ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

なんのために音楽をするのか

2016年01月06日 | 価値観
【Live Information】


 音楽を生活の糧とすることがいかに難しいのか、想像することは容易だと思います。
 収入面だけでなく、来年も仕事が待ってくれている保証などないのだから。
 
 
 では、ぼくのように、地方で演奏を続けているミュージシャンが「専業ミュージシャンではないから長年活動を続けていくのは簡単」かというと、そうだとは言い切れないんですね。
 気がつけば、あれだけ大勢いた先輩たちの顔を見る機会はどんどんなくなり、いまやほとんどが自分より下の世代です。
 また、後輩たちの中にも、いつのまにか演奏から遠ざかった者が少なからずいます。


 なぜ音楽から離れたのか、これについてはいろんな理由があるでしょう。
 環境が変わった、もともとそう好きではなかった、ほかにもっと好きなことがある、忙しい、年齢的にきつい、演奏はやめたが聴くのは好き、人間関係、経済的に、健康面の不安、これ以上うまくなれないから諦めた、などなど。。。


 ぼくは、途中体調を崩して4年ほど全く音楽から離れていましたが、それ以外はかなり演奏の機会に恵まれていたほうだと思います。とくにここ3~4年は、平均して月10回はステージに立たせてもらっています。
 ありがたいし、幸せなことです。


 一昨年前くらいから、自分の技量がもう頭打ちかもしれないという気がしていて、いまは基礎から勉強しなおしているのですが、それがきっかけとなって、自分が実は何をしたかったのか、今後どうしたいのか、何のために音楽をやっていたのか、こういうことも見直さざるを得なくなっています。見直す必要に迫られた時が来たということなんでしょうね。
 そして、今はまだまだ自分の考え方が変わっていっている最中です。


 大事なのは「音楽をすること」だとずっと思っていましたが(もちろん好きだからこそ30年以上も演奏が続けられたんだと思う)、それ以上に、実は「自分が評価されることの方が大事」だと思ってきたんだな、というのがわかってきたんです。
 よく「自分のことは自分が一番わかっている」なんてことを言ったりしますが、自分の気持ちなのに自分がそれを認めてなかったんですね。


 自分が評価されるのが大事、というのは、「うまいと言われたい」「あの人いいよね、と言われたい」「下手と思われたらどうしよう」ということで、それがいろんなところに出ていたんじゃないかなあ。
 すぐアドバイスめいたことを言ってしまうのも、知っていることを語ってしまうのも、話している相手への「愛」ではなく、いわば「ただ自分が『助言してやっている』『指導する』立場にいたいだけ」だったんです(全てがそうではないと思いますが。。。)


 だから自分と違う意見の人や、波長の合わない人を「責めて」自分を安心させようとしたり(それをさも音楽的な話をしているかのように言っていた、ということもいま自覚できた)、「上から」言ったりして、人より上の立場に立とうとしていただけだったような気がします。つまり、そういう立場の人だという評価を得たいだけだったんですね。


 では演奏が、音楽が好きではなかったのか、というと、それはやはり「好き」だと即答できます。
 だからこそ、せっかく長年ステージに立たせてもらっているのだから、自分のやりたい方向を自分できちんと認識して、今後も音楽をやって行こうと思います。
 自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。
 出ているライブの本数を誇りたいのか。有名な人との共演経験を誇りたいのか。地元では「顔」だと思われたいのか。


 他人からの評価を気にしたり、他人の考え方を陰で批判する(あるいは他人をほめる)自分は、音楽をやりたいんじゃなくて、「音楽に詳しい、あるいは音楽に深く関わっている自分アピール」をしたいだけだから、そこには当然真摯に音楽と向き合った音は出てこないような気がします。



 自分は、やはり、良い音を出し、良い音楽を奏でる方向に行きたいです。
 「ほめる」ことも含めて、他人が気になるということは、自分に自信がないからだと思います。いままではそこに自信に満ちたような仮面を付けてきたのですが、自信のない自分も自分なのだから、そこを自分で認めるところから再出発しようと思います。




 年頭、ということもあるけれど、何かの時に初心に返るために、以上のことをここに記しておこうと思います。
 




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山を歩けば

2015年11月03日 | 価値観
                                          ♪山の中でお昼に食べるおにぎりは最高! 



