貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

忍者も上る高石垣の名城

2019-12-18 08:53:01 | 日記

忍者も上る高石垣の名城

 令和元年12月18日

 忍者も上る高石垣の名城。

伊賀上野城!

 天正13年(1585)に筒井定次が

平楽寺・薬師寺のあった台地に

近世城郭としての伊賀上野城を

築く。

 菊岡如幻の『伊水温(いすいうん)故(ご)』

によれば、城は高丘の頂上を本丸、

東寄りに三層の天守閣を建てたよう。

 城下町は北側(現在の小田町)を中心

とする。


 

 慶長13年(1608)6月、

筒井定次は改易となるが、

天守閣は、寛永10年(1633)

頃に倒壊。

 慶長13年(1608)8月、

家康は、伊予の国(現 在の愛媛県)

宇和島城主であった藤堂高虎に、

伊賀 の国10万石・伊勢の内10

万石、伊予の内2万石、

合わせて22万石を与え国替え

させる。

 高虎が家康の信任が厚く、築城

の名手でもあり、大坂・豊臣方との

決戦に備えるための築城。

 筒井定次の城が大坂を守る形を

とっていたのに対し、

高虎は、大坂に対峙するための城

として築く。

 慶長16年(1611)正月、

本丸を西に拡張し、高さ約30メー

トルの高石垣をめぐらして

南を大手とする。

 大阪城と並ぶ高石垣でも有名!

 五層の天守閣は、建設中の慶長

17年(1612)9月2日、

当地を襲った大暴風で倒壊。

その後、外郭には、10棟の櫓

(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と

長さ21間(約40m)という巨大

な渡櫓(多聞)をのせた東西の

両大手門や御殿などを建造。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣

、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れる。

 その後、幕府は城普請を禁じたため、

伊賀上野城では天守閣が再建されない

まま伊賀国の城として認められ、

城代家老が藩政をあずかることに。

 幕末まで国替えなく、この地を収

める。

 現在の復興天守閣は、当地選出の

代議士、川崎克が多くの支援者の協力

を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守

台に建てたもの。

 昭和7年(1932)に着工し、

昭和10年(1935)10月18日に

竣工する。

 木造三層の大天守と二層の小天守

からなる複合式天守の”昭和の城”は、

伊賀地域の文化と産業の振興の拠点

として「伊賀文化産業城」と名付け

られる。

 「白鳳城」とも呼ばれるほどの

優雅な白というのが、実感!

 天守閣からの伊賀市の町並みも

また佳し!

 天守閣の天井には、青梅の

川合玉堂の日本画もある。

そして、

 忍者の装束に身を包んだ家族や

外国の恋人(?)など見れ、忍者の町、伊

賀市を満喫!
 
 忍者屋敷のショーは、本物で、

迫力がある。

 英語で喋ったりするので、海外の

人にも人気!

 くノ一忍者も実演。