば狂信に基づく殺人であり侵略行為となる。「一殺多生」の理念は容易にテロリズムに結びついてしまうのだ(※Ⅰ)

ならば視点を替えることで善悪の立場がひっくり返る可能性のある案件は避け、上であげたような無道な盗賊の退治、乙女のように親を闇討ちされた非力な女性の仇討ちへの助力など、国や時代を問わず万人が善と見做すようなケースにおいてのみ「一殺多生」を認めるべきか。
ただこれだって完全な加害者と思われた側にも相応の事情があるかもしれず、完全な被害者と思われた側にも恨まれる理由があったり、被害の申し立てに誤解や虚偽があったりするかもしれない。
実際乙女の話は全くの嘘だった。正義の剣を振るったつもりで、かえって悪を助ける可能性もあるわけである。

だからこそ柳生新陰流では「活人剣をふるうときは、まず己れの心の中にある三つの毒を殺す」という制約を設けることで、「一殺多生」が濫用されることを避けようとしている(これは実際には(2)の※24で書いたように柳生新陰流の教えというわけではないようだが)。
三毒のうちには「愚かなこと」も含まれているから、〈被害者〉の虚偽の訴えに動かされるような愚か者は理屈からいけばここではねられるわけである。武蔵などお通たち彼を慕う女を受け入れなかったから愚かだと、ごくプライベートな問題を三毒を断ってない証拠として小次郎にあげつらわれていたのは※13で述べたとおりだ。
しかし本当に〈三毒を殺した〉かどうかを客観的に判断するすべはなく、結局は活人剣を振るおうとする者たちの自己申告に委ねられるというのでは何の抑止力にもなるまい。
己の内の三毒を殺さない限り正義の剣といえど振るってはダメだと言われて素直に三毒を殺すべく禅病─ノイローゼになるまで思い詰めるような人間がいたなら、その人物はその時点ですでに十分聖人君子=剣を抜く資格があると思うが、ノイローゼにかかった彼らには本来の目的だった正義の剣をふるうことはもはや叶うまい。
皮肉にも真面目に三毒を断とうとした人間ほど刀を抜けず、端から自分の正義を信じて疑わない(内なる三毒の存在を自覚していない)、あるいは正義を信じているふりして私欲のために乱を起こそうとする人間は変わらずテロに走るわけである。
ならばもう刀を抜くことを法で制限するか、活人剣の思想を幼時から徹底的に刷り込むか(要はマインドコントロール)、いっそのこと刀自体取り上げるかした方が有効だろう。

(3)-1で書いたように『ムサシ』には日本国憲法第九条の精神が読み込まれている。
「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる」「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」に先立って武蔵と小次郎が口にする「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という言葉はしたがって、〈日本には自衛隊があるのだから、有事の際には軍事行動を行ってもよい〉という主張に容易に変換しうる。
以降の武蔵と小次郎の主張も、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される9.11以降の世界情勢(※21)(※22)(※23)になぞらえるなら、〈同時多発テロによって国民を殺傷されたアメリカがその恨みを晴らそうとするのに、自衛隊が協力するのは武力を持つものの努めである〉という話になるだろう。暴虐なテロリストを叩き潰すのは国際的正義であり、まさに一殺多生、活人剣の趣旨に叶っていると。
そうしてアメリカが中心となって〈正義〉を実践した結果が※21~23の文章が指摘するところの「世界を覆う暴力の連鎖」「暴力的報復の連鎖」である。
「一殺多生」の理念はテロリストにもテロリストを討伐する側にも利用され、「憎しみの連鎖」を生み出してしまう、ゆえに否定されるべきだ、というのが『ムサシ』の意図するところである(ように見える)。
活人剣を振るうか否かが活人剣を使用しようとする者一人一人の良心、彼らが自ら三毒を断つことに委ねられるのに対し、現代日本においては自発的良心に代わって憲法第九条が活人剣を振るう上での抑止力となるわけだ。そうなると、〈困ってる人、苦しんでる人を見ないふりしなさいというのが日本国憲法ですか〉という話になるわけだが・・・。
(〈活人剣を振るうためにはまず己の三毒を斬る〉はさしずめ〈自衛隊が軍事行動を行うに際しては、隊員一人一人から防衛省長官、総理大臣に至るまで全員が、この派兵・この作戦行動が妥当かどうか心の奥底をとことん見つめ問い直す〉といったところか。そして全員ノイローゼに陥る・・・・・・国が崩壊するわな)

井上さんは、「まずテロリストたちを地球上から消すには、遠い道を行くようだが、アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらうのが第一。これをその他の世界から云えば、彼らの暮らしを豊かにしてあげて、国際社会の中でみんなと一緒に生きることの愉快さを知らしめる努力をすること、それがなによりも大事だ。第二にアメリカにはその独歩主義を改めてもらうこと。平和ボケの理想論を云ってやがるという批判は甘んじて受けよう。しかし、この小さな水惑星の上では、おたがいに折り合いをつけていくしか生き方はないのだ。そのことを両者によく知ってもらいたい。」と書いている(※24)
本人もいうように甚だ迂遠な話であり、現に目の前で起きている殺戮にどう対処するというのか。これはあくまで武蔵と小次郎に責められて「「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と小さくならざるを得なかった宗矩と同じ「追い求めるべき理想」の域であろう。
しかしいかに「平和ボケの理想論」と思えても、それを実現することでしか人類が生き延びる道がないのだとすると(自分たちさえよければ他の国は全部滅んでも構わないという立場を取るならまた別だろうが)、どれほど遠い道であろうとも歩いていくしかない。
そのためにはどうすればいいのか。そのための思考実験として、日本人にとって兵法家の代表であり、日本人の代表でもある(※5参照)武蔵にあの手この手を尽くして剣を捨てさせる顛末を描こうとしたのではないだろうか。
※15で引いたように製作発表記者会見の時点でさえ構想がまるでできていなかったにもかかわらず、武蔵と小次郎を「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」。
最初の企画から長い時間が経つ中で、井上さんの中でも書こうとする話の筋が二転三転したらしい(※25)のに、作品を通じて「戦わない武蔵」像を生み出すという一点はぶれることがなかった(※26)

井上さんが『ムサシ』に次いで書いた、結果的に遺作となった戯曲『組曲虐殺』は昭和初期に活躍したプロレタリア作家・小林多喜二を主人公とした物語である。
井上さんが、獄中で苛烈な拷問によって命を落とした多喜二にやはり労働運動の活動家で特高による拷問が原因で亡くなった父親を重ねていたことは、井上さん自身を含め方々で言及されている(※27)(※28)(※29)
この戯曲の中に、多喜二を捕らえにきた特高警察の二人組にピストルを向けた内妻・ふじ子を多喜二が諭す場面がある。
「ふじ子、ピストルはいけないよ。(中略)たがいの生命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに価いしません。」「ぼくたち人間はだれでもみんな生まれながらにパンに対する権利を持っている。けれどもぼくたちが現にパンを持っていないのは、だれかがパンをくすねているからだ。それでは、そのくすねている連中の手口を、言葉の力ではっきりさせよう・・・・・・ぼくもきみも、そして心ある同志たちも、ただそれだけでがんばっているのじゃなかったか。ふじ子、ぼくの思想に、人殺し道具の出る幕はありません。」(※30)
特高警察に逮捕されようとしているのに、逮捕されれば今度こそ生きて戻れるかもわからないのに(事実獄死することとなった)、暴力で対抗することをせずあくまで言葉の力で戦おうとした。この多喜二の在り様を通して、武力を用いずに敵を消滅させる─敵対関係を解消して仲間とすることが可能かどうかを、井上さんは『ムサシ』につづく思考実験として描き出したのだと思う。
そして父を拷問して死に至らしめた特高警察は井上さんにとっては親の仇といっていい存在のはずだが、この作品に登場する特高二人、古橋と山本は決して悪人ではなくむしろ人情味ある人物として描き出されている。
年少で自らも小説を書く山本など、多喜二に感化されてその遺志を継ぐかのように全国交番巡査組合を作るための運動を起こすに至る。特高を〈いい人〉として描いた井上さんはこの時点で親の仇に対する恨みは捨てているのだ。
古橋が「このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー。」と叫ぶように山本の前途は実に危うい。おそらく彼の運動は実ることなく、今度は彼が投獄され獄死することになったかもしれない。しかし彼の志もまた誰かが(古橋が?)きっと引き継いでいく(※31)(※32)
武器を取らずして皆が豊かに共に生きられる世界を作る─理想の実現は甚だしく困難である。もとより十年二十年で叶うことではない、何百年かかっても達成できないかもしれない、それでも「あとにつづくものを 信じて走れ」(※19参照)。それが井上さん晩年のメッセージだったんじゃないだろうか。



※20-『イーハトーボの劇列車』(『井上ひさし全芝居 その三』、新潮社、1984年)

※Ⅰ-「東北は飢饉で、兵隊さんたちの故郷はひどい状態になっている。やっぱり資本家が悪い、財閥が悪いというので、昭和一けた代にはいろんなテロ、クーデターが起こりますが、その中には国柱会の会員が多いのです。つまり人が一人死ぬことによって、ほかの人が助かるというのが、国柱会の根本思想の一つです。暗殺事件は一殺多生というのを拡大解釈したものです。」(井上ひさし『講演 賢治の世界』、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年))

※21-「フツーの人々のかけがえのない生を言祝ぐことが、恨みの鎖につながれた者の決闘を阻むのだとしたら、『ムサシ』は戦争小説『宮本武蔵』を深くくぐりぬけ集団の戦いのみならず個人の戦い、その精神主義的な戦いの境地(「精神の剣」)までも不可能ならしめた。 恨みと恨みが連鎖し、暴力と暴力とが連鎖して、九・一一事件以後、アフガン戦争、イラク戦争をへたのちも、各地でつづく「新しい戦争」。 この忌まわしい時代に、『ムサシ』は、おなじみの時代ものをステージとして「日本人」の薄暗い伝統にまでさかのぼり、「戦さと恨みの鎖」を断つ亡霊たちの生の賛歌と「ありがとう」の言葉を響かせた。『ムサシ』はいままでにない、そして、いまこそ求められる戦争時代ものの傑作といってよい。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※22-「現に世界を覆う暴力の連鎖が、ニューヨークの9・11に始まりました。そこから始まったブッシュの復讐、これは復讐ですから、戦争ですらないのです。戦争ならば、戦時国際法、国際人道法 humanitarian lawをお互いに、厳密に守ったことは今まで例がないにしても、とにかく守ろうとしなければいけません。しかしビン・ラーディンの殺害に、アメリカの善良な市民たちが一斉に喝采しました。これは、9・11のときに、パレスチナやアラブの諸国で人々が喝采したのと同じことを、一〇年後のアメリカの善良な市民たちがしているということです。そういうふうに現に世界を覆い続けている暴力の連鎖を、どうやって止められるか。いや、止めなくてはいけないということが『ムサシ』の主題です。これは憲法で言えば、もちろん第九条の問題です。」(樋口陽一「ある劇作家・小説作家と共に〈憲法〉を考える─井上ひさし『吉里吉里人』から『ムサシ』まで─」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)収録、初出2013年)

※23-「「ムサシ」が登場するのは、9・11以後「新しい戦争」という暴力的報復の連鎖が世界にひろがり、憲法第九条を「改正」し戦争のできる国家へと押しあげようとする勢力が跳梁する時代である。これはまぎれもなく「現在」の状況だが、ただ「現在」(ママ)おいてのみあらわれた状況ではなく、「決闘好き」「戦好き」「武力での決着好き」としてずっと「日本人」に保持されてきた傾向でもあり、戦後は「日本人」の薄暗い領域で保持されてきた傾向の顕在化といってよい。 井上ひさしは、そんな「日本人」の「決闘好き」「戦好き」を象徴する人物として武人宮本武蔵をとりだし、宮本武蔵から刀と戦をすてさせようと試みたのである。」(高橋敏夫「「日本人」を永く深くとらえる薄暗い領域へ─「ムサシ」、報復の鎖を断つ反暴力の物語」『国文学 解釈と鑑賞957 特集 井上ひさしと世界』(至文堂、2011年2月号)

※24-「あてになる国のつくり方 二」(井上ひさし・生活者大学校講師陣『あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任』(光文社文庫、2008年)収録。初出は『オール讀物』二〇〇一年十一月号)。なお同書籍収録のコラムと締めの文章を見るかぎり、井上さんは(思想的立場からいって不思議ではないが)同時多発テロでアメリカが受けた打撃について大分冷やかです。(「胸の内では、「一晩で市民を十万人も焼死させ(東京下町大空襲)、一瞬のうちに九万人(ヒロシマ)、七万人(ナガサキ)を生きながら焦熱地獄に突き落としておきながら、なにをバタバタ騒いでいるのだろう。原爆死没者は今年の八月で三十六万人にも達して、来年もまた原爆死没者が数千をかぞえるはず。つまりあの二発の原子爆弾はいまも静かに爆発を続けている。けれども、日本人はあなた方のそういう非人道的行為に報復しようとしただろうか。報復など考えずに、二度とそういうことが起こらないようにただただ静かに祈り続けている。少しは日本人を見習ったらどうか。思うに米国人は、『こんなひどいことが米国で起こってはならない。米国以外の国で起こるのはちっとも構わないが・・・・・・』と金切り声をあげているようにも見えるが、ちょっと手前勝手ではないのか」と切なく叫んでいるのですが、これを云ってはおしまいです。なによりも三千余人の犠牲者の方々に申しわけがないし、だいたいが人間にとってなによりも大切な生存権を侵すような手段にはぜったいに賛成できない。(中略)ちなみに、米軍の誤爆でアフガニスタンの市民が何人犠牲になったか、それをマーク・ヘロルド教授(米ニューハンプシャー大)が試算していて、その報告書によれば昨年十二月六日の時点で、少なくとも三千七百六十七人が誤爆で亡くなっているということです。」(「あてになる国のつくり方 一」(初出は『オール讀物』二〇〇二年十月号)、「アメリカは今、ミサイル防衛システムの早期配備構想を打ち出しています。そういうこともあって、国連人権委員会は、アメリカをならず者国家というふうに判断しています。ですから、二〇〇一年の五月三日に開かれた国連人権委員会では、強大国のアメリカが人権委員会に選ばれていません。「ならず者国家は、国連人権委員会に入る資格はない」という思い切った決定をして、アメリカを人権委員会から外したのですね。国連分担金の払いも悪い。わたしはそういう状況をみて、アメリカというのは悪い国だと言ってきました。そういう折りも折りの、九月十一日です。 日本の過去にさかのぼっても、五七年前の三月十日の東京下町大空襲では、一晩で一〇万人もの一般人が焼き殺されています。(中略)それから、八月六日の広島、八月九日の長崎への原爆投下です。その日のうちに広島で九万人、長崎で七万人の方が殺されています。同時多発テロをはるかに上回る同じ人間が殺されています。わたしはこのことを忘れていません。やはり驕りたかぶった国というのは罰を受ける。」(「終章 競争か、共生か」)

