熊本での最終日、息子のリクエストに応え、空港へ行く前に通潤橋へ立ち寄りました。
私は二回目ですが、それでも、橋を歩いて渡るとき、その高さに少しビビり、
下から見上げたとき、その大きさに圧倒されました。
通潤橋は、日本最大の石造り水管橋で、国の重要文化財。
今回は、資料館に立ち寄り、
館長さんでしょうか?案内役の方の説明を聴くことができました。
聴けば聴くほど、当時の石工たちの匠の技の素晴らしさを知ることができ、
知れば知るほど、感動し魅了されました。
例えば、
この橋に埋設された3本の通水管は石造りで、
659個の石管からなり、その1個の大きさは60~90cm角で長さ約55cm、
重さは大きいものでは7トンもあったのです。
そんな大きな石を切り出し、中に水が通る穴をくり抜き、
しかもぴったり同じ大きさにくり抜くだけでもどんなに大変だったろうと思うのですが、
その石と石をあの高さまで運び込み、きっちり接着する技もすごい!
なにしろ、その石の通水管は100年以上漏水することなく使用され続けてきたのですから。
また、橋よりも7m高い白糸台地に水を送るために、逆サイフォンの原理を使ったり、
笹原川から取水した水を6kmもの用水路を造って、この橋の袂まで導水するのですが、
その水路の勾配は、1000分の1という非常に緩やかなものでした。
その測量技術のすごさにはもう呆然・・・
そして、この壮大な事業は、わずか1年8ヶ月で完成したという!
惣庄屋布田保之助の願い、
飲み水にも事欠くような白糸台地の人々を何とか救いたいという強い思いが、
不可能を可能にしたのです。
保之助の民を思う気持ちは父親譲りだったようです。
彼が8歳の時、父市平次は、わずか36歳で自死しています。
その理由は、矢部郷の民の苦境を救うために公役の出夫免除を願い出て、
郡代からその許可をもらったのですが、
郡内の他の惣庄屋の反発を買い、「免除願いを取り下げよ、さもなくば…」と脅され、
我が身を犠牲にして、布田家と矢部郷の民を守ったのでした。
大人になって父の死の真相を知った保之助もまた、
自分が守るべき民衆のためには私財と労力と時間を注ぎ込むことに些かも躊躇しない、
そんな惣庄屋としての人生を全うしたのです。
通潤橋の完成によって、不毛の地が100haの豊かな水田に変わった!
農民たちのあふれる笑顔、それを見つめて微笑む保之助の横顔が目に浮かぶようです。。。