【Live Information】



 最近、「山歩き」をしています。
 いまは、「トレッキング」とも言うんですね。
 
 
 前から山を歩いてみたかったんです。
 とにかく、歩いてみたいから歩く。
 自分が中年になって体型が変わってきたのが恥ずかしいなあと思ってはいますが、健康のためとか、知人にすすめられたからとかではなく、あくまで自分がやりたいからやる、というスタンスです。


 ぼくが住んでいる岡山市には、操山(みさおやま)という、山があります。
 岡山市東部約3㎞に位置する操山は、標高130mから170mの山々が東西方向約4㎞に連なる丘陵地です。
 岡山市内から東へ向かう県道西大寺線沿いには、操山への登り口が点在していて、わが家から北へ歩いて3分ほどのところにも登り口があります。
 じつはぼくは、山歩きには格好の場所に住んでいたんです(^^)


 ずっと山歩きに興味があったとはいえ、忙しいことを理由になんの行動も起こしていませんでしたが、やっぱりやりたいことは即行動に移してみなければ。
 このままでは「行ってみたいと思っているんですよ」って言うだけで終わってしまいますからね。
 

 山歩きを楽しんでいる友人が2、3いるので、装備や注意点を尋ね、ネットで山歩きのイロハを検索し、まずは短時間・短距離での行動であること、天候の急変はあまり心配ないことなどから、比較的軽装での山歩きになりました。
 1回歩いてみると、いろんなものが必要であることがわかります。
 帽子、軍手、虫よけスプレー、暑くても長袖長ズボンなどなど・・・


 


 山歩きに踏み出せなかった理由のひとつに、急な坂道がずっと続くのでは、という思い込みがありました。
 たしかに登り口からは結構な急斜面が続きましたが、15分も進めばなだらかな山道に到達します。そこから先は、ところどころ傾斜の急なところはありますが、自分のペースでゆっくり歩けます。
 ただ、その最初の15分がキツく、息ははずむし、汗はダクダク。この急斜面はどこまで続くんだろう、頂上までこの調子ならもたないかも、と心配になりながらも、なんとか平坦な山道に到達すると、まずそこで小さな達成感を味わえました。(^^;)


 操山には古墳が点在しています。表示を見ると、紀元4~7世紀にかけて造られたらしいですが、こんな人里離れたところに、大きな石をどうやって運んだのか、とか想像をかきたてられます。
 以前、「操山のふもとで『さんずい』のついた地名(湊、池の内、海吉、福泊など)は昔は海だった」という話を聞いたことがあります。もしかすると、操山の中腹自体が当時の生活圏だったのかもしれません。
 神社やお寺の古刹もあちこちにひっそり立っています。
 

 

 

 

 


 吸い込まれるような青空、延々広がる竹林、木漏れ日が美しい杉林、木立が急に途切れた先に広がる柿畑、その柿畑にポツンと存在する巨大な岩、山中の池、遠景の眺望。
 静寂もまた心地よく、聴こえるのは自分の足音だけ。
 ごくたまにすれ違う人と交わす挨拶が自然なのも気持ちが良いものです。
 なんといっても、遠くまで広く見渡せる山の上で食べるおにぎりのおいしいこと!ごちそうなんてなくても満ち足りた気分です。


 

 

 

 

 

 


 山でふと思ったことがあります。
 不意に蜘蛛の巣が顔にかかった時、思わず巣を払いのけてしまいました。
 正直、あまり気持ちよくは感じなかったものですから。
 でも、なぜかその時に、「蜘蛛の巣も山の一部」ということが頭に浮かんだんです。
 蜘蛛の巣だけではなく、蛇や、虫や、得体のしれない植物や、湿った土や落ち葉。たしかにこれらは気持ちの良くないものですが、それは「人間にとっては」ということ。山として見れば、それらは当たり前のものなんです。「気持ちわるい」とか「きたない」とか「イヤだ」と思うのは、われわれ人間が「勝手にそう受け取っているだけ」なんです。
 人間関係も同じじゃないかな。 
 イヤな人、仲がわるい人、波長が合わない人。この人たちを「イヤだ」と思うのは、あくまで自分の受け取りようなんですね。みんながそう思っているわけではない。あくまで「自分とその人が合わない」だけで、それを理由にその人を否定したりジャッジしたりはできない、って思えたんです。


 きれいなだけ、つまり自分だけにとって都合がいいのが山じゃない。それは人間の世界でも同じで、自分と波長が合わない人がいるのが当たり前なんですね。だから、そのことを思い煩ってもなんの解決にもならない。むしろそういう人の存在も認め、許してこそ、楽に生きていけるんじゃないかな。
 そんなことを考えながら、山を下りましたが、足取りは不思議と軽かったです。(^^)





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夢はかなわない

2015年08月12日 | 価値観
【Live Information】 


 「頑張れば夢は必ずかなう」
 いまよりずっと若くて、怖いものなどなかった頃は、当然そう信じていた。
 周りのおとなたちからも、そう教えられていた。
 頑張らない者の夢はかなわなくて当然、頑張らないから報われないのだ、と。


 しかし、「夢はかなう」と言いきるのは、当然だけれど、夢をかなえた人だけ。
 かなわなかった人はそんなことは言わないし、言えない。
 夢に対する思いの強さもあるのだろう。
 でも、いくら思いが強くてもかなわないことはたくさんあると思う。