※25-「次は剣豪の宮本武蔵をやります。以前からやりたかった題材です。武蔵と言うと吉川英治さんの名作のイメージが強いですが、私のは少し違う方向になる予定です。焦点は剣が強い、弱いじゃなくて、隠居した武蔵の穏やかな日々の暮しの中で剣の道の思想を描こうと構想していることころ(ママ)です。」(「アーティストインタビュー 世界8カ国語に翻訳された『父と暮せば』に込める国民作家・井上ひさしの平和への祈り」、http://performingarts.jp/J/art_interview/0710/1.html、2007年)。・・・まあ、『ムサシ』でも決闘三昧の時代を卒業しているという意味で隠居してると言えば言えるか。

※26-「(ミュージカルの『ムサシ』について)この計画は頓挫しているのかに見えたが、二〇〇一年になってからもひさしは「また続けてやります」と話している。ひさしがなぜ「ムサシ」(この主人公はもちろん宮本武蔵である)にこだわるかといえば、どうしたら人間は闘わないですませられるか、というひさしがこれまで延々と考えてきたテーマとまさに通底するものがあるからである。(中略)「剣豪の盛りは三十代前半までといわれています。野球選手でも同じで、どんなすぐれた選手でもいつか若い選手にやられてしまうのです。剣豪は、自らの盛りを過ぎたときから、どうしたら試合をしないですませられるかを考えるようになります。 アメリカで武蔵がなぜ売れたのかということを分析してみると、デカルト風の二者択一の分析主義に手詰まりが生じてきたからなんですね。二十一世紀を考える上で、強いものがいつも強いわけではない、それを上回るものが出てきてひどくやられることもあるだろう。それならば、どうしたら闘わないでコトを収めることができるのか、ということです。今年一杯でもう一度検討し直してみるつもりです」」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年。カギカッコ内は井上さんの発言)

※27-「小林多喜二と、井上さんが四歳のときに亡くなったお父さんがまったく同世代だったということです。井上さんにとって小林多喜二の死は、父・井上修吉の死と同列のものとして受け止められていたんですね。井上修吉は左翼運動にかかわり、前後三回、検挙され、最後は背中を拷問されて脊髄をやられて死んでしまう。(中略)二人は「戦旗」の読者であるばかりでなく、シンパとして配布もしていた。そしてまた、井上修吉は投稿者でもあったということを初めて知りました。それまで小林多喜二・井上修吉・井上ひさしという三者のフォーカスがうまく結ばなかったのですが、その話を聞いて、ピシャッと結びついたことに、一瞬言葉をなくしました。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)

※28-「井上ひさしの父・井上修吉氏は、最初に書いたように小林多喜二と同時代に、小説投稿者として何度か入選した人で、特高警察に拷問されて、それが原因で亡くなったそうです。井上は、父の志を受け継いで作家になったと言います。(中略)『組曲虐殺』には、井上ひさしの“父の志と、小林多喜二の仕事を、次の時代に受け渡したい”という想いが、あふれんばかりに詰まっています。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※29-「小林多喜二には、井上ひさしが幼少のころ亡くなった父、小説を書き戯曲を書きそして青年共産同盟の活動家であった井上修吉がかさねられていること。これは同時期に書き継がれていた未完の長篇小説『一週間』(死後刊行、二〇一〇)の主人公小松修吉からも、明らかである。井上ひさしみずから『組曲虐殺』を「父への鎮魂歌」と語っていたという(NHK教育テレビ「ETV特集 井上ひさしさんが残したメッセージ」)。」「小林多喜二と同世代の左翼活動家で、小説や戯曲も書いた井上修吉、そして多喜二と同じく拷問をうけ、じわじわと「虐殺」されていった修吉、「働く者が主人公の世の中が必ず実現する。そうかたく信じていた」修吉。この井上修吉が、『組曲虐殺』の多喜二にかさねられていたのはたしかだろう。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※30-『組曲虐殺』(『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)

※31-「最後の「ヤーマーモートー! このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー」という呼びかけがあります。地獄だけれども、そこに向かってあえて進んで行く人たちが存在したこと、そのことを考えさせる芝居として、井上さんの『組曲虐殺』はあると思うのです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より成田発言)

※32-「考えてみれば、社会変革の希望は多喜二にだけあったのではない。人々がそれぞれの苦しい体験のなかでそだてながらも、はっきりとした言葉にできなかった希望を、多喜二が言葉にかえたのである。そして、絶望におちこもうとする多喜二をふたたび、みたび、希望へとさしむけたのはそんな人々の思いだった。人々のやむにやまれぬ希望は、多喜二に受け渡され、そしてつよい言葉によってきたえあげられた希望は、多喜二から人々へと受け渡される。そんな受け渡しの具体的なあらわれが、「九 唄にはさまれたエピローグ」での、山本と古橋の叫びとなった。(中略)二人の二つの絶叫は、多喜二から受け渡された、絶望をくぐりなお捨てない希望の炸裂である。多喜二と接することで、特高もそれぞれのやり方で変化した。」



11/14追記-(2)-7に※34を追加しました。

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『ムサシ』(3)-2(注・ネタバレしてます)

2016-11-06 23:50:17 | ムサシ
・・・などと願望を書きつらねてみたが、実際には二人は別々の道を行き、どうやら剣術自体を封印してしまった。そのきっかけはもちろん幽霊たちに懇願されて刀を収めたことにあるわけだが、そもそもなぜここで彼らは刀を引いたのだろうか。
(2)の※8で引いたように『ムサシ』は「成仏できないで迷っている誰かの言うことを聞いてあげたら、その誰かは成仏でき」るという能の基本形式を根本に持っている。
『井上ひさしと能の関係』は〈生死の境に命の高鳴りを見出すような剣客に正面から人が人を殺すのは許されるかを問いかけても相手は面食らうだけ、その点夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が修羅道に落ちた苦しみを語り回向を頼む「修羅物」というジャンルがある〉と書く(※9)。『ムサシ』が修羅能の形式を取り入れているのは「最上は、井上ひさしの新作」も指摘するところだ(※10)
つまり修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型を井上さんが利用して、武蔵と小次郎がこのまま行けば我が身に降りかかるはずの修羅道の苦しみに思いを致して生き方を改めた、刀を捨てたという筋を作ったと示唆しているわけだが、『ムサシ』に登場する幽霊たちに武士は一人もいない。
偽宗矩の一族は関ヶ原で戦死しているものの、流れ弾にあたって早々に命を落としたという説明からすれば彼ら自身は一人も殺してはいないはずだ。戦場とは無縁の場所で死んだ沢庵、まい、乙女は言うまでもなく、この幽霊たちのうち一人でも修羅道に落ちたものはいないだろう。
成仏できずに苦しんでいるには違いないが、それは当人たちの言う通り、自分の命を軽く扱い、下らないと言っていい死に方をしたために成仏できないのである。
そんな彼らの〈命を大切に〉というメッセージが、周囲には命を無駄にしていると見えても当人視点では命ぎりぎりのところで限りなく充実した生を噛みしめている、ある意味極めて〈命を大切に〉使っている武蔵や小次郎の心を動かすものだろうか?そして修羅能の形式を利用しつつあえてずらしてみせた井上さんの意図したところは何なのか。

おそらく二人は幽霊たちの語るメッセージに胸を打たれたわけではないのだ。(2)-7でも書いたが、はっきり言ってしまえば「成仏を~成仏を~」と懇願する彼らの泣き落としに負けた。死力を尽くして最高のライバルと戦いたいという自分たちの欲望を(小次郎などは六年越しの悲願を)、幽霊たちの願いを叶えてやるために諦めた。
自分たちの都合(成仏)のために他人の命がけの悲願を邪魔したのだからエゴイズム丸出しだが、武蔵も小次郎も〈聞いてやる義理はない〉と突っぱねたりはしなかった。苦しみを訴える幽霊たちを見捨ててライバルと戦いたいという望みを果たすこともまたエゴイズムであるからだ。
(2)-4でちょっと触れた武蔵の求道的生き方の問題点の二つ目がこれである。日々の生活の中で自身を鍛えるのも剣術のみならず茶の湯や仏像彫りや水墨画を究めたのもみんな〈己の人格を磨き上げて全き人間となるため〉。武蔵の脳裏にあるのは常に自分を鍛えること、自分のことだけなのだ。
寺の作事など本来なら至って利他的な行動だと思うのだが、おそらくそれも武蔵にとっては己を鍛える一環として行ったに過ぎないだろう。他人のために何かをしようという視点が武蔵には見事に欠けているのである。

そして武蔵もそのことにまんざら無自覚ではなかった。旅立ちに際し、これからどうするのかと問われて「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」と答えた武蔵は「もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と続ける。
自己完結した世界から出て他人、それも権力者などではない普通の人々のために何かをするべきではないのか。いつからか武蔵の中にそうした思いが生まれはじめていた。その思い─求道者としては迷い─が心の底にわだかまっていたからこそ、自分のエゴと他人のエゴがぶつかった時に自分の方が引いたのではないか。
その瞬間、武蔵はもはや「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く」自己本位の世界に留まることができなくなってしまった。結果、武蔵はこれまでの求道者としての生き方を、ひいては剣術を捨てざるを得なくなったのではなかったか。

井上さんはエッセイで、少年時代一時期カトリックの孤児院で過ごしたさいに洗礼を受けようと思ったのは聖書やキリストを信じたからではなく、泥まみれになりながら孤児たちのために尽くす神父や修道士を信じたからであり、その後上京して出会った大都会の聖職者の学者然とした在り方と清潔な手に失望したことをたびたび述べている(※11)
己を高めるべく日々研鑽を積むことよりも、その時間と労力を他人、弱者や市井の人々のために捧げることこそ尊い。自身の経験を通じて井上さんは切にそう感じていたのではないか。
それは『泣き虫なまいき石川啄木』(初演1986年)でキャラクターの一人に「ほんたうにアチラのお坊さまは大したものよねえ。見ず知らずの国へやつてきなさつて、見ず知らずの人たちのために親身になつて尽しておいでだもの。そこへ行くと日本のお坊さまは何を考へてござるのやら。やれ悟つたたの、やれこの世は無常だだのと、わけのわからないことを云つて乙に澄してゐるだけでせうが」という台詞を言わせていることからも察せられる(※12)
「人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちも」ないという理由ばかりでなく、他人を自分の生活から締め出して自己本位に生きていることにおいても武蔵は批判されているのだ。(※13)
井上さんによれば、史実の武蔵は最晩年、剣一筋だった自身の生き方を間違いだったと感じていたという(※14)。武蔵は刀を捨てることを通して自己本位の生き方をも捨てて他人のために生きることを選んだ。
そして武蔵(と小次郎)を相手に泣き落としを武器に自分のエゴを押し通すのは、ドラマティックな死を遂げた英雄ではなく平凡かつしょうもない死に方をした普通の人間(井上さん流に書くと「フツー人」)の亡霊であってこそできることだった。修羅能の型を用いつつ、幽霊たちを武士でなく庶民にしたのはそのためだろう(※15)
人は他人のために、他人との関係性の中で生きるべき──これが、〈現代日本人は平和憲法を遵守して(刀を捨てて)生きていくべき〉と並ぶ『ムサシ』のテーマだったのではないだろうか。


そして修羅能の形式をあえてずらして見せたのにはもう一つ理由があったと思われる。
引っかかってるのは「こんどこそは、うらめしやなんて古くさいやり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」という、乙女をはじめとする幽霊たちの言葉だ。
これまでは「まこと」─ただ〈生きている〉ということがどれほど素晴らしいことか─をごくストレートなやり方で伝えようとしてきたが、今回彼女らはそのような「古くさいやり方」はやめて「お芝居仕立て」で、手を替え品を替え武蔵と小次郎に戦いを放棄させようと謀った。しかし結果はどうだったか。
彼女たちの筋書きはことごとく不発に終わり、「皇位継承順位第十八位」でやっと小次郎を引っかけたものの武蔵にあっさりからくりを見抜かれてしまった。結局二人に刀を引かせたのは戦いをやめることで自分たちを成仏させてくれという哀訴─彼女らがいったんは拒絶したはずのどストレートな「古くさいやり方」だったのだ。
武蔵に結界を破られたために予定していた「総仕上げ」が使えなくなった節はあるものの、最終的には一切の計略を捨てて真っ正面から窮状を訴え懇願したことで彼女らは長年の悲願を叶えることができた。
変に小細工などせず、まっすぐ正直に相手にぶつかっていってこそ思いは届く、という教訓なのだろうか。しかしそれでは、物語を通してより鮮明にメッセージを伝えることを旨とする(※16)」作家として、敗北宣言に等しいではないか。
「虚構は現実を救うというのは、わたしのたった一つの主題(※17)と書いていた井上さんが晩年に至って辿りついた結論がそれだとは、「今年書いた『ムサシ』も『組曲虐殺』も、よい出来だった。この二つが最後なら満足だよ。」(※18)と語っていたほどの作品(※19)に秘められたものが〈作り物の無力さ〉だったとは考えたくない。

そこで思い出されるのが(2)-6で書いた、まいが武蔵の仕掛けた罠にあっさり嵌まったことへの疑問である。
幽霊になる前も白拍子だった、台詞を覚えるのは大得意であろうまいが少し前に口にしたばかりの台詞を本当に忘れるものなのか?実は彼女はわざと罠に嵌まってみせたのではないか。
武蔵が小次郎が貴種だと信じて、あるいは信じずとも小次郎の方に戦意がなくなった以上もはや戦いは無意味と決闘を諦めてくれればそれでよし、しかし乙女の筋書きを見破ったうえでそれを引っくり返してなおも小次郎と戦おうとするようなら、その次の計画を発動させる。その計画が彼女たちの最終行動─幽霊の正体を明らかにしての泣き落としだったのではないか。
沢庵はたまたま結界が破られたために沢庵たちに化けていられなくなり本性をさらすしかなかったように説明しているが、これは正体を明かしたうえでの〈説得〉に移行するための名目に過ぎなかったのだとすれば、「大界外相」の石─寺本来の結界が破れるとなぜ偽沢庵による結界まで破れるのかの疑問も説明がつく。
幽霊による結界が破れたというのは自然な形で正体を明かすための嘘で、小次郎がこの地に足を踏み入れた時からラスト、成仏した幽霊たちが去ってゆくまで結界は健在のままだった(大界外相の石による寺本来の結界は最初から幽霊たちには無効だった)のだ。
となれば結界が破れたために「総仕上げ」のプランが台無しになったというのも当たらない。むしろ結界が破れたことにして本来の(幽霊の)姿に戻って泣き落としにかかるというのが「総仕上げ」のプランだったのではないのか。
そう考えると修羅能の形式を用いながら、幽霊たちをあえて武士や戦没者にしなかったのも納得できる。幽霊の正体を明かした後の彼らは修羅能、「修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型」を演じているのだ。

