貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

9.白河の関 福島県白河市旗宿

2017-02-18 09:21:46 | 日記
9.白河の関 福島県白河市旗宿

<平成27年5月2日>

 「白河の関は、蝦夷南下の防御や通行人・

交易物品の検問などを主な目的として、

現在の福島県白河市に置かれた関で、

太平洋側の勿来関(菊田関。福島-茨城)や

日本海側の念珠関(山形-新潟)とともに

奥羽三関といわれた。

白河の関の設置年代については、

大化2年(646年)に出された「改新の詔」に、

関設置の条項が設けられたことから、

遅くともこの頃までには成立していたと

見られる。
 
 承和2年(835年)の太政官符に、白河と

菊田の両関がその時点で既に400余年が経過

していることが書かれており、これをそのま

ま受け取れば、白河の関は5世紀の前半には

存在していたことになる。

 白河の関は、成立期と同様、廃絶について

もいつごろか明確ではない。

 12、3世紀頃に絶えたものと見られている。

 文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代

秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸

に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉

るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」

に書かれている。

この頃、白河の関はまだ健在だったようである。
 
 みちの国へまかりける時、関をこえて後、

白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる

所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、

光台の不見も思ひいだされて光台に見しはみし

かはみざりしをききてぞ見つる白河の関

       (証空上人「新千載和歌集」)

 昭和34年から昭和38年にかけて行われた発掘

により、柵列、柱列、門(推定)の跡など、

古代の関の構造を示すものが認められた。

 各種の遺構、発掘物などにより、「この関の森

を中心とする地域が白河の関の遺跡として重要な

資料を提供する」と判断され、昭和41年に国の

史跡に認定された 。」

奥の細道碑白河の関章段を刻む。