 夢がかなわない者は敗者なのか。
 頑張れなかったことは悪いことなのか。
 いや、決してそうではない。


(ただし「頑張るな」ということではないと思う。頑張りたかったら思いきり頑張ればいい、そして頑張らない、という選択肢もあるよ、ということ)
 
 
 かなうならば高校球児はみんな甲子園に行けるはず。
 しかし現実はそうではない。
 行きたくてたまらなかった者の多くが涙を呑んでいる。


 夢があるからこそ、人間は希望を持って生きてゆける。
 しかし、夢が破れたからといって人生が終わるわけではないのだ。


 かなわなかったあとに残るもの、その中にこそ自分にとっての宝物はたくさんあるはず。
 全力を尽くしたからこそ心に刻めるもの、それは一生自分を支えてくれると思う。






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MCの秘訣?

2015年06月07日 | 価値観

                           ♪MCはライブの大事な要素。さだまさしやスターダスト・レヴューなどはMCの名手として知られる


【Live Information】

 

 【エムシー (MC)】[master of ceremonies]
 司会者。進行係。式場係。転じて、コンサートなどで行われている、曲と曲の間での演奏者のおしゃべり。
 

 

 ぼくは、自分のリーダー・バンドでない時でも、ステージでMCをとることが多いです。
 本来、すこしばかり目立ちたがりなところがあるからでしょう、ステージ上でしゃべることが好きだし、臆することもありません。
 ありがたいことに、「MCうまいですよね」と言っていただくこともしばしばなので、それなりなしゃべりはできているのかな、とも思います。
 そんなわけで、MCについての質問をたびたびいただきます。


 いただく質問の中で多いのが、
 1.MCのコツを教えてください。どうすればMCがうまくなりますか。
 2.何をしゃべればいいのでしょうか。どうすればウケますか。
 3.人前だとうまくしゃべれません。どうすればいいですか。
 
 
 ぼくなんかに質問して大丈夫かな(^^;)と思うのですが、よっぽど切羽詰っているのかもしれないし、答えられることの範囲でなら、と思って聞いてみると、
 「どうすればうまくなりますか?」式の質問をくださる方に共通して言えるのは、
 1.自腹を切らない
 2.お答えしても、その答えを実践しない
 3.何をお伝えしても、返ってくる言葉は「でも~」
 このみっつです。


 自腹を切らない、というのは、勉強するために必要な手間暇経費を使おうとしない、という意味です。
 つまり、「自分で考えようとしない」「タダで教わろうとする」「わざわざ習いに行かない(たまたまその場にいた人に手軽に尋ねる)」とういうことです。
 不思議に思うのですが、歌や楽器であれば、程度の差こそあれ、自分で練習して本番に臨みます。ならば、MCだって同じこと、自分で仕込んでくればいいだけのことだと思います。MCの題材はそこらじゅうにころがっているんです。
 やろうとせず、できない理由ややらない理由を述べ立てるのがうまい人は、論外、かな(^^;)
 教わるだけで実践しないのは、実は上達したいのではなく、「悩んでいる自分」アピールをしたいだけなんだと思って、以後そっとしておきます。 
 

 MCの内容には規制があるわけではないので、しゃべりたいことをしゃべればいいと思います。
 回数を重ねるごとに、「自分のMCには適さない話題」が分かるはずですから。
 「こういうふうにしゃべりたい」というイメージを持つことも大切でしょう。逆に「MCはしない」というスタイルも有りだと思います。 
 流暢にしゃべる必要も、ウケる必要もありません。ウケようとして出した音は必ずスベるのと同じです。
 そもそもウケ狙いのためにMCをするわけではありません。


 ただし、下手な、あるいは失礼なMCが、安易に「個性的」と言われて、持ち上げられるケースも多いです。
 また、人のMCに「ツッコミ」を入れているつもりなのでしょうけれど、結果的に他人のMCを「けなしている」方(共演者)もしばしばお見かけします。
 こういうことも裏を返せば勉強になると思います。 


 意識があって、うまくなりたければ、自分で自分の課題が見つかります。
 本当にうまくなりたい人は、自腹を切ってでも勉強しに行くでしょう。
 でもそれは、MCに限らず、どんな分野でも同じです。






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傲慢な謙遜

2015年03月04日 | 価値観
                                                ♪言葉だってりっぱなプレゼントです。


【Live Information】


 
 日本人の持つ特質のひとつに「謙遜」というものがあります。
 それを美徳とする考え方ももちろんあります。
 逆に自慢は敬遠されがち。
 「ぼくは彼より○○ができるんだよ」
 「ぼくはみんなより○○がすごいんだよ」 
 「ぼくは、ぼくは、ぼくは」・・・
 たしかに度を過ぎた自慢、人を見下しての自慢はあまり気持ちのいいものじゃないです。
 ただし、謙遜をあくまで美徳としたいがために、その反対側の「自己アピール」を「悪いこと」「ダメなこと」「見苦しいこと」に落としてしまうことには疑問を持っています。 
 