あの泣き落としは芝居を放棄した結果ではなく、芝居は依然として続いていた。小次郎の名誉欲に弱い性格を見抜いて出自に関する詐欺を仕掛けたように、自己完結してるがゆえに世俗的な欲では動かせない、けれどそうした〈自己完結している自分〉の在り方に疑問を抱きつつあった武蔵の心を乙女たちは見事に突いてきた。
乙女の仇討ち騒ぎの時に「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」と〈苦しんでいる人、弱い者を見捨てるべきではない〉という考えを武蔵は口にしている。これは武蔵の心が自己完結した世界から外の人間に向かいはじめていた証拠であろう。
小次郎もまた「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」と武蔵と同意見だった。
困っている人を放っておけない、放っておいてはいけない。そう言い切った彼らであれば「剣を持つ者」の誇りにかけて、成仏を願いすがりつく自分たちを無視することはできない。そう踏んでの最後の大芝居によってついに彼女たちは本願を達したのである。



">※9-「剣客とは「どっちが上か,おのれか,それとも相手か…ただそれだけをたしかめようと,二つとない命をすてたがる者」(井上2010: 583)である。剣客は試合で相手と向き合うと一瞬のうちに身体が動いて刀を抜き,武蔵に言わせると 「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」(井上2010:582)を味わいたくて「五分と五分との 命のやりとり」(井上2010:614)を続けている。 己が倒すか倒されるかは結果でしかない。このような剣客に向かって,人が人を殺すのは許されるのかと真正面から問うても当人は面食らうだけあろう(ママ)。 剣客に自らの意志で剣を抜かないことを選択させるには何か特別な手法がいる。その点,夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が人間界にあらわれて 修羅道に堕ちた苦しみを語り,回向を頼むという内容の「修羅物」というジャンルがある。内乱が続く中世日本で生まれた能では殺生を生業とする武芸者の生と死は重要な関心事の一つなので,井上も注目したであろう。『ムサシ』では亡霊たちが武蔵と小次郎の前にあらわれ,人を殺すなと必死で伝えるだけでなく謡や舞まで演じて,一見,夢幻能に倣って書かれているように見える理由はここにある。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※10-「例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇』、2010年3月号)。ちなみに「井上ひさし自身の解説がある」とは「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」のことだろう((2)の※8参照)。


※11-「わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。(中略)三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを〓(掴)み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合せたり、甲論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。」「大都会の聖職者たちは学問をする宗教者、あるいは布教をする宗教者のように身受けられたが、あの師父たちは生活をする宗教者、一挙一動が愛の実践だったように思われる。」(「道元の洗面」、井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)

※12-『泣き虫なまいき石川啄木』(『井上ひさし全芝居 その4』、新潮社、1994年)

※13-『ロンドン・NYバージョン』では削られたが、戯曲には武蔵がお通をはじめお甲・朱實・吉野太夫ら彼に想いを寄せた女性を拒んだことを小次郎が「愚かな冷血漢」と詰る場面がある。

※14-「武蔵には剣の限界がわかっていたと思います。剣で得た人間観や世界観を、政治に生かしたかった。だから法典ヶ原を開拓した。(中略)最晩年の武蔵は、「自分は骨皮髄まで兵法の病にかかっていた」と言っています。敵に勝とうとか、強くなろうという病気にかかっていた。わたしの人生は虚しい燃焼だった。これが武蔵自身による生涯の総括です。 「真の兵法の病に成申候」 とても深い言葉です。百姓の子から太閤関白にまでなった秀吉を目の前に見ていた武蔵が、その出世に憧れて修行に修行を重ねて、人生の終局で、自分の生き方が間違いであったと総括する。 昭和の日本の歴史がそっくり、宮本武蔵という一人の人間の中に入っているような感慨を覚えます。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)、「(柳生宗矩はじめ名だたる剣客が剣を抜くことをできるだけ避けようとしているなかで)宮本武蔵の『五輪書』はいささか異色である。そこにはどうしたら敵を倒せるか、そのときの構え、目の付けどころ、足の運び、呼吸の仕方、刀の振り下ろし方、決闘の場からの立ち去り方などが克明に、それこそ微に入り細にわたって書いてある。 だが、その武蔵にしても、生涯最後の手紙に〈真の兵法の病になり申し候〉、つまりわたしの一生は剣術病にかかっていたようなものだと書いているのには胸を打たれた。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)。ちなみにこの武蔵最後の手紙は、武蔵の死後に二天一流を学んだ豊田景英が祖父・正剛、父・正修の残した資料を元に著した武蔵の伝記『二天記』(『二刀一流剣道秘要』(武徳誌発行所、1909年)収録)で読むことができる。個人的には本気で自分の生き方を後悔してるのではなく、〈オレってバカだよなあ〉と自嘲しつつもまんざら悪い人生じゃなかったと思っているようなニュアンスを受けました。

※15-井上さんは二人の勝負を止めるのを亡霊にした理由を、「宮沢賢治みたいに「つまらないからやめなさい」という説得では武蔵も小次郎も耳を傾けようとしないでしょうし、だいたい観客席が納得しない。もっと違うレベルで戦いをやめさせないといけないと考えていた時に、ああ、これは亡霊に説得させるしかないなと思いました。すばらしいことに、亡霊役にぴったりの大女優にして怪女優の白石加代子さんもおいでになる(笑)。それで、成仏できない亡霊たちが、再決闘しようとする二人を止めるという筋書きになりました。」「ユンケルの箱でつくった三角錐に役者さんの顔写真を貼った紙人形を、毎日、朝から晩まで眺めて、ああでもない、こうでもないとやっているうちに、自然に、ああ、決闘を止めるには超自然の力でないとダメだなとアイデアが出てくるわけです。」と語っている(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)。制作発表記者会見の段階ではまだ構想がまるでできてなかった(「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」)とも話していて、昔〈テーマより趣向がまず大事〉だと書いていた井上さんですが、その趣向(亡霊が決闘の止め役を努める)が記者会見の時点でまだ決まってなかったというのに驚きます。

※16-『キネマの天地』(初演1986年)に「お題目をただ正面から堂々と、そして素直に云っただけではだれも感動しないのだよ。そのお題目をひとの心に刻みつけ、ひとを感動させるには、心中物語というウソッパチを仕掛けなきゃならない。」という映画監督の言葉が出てくる。これは井上さん自身の思いでもあると見てよかろう。

※17-井上ひさし「「時間」は作者」(『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)

※18-井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」(『文藝春秋』2010年7月号)

※19-「死を覚悟した井上ひさしが、『ムサシ』と『組曲虐殺』という戯曲をならべて、「この二つが最後なら満足」と語るのは、いったいなぜか。 『ムサシ』と『組曲虐殺』には、井上ひさしの作品に最初期からずっと見え隠れしていた「希望」が─社会と人間関係の現況に苦しみ絶望する者の、その絶望ゆえに新たな社会と人間関係の変更をねがう「希望」が、あざやかにあらわれているからだと、わたしは思う。 しかも「希望」はここで、一人の「希望」から、つぎの人へ、つぎの多くの人々へと手渡される「希望」へと転じている。 『ムサシ』では、フツーの亡霊たちの「生きたい」という「希望」が、「戦う」ことを捨てフツーの人にもどった武蔵と小次郎に手渡される。『組曲虐殺』でそれは、わずか五カ月後に「虐殺」という悲劇的な死をむかえる小林多喜二が歌う「信じて走れ」に、はっきりとよみこまれている。(中略)井上ひさしは、厖大な数の歌をつくったが、「あとにつづくものを 信じて走れ」のくりかえされるこの歌ほど、ヒロイックなまでに苛烈な希望の歌は、ほかにない。」 (高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)





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『ムサシ』(3)-1(注・ネタバレしてます)

2016-10-30 23:55:30 | ムサシ
高橋敏夫氏は『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・』の中で、「突飛にみえるかもしれない」と断りつつ、『ムサシ』という物語、武蔵が最後小次郎との戦いを放棄する展開に憲法第九条のあるべき姿を重ね合わせる(※1)
井上さん自身も〈『ムサシ』の結論は、これからの日本は平和憲法に則って戦いに拠らず話し合いでもめごとを解決すべきであるということ〉だと話している(※2)ことや、この物語の舞台となるのがいつなのかを考えれば、これは決して突飛な解釈ではない。
冒頭の舟島での決闘を除く、鎌倉の宝蓮寺で展開されるメインの物語について、脚本最初の「とき」には「元和四年(一六一八)夏の四日間。」とだけあって具体的な日付は書かれていない。ただ実際の日付がいつだったのかは、小次郎が武蔵に宛てた果たし状によって知ることができる。
そこには再決闘の時を「来る八月十六日朝、辰の正刻(午前八時ごろ)」と指定してあり、それを読んだ(宗矩たちが読み上げるのを聞いた)武蔵は「明々後日の朝か」と言っているので、参籠禅一日目が八月十三日なのがわかる。これはその晩、まいと「蛸」を舞う前の乙女の台詞(「さいわい今夜は十三夜」)でも裏付けられる。
そしてクライマックス、武蔵が予定を早めて小次郎と仕合うことで、自分たちの決闘をやめさせようとする何者かをあぶり出そうとするのは参籠禅三日目の真夜中。──つまりは八月十五日、終戦記念日である(※3)

初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた、そして中期以降の多くの、21世紀に入ってからはほとんどの作品でいわゆる十五年戦争を取り上げてきた井上さんが、終戦の日を意識することなく八月十五日という日付を設定したとは思えない。「とき」では「夏の四日間」とぼかした書き方をして、作中でもはっきり八月十五日という日付を出さないのも、戯曲をよく読んで初めてわかるように仕向けてあるのではないか。
ちなみに旧暦の八月は秋なので「夏の四日間」というのは本当はおかしいのだが、小説・戯曲とも時代ものも手がけている井上さんがうっかり間違ったとは考えにくい(※4)。これも八月十五日という日付に昭和二十年の夏の日を意図的にだぶらせたための齟齬ではないか。
第二幕の序盤、「第二日・たそがれどき」の場面では沢庵の説法中に月の美しさがたびたび強調されているが、これらも中秋の名月、つまりは八月十五日が近いのを暗示した台詞だったのかもしれない。
要するに、武蔵と小次郎は終戦記念日に戦いを止め兵法者としてのこれまでの生き方を捨てて、安寧な暮らしを選び取った。そこには当然、終戦記念日を境に軍国主義を捨て平和憲法を掲げるに至った現代日本人の姿が投影されていると見るべきだろう。
もともと井上さんは、武蔵──吉川英治氏が描いた宮本武蔵像に典型的日本人のイメージを見出していた(※5)。『ムサシ』が史実の宮本武蔵ではなく吉川武蔵のその後を描くことを選んだのは、井上さんが子供の頃吉川氏の『宮本武蔵』を愛読していた、『ムサシ』の原点というべきブロードウェイでのミュージカル化企画が吉川英治原作でやる予定だった(※6)
ことと並んで、武蔵を日本人の代表として描く、武蔵の生き方に日本人の生き方を重ね合わせるためという要素も大きかったのではないか。

ただ個人的には、幽霊たちの懇願を入れて今回の決闘を取りやめるのはいいとして、刀まで捨てることはないのじゃないかとも感じる。確かにはっきり刀を捨てたとは書いてないものの、宝蓮寺を出立するにあたって、武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」、小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか」とおよそ兵法者とも思えぬ今後の予定を語っているところからすれば、彼らはこの先百姓として、寺男として生きていくつもりらしい。
いや、「鍬でも」「軒下でも」という曖昧な言い回しが示唆するように彼らはぜひ農作業がしたい草むしりがしたいと思っているわけではない。地味だが平穏な(武蔵の場合「山間の荒地」だから平穏とはいえないかもしれないが)暮らしの一イメージとしてこれらを挙げたに過ぎないだろう。
ただこれまでの生き方を捨てて、刀も捨てて生きていこうという意志は明確に感じられる。またそうであってこそ上で書いた〈戦後日本の投影〉も成り立つ。
しかし、「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」という武蔵の台詞。これは冒険家やレーサー、格闘家といった命がけのスリルを伴う職業を選んだ人たちは大いに共感するところなのではないか。
これほどの充足感、幸福感を人生のうちで何度味わえることか。むしろ一度も味わうことなく一生を終える人間だって多くいることだろう。
命を失う危険を冒しても真に充実した生を得たいと願うことは頭から否定されるべきなのか。その人間の死によって精神面でも生活面でも直接の打撃を被る家族や恋人・親しい友人ならともかく、赤の他人が彼らの生き方にとやかく口出しする資格があるのか。
今作品の沢庵(幽霊)は、武蔵と小次郎のみならず二人の試合相手から観客まで全て「鈍の鈍の行き詰まり」だと決めつけたが、彼なら上掲のような広義のアスリートたち、鈴鹿や後楽園に詰めかける観客たちも「鈍の鈍」だと言うだろうか。

(『シャンハイムーン』(1991年初演)で井上さんは作中人物に「すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂」などは「こころのどこかで自分を破滅させようと思っている」のだと言わせている(※6)ので、井上さん的には彼らも「鈍の鈍」のうちのようだ。
しかし「能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂」というのは、晩年まで年数本の新作戯曲を執筆し、さらに小説・エッセイ・対談・社会活動も手がけて絶えず締め切りに追われ破り続けていた自身への韜晦のようでもある。その一種命を削るような壮絶な執筆活動・創作意欲については『初日への手紙』(Ⅰ、Ⅱ)や「『ムサシ』──憎しみの連鎖を断ち切って」」(※7)、、井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記」(※8)などから窺い知ることができる。
つまるところ井上さん自身も「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」を実感をもって知っている、「間接自殺、あるいは慢性自殺」だと自嘲しながらそうした生き方を楽しんでいたんじゃないだろうか)

もちろん危険な仕事やスポーツに人生を賭けることと、真剣で斬り合うことは同質ではない。登山やレース、格闘技も自分のミスで己のみならず仲間や対戦相手まで殺傷してしまうことがあるが、決闘は基本的に仕合ったどちらかが死ぬ。万が一の時は死ぬ覚悟もしていることと死んで当然とすることとは大きく違う。
──だから何も刀、というか剣術を捨てずともよい。沢庵の言うように刀で立ち会えば死人が出ることが問題なのであって、つまるところ殺さないように戦えばいいわけである。
具体的には必ず寸止めにする、それが難しいなら刀の代わりに竹刀や木刀や某漫画の逆刃刀のような武器を用いる、さらには防御力もあげるため鎖帷子や防具を身につけるといったところか。要は死の危険を上掲のスポーツ程度にまで引き下げて、道場剣術に近づけばよいのだ。
命のやりとりを避けようとすれば「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」は大分目減りしてしまうだろうが、それは「またとない相手」と二度三度戦うことができる喜びと引き換えである。
負けた方はその口惜しさをバネにさらに修行を重ね、勝った方はパワーアップして再戦を挑んでくるはずの相手を迎え撃つべくこちらもさらに修練を積む。そうしてお互い同士より強く高めあっていける。あれだけ再び戦えることを喜んでいた武蔵と小次郎ならそういう関係になれたはずだと思うと、何だかもったいない気がしてしまうのである。

