貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

ありがたや 年越し米五升!

2021-08-26 13:48:53 | 日記

ありがたや 年越し米五升!

令和3年8月26日(木)

はる立や 

  新年のふるき 

     米五升

    立春となり、新年を迎えた我が庵

には、去年から持ち越した米が

5升もある、

の意。

 貞享元年以前の作。

  『三草子』に上五「似合しや 」が

残念で直したとあり、

『鵲尾(び)冠(かん)』 の編者越人の

前書きからは、延宝九年作の可能性

も浮上。

  上五を「我富り」とする真蹟短冊

もあり、「我富り」→「似合しや」

→「はる立つや」の推敲過程を想定

すれば、芭蕉は客観的叙述を通して

感慨を表す手法をつかんでいったと

言える。

◎ 天和四年(1684)の新年になった

けれども、我が家には去年の米五升

しかない。僅かな侘び住まいであるが、

五升あれば十分食っていける。

ありがたや。ありがたや。

   芭蕉は本気だ。

 米があれば困りはしない。

 万歳というわけだ。


春の夜 恋に馳せる寺

2021-08-25 10:54:51 | 日記

春の夜 恋に馳せる寺

令和3年8月25日(水)

 昨夜のパラリンピックの開会式、

大好きな辻井伸行さんの演奏にまた

魅了される。

 心の深層に染み渡るような演奏に、

ああ辻井さんの音色だ!!!!

 美しい旋律に聴き入ってしまった。

 平和の持続を切に願う感じにも・・・。

春の夜や 

  籠り人ゆかし 

     堂の隅

   春の夜、お堂の隅で一心に祈る

参(さん)籠(ろう)者に何か心が

惹かれる、

の意。

 貞享五年(1688)の作。

  「籠り人 」・・・祈願のために堂に

泊まり込む人。     

   源氏物語の玉(たま)鬘(かずら)等

初瀬(長谷寺)への参籠は古典作品

にも見られる。

 「ゆかし」・・・慕わしい。

◎ 「初瀬は恋を祈る所」(淀川)であり、

一月にはどことなく艶やかな気分が漂う。

 「人去って

    いまだ御坐(おまし) の

         匂ひける 越人」 

「初瀬に 籠る堂の 片隅 芭蕉」 

「春の夜は

   たれか初瀬の

        堂籠 曽良」

(猿蓑)を利用して、

紀行執筆時に加えた句かと推察される。

◎ 暖かな春の夜、桜井の長谷寺に

来て見ると、堂の隅に人の気配がした。

 さて、誰が誰に恋して、御堂の隅で

物思いをしているのかしら。

 ともかく恋の思いで昔から有名な寺

であるからには何となく気になってし

まう。

 長谷寺の朧月夜の恋の思いが

古人の昔から今に至るまで変わりも

せずに、春の夜を人恋に適当な処と

している。

 よきかな。春の夜。

 温かきかな。人の心。

 快きかな。冷やした春風。


入相の鐘なきこと あゝ無常!?!

2021-08-24 11:50:25 | 日記

入相の鐘なきこと あゝ無常!?!

令和3年8月24日(火)

鐘つかぬ 

  里は何をか 

      春の暮

   春も末の夕暮れ、鐘を撞かない

この里では何を頼りにしているの

だろうか、

の意。

 元禄二年(1689)の作。

 春の暮れの寂しさ、心許なきを

問いかける形で表したもの。

◎ 夕暮れとともに入相の鐘を

撞くのが世の習いなのに、

この里は鐘を撞かない。

    何だか落ち着かない。

 「何をか」は、何か異変があった

感じを与える言葉である。

 人が亡くなって僧侶は鐘撞き堂を

離れて檀家の家で経を読んでいるか。

   ともかく、春の入相の鐘がないので、

落ち着かない芭蕉の鋭い耳が、

鐘の音のないのを捉えて,

無常を思うまでに至る。


特別な春の暮

2021-08-23 12:09:49 | 日記

特別な春の暮

令和3年8月23日(月)

入かゝる 

  日も程ゝに 

     春のくれ

  暮春に相応しく、日もよいほどに

ゆっくり沈んでいく、

の意。

 元禄二年(1689)の作。

「程ゝに」・・・ほどよい具合に。

「春のくれ」・・・暮春の夕暮れの意。

 ◎ 春の夕陽は沈む前に赤い靄で

彩られる。

 のんびりと暖かい一日を過ごした後に、

柔らかな赤い靄が美しく優しく

西の空を染めている。

 このような日没は、

夏の焼き付くような夕日、

秋の輪郭のはっきりした夕日、

冬の弱々しい雪に消えるような夕日

と違って、靄の力で輪郭が柔らかに

広がる、特別な春の暮れなのだ。


「こした」の精気!清水

2021-08-22 11:24:17 | 日記

「こした」の精気!清水

令和3年8月22日(日)

春雨の 

 こしたにつたふ 

     清水哉

    前書き「苔清水」

 この清水は、春雨が花の雫となり、

樹下に伝って流れ来たものか、

の意。

 貞享五年(1688)の作。

 「苔清水」・・・伝西行歌

「とくとくと落つる岩間の苔清水

汲み干すほどもなき住まひかな」

に因む吉野山中の泉。

 「こした」・・・木の下。

◎ 梢をけぶって見せている春雨は、

幹や新芽を伝わり落ちて、

清水になる。

 西行庵の近くで詠まれた和歌を

下敷きにしているという説もある。

 『野ざらし紀行』には、

「露とくとく 

   心みに浮世 

     すゝがばや」

の苔清水の句が収められている。

 清水は美しく澄んでいるが、

ただ澄んでいるのではなく、

木の幹の精気によって清らかに

澄んでいるのだ。

 それを発見したのは、西行だと

いう先輩への謙虚さが句に滲み出

ている。

 「こした」という言い方は舌足らずで

「このした」という常套句の表現ほど

整っていないところ、

くねくねした幹を雨水が下に流れて

いく情景が鮮やかで面白い。