 
 以前のぼくは、「謙遜」が大好きでした。
 「あなたの演奏はステキです!」「・・・いえいえ、自分はまだ全然未熟ですから。。。」
 「あなたの仕事に取り組む姿勢は素晴らしい!」「いえいえ、自分よりも素晴らしい人はいっぱいいますから。。。」
 「あなたって」「あなたって」「あなたって」「いえいえ、自分なんてまだまだなのに、そんな風に言われたら舞い上がってしまって、良いことにはなりませんから。。。」


 謙遜って、良いことだと思っていました。
 謙遜できない人は他人を見下す傲慢な人だと思っていました。
 謙遜できない人が嫌いでした。
 謙遜できる自分はいい人間だと思っていました。


 ある夜のライブでのこと。
 いつものようにMCをしていたぼくは、メンバーを紹介していました。
 「・・・そして、次はAさんです。彼のプレイは素晴らしいですよ!(^^)」
 するとAさんは、
 「いえ、わたしはそんなんじゃありませんから・・・」とサラリと謙遜します。
 「いやいや、あなたはいろんな所で評価されてるよね、素晴らしいよ」
 と重ねて言っても、
 「いえ、ほんとに、自分なんて全然です。」としか答えません。
 正直ぼくは腹を立てました。「せっかくお客さんに対してAさんをアピールしてあげたのに!」「MCなんだからそういうことを言わずに『ありがとうございます』と言ったらいいのに!」「MCの雰囲気が台無し!」


 そんな割り切れない気持ちを持ったまま数年経ちました。
 このことは、クリアできていない自分の課題として、いつもぼくの心の中にありました。
 「あの時のAさんは、謙遜なんかではなくて、単なる慇懃無礼じゃないか」「あんな返し方されたら、ぼくが恥をかく」とずっと思っていました。
 ある日もそんなことを思い出して苦々しい気分になった時、ふと「あれ?」と思いました。
 ぼくはAさんの言葉が失礼だ、Aさんは失礼な人だ、と思い込んでいたけれど、実は違うんじゃないか? 
 実は、Aさんを責める気持ちの裏に、「せっかくPRになるように紹介してやったのに」とか「ちゃんと紹介してやったんだから感謝しろよ」という気持ちがあったんだ、ということが、ストンと分かったんですね。
 本当は、自分がAさんに「良い紹介の仕方をしてくれてありがとう」と言ってほしかったり、お客さんたちから「皆木さんのMCは気配りができているね」とか言ってほしいだけ、評価されたいだけだったんです。
 そして、自分は謙遜のつもりで、Aさんがぼくに言ったことと同じことを、ずっと言ってきたことに気づいたんです。
 ハッとしました。


 自分の好きな人に、誕生祝いとしてあれこれ考えて選んだプレゼントを渡した時に、「いえ、自分はそういうのを頂けるような人間じゃないですから」とにべもなく断られたら、悲しくなります。それと同じなんだろうな、と思ったんです。
 ぼくは謙遜していたのではなく、「謙遜できる自分はスゴいでしょ?」アピールをしていただけだったんですね。


 今は、褒めていただいたり、喜んでいただいたり、評価していただいたりした時は、素直に「ありがとう」と言います。それは、いわば愛のこもった言葉の贈り物ですから、突き返すようなことはしたくありません。
 気持ちよく相手の言葉をいただきたいと思います。
 




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批判と攻撃と正義感と非難

2015年01月24日 | 価値観

【Live Information】 


 最近では、家族との写真を公開したスケート選手の安藤美姫さん、勲章をぞんざいに扱ったことで話題になったサザンオールスターズの桑田佳祐さん、子連れで外出したことを明らかにしたタレントの山田優さんや、スザンヌさん。異物混入を非難された会社もそうだし、イスラム国に人質となった二人もそうだと思う。


 いわゆる「叩かれる」ことで話題になった方々です。

 
 ぼくは、正直に言うと、彼らはそんなに非難を浴びるようなことをしたのかなあ、と思っています。そのうえ、謝罪すれば謝罪したで、そのことが槍玉に上がります。
 一部の人から見ると、彼らは大きく間違ったことをしたのかもしれない。
 しかしぼくは、「いったいそれは、そこまで追及されなければならないことなのだろうか」と思うんです。「すみませんでした」で済む話ばかりです。もちろんこれはぼくの主観ですから、「そんな軽く済ませられない」と思う人も当然いるでしょう。