ついでに言えば、ラスト二人はそれぞれの道に分かれて旅立って行くが、二人で一緒に暮らすという選択肢もあったんじゃないか(ドラマ的にはあそこで二人が袂を分かたないと恰好がつかないのはわかっているのだが)。
日々一緒に荒れ地の開墾やら草むしりやらに精を出しつつ、相手のわずかな隙をついて、刀では剣呑なので、小次郎が皇位継承十八位で失神した後のように扇子で突然打ちかかる。いつ何どき相手が(扇子で)襲ってくるかわからない。そしてその日、より多く打たれた方が翌日の食事当番をやるとか(その食事もうっかり食べると唐辛子が山ほど盛られてたりするのだ)。まさに武蔵が目指す「毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行く」環境ではないか。
「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と武蔵は言ったけれど、剣だけを友とする孤独な生き方でなく、これなら志を同じくする友・小次郎と一緒に人格を築き上げてゆけるんじゃないだろうか。何か書きながら楽しくなってきました(笑)。



※1-「(戦うことを避ける武蔵がイメージされていく過程に)日本国憲法とりわけ「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳う第九条がつよく関係していたのはなんとも興味深い。 「武蔵と第九条」という組み合わせは、あるいは突飛にみえるかもしれない。しかし、戦後五十年を数え戦争体験者が激減しつつあるなか、かつては自明な「戦争と第九条」の組み合わせのリアリティは失われていく。それが第九条「改正」の声の高まりにつながっているとすれば、「戦争と第九条」の組み合わせを、新たな組み合わせによって生きいきと再提出しなければなるまい。(中略)『ムサシ』は、日本人がながらく保持してきた「戦う」武蔵像を、「新しい戦争」と関係づけることによって暴力と憎しみの連鎖の悲劇をはっきりさせると同時に、「戦う」武蔵像を維持しつづける日本人がそうした連鎖と無縁でないことを指し示した。 「戦う」武蔵像を、生きることに目覚めたフツーの人々が力をあわせて転倒し、ついに「戦わない」像をつくりだすという『ムサシ』の物語的展開──それは、かつてそうであるべきだった第九条づくりの理想であり、かつ今後の第九条堅持のためにたえず必要になるべき運動そのものである。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)

※2-「戦うための兵法や軍事的な備えをしておく必要があるかどうかは今は問いませんが、本当の剣の達人は、勝負するところへは持ち込まない。コツコツと外交的な努力を重ねること、それ自体が剣術そのものであって、戦うところには足を踏み込まない。それが剣の極意です。そしてわれわれは、すべてのもめごとを話し合いで解決するという日本国憲法を持っている。日本人としてはこれで生きるしかない。これがわたしの戯曲『ムサシ』の結論です。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)

※3-「真夜中」なのですでに深夜0時を回っていた可能性もあるが、明治五年に定時法(午前0時を一日の始点とする法則)が法制化されるまで、一般には不定時法(夜明けをもって一日の始点と考える)が普及していた。ト書きの「第三日・真夜中」という表記からしても、十五日のうちの出来事として描かれているのは間違いないだろう。

※4-たとえば1979年初演の『小林一茶』には「母が思いをおれに残しつつ世を去ったのは八月十七日、秋風が吹いていたにちがいない。」という台詞がある。この『小林一茶』で俳諧を5テーマにし、『芭蕉通夜舟』(初演1983年)も含めての俳諧師五部作を構想していた井上さんは季語にも精通していたはずで、まず旧暦八月を夏と間違えることはないだろう。

※5-「森羅万象からいつもなにかの教訓を引き出そうとしてやまない謙虚な強欲さ、たえず自らに戒律を課してそれをコツコツ守って行くことにささやかなよろこびを見出す貧乏性の求道精神、高みを仰ぎながらもその日その日を充実して生きることを至上とするその日暮しの理想主義、己が職業に徹することが治国に参加する捷径であるとするノンキ坊主な天下国家観、大自然との交感を大切にする汎心論的エコロジスト。以上をひっくるめて生真面目で勤勉な、明日を信じる楽天家。──これが教養小説の手法を援用しながら吉川英治がつくりだした武蔵像である。ところでこの像はだれかと似てやしないだろうか。問うまでもなく読み手であるわたしたちと瓜二つだ。吉川英治は『宮本武蔵』という小説の中にわたしたち普通の人間の原型を、その忠実な肖像画を描いたのである。こういう小説が読者に歓迎されるのは理の当然ではないだろうか。」(「宮本武蔵 昭和二十五年」、井上ひさし『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)

※6-「間接自殺、あるいは慢性自殺、もっとくわしく言うと、ゆっくりした自己破壊願望、これは意外に例が多いんです。まず、酒びたりがそうですな。それから、すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂、そして勝ち目のない戦をいはじめてしまう将軍。みんな、こころのどこかで自分を破滅させようと思っているんです。」(『シャンハイムーン』、『井上ひさし全芝居 その5』(新潮社、1994年)収録)

※7-「芝居を一本書き上げると、必ずどこかガクーンと機能が落ちてくるんですよ。歯が抜けたり、手足がしびれるようになったり、確実に老化していく。その行き着く先は死です。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)

※8-「夏に上演予定の沖縄を舞台にした新作『木の上の軍隊』の執筆に、ひさしさんは最後まで意欲を燃やしていました。がんがわかった時は、「よい作品が最後に二つ書けたからもういい」と言っていたのに、資料を読めば読むほど新しい芝居を書きたくなるのです。沖縄についての資料を取り寄せて目の届くところに並べ、読み込んでいました。(中略)「やっぱり沖縄が書きたい。悔しい」と何度も口にしていました。」「何を見ても聞いても、ひさしさんは「芝居になる」と思ってしまう。病院でも壁越しに患者さんとお医者さんの会話が聞こえてくると、「これはおもしろい、芝居になる」と言います。もう、あと、七十五年生きても、まだまだ足りないぐらい、限りなく書きたいものが湧き出てくる人でした。」(井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」、『文藝春秋』2010年7月号)



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『ムサシ』(2)-7(注・ネタバレしてます)

2016-10-24 01:46:38 | ムサシ
・戦いに先立ち武蔵が下手ぎわの「大界外相」と書いてある石を持ちあげて動かし、「邪魔になるかもしれんなこれは」と向こうに放り出す。
この「大界外相」の意味がわからなかったので調べてみたら、お寺の中の清浄な世界と俗な人間界を分ける結界石のことだそう。そんな大切なものを「邪魔」扱いで崖下に捨てるなよ(笑)。あなた宝蓮寺の作事奉行なんだから、自分で設置したんでしょうに。
ともかくこれで結界が破れたせいで、幽霊たちが化けていられなくなったわけか──と思いかけたが、これはおかしい。結界が破れたせいでこれまで寺内部に入れなかった幽霊たちが力を得る、姿を現すというならわかるが、その逆で結界石が機能している間は幽霊たちは平気で人間に化けお堂の中まで入っていたのである。不浄なはずの幽霊たちが結界が機能してる時こそ力を発揮しているとは?
しかも(偽)沢庵の口ぶりだと自分たちが自由に活動できるように結界を張ったのは彼だという。本来の寺の結界とは別に彼が結界を張った?としても武蔵が石を落とすことで破れた結界は寺本来のものであって沢庵の結界ではないだろうに、なぜここで幽霊たちが弱体化するのか。
あるいは武蔵が落とした「大界外相」の石は沢庵がすり替えた別物だったのか。その場合寺の結界内(というか境界線)に立ち入って結界石に触ったことになるわけだが・・・。しょせん本性は人斬りの武蔵のしつらえた結界石など形ばかりで何の効力もなかったということだろうか?
あと考えられるのは、戯曲のト書きには武蔵の落とした石はただ「下手ぎわにあった沢庵石大の石」(「沢庵」石というあたり偽沢庵の結界との関連を示唆してるようでもある)としかないから、井上さんとしてはこの石に寺の結界石としての意味合いを持たせるつもりはなかった(たまたま武蔵がどかした石が沢庵の張った結界の石だったというつもりでいた)ものを、蜷川さんがお寺の結界石として演出してしまったために起こった齟齬という可能性だろうか。
脚本がギリギリで、なんと武蔵と小次郎以外のキャラクターがみな死人だと知らないまま稽古を進めていた(!)というくらいだから、(※28)蜷川さんの方で用意した大道具に井上さんのチェックが間に合わなかったというのはありえるかもしれないが、初日は仕方なかったとしても石の大道具くらいなら簡単に差し替えられそうだし、ましてこれは再演である。つまりもとの脚本にはなかった設定ながら、井上さんは武蔵がどかした石を宝蓮寺本来の結界石とすることを問題とはしなかったわけだ。
じゃあどうして、寺の結界が壊れると沢庵の結界まで壊れるのか。寺の結界が機能しているのに、むしろその間こそ幽霊たちが堂々人間に化けていられたのはどうしてなのか。・・・どうしてなんでしょうね(苦笑)。

・そのとき怪鳥の鳴くような声が背後から聞こえてくる。タイミング的には結界を壊され、人間の姿を保てなくなった亡霊たちの悲鳴だったんでしょうか。
この後も寺のあちこちや竹林が次々倒れていきますが、いかに雷が鳴るような悪天候とはいえ寺が壊れるほどではない。これも結界が壊されたために、これまで結界内部にあった一種の仮想空間(後でわかるようにこの中では時間が通常通り流れていないので、空間的に結界が張られてるだけでなく時間的にも周囲と切り離された世界だった)が崩壊しはじめたということなんでしょう。ラストではお寺も竹林も元通りでしたしね。

・小次郎が鞘を捨てたことについてやりとりをしつつ、互いににじり寄りいよいよ刀を交えようという瞬間に、背後から宗矩と沢庵の幽霊が現れて二人の刀を押さえる。「生きよ~」「死ぬな~」という二人の声に続いて、寺のセットが二つに割れて男女七人の幽霊がさらに現れる。
武蔵は二刀を抜いて、小次郎は太刀で幽霊たちを次々斬っていく。勝ち残った者が敵の正体を見やぶるはずが、結局相手のことはさておいて共に幽霊に立ち向かっている。
まあ敵の正体がなんと幽霊、超自然の存在だったとあっては(狐や狸に化かされるのだって十分超自然現象だけども)、しかも自分たちに向かってこられれば、まずはそちらを斬り捨てようとするのが自然ではありますが。

・幽霊たちは皆踊るようなゆっくりした動き。音楽に合わせて念仏が流れる。その音楽も教会音楽風のオルガンに和楽器の音を絡めた見事な和洋折衷。
斬られながら「殺すなァ~」「殺されるなァ~」と叫ぶ平心と忠助。端から出た乙女が「もったいないのにィ~」。反対からまいが「たいせつなのにぃ~」。さらには乙女の父の敵だったはずの三人組まで「わからずや~」「阿呆~」とつぎつぎ叫んでいる。
斬っても死なない幽霊たちを相手にいつしか背中合わせになる武蔵と小次郎。すっかり共同での戦闘態勢。幽霊たちが出てくるまでの幸せそうな様子を思えば、せっかくの勝負によくも水を差したと怒ってもいいくらいですが、さすがに幽霊相手に口論を挑みはしなかった。

・倒れた竹が持ち上がって元通りになり、二人を半円に囲むようにした幽霊九人はみな手を合わせてじっと立っている。一時の混乱が収まり、ちゃんと話しあえる状態に復したことがこの静かな様子でわかります。

・沢庵が「さきほど、武蔵どのは、そこの結界石を崖下にお落としになりましたな」「そのために結界が破れて、もはや沢庵さまに成り澄ますことができなくなりました」。
そのためこんな姿で失礼いたします、と手をぶらりとした幽霊定番のうらめしやポーズ。外見も経帷子に天冠のわかりやすい幽霊姿です。そしてもはや口調が沢庵ではない。
バックに幽霊たちのなんまんだぶの合唱。この合唱、ちょっと催眠効果でもあるんでは。小次郎が「第十八位」にやられた時も武蔵以外の全員が「なんまんだぶ」唱えてたし。

・沢庵を皮切りに幽霊たちが自分たちの死因について告白する。沢庵は、貧乏寺のため寄進を募ろうと二十一日間の断食に挑んだが十九日目で力尽きて死んだと語る。
ここでバックの「なんまんだぶ」の声が高くなる。「途中で止めていれば、その先、いささかでありましょうと世間さまのお役に立てたのに、お金欲しさに命をむだに捨ててしまいましたー」。と泣き声に。
「幽霊さえも寄りつかないような貧乏寺」という形容がすごい(笑)。しかしこれまでの堂々たる沢庵の物腰と全く別人。六平さんの演技が光っています。

・ついで宗矩が、自分は朝比奈切り通し下で畑を打っていたが、関ヶ原で戦があると聞いて血をたぎらせて先祖の鎧を引っ張り出し、立派な戦国武将になって帰ってくるぞと(このへんすごく声が涸れてますが、意識的に裏声なのかほんとに声涸れてるのか)、息子を二人、父方のおじ、それにはとこ(呼ばれると幽霊の群れから該当者が前へ出て一礼する)など「一族郎党引き連れて出かけて行き、着いたその日に鉄砲で打たれましたー!家名を上げようとして命を落とした粗忽者です~」。
先祖の鎧を引っ張り出し、というからには元々は武家の出身だったということか。他の幽霊が皆鎌倉近辺で死んでいて、地縛霊としてこの地に出てくる必然性があるのに対して、関ヶ原で命を落とした宗矩の一族はこれに当てはまらない。だから居住地を朝比奈切り通し下にすることで魂が生まれ故郷に戻ってきたことにしたんでしょうが、逆に言えばなぜ関ヶ原で死んだ設定にしたのだろう。
戦で亡くなった人間も幽霊のうちに加えたかったのか、史実でも吉川英治『宮本武蔵』でも武蔵は若い頃に関ヶ原で戦ってるので、彼らと武蔵に一応の因縁付けをしたかったものか。
そして「一族郎党引き連れて」出かけたという形で幽霊たちの告白数人分を一エピソードで片付けてしまう(笑)。はとこまで持ち出す無理矢理感で笑いを取りつつ、参籠禅のメンバー以外の、観客に馴染みの薄い面々の話をさらりと略してしまう。手練の技です。

・平心が出て「わたくしは逗子の山の中で、石を研ぎ鏡をこしらえていました」と告白。ここで武蔵がはっとしたように反対方向を見ている。おそらく鏡職人というところから、例の鏡が一つに合わさった謎に関わってると察したからでしょう。

・「女房どのが、毎日のように、「貧乏はもういや」とこぼしますので、いまに見てろよと、お供をして(ここで宗矩を差す)出かけましたが、着いたその日に鉄砲でやられました。こんな姿で迷っていますと女房どののあの小言も、天上の音楽のようであったなあと、なつかしく思い出されるのです~」と続ける平心。
先の説法の女房にせっつかれて強盗殺人を行なった男に重なるものがあります。きっとあの時説法しながら女房どのを思い出していたことでしょう。

