熊本地震の被災者の方、お見舞い申し上げます。
早く自分の生活に戻れますようお祈りしております。
さて、今日は、ずいぶん前に書いた短編小説です。
どうぞ!!
「アイラブユーに想いを込めて」
前編
「涼平、ケーキが焼き上がったわよ」
利布はふっくらした甘い香りのお菓子をテーブルに置いた。
庭で犬のフラニーと遊んでいた少年たちが元気よく走ってくる。
今月七歳を迎えたばかりの息子は、おかっぱの髪を乱してテラスから飛び込んできた。
「ママのケーキって大好き! 早く分けてよ!」
「それじゃ、すわって。ほら、みんなのぶんもあるわよ。大きく切ってあげる」
フラニーが赤い舌を揺らし、テーブルのまわりをくるくると走っている。
「ママ、のどがかわいたよ」
「ジュースがあるわ。これを置いたら持ってくるから―――」
ふと指先がとまった。
利布は切り分けたケーキを皿に持ったまま、音楽に耳を澄ませた。
懐かしいメロディ。
いつか聴いた、あの曲。
とまどいがちに振り返り、黒い瞳は居間のテレビを映した。
見知らぬ街角、夜空をゆっくりと飛んでいる飛行機、なにかのコマーシャルみたい……夢を、
あこがれを、アイ・ラブ・ユー。
「ママ」
利布はぼうぜんと画面を見つめている。
CMが終わっても、涼平が椅子をがたがた鳴らせても、突っ立ったまま。
「ママってば!」涼平が叫んだ。
「なにしてるの。持ったままじゃケーキが腐っちゃうよ」
彼女は少しあわてて、切り分けたケーキを少年たちの前に置いた。
「すぐ飲み物を持ってくるわね」
彼女は小さく息をついた。
テーブルを離れると居間のテレビを消し、そっと自室に入った。
あの曲。
なんて懐かしい。
今もまだ耳の奥であの曲が鳴っている。
甘酸っぱいときめきに心が揺れ、剥がれるような想いで身体がいっぱいになるのを感じる。
どうして。
なんで今さら。
オーク質のドレッサーの前に行き、その鏡に映った自分を見つめる。
ひとつに結った髪、顔の縁にそっていくらか白いものが混ざっている。重そうな頬、目尻のしわ……
彼女はふっと笑った。
しかたがないわ、わたしも四十二歳だもの。
子育てに忙しい主婦なのよ。
視線を落とせば、鏡の前に家族で録った写真が飾ってある。
眼鏡をかけた小太りの夫、自分、その前に息子がいる。
これがわたしの家族。
幸せそうだわ。
誰が見たって幸せな家族よ。
二十歳の頃とは違うのよ……
そう、違う……違っている。
あの頃とは何もかも……
あれはもう二十年も前のこと。
イルミネーションがきらめく十二月、街は賑やかで、あちこちからクリスマス・ソングが
流れている。
「クリスマスのプレゼントは何がいい?」
ウィンドーから都会を眺めていた利布は顔をもどした。
テーブル越しに座っている青年が照れた顔で微笑んでいる。
SF研究会の部長で本ばかり読んでいた頃と違って、肩まであったサラサラ髪は短く
切りそろっている。
就職したときは別人になったみたいとからかったけど、切れ長の目はあいかわらず
優しげに微笑んでいるわ。
「クリスマスプレゼント? へえ、おどろき。陽平がそんなこと言うなんてめずらしいな」
「あのさ、おれだって社会人二年目だぜ。ボーナスだって入るっちゅうの」
利布はグラスをとってワインを揺らした。
「いらない」
「なにそれ」
「ためるのよ」
「そういうと思った。がっくり」
「だって、来年は新居とか新しい生活とか、いろいろとお金がかかるでしょう。ふたりのボーナスは
とっておきましょうよ」
陽平は両手をひろげた。
「とっておくのはおれだけでじゅうぶんだよ。おまえにとっては最後のボーナスなんだし、
自分のために使えっていうの」
まあねえ、と彼女はワインを飲んだ。
「あなたがそう言ってくれるから旅行に行くことにしたんだわ」
「そうか、よかった」
「結婚したらそうそう行けなくなるものね。独身最後の旅行よ」
「おまえは旅行が好きだからな」
「いろいろ迷って、イタリアにしたわ」
「イタリアか、いいねえ」
利布はにっこり笑った。
優しくてとても素敵な人、陽平が好きでたまらない。
こうしていても胸がときめいて、身体中がふるえてしまいそうなの。
「空港へはおれが送り迎えするから」
「ほんと?」利布はグラスを戻した。
「でも、仕事が終わってからじゃたいへんよ。成田だから高速道路を走っても二時間以上
かかるわ」
「それくらいなんだ」
陽平はワインで口の中のフィレを胃の中に流し込んだ。
「おれだって早く逢いたいし、きっと待ちきれないから迎えにくるなと言われても行ってしまうよ」
ありがとう、そういって利布はくすくす笑った。
「ねえ、なにがいい?」
「なにがって?」
「おみやげよ。イタリアみやげ」
「そうだなあ。イタリア、イタリアならあれしかないだろう、ほら、おまえが今、食っているやつ」
彼女は目の前の皿を見た。
「ピッツア?」
「それ。ピッツアの斜塔」
利布は目を大きくさせた。
「あんなに大きなもの、どうやっておみやげにするのよ」
「おまえが押せば簡単に倒れる」
くすくすと笑い、ふたりの目がお互いを映して見つめ合った。
そのとき、やわらかいメロディのラプソディが流れてきた。
華やぐ街によく似合う曲。
「ああ、おれ、この歌好きなんだ」
「へえ、誰」
「聞いてみて」
利布は耳を澄ませた。
透き通った声、スィートなフレーズ。
陽平は目を細め、身を任せるように耳をかたむけている。
ゆっくりと流れるメロディ。夢を、あこがれを、アイ・ラブ・ユー。夜空に願いを込めて。
「ロマンティックな歌ね。すごく幸せな恋人たちって感じよね」
「おれたちみたいに?」
陽平が笑った。
後編につづく