 個人個人には多様な考え方があるし、あって当然です。つまり人によって価値をはかる物差しは違う。
 勲章を尻ポケットに入れることができる人、それを無礼だと感じる人(後者が多数派な気もしますが)、さまざまです。
 しかし、例えば「勲章を尻ポケットに入れるのはとんでもない」と考える人たちは、まず「自分の物差し」で相手側を批判しようとする。それは批判などという高尚なものではなく、感情のおもむくままに、ただ「叩く」。そこには愛もなければ、問題提起もなく、議論ですらない。


 物事を「良い・悪い」あるいは「正しい・間違い」という括りだけで見ると、批判する側は、最後にはほぼ必ず相手を「だから彼は(彼女は)間違っている」と「責め」ます。そういう言葉は、素直に受け止められないし、浴びるだけで気持ちがマイナスに振れます。
 人を責める言葉には、正義感という衣の内に、「非難や攻撃のためのトゲ」という荒れた感情を秘めているからなんですね。
 そして「責める」ことではなにも解決しないし、変わらない。
 しかも、自分には火の粉がかからないように責めている。つまり、責められることのない位置から責めはするが、そこから出ようとはしないんです。 
 善悪や正邪では計れない部分を、善悪や正邪で解決しようとするから、「相手を責める」ことにしかならないんだと思います。


 また、巷間飛び交っている「非難の言葉」や「批判の言葉」には、「世の中を変えたい」とか「問題を提起していきたい」という気持ちが前提としてある、と捉えられていますが、本当にそうでしょうか。
 ぼくには、ただ「相手を責めたい、責めてやりこめたい」だけにしか見えないのです。そして、相手を責めることで自分の存在をアピールしているようにしか見えない。


 ゴシップばかりではなく、政治に関する話題や、人間性に踏み込んだ話題においても、「相手側」を非難攻撃している論調をしばしば見かけます。
 しかし、いくら内容がそれなりに真剣でも、馬鹿だのなんだの人を罵倒しながら自分の意見を述べる人には、ぼくは同調できません。


 つまり、相手をやり込めることのできる事柄(赤ちゃんを居酒屋に連れて行った、とか、食べ物に異物が入っていた、とか)があれば、「責めてもいい大義名分」を手に入れたことになるのです。その大義名分があれば、自分の物差しを使って「正義感」という名の攻撃をしかけることができるんです。
 そこには「他人を責め続け、やりこめることで得られる達成感」や「自分の存在をアピールできた満足感」があるのでしょう。
 そんな手段で手に入れた満足感は長くは続きません。だから、再び満足感を味わいたくて、誰かを責め始めるのでしょう。


 問題意識を持っているように思わせながら、実は自分アピールがしたい人。
 危機感を持って、問題を提起する人。
 あれこれ言いながら、ただ話が大きくなるのが面白いだけの人。
 いろんな人がいて、どれが良いとか悪いとかではないですが、自分はニュースを鵜呑みにはせず、ちゃんと問題そのものを見て、それについて考えてゆきたいと思います。
 



 実は、自分もそういうところを通ってきたからこそ、今ではそう思えるんですけどね。







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I hear babies cry

2014年11月16日 | 価値観
【Live Information】 



 ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」の「I hear babies cry, I watch them grow」という一節が大好きで、歌っていると胸がアツくなってくる、という話をしたら、昨夜一緒だったメンバーみんながうなずいてくれました。
 困るのは、この部分を歌っていると何かがこみあげてきて「オエッ」となることです(汗)


 今朝ハチくんと散歩したあと、庭でハチくんがゆったり寝そべるのを見たとき、
 「こんなんが幸せなんかもしれんなあ」と思ったら、「I hear babies cry, I watch them grow」のところを歌ってるのと似たような気持ちになりました。だからちょっと「オエッ」となりました(- -;)
 

 幸せって不幸せの反対側というか、対極ではないよなあ。
 物の見方や、とらわれていたものから離れるだけで、幸せを感じることができる、というか。
 自分が幸せってことを見ようとしてなかっただけかもしれん。


 好きな音楽を続けられて、愛するハチくんがいて、大事な仲間たち(繋がりがある方々はやっぱりみんな仲間やなあ)がいて。
 悩みやトラブルはいつもあるけれど、それらがあるから不幸、っていうことではないんよな~。


 「あなたはここがダメ、ここが良くない、あそこも良くない、だからダメなひと」って、いままでいっぱい言われてきたから、「自分は未熟者で、未熟なのは良くないこと」的な考えがしみついたんじゃなかろうか。だからいくら頑張っても、いつまでたっても満ち足りないんじゃなかろうか。
 未熟者やけど、自分にはいいとこもいっぱいあるし!(^^)、って思ったら、なんかいっぺんにたくさんのことがつながって、気持ちが軽くなりました。