・まいは、自分は八幡宮の白拍子だったが、静御前と舞の手を争って敗れ、悔しさのあまり弁天池に身を投げたという。「一つしかないいのちを~軽はずみでございました」。
静御前と同時代に生きたとなると400年以上も前の人間、沢庵は不明だが他の幽霊たちが皆ここ十数年の死者なのに比べて一人だけずいぶん古い。彼らと出会う前は何百年も一人でさまよっていたのかな・・・。

・乙女は「父の見せ物小屋で、女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育ちました。やがて筋書きを書くのが好きになり、ある若衆歌舞伎一座のために脚本を案じましたところ、座頭から「あんた下手ねー!」(この時の台詞回しが前後と全く声色が違ってユーモラスで良い)と突き返され、口惜し泣きしながら、月夜の由比ヶ浜を歩いているうちに、ふと気がつくと、もう海の底におりました~」と泣き崩れる。
「ふと気がつくと」というからまいのように明確な自殺ではなく、悔しさのあまり回りが見えてなさすぎて海に落ちた(それも死ぬまで落ちたことにも気づかなかった)という一応は事故死のようです。
若衆歌舞伎が流行ったのは女歌舞伎が禁止された寛永六年(1629年)からで、物語の主な舞台となる元和四年(1618年)よりも後なのだが、調べると慶長八年(1603年)に出雲のお国がかぶき踊りを創始した直後から存在はしていたようなので、乙女の死は慶長八年以降、「女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育った」というから慶長八年に十年前後プラスしたあたり─3、4年前に亡くなったといったところでしょうか。おそらく幽霊たちの中では一番の新参ですね。

・「生きていたらもっとたくさん書けたのにー!・・・でも、このたび、このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と言う乙女。この「生きていたら~」という心の叫びは『ムサシ ロンドン・NYバージョン』上演時にすでに井上さんが故人になっていたことを思い合わせると、つい井上さん自身の叫びのように聞こえてしまう(同じような感想を記した劇評も見かけました)。
そして武蔵と小次郎が口々にあげていた〈宝蓮寺で起きた全ての事柄に自分たちに決闘をやめさせようとする意志が働いている〉その理由がここではっきりする。やはり具体的な筋書きを作った人間がいたわけですね。

・ここでぱっと画面が明るくなり武蔵と小次郎ははっと顔を見合わせる。そして後ろを振り向くと二人の前に幽霊たちが揃って土下座。
まいだけすぐ顔をあげ「生きていたころは、生きているということを、ずいぶん粗末に、乱暴に扱っておりました」。ついで宗矩が顔をあげて「しかしながら、いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも」「どんなに辛い一日でも」(中略)「とにかくどんな一日でも」「まばゆく、まぶしく輝いて、見える~!」。
武蔵は小次郎からの決闘申し込みを受けたさいに「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」と語っている。
死がすぐ傍らにあるからこそ、今生きているという生命の輝きをひしひしと感じることができる。それゆえ自ら望んで死地に立とうとする武蔵や小次郎の生き方に対して、すでに死んでいる自分たちから見れば、死と紙一重のスリルなど求めるまでもなく、ただごく当たり前に生きているだけで生命は輝いているのだと幽霊たちは主張する。
井上さんは、生ある者の輝きを描くため対比的に死者を頻繁に登場させるそうで(※29)、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)や『頭痛肩こり樋口一葉』(初演1984年)で幽霊を出したのもそれゆえなのだそう(※30)
この〈ただ生きているだけで人生は素晴らしい〉ことをもって、好んで生死の境に立ちたがる人間を否定するのには個人的に異論がありますが、それについては(3)で述べようと思います。

・「このまことを、生きている方々に伝えないうちは、とうてい成仏できません」「けれど、これまでどなたも、このまことに耳を傾けようとはなさらなかった」「それで、こんなふうに、迷ったままでおりますー!」と全員で頭を下げ、「うーらーめーしーやー」と体を起こしておなじみの幽霊ポーズ。
しかし「これまでどなたも(中略)耳を傾けようとなさらなかった」と言うが、すぐ後の「こんどこそはうらめしや、なんて古くさいやり方ではなく」という台詞からすると、今までは普通に幽霊らしく人前に出て「このまこと」を訴えようとしてきたっぽい。・・・耳を傾けようとしなかったのは話の内容どうこうではなく話聞く前に怖さで逃げ出したんじゃあ?

・この鎌倉に日本一を競い合って著名な剣客が二人訪れたので、「こんどこそは、うらめしやなんて古くさい(「古くさい」という時のいかにもバカにしたような言い方が面白い)やり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」と全員で頭を下げる。
「一生懸命、相勤めました」という言葉といい動きといい、歌舞伎の口上のようです。

・沢庵が、「今朝早く」小次郎がこの佐助ヶ谷に足を踏み入れた瞬間に「わたしが」宝蓮寺一帯に結界を結んだと言う。
今朝早く?小次郎が現れてから三日経ってるはずなのに。最初は台詞の言い間違いかと思いかけましたが、このあとで本物の沢庵たちがやってくるので、つまりは本当はまだ参籠禅最初の朝、武蔵と小次郎は時間を超えた結界の中で数時間の間に三日分の夢を見せられてたということだろう。結界を張るのが沢庵を演じた幽霊の役回りだったのは、生前僧侶だっただけに他幽霊たちより法力のようなものが上回っていたのか。
不思議なのは小次郎が佐助稲荷に出かけたシーン。宝蓮寺と佐助稲荷は近所のはずではあるが、宝蓮寺一帯に張った結界は佐助稲荷までも含んでいるのか。結界石が寺の境内にあるあたり、宝蓮寺の敷地だけが結界内なのかと思ったのだが。
もっとも小次郎は「宵祭りでにぎやかだった」と語っていたが本来はまだ朝のはずなので佐助稲荷も時間の流れ方が違う、つまりは結界内ということになろう。ということは「宵祭りでにぎやかだった」というのも小次郎が幻を見てたわけか。そのわりには宵祭りで購入した(としか考えられない)狐のお面─実体のあるものを寺に持ち込んでいるのが謎。あのお面、その後出てこないからやっぱりあれも幻だったのだろうか?
この佐助稲荷に行ったエピソード、さして必要性がないにもかかわらず再演のために脚本が詰められたときもそのまま残ったから、なんかもっと裏の意味があったりするんじゃあ?と勘繰ったりしてます。

・幽霊たちは、これからここにくる予定の方々に化けてあの手この手で二人を戦わせまいとした、二人が戦わないでくれれば成仏がかないますとそろって頭を下げる。「お二人がお命を大切になさることで、わたしたちを成仏させてください~」「成仏を~成仏を~」。
結局最後は泣き落としじゃないか。しかも武蔵と小次郎の命を惜しんでいるようなことをさんざん言ってきたくせに、最終的には自分たちが成仏したいがために二人に決闘をやめさせようという・・・要は自分たちの都合に武蔵と小次郎を付き合わせようとしてるわけで(戯曲には、乙女が「このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と語るシーンの後のト書きに、武蔵と小次郎が乙女の名乗りにギョッとした、「そこへ付け込み、亡霊九人、ここを先途と訴える」とある。つまりは彼らの動揺に付け込んで、ここぞとばかり泣き落としにかかったわけだ)。
・・・実はこの場面にこそこの作品の真のテーマがあるような気もしますが。

・ここで浅川甚兵衛が小次郎の鞘を拾って背後から差し出す。このときの捨て猫のような目が何とも(笑)。小次郎は鞘と武蔵の顔を見比べつつ鞘を受け取り、武蔵も刀をしまう。
そろって刀を納めた瞬間のちゃりんと鍔の鳴る音と同時に、幽霊たちが「ありがとうございます~」「なんまんだ~」と口々に唱える。刀を納めた時の二人の胸中はどんなものだったのだろう。

・他の幽霊たちがゆっくり立ち上がり後ろへ去ってゆく中、宗矩は一人近づいてきて、「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と穏やかに切り出す。
本物の宗矩が将軍家の政治顧問という上流社会の人間だけに能に堪能なのはわかるとして(史実もそうだし)、生前一介の百姓だった偽宗矩が能に詳しいのはちょっと意外。幽霊になってからまいに教わったんだろうか。
何にせよ能にも『孝行狸』の筋にも興味なさげな武蔵と小次郎にしてみれば〈だからなに?〉という話である。戯曲でも宗矩の台詞に対する武蔵と小次郎の反応は「・・・・・・?」になってました(笑)。

・宗矩いわく、「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は(この時点で客席から笑いが起きている。先が読めたからだろう)鷺になって(ここでもっと笑い)、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。客席上空を指して夢見るような調子で語る宗矩がいい味です。
ところでこのウサギがウとサギに分かれるオチですが、江戸後期の黄表紙あたりにでもありそう、いや実際こんな筋の話があったような?と調べてみたら、井上さんのエッセイの中に答えがありました。朋誠堂喜三二による黄表紙『親敵討腹鼓』(おやのかたきうつやはらつづみ)(※31)です。
内容は「カチカチ山」の後日談で、兎に親を殺された子狸が仇討ちのため兎を付け狙い、兎を斬ると上半身が鵜になり下半身が鷺になってどこかへ飛んでいく、というもので、これが『孝行狸』の元ネタなのは明らかです(もっとも『孝行狸』は大分『親敵討腹鼓』の内容を削ぎ落としていて、その落とし方がキモだったりするのですがそれは(3)で)。
若い頃吃音に悩んでいた井上さんは、『黄表紙百種』という本に収録されていたこの作品で初めて黄表紙というものに触れて、その言葉遊びの馬鹿馬鹿しさに衝撃を受け、「馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか」と気持ちがうんと楽になったといいます(※32)
これは井上さんについての伝記的研究本では必ずといっていいほど取り上げられる有名なエピソードであり、当然評論家の方々は『孝行狸』の元ネタが『親敵討腹鼓』なのに気づいていたはずですが、不思議と浅見の限り誰もこの事に言及していない(※33)。有名な話だからこそわざわざ取りあげるまでもないと思ったのか?・・・おそらくは扱いに困った結果として黙殺したんじゃないかと類推してるのですが、そのあたりも(3)で書こうと思います。

・語り終えた宗矩が、無言のままの(呆れてた?)二人にありがとうと手を合わせて去ったあと、今度は平心が近づいてきて、「二つに割れた鏡が、ぴったり一つになりましたよね」と小次郎に話しかける。
先に宗矩がウサギがウとサギの二つに分かれる話をした直後に、今度は二つに割れたものが一つになった話。もっとも平心が種明かししたように一つになったうちの半分は偽物だったわけですが。

・鏡は小次郎が水垢離をしてる間にこっそり寸法をとってまいが持ち出した方をこしらえたと聞いて胸を押さえる小次郎。「生きているころは、これでも腕のいい鏡職人だったんですよ」と平心。
彼も乙女同様に、今回生前鍛えた腕を振るう機会を得たことで、いくらか充足感を得られただろうか。無言で見つめる二人に「ありがとう」と手をあわせる場面の笑顔には心なし〈やりきった〉感がうかがえました。

・平心が去った後に小次郎の足下に鏡の半分が落ちる。さっき探したときは見つからなかったものが元々の姿に返って手元に戻ってきた。哀切なメインテーマが流れる中、無言で立ち尽くしたままの二人。小次郎の目の淵から伝ったのは汗なのか、それとも涙だろうか。
寺のセットも元通りになり、一種の異次元から本来あるべき場所へ戻ってきた、物語の環が閉じようとしているのを暗示しています。

・はっとしたように武蔵は寺を振り返り、小次郎も落とした鏡を拾い上げて大事にしまう。二人とも無言のまま襷を外し鉢巻きも外す。
寺の床に刀を置いて、そのまま旅支度を始める二人の動きがシンクロしていて、終始無言なのも合わせ、何も言わずとも通じ合える二人の絆を感じさせます。

・脚絆をつける途中で小次郎が、実は失神した時にどこかの勅願寺に迎えられてお飾りの住持にでもさせられるのかと思った、それならそれでのんびり暮らすのも悪くないとふと思ってしまったと打ち明ける。
巌流島の決闘のさいについ不戦勝を願ってしまったのもそうですが、強い敵と戦うこと、それによって自分を高めてゆくことに価値を置く武蔵に対して、小次郎の方は名誉を得るための道具として剣を用いている節がある。たまたま養父が小太刀の使い手だったために剣の道を選んだだけで、他のルートを使って名誉を得られるならそれでも構わなかったのでは。
お飾りに過ぎなくても退屈でも名誉ある立場に惹かれてしまったあたりが大分俗物ですが、死に近接したところに常に身を置こうとするより「のんびり暮らすのも悪くない」と考えるほうが人として健全なのかもしれません。

・「・・・しかし、いま何位くらいだろう?」「・・・なにが?」「皇位継承順位のことだ」。芝居だったのがわかってるのにまだ言うのか、どれだけ未練がましいのかとつい笑ってしまった。小次郎本人もちょっと照れくさそうにしてます。

・「そうだな、この国には三千万の人が住んでいるといわれているが、二人とも一千五百万位ぐらいではないのか。まあ、ごく当たり前の人、というところだ」。「そうだな・・・」と静かに納得した風の小次郎。
彼がおそらくは幼少期からずっと抱えてきた、そして剣士としてのモチベーションでもあった名誉欲を捨てた。彼が剣客ではなく普通の人として生きてゆくきっかけとなるやりとりです。

・これからどこへ行く?と聞かれた武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか。もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と答える。おぬしはどこへゆくと聞かれた小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか。雨の日は、武蔵にならって書を読もう」。
ただ「書を読もう」だけでなく「武蔵にならって」という言い回しに、小次郎の中で武蔵はもはや敵ではなく畏友というべきポジションにあるのが滲み出ていて、なんだかほっこりします。「武蔵にならって書を読もう」と言うときの小次郎の声もどこか優しい響き。
しかし一種難事業に挑もうとしてる武蔵はともかく、小次郎は余生のごとくである。武蔵に「まだ二十九ではないか。老け込むなよ」と言われるわけです。
ところでこの二人の年齢ですが、巌流島での決闘当時は武蔵が29歳、小次郎が23歳。つまり井上さんは二人の再会を六年後に持ってくることで、小次郎が当時の武蔵の年齢になるよう図った。今の小次郎が自分と同じ年だった頃の武蔵に追いつけたかを浮き彫りにするための工夫でしょう。
剣の腕的にはどうかわかりませんが、人間性については、当時の武蔵の方が大人だったんじゃないかという気がする。小次郎にとって武蔵はいつまでも追いつけない目標、かつて武蔵がいた地点にたどり着いたと思ったら武蔵はさらに前に進んでるという「アキレスと亀」的な関係なんじゃないですかね。

