今日未明、大切な人が逝ってしまった。
友と呼べるほど親しくしていたわけではない。
年齢も少し上で、知り合ってまだ2年半ほどだし…
しかし、その人は昔からの知り合いのように、いつもニコニコと私の心の中に住みついていた。
そして、それは私だけではなく、仲間のみんなにとっても同じだったと思う。
その仲間とは、たった一度の旅で出会った人たち。
1944年12月、沖縄で生まれ、戦禍の中を奇跡的に生き延びた赤ん坊、それが彼だった。
父や兄や祖父母や、大勢の身内を亡くし、母と二人だけ生き残る。
苦労多き少年時代を過ごし、
単身上京してからは、定時制高校と早稲田大学の二部で働きながら学んだ。
苦学生という言葉は彼の中にはない。
良く学び、よく働き、よく遊び、恋も学生運動もうたごえも、すべてに情熱を燃やした青春時代だった。
念願の高校教師になってからは、他の教師が疎かにしがちな近現代史をしっかり教えた。
沖縄への修学旅行では、特に使命感を持って伝えてきた。
そして、定年退職後、その思いはさらにつのり、「沖縄平和の旅」のプランナーとなる。
沖縄戦の傷跡を見つめ、体験者の話を聞き、美しい自然に身を委ね、基地の轟音の下に佇む…
そんなツアーを企画しては人を集めた。
私たちは、その3回目の旅で出会った。
それぞれの地域で、平和を求めて何らかの活動をやっている人たちだった。
彼を筆頭に、みんな忙しい人たちばかり。
それでも彼が呼びかけると、行かねば…という気持ちになって集まってくる。
なぜだろう・・。
彼は決して特別な人ではなかった。
趣味の写真と書きためた詩を集めて「うちなー讃歌」という本を出版したり、
沖縄戦の語り部として講演をしたりしていたが、
とびぬけた才能の持ち主というわけではなかった。
しかし、その普通の人が、自分を過大評価も過小評価もせず、自然体で、自分の思いを発信し続けた。
戦争の真実を知ってほしい。
宮良英加という沖縄師範学校生徒のことを広めたい。
「一度は生徒を教えてみたかった」と言って死んでいった彼の無念を伝えたい。
同じ教師を志し、平和な時代に育ったからこそ教師になれた者として。
その一途な思いはずっと変わらなかった。
そして、どんなに多忙でも、いつもニコニコ笑顔。
怒ったり、いらついたり、不安そうな顔をしたり、しかめっつらなど、一度も見たことがない。
「お疲れ様」と言うと、
「疲れちゃいないよ。楽しいことやってるんだもの」と否定し、
メールにはいつもこの言葉があった。
いっぺーにふぇーでーびる!(たいへんありがとう)
そして、ちょっと弱音を吐くと、
なんくるなゆさ、まくとぅそーけー
(まっとうに生きていりゃー なんとかならーな)
(あなたは誠実な人間だから、道は開けるよ)
という励ましが返ってきた。
彼がすい臓癌とわかってから、私は何度この言葉を胸の中で呟いただろうか。
彼自身はもっともっと繰り返したことだろう。
なんくるなゆさ、まくとぅそーけー…
いま、苦しかった闘病生活を終え、
天国への道が開けて、笑顔で階段を上って行ってることでしょう。
本当にお疲れ様でした。
天国ではお父さんやお兄さん、そして、宮良英加さんが両手を広げて待っているでしょう。
よかったですね。
憧れの英加さんに会えますね。
友と呼べるほど親しくしていたわけではない。
年齢も少し上で、知り合ってまだ2年半ほどだし…
しかし、その人は昔からの知り合いのように、いつもニコニコと私の心の中に住みついていた。
そして、それは私だけではなく、仲間のみんなにとっても同じだったと思う。
その仲間とは、たった一度の旅で出会った人たち。
1944年12月、沖縄で生まれ、戦禍の中を奇跡的に生き延びた赤ん坊、それが彼だった。
父や兄や祖父母や、大勢の身内を亡くし、母と二人だけ生き残る。
苦労多き少年時代を過ごし、
単身上京してからは、定時制高校と早稲田大学の二部で働きながら学んだ。
苦学生という言葉は彼の中にはない。
良く学び、よく働き、よく遊び、恋も学生運動もうたごえも、すべてに情熱を燃やした青春時代だった。
念願の高校教師になってからは、他の教師が疎かにしがちな近現代史をしっかり教えた。
沖縄への修学旅行では、特に使命感を持って伝えてきた。
そして、定年退職後、その思いはさらにつのり、「沖縄平和の旅」のプランナーとなる。
沖縄戦の傷跡を見つめ、体験者の話を聞き、美しい自然に身を委ね、基地の轟音の下に佇む…
そんなツアーを企画しては人を集めた。
私たちは、その3回目の旅で出会った。
それぞれの地域で、平和を求めて何らかの活動をやっている人たちだった。
彼を筆頭に、みんな忙しい人たちばかり。
それでも彼が呼びかけると、行かねば…という気持ちになって集まってくる。
なぜだろう・・。
彼は決して特別な人ではなかった。
趣味の写真と書きためた詩を集めて「うちなー讃歌」という本を出版したり、
沖縄戦の語り部として講演をしたりしていたが、
とびぬけた才能の持ち主というわけではなかった。
しかし、その普通の人が、自分を過大評価も過小評価もせず、自然体で、自分の思いを発信し続けた。
戦争の真実を知ってほしい。
宮良英加という沖縄師範学校生徒のことを広めたい。
「一度は生徒を教えてみたかった」と言って死んでいった彼の無念を伝えたい。
同じ教師を志し、平和な時代に育ったからこそ教師になれた者として。
その一途な思いはずっと変わらなかった。
そして、どんなに多忙でも、いつもニコニコ笑顔。
怒ったり、いらついたり、不安そうな顔をしたり、しかめっつらなど、一度も見たことがない。
「お疲れ様」と言うと、
「疲れちゃいないよ。楽しいことやってるんだもの」と否定し、
メールにはいつもこの言葉があった。
いっぺーにふぇーでーびる!(たいへんありがとう)
そして、ちょっと弱音を吐くと、
なんくるなゆさ、まくとぅそーけー
(まっとうに生きていりゃー なんとかならーな)
(あなたは誠実な人間だから、道は開けるよ)
という励ましが返ってきた。
彼がすい臓癌とわかってから、私は何度この言葉を胸の中で呟いただろうか。
彼自身はもっともっと繰り返したことだろう。
なんくるなゆさ、まくとぅそーけー…
いま、苦しかった闘病生活を終え、
天国への道が開けて、笑顔で階段を上って行ってることでしょう。
本当にお疲れ様でした。
天国ではお父さんやお兄さん、そして、宮良英加さんが両手を広げて待っているでしょう。
よかったですね。
憧れの英加さんに会えますね。
いちゃりばちょーでー(一度会ったら、もうそれで兄弟のようなもの)
沖縄の優しさや良心を体全体で表していらっしゃった方のように思いました。
ご冥福をお祈り致します。