 未熟とか不完全なのは善悪とか正邪で測ることじゃないよ、きっと。
 「未熟だから頑張る」とか、「頑張ってるねすごいね~」と言われたいから頑張るとかじゃなくて、頑張りたいから頑張る。ということで、いかに楽しくベストを尽くしたくて尽くすかをテーマに、今夜も弾き倒してこようと思います(^^)yeah~


 でも一挙に悟ったんじゃなくて、まだまだ自分は未熟ですから・・・(^^;)
 ちょっと光が見えた、ってとこですね(^^)b






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公式戦初登板

2014年11月13日 | 価値観
                                               ♪ムスコのユニフォームです。


【Live Information】 



 高校球児のムスコが1年生大会で投げました。
 初戦で、県北では強豪とされる某高校とあたり、1-7で敗れました。
 ムスコは2番手としてマウンドに上がり、11/3イニングを投げて3安打され、1点を失いました。
 でも、ランナー二塁三塁の場面で相手の4番打者を討ち取ったんだそうです。
 
 
 高校生とは思えない体格とパワーを持つその4番打者には、まずホームラン級のファールを打たれ、それを見た相手ベンチは期待で盛り上がったらしいんですが、けっきょく三振にしとめたんだそうです。
 その話をしてくれたムスコの顔は、驕るでもなく自慢するでもなく、ちょっと誇らしげで清々しいものでした。
 大人になったなあ、と思いました。


 ムスコが中学に入って、「野球をやりたい」と言った時、正直続くとは思えなかった。ぼくも野球をやっていたからわかるけど、ムスコはどんくさいし、体も大きいとはいえないし、メンタルも強いわけでもなかったから。
 予想どおり2年までは補欠で、たまに出ても全く打てなかった。けれど、予想に反して「やめる」とは一度も言わなかった。
 チームメイトに恵まれたのも大きかったと思います。
 そして2年の夏には外野のレギュラーになり、いつの間にかときどき主軸を打つようになり、3年になると2番手ピッチャーとして使われるまでになったんです。

  
 高校に入って「また野球をやる」と言った時、正直ムリかな、と思ったんです。高校野球のスピードとパワーについていけるとは思えなかったから。でも、今日まで楽しそうに頑張っています。その様子を見ると、なんだか安心です。
 
 
 体力能力ではかなわなくても、頭の使い方ひとつで充分戦えるのが高校野球。飛びぬけて素質があるわけではないけれど、もっともっと野球を好きになって、高校生活を謳歌してほしい。
 音楽だって同じです。
 
 
 そして欲を言えば、もうすこし、、、勉強してくれぃ。。。(´Д`;)






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使命

2014年07月02日 | 価値観
                              ♪夏だし、今年はカリンバの練習をしてみたいです。涼しげな音色は童心を呼び戻してくれる。



【Live Information】 



スケジュール帳を見ると、明日も、来週も、来月も、演奏の予定が入っている。
ありがたいことです。
でも、いつの間にか「予定が入ってくる」ことが、気持ちの中で当り前になってしまっている時があります。
そういう時に誰かからそれを指摘されると、きっと口では「わかってる、感謝している」と言うでしょう。でも実際は気持ちが鈍っていて、ただスケジュールをこなしているだけの、無味乾燥な惰性の日々が続いているんですね。


演奏者側からすると、例えば今夜のライブは、たくさん入っている予定の中の、いつもと変わらないものなのかもしれない。
けれど、お客さんにとってはそれが生演奏を体験できる最後の機会になるかもしれない。
生演奏を聴いたことのない人が、せっかく縁あってお店に来てくれたのに、最初に体験したライブが気の抜けたものだったとしたら、「な~んだ」と思ってしまうことでしょう。そして、その人は二度とわれわれの演奏を聴きに、いや生演奏のあるお店に来てくださらないかもしれない。
もちろん、今夜が自分にとって最後のステージになるかもしれない。


客席には、
昼間職場で失敗してへこんでいる人、
失恋したばかりの人、
友達や親とケンカした人、
などなど、しんどい気持ちを抱えている人もいるんですよね。
音楽好きな人、ライブが楽しみでテンションが上がっている人ばかりではないんです。


そんな人たちに、「今夜は来て良かったあ」「楽しかった(*´∀`*)」と思っていただけたらもう最高に幸せです。
それがわれわれステージに立つ側の、いわば「使命」なんだと、改めて肝に銘じます(^^)b
亡きボス有末佳弘さんも、「お客を感動させるのがわれわれの仕事なんや」と、いつも厳しい顔つきで言っておられたなあ。
当たり前のことではありますが、時々は初心に返って仕切り直しするのも、いいもんです。







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トラブル

2014年06月16日 | 価値観
                                ♪演奏中にベース(エレキ・ベース)の弦を切ったのは、一度だけあります。