・蝉時雨の中、鐘の音とともに客席を通って本物の平心らが登場。浅川甚兵衛ら一味も茶の宗匠風の格好。
沢庵と平心が「これこれ、武蔵よ、どこへ行くのだ」「これから始まるのですよ、開山式が」と止めるが、「急に思い立ったことがあります」と武蔵はあっさりかわす。家光さまが一度おぬしと会いたがっている、終わったら江戸へゆかぬかと誘う宗矩にも「それはまた、別の機会に」と取り合わない。
一方まいは小次郎を側で眺めまわしてから「こちらのお方は?」と武蔵に尋ねる。本物のまいは小次郎に何の思い入れもないはずですが、一度は彼女(と同じ姿の幽霊)を母と呼んだ小次郎は居心地悪げ。まあそれ以前に「佐々木小次郎」と名乗るわけにもいかないだろうし(なぜ生きてるのか、宿敵武蔵となぜ一緒にいるのかなど説明が難しい)。

・少し間があって「友人です」と武蔵は答える。小次郎は驚いた顔で武蔵を見るが、正直武蔵から友人と呼ばれること、自分も彼を素直に友人と思えることが嬉しかったんじゃないかな。

・乙女が「ぶしつけながら、お名前は」と尋ねるのに応えず武蔵に近づいた小次郎は「からだをいとえ」と告げる。「おぬしも達者でな」。ごくシンプルな言葉の中に相手に対する万感の思いが籠もっている。
左右に分かれ客席へ降りて去る二人。「おい武蔵、将軍家指南役の口がかかっているのだぞ」と呼びかける宗矩の声にも振り返らない(※34)。武蔵に将軍家指南役の口がかかってる(宗矩が推挙した?)というと、宗矩はどうするつもりだろう。兵法指南役は武蔵に譲って自分は政治顧問に専念するつもりだろうか。
ところで、もし幽霊たちが介入せず〈幻の4日間〉を体験する前の武蔵だったならどう反応しただろうか。この芝居の武蔵は世俗的名誉には関心が薄そうに見えるが、史実の武蔵は大名家への仕官を望んで全国行脚していたようだし、将軍家指南役となれば喜んで(あるいは謹んで)受けたかもしれない。その場合、「争いごと無用」を標榜する宗矩から「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」の武蔵に指南役が変わることで※18にあるような幕府の政策にも影響が生じたかもしれない。自分たちが成仏したいがための幽霊たちの行動がなければ、歴史が大きく変わっていたのかも。

・「去るものは去り来るものは来る。これ人間世界の実相なり」。沢庵に言葉に周囲も一礼し、平心が冒頭部と全く同じ寺開きの挨拶を行うところで幕が閉じる。物語の円環が完全に閉じた充足感のようなものがあります。



※28-「新作だから、スタートから台本がすべてあるわけではない。やっていて結末は誰もわからなかった。稽古で誰も死んだ人間が劇をやっているとは思っていない。台本が届いて「えー!みんな死んでいたんだ!」ってびっくりした(笑)」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』、2013年1月号)。何たる出たとこ任せ。新国立劇場で初演された“東京裁判三部作”や『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』の時は、井上さんは台本に先んじて詳細なプロットを書いた端から(こちらも相当締め切りに遅れながら)劇場担当者にFAXで送っていたのに(『初日への手紙 「東京裁判三部作」ができるまで』(白水社、2013年)『初日への手紙Ⅱ 『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』のできるまで』(白水社、2015年)参照)。井上戯曲の新作を上演するって、つくづく強心臓でなきゃ勤まりませんね。

※29-「扇田さんはご存じだと思いますけれども、ぼくは生命の輝きを死の世界にちょっと足を踏み入れたところから書くと成功するんです。照射し合う中からドラマを取り出すという方法論があると思います。一つだけではちょっと足りない。構造体としては危なっかしい。」(聞き手・扇田昭彦「物語と笑い・方法序説」、扇田昭彦責任編集『井上ひさし』、白水社、2011年)

※30-「いろいろやり残して途中で死んで行った人たちが、この世でまだ生きている人たちになんか言う、そういうスタイルに非常に凝り固まっているというところがぼくにはありまして、ですから宮沢賢治の生涯を扱った『イーハトーボの劇列車』も死んだ農民の話なんですが、こんどの『頭痛肩こり樋口一葉』もお化け。同じことなんです。 ここまで生きてきたが、自分にはできなかった、けれどもこれから生きる人たちに自分の失敗を語ろう、自分たちが消えて行くことで逆に生きている人たちに未来をつくっていく、消えて行くものがいるから生きているものがいる、そういう際立たせ方で生きている人たち、つまり観客に、「まだ未来はありますぞ」ということを訴えかけるのが、芝居の場合、非常に有効なんです。 それは日本の歌舞伎も、極言すれば半分くらいそれでできていますから──死んでまた生まれ変わって、死んでと、できていますから──それは演劇のもっている基本的な枠組みのひとつのような気がします。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』、岩波書店、1988年)

※31-日本ペンクラブ編・井上ひさし選『児童文学名作全集 1』(福武文庫、1987年)収録。

※32-「わたしのとっての戯作」(井上ひさし『パロディ志願』、中公文庫、1982年所収)、「恐怖症者の自己形成史」(井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)、「著者から読者へ わかれ道」(井上ひさし『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』、講談社文芸文庫、2009年)ほか、様々なエッセイでこのエピソードは語られています。今回の引用は「わたしにとっての戯作」「わかれ道」の両方(引用部分は全く同文)から。

※33-唯一、今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」(『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)が「これが『黄表紙百種』からかりていたものだったこともやはり忘れてはならないだろう。仇討をギャグにしてみせる工夫こそ「ムサシ」のもう一つの大事だったのだから。」という言い方で元ネタの存在に触れている。


※34-武蔵に「将軍家指南役の口がかかっている」というのは『丹治峯均筆記』(正式名称は『武州傳来記』)中の「兵法大祖武州玄信公傳来」の記述が元ネタかと思われます(「武州兵法、将軍家達、上聞、可被召出御沙汰アリトイヘトモ、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル、武州、柳生カ下ニ立ンコトを忌テ、若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラス爪トラス、法外ノ有様ナリ、御免ヲ奉蒙度旨達而御断申上ラル、兵法御覧ノ御沙汰モコレアルトイヘトモ、柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧テモ益ナシトテ、コレモ御断被申上、但州モ曽テ吹挙ナキトカヤ、武州カ繪ヲ御覧被成度ヨシニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付、武蔵野ニ月出タル所ヲ御屏風一ハイニ書テ差上ラレシトイヘリ」)。『武州傳来記』は福田正秀『宮本武蔵研究第二集 武州傳来記』(星雲社、2005年)の「附録 『武州傳来記』原文翻刻(全)」で全文を読むことができる。同書は長らく内容の信憑性が疑われていたこともあり、ほとんど名のみ知られた存在だった『丹治峯均筆記』の正式名称や信頼性を明らかにした本であり、同エピソードはもっぱら宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂『宮本武蔵』を通じて知られていたらしい。この顕彰会本は1909年4月に初版発行(発行所は金港堂書籍株式会社)、当時巌流島の決闘で有名な剣客としてしか知られてなかった武蔵の実像を伝えようと、熊本の有志による遺蹟顕彰会が編纂し国文学者・池辺義象が調査執筆したもので、のちの武蔵研究の基礎資料となり、吉川英治『宮本武蔵』がこの本を多く参考にしたことでも有名。復刻版(原文と現代語訳版の両方)が熊日出版から2003年に刊行されているが、現代語訳版では上記エピソードについて「武蔵の兵法は将軍家の耳にも達し、召し抱えるという話もあったけれども、将軍家が(指南役の)柳生但馬殿を重く用いておられる以上、自分の兵法をご覧に入れても無益であると言って、武蔵は招きに応じなかった。それなら画を御覧になりたいとのことであったので、武蔵は、野原に太陽が出てきたところを屏風いっぱいにかいて献上したという。」(「第八章 逸事」)と記述している。


11/14追記-※34を追加しました。

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『ムサシ』(2)-6(注・ネタバレしてます)

2016-10-16 12:06:38 | ムサシ
・舞台下手の階段を降りて二人が去ったあと、そちらを窺いながら武蔵が両手に刀を持って登場。寝ている小次郎の部屋に入ると刀を部屋の隅に置き、胸から扇子を取り出して警戒しながらそっと突きを入れぱっと身を引く。
寝ているとはいえ、いや寝てるときだからこそ、天才剣士小次郎にうかつに近づけば一瞬で反撃をくらいかねない。それを警戒してるのはわかりますが、恐る恐る近づく→ぱっと突いてぱっと引く動きが何度も繰り返されるのでつい笑ってしまう。
同時に、素早く安定した動きに藤原くんの運動能力を感じてちょっと感心してしまいました。

・繰り返し突かれても無反応だった小次郎が、三度目に突かれる直前にがばと起き上がる。「第十八位」と低い声で一言告げる小次郎。なんか心なし威厳が備わってきたような(笑)。妙にいい声だしなあ。

・「おぬしには、そのようなもったいない血は流れておらぬ」と言っても、「鏡が合って第十八位」と動ぜずに無表情に言う小次郎。このとき鏡合わせるジェスチャーをしてるのがちょっと面白いです。

・鏡の謎はまだ解けていないが、自分たちは何か途方もないものの罠にはまっている、そいつらの正体をつきとめれば鏡の謎もおのずから解けると武蔵が懸命に説いても、「解けないうちは第十八位」と全く声の乱れない小次郎。腕も無防備に投げ出したまま。
何か巨大な敵が身に迫っているという話なのにこの無感動ぶり。それ以前に宿敵武蔵の前でこうも無防備でいるというのがありえない。そもそも自分に話しかけているのが武蔵だと言うことさえ認識できているのだろうか?
単に皇位継承権第十八位に目がくらんでるだけでなく、魂抜かれてでもいるんじゃないかと疑いたくなります。武蔵が脱力するのも無理からぬところ。

・「庫裡の唐櫃から太刀を持ってきてやったぞ」と両刀を小次郎のそばに置いて、いつでも抜けるように持っておけと言う武蔵。
剣客が明日の朝斬り合おうという相手に別の敵を倒すためとはいえ刀を渡してやるとは。自分たちの他は皆その「途方もない者」の一味らしい状況にあって、武蔵の中で小次郎が〈同志〉のポジションになっているのがわかります。
しかし「いつでも抜けるように」なんて言わでもがなの忠告までされてる小次郎が情けないったら。

・武蔵の言葉にまるで反応せず、小次郎は左右をゆったり見回し「母上は、いづこか」と惚けた顔でいう。何となく貴族的鷹揚さを思わせる雰囲気。
それにしても小次郎が母親のことに言及したのはここが初めてなのである。これまでずっと第十八位第十八位ばっかりで。一応「母上」「いづこにおわすか」と丁寧な言葉を使ってはいるけれど、母そのものへの敬意、恋しさより、自分の血筋を保証してくれる存在として大事に思ってるみたいに感じるんだよなあ。

・「すっかり魂を抜かれてしまったな」と言いつつ、武蔵は扇子をとって小次郎を叩き、ぱっと身構えるが小次郎は惚けたまま無抵抗。ふだんのおぬしであれば、こう打ち込まれれば素早く打ち返してくるはず、それがどうした隙だらけではないかと言いながら言葉の間で膝や肩や頭も打つ。
「母上はいづこにおわすか」と凛とした声で聞いてくる小次郎の頭をまた打つ。打たれ放題なのに妙に態度だけは堂々としてるんだよなあ。すっかり剣客じゃなくて第十八位の親王になりきっちゃってるような感じです。

・「あのまいという女はおぬしの母ではな・い!」。「な」の後と「い」の後で扇子で一度ずつばしばし叩く。
「まったく打ち放題、打たれ放題ではないか。かつての佐々木小次郎はどこへ行ってしまった」と叩きまくりながら言う武蔵。「かつての佐々木小次郎」の方はともかく、少し前の「ふだんのおぬしであれば~打ち返してくるはず」という台詞には〈普段の小次郎を語れるほど小次郎のこと知らないでしょうが〉とツッコんでみたくなる。
彼らは六年ぶりに再会したばかり、しかも3日ばかり一緒にいたに過ぎない。にもかかわらず〈普段はこう〉だと口にしてしまうところに、自分は小次郎のことを(そして小次郎も自分のことを)よく理解している、同じ剣客として通じ合っているという確信、親近感が窺えて、なんだか微笑ましくなります。

・胸をおさえて「あ、鏡がない」と緊迫感のない声で言う小次郎の頭をさらに打つ。「鏡のことは忘れろ」と、手さぐりで布団まわりを探そうとする小次郎を両脇に手を入れて引きずり起こすと、ついでに掛け布団もさっと畳んでスペースを開ける。
さらに小次郎の肩を後ろから引き寄せて半ば向かい合った体勢になると、ため息をつきながら緩んでいた懐を合わせてやる。もはや小次郎の保護者というより母親のよう(笑)。
もっとしゃきっとしろ、という意味合いなのはわかるんですが。武蔵を見つめる小次郎の目も子供のような無防備さです。

・「小次郎、よいか、よく聞くのだぞ。あの女に、さきほどこっちから罠をかけてやった」と言いながら扇子でばしっと背を打つ。
小次郎は気のない様子で視線を流してしまうが、やがてまたぼんやりと武蔵に視線を戻す。そうした仕草もどこか子供じみていて、ばしばし叩かれてるにもかかわらず、武蔵を自分の味方として認識してるように思えます。
懐を合わせてくれたのも抵抗せず受け入れていたし、むしろ敵として認識していないからこそ平気で叩かれるままにしているというか。武蔵の方も「よいか、よく聞くのだぞ」という口調がもう、子供に言い聞かせるような調子になっています。

・まいの芸名の変遷を具体的に上げる武蔵。一つ言うごとに小次郎の胸を扇子で打つが小次郎は無反応。しかし「仙台で笹阿弥」のくだりで、ふいに目に生気が戻り武蔵の顔を扇子で打ち返す。
いててと額を押さえて離れながらも「しかしうれしい。やっと、ふだんの小次郎に戻ってくれたな」と武蔵は言う。その言葉通り、いつもの顔に返った小次郎はいぶかしげな表情を浮かべている。
何がきっかけで正気に返ったのかはわかりませんが、まさに夢から醒めたがごとくで、自分が今どこで何をやってるんだかとっさに呑み込めてないんでしょうね。ともあれ小次郎の剣客の本能に賭けて攻撃しつづけた武蔵の粘りが報われました。

・続く「常陸で水戸阿弥」のくだりでは、小次郎の方から扇子で打ち込むのを武蔵が扇子でぱっと受ける。「銚子で沖阿弥」で武蔵は防戦の構えになるが小次郎は呆然とした表情で打ちこまず。武蔵が姿勢を戻しながら「九つ、浅草で海苔阿弥」と言うと、小次郎が「最後にこの鎌倉で舞阿弥」と引き取る。
小次郎が少しずついつもの自分を取り戻してゆくのをユーモラスに見せています。最後小次郎が心なし面映そうな表情になるのも、さっきまでの自分の体たらくを思い出して恥じ入ってる感があり、彼が本当に正気に返ったのだと感じさせます。
しかし小次郎が打ち返して以降の二人の攻防の何やら楽しげなこと。何だかじゃれあってるみたいにも見えます。

・「おぬしが皇位継承順位第十八位で逆上あがって失神したあと」、今の中の三つをわざと抜かしてあの女にこう聞いた、「「巡業先は七つで、名前の阿弥号も七つですね」とな」。
小次郎はっとした表情で「それで!母上の答えは!」。武蔵は小次郎の額を扇子で打って、「しっかりしろ。あの女はおぬしの母ではなく、ウソつき女なのだよ」「わしの、わざとまちがえた問いに、あの女は「うん」と大きくうなづいたのだ。どういうことかわかるな」「・・・・・・わが子と泣いて別れた、悲しい、つらい旅、その最初の巡業地を忘れるのはおかしい!」小次郎は最初は考え込みながら、最後には武蔵の方を振り向いて力強く言い切る。
途中ではまだまいを「母上」と呼ぶなど完全には幻惑から抜けていなかった小次郎が、武蔵に促されてとはいえ彼女の話がおかしいことをはっきりと指摘した。小次郎が自分の意志をはっきり取り戻したのがわかります。
しかし「皇位継承順位第十八位で逆上あがって失神した」って、改めて言われると何か情けないなあ・・・。

・「六つ目は仙台の笹阿弥。これはどうだ」「仙台は大当たりを出したところ。ひと月も日延べをしたと言っていたはず」「それほどありがたい土地を抜かしても、気がつかなかったのだぜ」「なるほど、少しは読めてきた」「あの女は、自分で云った旅はしていない、その場の思いつきを並べていただけだ」。
途中で庭に下りて稽古を始めたりしてたくせに、二人とも実によく話を記憶してるものだ。口にしたまい本人ですらちゃんと覚えてなかったというのに。
・・・幽霊になる前の本業も白拍子だったまいが本当に少し前に口にしたばかりの台詞を忘れるものだろうか?後に乙女が今回の芝居の筋書きを書いたのは自分だと明かしているし、小次郎との母子関係の証明となる鏡の残り半分を事前に(鏡の存在がわかった第一夜の時点から)あつらえてるくらいだから、「偽の母子ご体面」はその場の思いつきで仕組まれたものではない。
十分な練習時間があったとまではいえないし、巡業地と阿弥号だけまいのアドリブということも考えられはするが、もしかすると武蔵に罠を仕掛けられたとき、わざと嘘を見抜かれるように謀った可能性もあるのかも?

