佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

悲しみの轍

2014-05-25 | 雑感

昨日の新聞に、忘れられない少年事件の被害者遺族の手記が掲載されていました。

神戸児童連続殺傷事件の被害者 土師淳君のお父さんによる手記です。

 

17年前日本中の親たちを震撼させた事件は、高校生の娘をもっていた私にとっても、

酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)という名前と共に今でも強くインプットされています。

しかし、当時は、その少年の行動があまりにも衝撃的で理解の限度を超えていたので、

被害者とその遺族よりも、加害者とその家族への関心の方が高かったように思います。

 

どちらの家族も、深い深い傷を負って生き続けていて、

その苦しみは私たち未体験者には 想像すらできない、計り知れないものだとはわかっていました。

でも、どこかで、被害者遺族の傷よりも加害者家族の傷の方が深いのではないかと、

比較してはいけないし、比較できないことなのに、かってに思い込んでいました。

 

その愚かさに気づいたのは、「悲しみの轍」というタイトルの特集記事(23日から長崎新聞に連載)を見て。

酒鬼薔薇事件から7年後、佐世保市でおこった小学6年生の女の子による同級生殺害事件。

こちらも日本中に衝撃を与えた少年事件ですが、あれからまもなく10年になろうとしています。

そんないま、長崎新聞佐世保支社の5人の記者たちが、

「愛する家族を奪われた遺族の悲しみの歳月と関係者たちの思いをたどった」特集です。

 

1.あの日 現実 受け止められず (5月23日)

2.予兆 やり過ごし 今も後悔  (5月24日)

 ここでは、被害者 怜美さん(小6)の兄(当時 中3)にフォーカスして書かれていました。

遺族と言うと、つい親の悲しみにばかり目がいきますが、

実は遺族の中には兄弟もいて、事件が衝撃的であればあるほど、

未熟なこどもたちの心の傷は、大人の何倍も深いはずです。

事件当時埼玉に住んでいた私は、怜美さんにお兄さんがいたことも知らなかったので、考えたこともなく…

 

先日、西日本新聞で、お兄さんが初めて一般の人の前で語るシンポジウムがあることを知り、

昨日、福岡の会場まで聴きに行きました。

 

 

「第2回 犯罪被害シンポジウム~犯罪被害と子ども達~」

主催者の「みどりの風」とは、九州沖縄犯罪被害者連絡会の名称で、政党の「みどりの風」ではありません。

 

怜美さんの父(55歳 新聞記者)と兄(24歳 大学生)の対談というよりも、

両者の間に座っている精神科医がコーディネーターとして質問しながら、

事件当時からこれまでの思いをお二人からうまく引き出し語って頂くという形でした。

 

同じ遺族として、しかし、父と息子という関係の中で、互いに気遣いながら、

それでも気づかなかった、気遣うが故に気づけなかった辛かった思いが、

コーディネーターのユーモアとフォローによって、ごく自然に語られたのはすごいことだと思います。

 

* 兄は、事件直後から父親が自殺するのではないかと、ずっと恐れていた。

それほど父は憔悴しきっていたし、目はうつろだし、ゾンビのようだった。

母親が病死し、妹は殺され、父親まで失ったら自分も生きていけないと思い、怖かった。

 

* 父は、自分が周りからそのような目で見られていることにツユほども気づかず、

残された2人の子ども(当時長男大学生、次男中学生)を守らねばと、そればかり考えていた。

特に同居している次男をメディアから守ること、早く学校へ行けるようにすること、

そして、子どもたちが殺した相手に復讐心を持たないように気を付けねばと思っていた。

 

* 兄は、父親に立ち直ってもらうには、自分がしっかりして早く日常に戻ろうと努力。

心に蓋をして、泣くこともなく、受験勉強などに逃避した。 

 

* 翌年春、佐世保支局から福岡へ移動した父と共に、友達のいる佐世保を離れ、

福岡の高校へ進学した兄は、受験勉強という逃避場所がなくなったこともあって、

蓋をしていたものがなくなり、頭の中は事件のことでいっぱいになった。

 

* 兄は事件の前、妹から加害女児とのトラブルのことを相談されていた。

自分のアドバイスがまちがっていたのか?何と言えばよかったのか?

自問自答を繰り返し、自分を責めた。

頭が痛くなり、何も手につかなくなって保健室に駆け込む。

そんな自分の姿を父には知られたくなくて、普通に通学しているように装っていた。

 

* 出席日数が足りなくなって学校から呼び出された父は、やっと息子の苦悩に気づき愕然とする。

騙されていたと思った。仕事を休み、カウンセラー探しに奔走し、息子に寄り添った。

 

* 兄は父の様子を見て、やっと、この人はもう自殺しないと確信し、嬉しかった。

カウンセリングはうまくいかなかったが、学校へ戻ろうと思った。

 

* その後、知り合いの記者(父が佐世保支局に勤務していたころの部下)から取材を受け、

初めて当時のことを語った。

その記者が文字おこししたものを見て、やっと自分の思いに気づいた。

 


このとき、あの日以来、固く封じ込めていたものから解き放たれたのでしょう。

今は笑顔で語れるようにまでなって、本当によかった。

「言葉にすることは大事。まず聞いてほしい。見守りましょうだけでは守れない」

というお兄さんの言葉が印象的でした。

 

最後にコーディネーターがお父さんに感想を求めると、

「こんなに話をする子だったのかと驚いている、まるで家にいる時の1年分の話を聞いたようだ」

と言って、会場の雰囲気を和ませてくれました。

 

この父子の対談を報じる新聞記事を、

加害児、いえ、もう大人になった彼女が、どこかで読んでくれていることを願います。

 

 

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