【Live Information】 
 


長年演奏しているけれど、完璧な条件で演奏できたことなんて、記憶にない。
演奏場所。スタッフの態度。集客。客席の雰囲気。音響。メンバーとの人間関係。自分の体調。
事の大小は別として、たいていなにかしらトラブルがおこり、不満がわく。


「今夜のお客は演奏なんて聴いていなかった、それどころか大声で話し続けられて集中できなかった」
「音響が良くなかった。もっと良い音が出せたらあんな演奏にはならなかったのに」
「機材のトラブルで気分が乗らなかった」
「スタッフの態度が不愉快」
「弦が切れた」
「あるメンバーの演奏のせいでノレなかった」
「体調が悪かった」。。。
だからいい演奏ができなかった・・・


たしかに悪条件は気分を削ぐこともあるし、集中できなければ良い演奏にもならないだろう。
でも、不満を口にして、いや口にしなくともお腹に溜めたままで良い結果が生まれるはずがない。
トラブルなんて、ステージには、いや人生にはつきもの。
つきものだからこそ、起きたトラブルからいろんなことを学べばいい。


コンディションが悪いからベストを尽くせなかった、ではなく、
バッド・コンディションの中でいかにベストを尽くすか、そして、サイアクな状況をどう楽しむか、だ。
トラブルの中にこそ自分の課題を見出すことができるのだ。


と、あらためて自分に言い聞かせる。
まだまだいくらでも進化できるはず! (^^)b






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相棒

2014年05月31日 | 価値観


【Live Information】 





楽器も弓も、手の延長。すなわち文字通りの「相棒」。





一緒に演奏する相手も、「相棒」。





楽器も、「相棒」が持つ楽器を「相棒」と思ってるんじゃないかな。










人も、楽器も、そして音楽も、生き物。











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雨の夜の再会

2014年04月29日 | 価値観


 【Live Information】 



 毎月第4月曜は、岡山市にある老舗ライブ・バー「ピアノ・バー」で演奏することになっている。
 4月の第4月曜である28日の夜はあいにくの雨だったが、そんななかライブを聴きにきてくれたFくん。
 
 
 まだ20代のころ、いっときは本当によくつるんでいたものだ。
 当時はふたりともいろんな傷にまみれていて、それでもなんとか人生を立て直したいともがいていた。
 なかなかのドラマーだったFくんとはいっしょにバンドを組んだり、夜中まで人生についてあれこれアツく語り合ったり、なけなしの金で買ったタバコを分け合ったり、という仲だった。
 財布に残っていたのがたった300円という崖っぷちの状態だったが、パチンコ店で運試しして見事に終了させ、タバコを買い、Fくんの車にガソリンを入れ、遊びに行った、ということもあった。


 ところが、ある約束を守れなかったぼくのせいで、そのことを境に顔を合わすことがなくなってしまった。
 たまに彼のことを思い出すことはあったが、なんとなく月日は流れ、ぼくはぼくの、彼は彼の世界の中で一生懸命生きていた。


 そのFくんが、その夜、20数年ぶりに会いにきてくれた。
 たまたまぼくのライブ情報を知って、あちこち訪ねてくれていたそうだ。
 ドラムはもう20年も叩いていないという。


 共通の知人の消息をむさぼるように訊ねたが、兄のように思っていた、当時とてもお世話になった上司が、10年ほど前に自動車事故で亡くなったというのを聞いて、一瞬呼吸ができなくなってしまった。


 Fくんは、演奏を聴いたあとで「また叩きたい」と言ってくれた。
 また会うことを約束して、彼は帰っていった。


 兄がわりだった上司の死、疎遠になっていた友人と再びつながったこと、そして彼の音楽生命の復活。
 その友人がぼくのことを「自分の人生に少なからず影響を与えてくれた」と言ってくれたこと。


 自分に起こるできごとはすべてつながっている。そしてそれらには意味がある。
 きょうのできごとには意味があり、そこから何かを教わり、そのできごとが起点となって、未来に何かが実るのだ。


 今夜のできごとはきっと思い出に残るだろう。




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最後に見せる顔

2013年11月24日 | 価値観


【Live Information】


 シンガーソングライターの伊太地山伝兵衛さんが亡くなりました。
 まだ56才の若さなのがよけいにいたましい。

 縁があって、一度だけ「共演」の機会がもつことができました。
 ぼくが演奏真っ只中の時に、伝兵衛さんが偶然お店に入って来られたのです。
 すぐに「セッションしようよ」ということになって、何曲か一緒に演奏させていただきました。なんの曲だったか記憶がさだかではないのですが、「On The Sunny Side Of The Street」を演奏したことだけは覚えています。
 その後、ひとりで「What A Wonderful World」を弾き語っておられました。その時のMCで、「これを3連ノリのロッカバラードでやる人が多いんだけど、ほんとうはこの歌はサラリと、とつとつと歌わなきゃならないんだ。そうでないとこの曲の本当の意味は伝わらない」とおっしゃっておられたのもはっきり覚えています。それ以後、この曲を演奏する時には、ほとんど必ずその言葉がぼくの頭をよぎります。