・「この三日のうちにおきたことを、一つ一つ、思い返してみた。すると・・・・・・、」と話す武蔵を「待て!」と小次郎が遮ると刀を手に取り、一本は差し一本は手に掴む。そして「足を結び合っていれば、おのずと友情が芽生えるという柳生宗矩どののお策、あれはおかしい」と強い口調で言う。
武蔵も「あんな馬鹿げた策が柳生新陰流にあるはずがない」。乙女が父の仇討ちをやめたのも「ああ、(と思い当たった明るい表情で)あれはわしらにうらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」。沢庵の大構想も「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」。平心坊の法話も「わしら二人に(中略)友達になれと、そう説いていたんだな」。「仕上げが偽の母子ご対面よ」。
口々に二人は参籠禅のメンバーの行動の裏を言い当てていく。宗矩の「柳生新陰流両固め」の奇妙さを武蔵をさえぎってまず小次郎が指摘するあたり、先に武蔵の示唆でまいの嘘を悟ったのを皮切りに、彼の頭が冷静に回転し出したのがわかる。同時に刀を手にして臨戦態勢を取ったことで、彼の内でこんな大がかりな罠を仕掛けた〈敵〉への警戒心が強まってるのも伝わってきます。
そして「あんな馬鹿げた策が柳生新陰流にあるはずがない」のくだりで客席から笑いが。改めて言われるとつくづく馬鹿げてますもんね。

・「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴い御方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と武蔵が言うのを受けて「皇位継承順位第十八位か」と小次郎は憎々しげに言う。
見事に騙された、それも名誉欲─虚栄心の強さとその背後にある出自へのコンプレックスに付け込まれた結果ですからね。恥ずかしくもあり憎らしくもあって当然でしょう。

・これを企んだのは狐稲荷や狸のような、そんな一通りの代物ではないという武蔵に、しばし考えたのち小次郎は「わかった。これは大公儀の企みだ」「将軍家の政治顧問柳生宗矩とその禅の師沢庵が加わっているのが、なによりの証拠よ」と勢いづくが、武蔵は「わからぬ」と沈鬱に答える。「大公儀の企みだ」の後で小次郎が武蔵の方をぱっと見たのに武蔵は反対を向いてしまったのも、武蔵が小次郎説に納得してないからでしょう。
小次郎も「だが佐々木小次郎と宮本武蔵の試合を止めて、大公儀にどんな得がある!」と力強く続けてるくらいで、肝心の部分を説明できない大公儀犯人説に彼自身満足していない。武蔵は腕組みして「わからぬ」。
「いったいだれが、ぜんたいなんのために、われらに切り合いをやめさせようとしているのか」「わからぬ」。ただ「わからぬ」ばかり繰り返す武蔵に「・・・わからぬわからぬといっているばかりでは、なにもわからぬではないか」とついに小次郎が怒る。まあ、真面目に考えろと叱りつけたくなるような応えではあります。

・「だが、一つ、わかっていることがある。」「戦うのだよ小次郎」と武蔵は突然たすきをかけ始める。
「わからぬ」の連続からいきなり「戦うのだ」と続くこの急な態度の転換に小次郎のみならず観客も戸惑わされる。そうして一瞬戸惑わせてから、自分と小次郎が戦えば自分たちの戦いを止めようとしてきた連中の仕掛けを潰すことになるからだと武蔵に説明させて腑に落ちるよう仕向ける。ミステリー的な効果が効いています。
そしてあれこれ考えるより、実際に戦うことで敵をあぶり出そうとする武蔵は、知性派に見えても結局は脳筋というか根っからの剣客なんですねえ。
武蔵の真意がわからぬうちから「まず、わしとおぬしが戦うのよ。時刻は少し早いが、いま、果し合おう」と言われて「望むところだ」と受けてしまう小次郎も、謎の敵のことを一瞬忘れて武蔵と戦えることを喜んでしまってるあたり、これまた根っからの剣客っぷり。「いま、果し合おう」と言われた直後に「いま」と繰り返しつつ不敵な笑みを浮かべるあたり、本当に嬉しそうでしたし。

・自分たちが刃を交えたとたん、やつらの仕掛けは全て水の泡になる、「したがって、われらが戦うことがそのまま、やつらをやっつけることに通じる」と説明する武蔵に、鉢巻きをしながら小次郎は「あいかわらず戦略に長けているなあ」と応じる。
揶揄する感じでなく素直に称賛してるような声色。「そこだけは小次郎の及ばぬところよ」も本気で感心してるような響きです。

・「やつら、果たし合いの最中に現れて、止めに入るかもしれぬな。そのときこそ、やつらの正体がわかる!」と意気込んで武蔵を見る小次郎。こちらも鉢巻きをした武蔵は無言で受けて刀を取り、小次郎もまた刀を取る。
ここで武蔵が「われらの勝負は早い。おそらく一太刀で決まるだろう。勝ち残った者がやつらの正体を見破ることができよう」と驚くべきことを言う。予定を繰り上げて小次郎と戦おうと言い出したのは、〈敵〉の企みを潰すため、連中を引っ張りだすための方便で、いざ切り合うと見せて敵が現れたら二人してそちらに立ち向かうのかと思いきや、本気で小次郎と切り合うつもりらしい。
それも「勝ち残った者がやつらの正体を見破ることができる」、つまり負けた方はやつらの正体を見破れない(切られて死んでいるはずだから)ということで、真剣で勝負する以上当然とはいえ、どちらかが死ぬのを前提としているのだ。何だかんだ言ってもこれだけ仲良くなったのに、いまだ殺し合う気満々なのである。
しかも「だがそんなことはもはやどうでもよい。いまはおぬしと素晴らしい試合がしたいだけよ」。今この場で果し合う原因となった敵のことさえ、最高のライバル小次郎との試合の前には「そんなこと」扱い。本末転倒というべきか、もともと小次郎と仕合うつもりだったのだから初志貫徹というべきなのか。
先に敵をあぶり出す目的にもせよ武蔵と戦えるのをまず喜んだ小次郎の方も「おぬしと二度にわたって立ち合うことができるとは、この小次郎も仕合わせ者だな」。・・・なんかもう、二人ともこんなに幸せそうなんだから好きなように戦わせてやればいいじゃないかと言いたくなってきます。






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『ムサシ』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2016-10-09 23:12:34 | ムサシ
・夜。月の下で平心が寓話を語る。ジェスチャー声色満載の楽しいお話。戯曲には「平心の(生まれてはじめての)説法」とト書きがある。
小さいとはいえ寺の住持になろうという人がこれまで説法の経験が全くないものなのか?と思いたくなるところですが、終盤明かされる彼の正体の前振りということでしょうね。

・妻のおねだりに負けて小袖を得るため行きずりの女性を殺し遁世した男が殺した相手の夫と知らず出会い、懺悔して彼の手にかかろうとするが許しを与えられる話。
中世の説話集にでもありそうな、と思ったら参考文献に上げられてる『沙石集』中の「悪を縁として発心したる事」という説話に基づいているそう(※26)。わかりやすい言葉で、心情描写が多く足されているものの内容はほぼ一緒です(※27)
説法に引き込まれている女性陣と対照的に無表情に足を組んでいる武蔵。自分と小次郎に当て擦ってるような内容が気に入らないんでしょうねえ。

・まいが伸びあがって平心のほうを見てから乙女に「小次郎どののお姿が見えませんね」とひそひそ話。
「明日に備えて、源氏山をひと回りしてくると、おっしゃっておいででしたが」と乙女が答えると、武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう。疑り深い奴なんですよ」と続ける。
この言葉に女二人は呆れたような嘆くような顔をする。武蔵も小次郎も戦う気持ちが全然抜けてないのが明らかですからね。

・説法は男が熱心に行をおこなってる僧と親しくなるところへ差しかかる。そこへ小次郎が客席からなぜか狐の面をつけて登場。乙女が驚いたからか慌てて面を取り、その様子に乙女が吹き出す。
六年にわたって敵を追い求めてきた復讐者のはずなんですが、妙に可愛げというか稚気があるんですよね小次郎。乙女がなんとなく気安くなるのもわかろうものです。
「佐助稲荷へ明日の勝ちを祈ってきた。宵祭りでにぎやかだったぞ」という台詞も神頼みに行くのはいいとして、祭りの雰囲気にちょっと浮かれてしまったのが表れています。お面買ってきちゃうくらいだもんなあ。

・「とうとう神さまにすがったか」と武蔵に皮肉を言われて「うるさい!」と声を荒らげる小次郎を(喧嘩を売るようなことを言った武蔵もセットで)宗矩が「説法中説法中」と強い口調で叱る。なんか授業中に騒いでる男子生徒みたいで二人ともちょっと可愛いんだが。
小次郎は堂の端へ行き、一礼してから上がって座禅を組む。こういうところは基本礼儀正しい人です。

・許す心も許しを請う心も念仏が育てた、というオチを受けて沢庵や宗矩がなんまんだぶと唱える。すると俄かにまいが泣き崩れて「越前三国湊の越前国分寺。そこがわたくしの生まれ在所でございます」と言い出し唐突な故郷語りが始まる。
感情入りすぎて物狂いのような有様に左右から乙女と沢庵が支えようとする。顔が土気色なのに驚き、さては禅病かと慌てる一同に「気は確かでございます。わが子のことをみなさまに聞いていただきたいだけでございます」と泣きながら言う。
この一連の長い昔話を退屈させず持たせる台詞の緩急、思い入れたっぷりの身振り、本気で正気を疑いたくなるような狂おしさなど、白石さんの演技力あってこそ成り立つ場面だと思います。

・自身の出生について語るまい。母は都から来た能楽師にもてあそばれて自分を孕んだと苦笑しつつ穏やかに話す。
一同まいを見つめながら話を聞いているが、小次郎だけは「もてあそばれた」のくだりで向こうをむく。自分も孤児であるゆえに、父親の顔を知らないという話につまされるところがあったのか。武蔵も俯いて痛ましげな表情になっています。

・子供の頃の舞台での人気ぶりを楽しげに語るまいに皆も楽しげに笑う。しかし楽しかったのはほんの一時、都の戦が越前にも攻め上ってきて興行どころでなくなり荷物をまとめて皆退去したというくだりで武蔵が俄かに立ち上がり下へ降りる。
そのまま小次郎の前、石灯籠のそばまで歩いて来たのを小次郎が緊張した面持ちで見ている。小次郎も立ち上がって下へ降り宗矩の方へ一礼してから、そのまま武蔵と反対方向に歩いていき竹林の前で止まって竹を見上げる。
小次郎が下に降りたのは、武蔵が席を外したのに触発されてじっとしてるのが落ち着かなくなったんでしょうが(ちゃんと一礼するあたりが彼の礼儀正しさ)、武蔵が人が話してる最中に座を外したのは何だろう。おばさんの長話になんて付き合ってられないよ、と内心思ったとしてもそれをあからさまに出すほど子供じゃないだろうし、後でまいに質問をしてるくらいでちゃんと話に耳を澄ましてるし。
演出的にはほぼ一人語り状態が続く場面なので、観客を飽きさせない工夫としてメインの人気役者二人に動きをつけるのはわかるんですが。

・まいは旅先でいろんな名前で活躍した話をする。「行く先々で名前を変えられたのですね」と突然武蔵が質問する。後から思えばやや疑いの表情。この時点でもう何か怪しいものを鋭敏に感じてたんでしょうか。

・「・・・で、お子さんの話は」とじれたように宗矩が話の腰を折る。宗矩は少し前にも同様のツッコみを入れていて、一種観客の気持ちを代弁してくれています。
ここでやっと、まいが16の頃に「越前国分寺にさる高貴な御方がおみえになりました」とそれらしい話になってくれる。高貴な方と聞いたとき、小次郎が興味ありげに振り返るのですが、あからさまに食いつくのでなく、でも興味があるとわかる微妙な表情が上手いです。

・その人は戦乱を逃れて都から逃れてきたのだと、鴨川が死人で溢れたという伝聞を語るまい。再び小次郎は刀の練習を始め、武蔵も少ない動きながら型を工夫してるらしい。
そういえばお堂から下りて自主稽古のような動きを始めたのも、まいの話が戦乱に及んだときだった。戦の話になると自分たちが責められてる気にでもなるのか。あるいはそのたび稽古をしてるところからして逆に戦の話に血が騒いでいるのか。

・都の戦乱についての伝聞を「寝物語」に聞いたというのに沢庵らが食いつく。「いま、寝物語というように聞こえたが」と代表して質問するのが坊主の沢庵というのが面白いというか生臭というか。

・「国分寺へお見えになる高貴な方々を、ねんごろにお慰めいたしますのも、女猿楽の舞い手の大事なおつとめなのです」とまいはあっさり「高貴な方」との関係を認め、一年後男の子を授かった、その高貴なお方はその子には蝉丸と名付けよと言ったことを話し、国分寺の住持に子供を預けて旅に出てしまったことを苦悩して泣く。
少し後に天皇の血筋だと明かされる赤ん坊の名が蝉丸なのは、能の「蝉丸」などで有名な、盲目の歌人・蝉丸が醍醐天皇の皇子だったとの伝承を踏まえてのことでしょうね。

