みなさん、こんにちは。
暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
わたしなんぞは日中(37℃の時)歩いておりましたら眩暈なんぞがし、
軽い頭痛がしてきて意識が飛びかかり、危うく気絶しそうになりました。
ああ、これが熱中症なんだな、と後から気づきました。
熱中症になるときは、「あ、熱中症だ!」 なんて気づかないんです。
なってみたら熱中症、というカンジです。
気づいたころにはかなりのダメージを受けていますので、どうぞお気を付けください。
さて、
ときどき拝見しております木のピーのブログなのですが
(木のピーはジャガーの旦那さんです)
これが良い言葉が多いのです。
今回、とてもイイ記事がありましたので、ご紹介させていただきますね。
===ここから転載
今朝は、愛読書、致知より紹介させて頂きます。
親と子の本当の意味での出会いとは、何度も読んで考えています。
おかあさん、
ぼくはりっぱなひとになりますから、
いつまでもいつまでも、
ぼくのむねの中からどっこへもいかずにみていてください。
──『子どもの心に光を灯す』(東井義雄・著)
今、この「出会い」が
粗末になっているのではないでしょうか。
“出会う”ということは、
ただ顔と顔とが出会ってる、
こんなのは“出会い”のうちに入らないのですね。
だいぶ前になりますが、
全国の小学校の子どもたちから、
「お母さん」という作文を集めたことがございます。
その時に、横須賀市の沢山小学校の、
浦島君という一年生の男の子の作文が入選しました。
ちょっとそれをお聞き下さい。
○
『ぼくのむねの中に』
「おかあさん、おかあさん」
ぼくがいくらよんでも
へんじをしてくれないのです。
あのやさしいおかあさんは、
もうぼくのそばにはいないのです。
きょねんの12月8日に、
かまくらのびょういんで、
ながいびょうきでなくなったのです。
いまぼくは、たのしみにしていた
しょうがく1ねんせいになり、
まい日げんきにがっこうにかよっています。
あたらしいようふく、ぼうし、
ランドセル、くつで、
りっぱな1ねんせいを
おかあさんにみせたいとおもいます。
ぼくはあかんぼうのとき、
おとうさんをなくしたので、きょうだいもなく、
おかあさんとふたりきりでした。
そのおかあさんまでが、
ぼくだけひとりおいて、
おとうさんのいるおはかへ
いってしまったのです。
いまは、おじさんおばさんのうちにいます。
まい日がっこうへいくまえに、
おかあさんのいるぶつだんにむかって、
「いってまいります」をするので、
おかあさんがすぐそばにいるようなきがします。
べんきょうをよくしておりこうになり、
おとうさんおかあさんに
よろこんでもらえるようなよいこになります。
でも、がっこうでせんせいが、
おとうさんおかあさんのおはなしをなさると、
ぼくはさびしくってたまりません。
でも、ぼくにもおかあさんはあります。
いつもぼくのむねの中にいて、
ぼくのことをみています。
ぼくのだいすきなおかあちゃんは、
おとなりのミイぼうちゃんや、
ヨッちゃんのおかあさんより、
1ばん1ばんよいおかあさんだとおもいます。
おかあさん、
ぼくはりっぱなひとになりますから、
いつまでもいつまでも、
ぼくのむねの中から
どっこへもいかずにみていてください。
○
と結んでいるんですが、
この浦島君は、
もはや世界中のどの国を探しても、
お父さんの顔にも、お母さんの顔にも、
顔と顔の出会いのできない
しあわせの悪い子どもです。
しかし私は、
浦島くんはしあわせ者だと思います。
なぜか、いつでも、どこへ行っても、
離れてくださらんお母さん。
ミイ坊ちゃんのお母さんや、
ヨッちゃんのお母さんより、
もっともっといいお母ちゃんと、
いつでも、どこでも一緒だからです。
これが本当に出会ってる姿でしょう。
これに比べましたら、
毎日お父さんやお母さんの顔に
出会っている子どもの中にも、
お父さんお母さんの
“お心に出会う”ことのできていない
子どものほうが、
しあわせの悪い子どもかもしれんと思いますね。
しかも、この“出会い”がある限り、
浦島君のこれからはじまる
長い人生の間には、いろんなつらいことや、
苦しいことがやってくるに
違いがございませんが、
浦島君なら、どんな難儀、苦労に出会っても、
この、お父さんお母さんとの
“出会い”をふまえて、
強く生き抜いてくれるに違いないと思いますね。