10月10日(金)、小中学校の終業式がおこなわれた。
ここ佐世保市では、平成16年度から二学期制の導入が始まり、18年度には完全実施となっている。 もちろん県内では初めて、全国的にも珍しいのではないだろうか。
私が住んでいる町のお隣、山祇(やまずみ)町の白南風(しらはえ)小学校では、その終業式で、
校長先生が、「分からないことは夢や目標につながる」という
下村脩さん(ノーベル化学賞受賞決定)の言葉を紹介した、と新聞に出ていた。
白南風小学校は、下村さんの母校である。
たしかに、その経歴を見ると、1941年3月、白南風尋常小学校卒業、佐世保中に進学
となっているが、半年余で大阪に引っ越しておられる。
佐世保市に住んでいらしたのは1年ほどのことらしい。
それでも、卒業校の名前に佐世保の文字が入っているだけで、
それはもうたいへんなことなのだろう。
いかに、ノーベル賞がすごいものであるかということなのだ。
そのすごい賞をとった人が君たちの先輩なんだよ、
と子どもたちに夢と誇りを与えることはいいと思う。
実際、下村さんは昨年2月、佐世保中学校時代の同級生の案内で、
白南風小学校を訪れていたらしい。
しかし、この受賞について佐世保市長が発表したコメントにはいささかひいてしまった。
「佐世保市にとって有史以来の快挙。私も強い気持ちの高ぶりを覚えている」とたたえ、
名誉市民選定を検討していることを明らかにしたという。
下村さんの快挙は、長崎県全体が喜んでいる。
9日の長崎新聞の一面トップは「下村氏にノーベル化学賞」という大見出しだった。
東証暴落の記事も隅の方に追いやられて。
10日、11日と連日、場所を変えていくつもの記事が掲載されている。
その人が一時期でも長崎県民であったというだけでなく、長崎大学で学んだ、それがノーベル賞への道の始まりだったことに、大きな意味があるのだろう。
地方においては、若者の都会志向に反対できない現実がある。経済格差やチャンスの格差、そして頭脳の格差がそうである。
過去のノーベル賞受賞者は、そのほとんどが東京か京都の大学である。
レベルの高い学問を目指すものは中央へ出て行く、地域の損失とわかっていても、本人の未来を思えばそれを止めることはできない、という悲しさがある。
そんな中で、日本列島の西の端に位置する地方の大学出身者が、世界に冠たるノーベル賞を受賞したということがどれだけ大きな希望と自信を与えてくれたか…県民挙げての喜びの理由がそこにあると思う。
特に長崎大学の受けた感激はよくわかる。
下村さんは今回、共同通信などのインタビューを受けて、
「長崎大薬学部こそが科学研究の原点であった」と述べているし、
昨年、長崎大学名誉校友の称号を受けて記念講演した際も
、「これまで研究を続けてこられたのは長崎大学に入れたから」
と感謝の言葉を繰り返していたとのことである。
TVでインタビューを受ける学生たちも一様に歓喜し、目を輝かせていた。
「長崎大学の学生であることに誇りを感じています」と。
一方、長崎県立諫早高校でも、10日、全校集会を開き、校長が卒業生の「大偉業」を報告、
「第二、第三の下村さんを目指してほしい」と語ったそうだ。
下村さんは戦時中の疎開で、大阪から旧制諫早中(現諫早高)に転入学しているが、
通ったのはわずか一日だけ。学徒動員され、ここでは何も学んではいない。
学籍だけが残され、1945年に繰り上げ卒業したそうだ。
校長は母校生徒への講演依頼を含むお祝いメールを送ったそうだが、
受け取った下村さんのご心中をお察しする。
その土地に何らかの関わりのあった人の成功を喜び讃え、
地域の人々と喜びを分かち合うのは素晴らしいし、
若者の夢や誇りにもつながるだろう。
しかし、自己中心的な讃え方は、讃えられる方も迷惑だろうし、
生徒たちにも違和感を与えるだろう。
下村さんが、入学しておきながらなぜこの学校で学べなかったのか、
まずその辺から、生徒たちに伝えていってほしいと、私は思う。
湯川さんは、アインシュタインの平和主義と学者の良心に深く感銘した方でしたね。
研究もスポーツも芸術も、すべて平和だからこそ…ですね。戦争は破壊しかもたらしませんから。