みなさん、こんにちは。
政策と貧困問題について書こうと思ったのですが
おかしな意見があちこちに散在しているので、ちょっとわたしの意見を書いてみます。
19歳のカンニングがありましたね、
これに関し
「19才の予備校生がかわいそう」
「たかがカンニング」
この意見はどうでしょう。
「許してやれ」
「まだ若いんだ、間違いは誰にでもある」
それも、わからないことはありませんけど。
一生に一度の(あるいは数度の)入学試験、
その日に向けて、受験生はずっと努力していくんですよ。
毎日毎日。
それをカンニングするわけです。
「自信がないから。」
「どうしても受かりたいから。」
受験生は誰だってそうですよ。
そして、あるいはその後の人生を決めるかもしれない試験に対し、
用意周到に準備をして、うまくいけたらしめたものと、不正行為を犯す。
それを
“たかがカンニング”
という扱ってしまうことはいかがなものでしょうか。
中には、「今の技術についていけない大学側に問題がある」
とまで言い出す始末。
本当にそうですか?
新しいものについていくことがそれほど重要なら
伝統ってなんなんでしょう??
大学というものは威厳と厳格性にもとづいているからこそ伝統があるわけで
「カンニングくらいなんだ、大目に見てやれ」
という発想は、
“大学の伝統とはなにか”
“ずっと変わらずに持ち続けている価値とは何なのか”
を理解しているとは思えない。
かろうじて残っている貴重なものまでを、否定してしまうような気がします。
カンニングは不正行為であり、不正行為は犯罪です。
予備校の模擬試験や、高校の期末試験ならまだしも
必死に勉強してきた子たちが、不安の中に全力でのぞむ入学試験に、
不正行為をして合格しようとする
その行為に対し
周囲が大甘の態度をとることに、わたしは疑問を感じますね。
この子がここで、そのまま通る、
あるいは、多少の注意でことを終える、
それこそが未成年に対する過保護だと思いますよ。
未成年への過保護がその後、どうなっていくのか、どのように劣化していくのか
現実社会を見ればわかるでしょう。
それはある意味、大人たちの責任なんです。
ニュースや新聞のように、ことさら騒ぐ必要もなく
厳しく罰する必要もありませんが、
「カンニングくらいなんだ」はおかしい。
ぜったいにオカスィー。
だったらいっそ、機会平等ということで、
受験生全員に「カンニングOK,でも見つかったら失格ね」
くらい書いてくださいよ。
「不正行為を罰せない」ような社会であれば、
政治家に対しても、成人の犯罪に対しても、
いずれひずみが出てくるでしょう。
ぼくの兄は京大ですけど
浪人して予備校に通い、ものすごく勉強しました。
(ちなみに、ぼくも浪人してます。
そういう努力してきた人が落ちて、
カンニングした学生が入ったとしたら、どうでしょう。
それでも「たかがカンニング」と言えますか?
多少の罰で済んで、(あるいは、おとがめなしで済んで
「見つかってもこの程度」
と思ってしまうことの危惧を、
もう少し考えてもらいたいものです。