貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

須賀川:長松院

2017-02-22 09:36:05 | 日記
須賀川:長松院

<27.6.5> 13:45~


 相良等躬の菩提寺


あの辺は つく羽山哉 炭けふり 等躬

 平和記念塔あり。

 素晴しい企てでもある。

 隣に等躬の墓有り。子規の句碑も有り。

 集団的自衛権という厄介で難解な語句を

持ち出し、それに付随して安保関連法案が、

安倍内閣のもとで着々と政治語でいえば粛々と

進められている。

 混沌とした中、世界は中国対米国の対立の

渦の中に巻き込まれつつあり。

 この機に意味ある記念塔となることを願う。

長松院





相良等躬の句碑



相良等躬の墓



虚子の句碑と説明板



平和記念塔




須賀川:芭蕉記念館

2017-02-21 16:16:26 | 日記
須賀川:芭蕉記念館

<27.6.5> 12:45~

地震の影響で、須賀川市役所とその近くに

あった芭蕉記念館は、使用不能となり、

建て替え中の真っ最中であった。

 記念館は仮の場所にあった。

 館内では、しとやかなご婦人が丁寧に

対応してくださった。

 参考になるパンフレットなどもいただく。


☆ 芭蕉の弟子が滋賀県人、近江人が多い

のにもちょっと驚く。

 許六は彦根、浜田酒堂は膳所、乙訓は大津

出身である。

 三重を滋賀と深川と、私の歩んだ地方等と

ゆかりがあるので、尚親近感を感じてしまう。
   
おくのみちは 山みなまろし 五月晴れ  

                 許六

☆ 芭蕉記念館は、現在NTT須賀川ビルF1に
 新設されたそうだ。

芭蕉句碑

世の人の 見付ぬ花ぞ 軒の栗



軒の栗説明・句碑

 世の人の 見付ぬ花ぞ 軒の栗




可伸庵説明板



軒の栗跡


仮設の芭蕉記念館



須賀川市役所前「芭蕉の道」案内




10. 須賀川:十念寺

2017-02-20 09:21:20 | 日記
10. 須賀川:十念寺

   <平成27年6月5日(金)>

 3時に起床。3時半に出発。

 ゴーヤやピーマンを積んで子どもの所に

寄って須賀川に向かう。

世の人の見付ぬ花や軒の栗 可伸庵の句碑。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗 (芭蕉)

<十念寺>

正午に着く。

女流俳人 市原多代女によって、

風流のはじめや 奥の田植え唄

の碑が建立された。

彼女の辞世句 

 終に行く道は いづこぞ 花の雲

そこで、一句 

 「終の道 奥の細道 寄り道哉」  貢人


「辞世の句 詠みし生き方 求むれど」 貢人

墓参りに見えた中年の女性に

「円谷幸吉さんのお墓はどちらですか。」

と尋ねると、親切に案内してくださる。

 青梅マラソンコースを最初に走った人が、円

谷幸吉さんで青梅マラソンはそれから続いている

大会ということと須賀川出身だったとは?という話な

どをする。

 昨日、第51回青梅マラソン大会が開かれ、好天の

中実施。山の神様神野選手は、残念ながら優勝はでき

なかったが・・・。(17年前までずっと走っていた

ので、ほんとに懐かしい!)

 3月11日の大地震で墓石や灯籠が倒れ、そ

のままの状態が8~9割。

 ご先祖様より今生きている自分たちの生活を立て直す

のが先決ということ。

 無残というほかなし。

 それでも、3つ4つが新しく作られていた。

 そして、もう一つお伊勢詣でに自分が病気でいけず、

愛犬を連れて行ってもらったとのこと。

 きちんと戻ってきたという犬のお墓も作られ、

これは無事だったよう。犬供養の墓にも感動。

供養する。

十念寺







芭蕉句碑

風流のはじめや 奥の田植え唄





主人様に代わって伊勢参りした愛犬の墓



円谷幸吉さんの墓





9.白河の関 福島県白河市旗宿

2017-02-18 09:21:46 | 日記
9.白河の関 福島県白河市旗宿

<平成27年5月2日>

 「白河の関は、蝦夷南下の防御や通行人・

交易物品の検問などを主な目的として、

現在の福島県白河市に置かれた関で、

太平洋側の勿来関(菊田関。福島-茨城)や

日本海側の念珠関(山形-新潟)とともに

奥羽三関といわれた。

白河の関の設置年代については、

大化2年(646年)に出された「改新の詔」に、

関設置の条項が設けられたことから、

遅くともこの頃までには成立していたと

見られる。
 
 承和2年(835年)の太政官符に、白河と

菊田の両関がその時点で既に400余年が経過

していることが書かれており、これをそのま

ま受け取れば、白河の関は5世紀の前半には

存在していたことになる。

 白河の関は、成立期と同様、廃絶について

もいつごろか明確ではない。

 12、3世紀頃に絶えたものと見られている。

 文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代

秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸

に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉

るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」

に書かれている。

この頃、白河の関はまだ健在だったようである。
 
 みちの国へまかりける時、関をこえて後、

白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる

所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、

光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみし

かはみざりしをききてぞ見つる白河の関

       (証空上人「新千載和歌集」)

 昭和34年から昭和38年にかけて行われた発掘

により、柵列、柱列、門(推定)の跡など、

古代の関の構造を示すものが認められた。

 各種の遺構、発掘物などにより、「この関の森

を中心とする地域が白河の関の遺跡として重要な

資料を提供する」と判断され、昭和41年に国の

史跡に認定された 。」

奥の細道碑白河の関章段を刻む。