・鎌倉から越前へ蝉丸を引き取ると書状を送ったが、その返事が、と返書を胸から取り出して沢庵に渡す。前の住持の大往生と子供の行方不明を知らせる内容を口々に読む一同。
武蔵と小次郎は我関せずと刀の稽古に戻っているので返書を自分の目で読んでいないが、果たして本当に返書にはこの通りの内容が書いてあったのかどうか。武蔵と小次郎以外は全員グルなわけだし。

・高貴な方とはどの程度高貴なのかと皆が口々に公家の家名をあげるのを一つ一つ否定するまい。ついに武蔵と小次郎まで「算術の小槻ですか」「暦の土御門でしょう」と話に参加する。何だかんだいって興味津々なのね。

・ここでまいが体を起こし妙な迫力で小次郎を見据えつつ「お父上は、もっと高貴な御方ですよ」。明らかに高貴な方=小次郎の父というニュアンス。この時点で次の展開を予想した人も結構いたことだろう。

・ついに「蝉丸どのの御父君は次仁親王さまにございます」と大仰に宣言。「親王といえば帝のご兄弟ということになるが」と驚きおののく面々。つまり蝉丸は今の帝のいとこちがいに当たるのだそう。
驚きにのけぞり倒れかかる沢庵。別にまいの隠し子が何者だろうと沢庵の身に何の関わりもないだろうに。大徳寺が帝の勅命によって開かれたことを誇る場面があったが、それだけに天皇の血筋というのは彼にとって絶対的権威ということなのか。

・いつのまにか下に下りたまいは刀の稽古に戻っていた小次郎を示して、こちらにおいでの佐々木小次郎どのが(ここで小次郎がさすがに手をとめ驚きの目でまいを見る)そのいとこちがいだと宣言する。
皆が驚くのと対照的に小次郎は無表情になってしまう。驚きが大きすぎて受け止められないのがよくわかる表情です。

・さらに小次郎の皇位継承順位は現在十八位だと大仰な声で宣言するに至って、小次郎は「そんなばかな」と冷静ながら怒りをこめた声で反論する。
その言い方や顔つきが父親そっくりだとまいは感涙にむせぶが、小次郎はそっぽをむいて取り合おうとしない。体をべたべた触りながら旅に連れていかなかったことを詫びるまいに当惑し、ついに手を払いのけて「そんなばかな」ともう一度言って距離をとる。
このくだりはやわやわと押していくまいと反発しながら実質防戦一方の小次郎の攻防が、白石さんの静かながら不気味な迫力を感じさせる演技と強がりつつも脅えたような勝地くんの演技が相俟って、ぐっと引き込まれます。

・「そんなことは絶対におかしい!」と言いつのる小次郎を、後ろからゆったり近づいた武蔵が肩をつかんで後ろへ乱暴に引き寄せると、代わって前に出て「お気は確かか!いったいどうなさったのか!」とまいを一喝する。
小次郎が当惑しきっていて、実質完全に押されているのを見て助けに入った格好ですが、あなたは小次郎の保護者ですか(笑)。

・まいは座った目で武蔵を睨みあげ、小次郎はやんごとなき身分なのだから決闘などしてはいけないと居丈高に言う。小次郎の出自を明かした後に真っ先に決闘するなと言い出すあたり、皇位継承十八位を持ち出したのが何のためなのか語るに落ちた感がなくもない。
武蔵もこの時点でまいの、まいのみならずまわり中全員の目的が自分たちの決闘を止めることにあると気づいたのかも。

・まいの剣幕に呆れ顔の小次郎が少し前に出るがそれ以上は近づかない。なんかすでにもうまいに呑まれてしまってるような感じです。
一方の武蔵も、もし17位までの方々に何かあれば武蔵どのは帝と刃を交えているのと同じになるのですよと大げさなジェスチャーで語るまいに、呆れた顔で額に手をやっている。
17人もの皇位継承者が全員バタバタ死ぬとはさすがに思えないので、小次郎に帝位が回ってくる可能性はゼロに等しいですが、そう切り捨てられないだけの権威がやはり天皇の血にはあるということですね。

・いきなり宗矩が、理屈からいけばその通り、帝に剣を向けるならおまえは賊軍の中の賊軍、史上最悪の大悪人だと興奮して罵倒する。
先には沢庵の、三種の神器の行方によって正義の行方が決まるなど滑稽─天皇を担ぎ出しその権威を借りた者が正義となるのはおかしいという言葉に賛同していた宗矩が、舌の根も乾かぬうちに小次郎は親王のご落胤だから剣を向ければ武蔵は極悪人だと言い立てる。さっきも今も小次郎は小次郎なのに、天皇の血筋だとなったとたん彼の命の値打ちが一気に何十倍にも膨れ上がってしまった。
たしかにこれは滑稽であり、二人の決闘を止めようとしていたまいと乙女が乙女の父の死の顛末が知れたとたん仇討ちには走ったのと同様の見事な変わり身の早さ。
小次郎の出自など関係なく、「天才佐々木小次郎の剣が上か、それがしの努力の剣が上か、この決着はつけなければならぬ」と相変わらず戦う気まんまんの武蔵の方が、目の前の佐々木小次郎という人間をまっすぐに見つめその能力を最大限に評価している点で、真の意味で小次郎を大切にしている。思わず小次郎に〈いい友達を持ったねえ〉と声をかけたくなってしまった(笑)。

・十八位の証拠があるのかと口々に詰め寄る武蔵と小次郎。「思い付きのデタラメを云うでないぞ」と言いながら、小次郎は手を伸ばして近寄ってくるまいから後ずさりして「おぬしからも云ってやってくれ」と武蔵の後ろに隠れて武蔵の背をまいの方へ押し出す。武蔵はあなたの保護者ですか(笑)。
まいは目の前に押されてきた武蔵を横に払う。押されたり払われたり物のように扱われる武蔵が気の毒だ。

・「このおばさんは、なにか企んでいる」と太い声でゆっくりと語る小次郎。「おばさん」のところで客席から笑いが。
「この女」と言わず「おばさん」という言い回しが品がいいような失礼なような。確かに29歳の小次郎から見ればまいはおばさんなんだろうけど。

・まいは笑顔で恥じらいながら、お腹に子供ができたと打ち明けたときお父さまも「なにを企んでいる」とおっしゃいましたと幸せそう。
それ喜ぶところか?いくら身分が高かろうが、やることやっときながら最低な男じゃないか。さっきから小次郎が何か言うたびに「お父さまと生写し」と喜ぶ、反復による笑いが生きた場面。
少女のような恥じらい笑顔と親王の声真似のときの仁王のような顔のコントラストが、見事な顔芸っぷりです。

・小次郎は一昨日からいるのになぜ今頃彼を息子だと言い出したかとツッコむ武蔵にまいは走り寄り、くるりと小次郎の方を振り返って、最初に会ったときからもしやと一挙一動に胸ときめかしていた、さっき平心から小次郎が欠けた手鏡をお守りにしているという話を聞いて確証を得た、自分も欠けた手鏡を肌身離さず持っている、と何か布のようなものを胸から取り出す。
皇位継承第十八位ネタを出すのがこの日になった本当の理由は、小次郎の手鏡のことがわかってから急遽まいの分の鏡をつくるのに今までかかったということでしょう。

・さすがにはっとして自分の胸元を押さえる小次郎に、まいは自分の鏡を取り出すと「さあ、鏡をお出しなさい」と迫る。雷に打たれたように鏡を取り出す小次郎。
「蝉丸お渡し!」と命じるまい。「小次郎渡すな」と叫ぶ武蔵。三者の攻防が緊迫感を生む、この場のクライマックスですが、ついついまいの言いなりになってしまうあたり小次郎はまるでヘビににらまれたカエル状態。
それだけ迫力が半端ないからですが、日本でも一、二を競う剣客、それも復讐一途で修行を重ねてきたはずの男に迫力勝ちするってすごい。

・小次郎は守り袋から手鏡を出し驚きの目で見つめると、鏡を持ったまま呆然ととりつかれたようにまいに近寄る。まいは鏡をかざしながらなんまんだぶを唱え宗矩らも後ろでいっせいに念仏を唱える。
なんだか親子再会の場が宗教的儀式の会場になってしまったかのよう。そもそもなぜここで「なんまんだぶ」なのだ。
小次郎の手から取った鏡をまいは自分の鏡と合わせる。ぴたりとあった瞬間みな口を開けて絶句。ここまで来たら合わないということはないと思うんだが、やっぱり驚くのね。

・小次郎は目を見開いたまま数歩後ろによろめく。武蔵はどこか痛ましげな顔でじっと黙っている。
つまり武蔵はまいの話が嘘であること、小次郎がまんまと術中に嵌まってしまったことをすでに確信してるわけですね。先に「小次郎渡すな」と叫んだのもそれでしょう。

・泣き笑いのような声をあげるまいの後ろでまた皆が念仏。「合いましたよ小次郎どの」と得意げににんまり笑うまい。体を傾げて立ち尽くしたままの小次郎。
「蝉丸やー、母さんと呼んでおくれー!」と叫ぶまいは小次郎の胸に取りすがり、武蔵も呆然と見つめている。まいに構わず手を延ばしたまま数歩前によろめき出た小次郎は「第・・・十八位」と呟き、そのままばったり倒れる。
・・・これひどくないか?三歳の時に別れた、死んだはずの母親に実に二十六年ぶりにめぐりあったというのに、真っ先に出てくる言葉が「お母さん!」じゃなくて「第十八位」とは。名誉欲の強い小次郎にとって瞼の母の存在など、突然降って涌いたご落胤話に比べればごくごく軽いものに過ぎないのがよくわかる(実際小次郎が母のことに言及するのは大分先である)。
まいたちの側も武蔵との決闘を阻止する目的の狂言なのだから、普通なら皇位継承権など持ち出さずとも生き別れの母を名乗って〈どうか親子水入らずの日々をお恵みください〉と言うだけで済んだはずなのだ(実際小次郎が倒れたあと、武蔵にこういった内容の台詞を言っている)。
それをご落胤話まで捏造したのは、要は名誉に弱い小次郎には母子の情より高貴な家柄の方が効くと思ったからだろう。そもそも小次郎の方を標的にしたのだって彼の出自がはっきりしないために偽の母子話を捏造しやすいというばかりではなく、剣を究めることで自らの人間性を研ぎ澄まそうとしている、現世的利得に関心の薄い求道者武蔵に比べて俗っ気の多い小次郎の方が付け入りやすかったからだろうし。
いわば自業自得とはいえ舐められてるなあ小次郎。

・倒れた小次郎を宗矩と平心がとっさに抱きとめ、平心が小次郎を背負って寺へ運びお堂に寝かせる。
この子をここへ導いてくれたのはあなたです、とまいは武蔵に礼を述べ、二十六年ぶりの親子水入らずの時間を恵んでくれと泣き落としする。名誉欲の薄い武蔵に対しては、皇位継承十八位を振りかざすよりも母子の情で押したほうが有効と見たのでしょう。
「ご苦労をなさいましたな」と武蔵も一応同情的な声を出しつつ、彼女のこれまでの長い旅を芸名を次々列挙することで示す。芸名が芸名なので、武蔵が真面目な、同情的な声音で語るほどにおかしみが出る。これも上手い緩急。
そして「わたくしの願いを聞き入れてくださいますね」と泣きながら胸にとりすがるまいを「ご苦労がむくわれて、ほんとうによかった」と願いを聞くかどうかについてはそれとなくはぐらかす。武蔵がまいに静かな戦いを仕掛けているのがわかる場面です。

・この会話の最後に「ねえ、小次郎どのの、かあさん」と武蔵が呼びかける。このときわざわざちょっと間を置いて「かあさん」と呼びかけるので、武蔵が自分の母親に呼びかけたみたいに響く。
観客の多くが感じたでしょうが、これは藤原くんが人生初の舞台『身毒丸』で白石さんの息子役だったのを反映しての遊びじゃないですかね。井上さんは役者にあて書きする人で、『ムサシ』もあて書きだそうですし。

・「ありがとうございます」と声を振るわせて泣くまい。そこへいきなり小次郎ががばと起き上がって「第十八位!」と叫ぶ。目も口も見開いたまま。どれだけ名誉に弱いんだか。
その表情といきなりの「第十八位」で客席に笑いが起こるのを見届けたかのように、またばったりと倒れる。その思い切りいい倒れ方は、効果音ともあいまって本当に頭打ったんじゃないかと心配になってしまいました。

・「昔から寝付きの悪い子なんですよ。ちょっと寝かしつけてまいります」とまいは小次郎のもとへ。それを感情をじっとおさえてるような顔で見送る武蔵。
コントラバスの音とまいの歌う子守歌をバックに暗転したのちに、寺の室内に寝ている小次郎とそばに付き添うまいの姿。子守歌を歌いながら小次郎の顔を手拭いで拭いてやる。
これらの愛情深い態度を(誰か見てるでもないのに)示している様子は本当に小次郎の母のようにも見えてくる。もしかすればこのまい(を演じる幽霊)にも生き別れた子供がいたりしたのかも。

・乙女が現れ、静かにしかし大股に近付いて段下からまいさま、と呼ぶ。「そろそろ、丑三時です。みなさんもお揃いですよ」と声をひそめつつ言う。「武蔵どのは?」と問われたまいはジェスチャーでそこで寝ていると示すまい。
段を降りてきたまいに「いよいよ総仕上げですね」と乙女が言うのに、まいは無言で答える。さっきまでの〈蝉丸の母〉の顔から本来の顔に戻ったように雰囲気も変わっています。
この「総仕上げ」本来は何をするつもりだったのだろう?たまたま武蔵に結界を壊されて人間に化けていられなくなったためにああいう形で決闘を止めに入ることになったけれど、本当は何か別の計画があったらしいのがこの台詞からわかります。
もし無事に「総仕上げ」を実行できていたら、それでも二人に刀を捨てさせることができていただろうか。

・笛の音をバックに二人は距離を保ったまま舞台下手にすっすっと歩いていく。光にはっと立ちすくむ乙女にまいが早足になって近づき体に触れる。
「どうしました」「遠くで稲光が」脅えた顔の乙女。「生きていた頃から、雷が嫌いなんです」と空を睨んで言う乙女の背中をまいがさする。
ここで初めて彼らが幽霊であることを示す明らかな伏線が登場。いよいよクライマックスが近いのがわかります。



※26-「平心の説法は鎌倉時代の説話集『沙石集』巻第十本ノ七「悪を縁として発心したる事」に基づく。 『沙石集』は『ムサシ』の「主要参考文献」に挙がっている。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※27-無住『沙石集 10巻』(西村九郎衛門、1897年)。国会図書館のデジタルライブラリー(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992811、546p)で閲覧可能。



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