 ぼくが伝兵衛さんのライブを聴きに行ったのもごくごくわずかです。
 一昨年12月、村上ポンタさん、石井康二さん、成瀬明さんとのライブが、伝兵衛さんを体験した最後です。

 だから、ぼくはあまり伝兵衛さんについて語ることはできないのですが、伝兵衛さんの友人である、ぼくが懇意にしていただいているライブハウスのオーナーFさんが受けた衝撃はただごとではなかったようです。
 Fさんのお店がオープンして以来の肝胆相照らす仲、いわばある意味「戦友」でもあったわけですから。

 「ヤンチャ」というか、「傍若無人」な振る舞いをする、あるベテラン超有名ミュージシャンが、伝兵衛さんの影響で謙虚さが見えてきた、とか、とくにメディアに乗って名前が売れたわけでもないのに、伝兵衛さんを慕うひとたちがその死をとても惜しんでいて、全国各地で自発的に追悼ライブが行われている、とか、いろんな話をFさんから伺いました。

 「本当に人生って何が起こるかわからないですよね」ということをふたりでじみじみ話し合いました。
 だから「やりたいことは、やりたいと思ったらどんどんやっていかなくては」、というようなことも。
 その時思ったんです。
 ぼくは、自分の亡くなったボスから「いつも『今夜が最後のステージや』と思って演奏せなあかん」ということを教えられてきました。そしてもちろんその言葉を心に刻んできたつもりではありました。
 けれど、甘かったなあ、まだ考え方が狭かったなあ、って。

 「これで最後だと思うくらいの覚悟」が必要なのは演奏だけじゃない。
 今日、この時がそうなんです。
 
 誰かに会う時も「これで最後かもしれない」と思っておかなくては。
 そう思ったら、自分のわがままな気持ちを無分別に他人にぶつけることもなくなるでしょう。
 それに、別れ際には怒った顔や悲しい顔は見せられない。
 そんな顔を、たとえば友達のぼくに対する記憶の最後に刻ませてはいけない。
 最後に見せる顔は笑顔でありたい。
 そう思いました。

 難しいことですが、今日からはそういうふうにして人と関わっていくつもりです。




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扉を開けよう

2013年01月04日 | 価値観
                                        ♪あけましておめでとおおおおお~今年もよろしくぅぅぅぅぅyeah!!!


【Live Information】


 
 長い間、自分が「人見知り」であることに悩みつつ、自分はこんなもんだとあきらめてきました。
 「ぼくは人見知りなんです」と言うと意外な顔をされる方は多いです。でもきちんと紹介されたり、挨拶だけというなら話は別ですが、まず自分から知らない人に話しかけることはありません。会話が途切れたら気まずいな、とか、相性が、、、なんてことばっかり心配していたからなんです。
 では未知の方から話しかけられたら? ・・・この場合は思いっきり緊張しつつも、構ってもらえて嬉しくなります。ただし嬉しくなって舞い上がってしまい、適度なテンションが保てないので、話題がなくなったり波長が合わない場合はとても気まずい思いをしてきました。


 けっこう重い幼児体験が元になって、(自分でもイヤなんですが)他人を冷ややかに観察してしまうことも多かったです。
 おかげで友だちはできにくいし、数もあまりいませんでした。と~ってもカッコよく言えば、「狭く、でも深い付き合い」、かな。。。
 例えは良くないですが、「油断している時にどつかれて大ケガ」したくないあまり、先に先に良くないケースをいろいろ考えて自己防衛したり。反対にフレンドリーな人には極端に気を許したり。そのうえ自己主張は強いわ感情はすぐ表面に現れるわで、こんなメンドクサイのが可愛がられるわけないんですよね。


 もともと全体行動よりも個人行動が性分に合っているし、「他人とかかわることが苦手」というか、ひとりでいても苦にはならないたちではありました。
 けれどもきっと根本的に「人嫌い」ではなかったんでしょう、孤独感を味わうことも多かったです。
 でも、それを「寂しがりの一人好き」だと考えることで妙に自分自身が納得していました。


 去年はそういう自分のマイナス面にとっての転機だったかもしれない。
 例えば地元のジャズフェスに参加させていただいた時につながった多くの縁。
 いままでぼくは自分からよそに出ていくことが皆無だったのですが、この時は身を削って奔走するスタッフの姿を見て「自分も少しでいいから何かできないかなあ」なんてことを柄にもなく思ったんですね。ひとまず会期中に会うミュージシャンやスタッフにこちらから「おつかれさま」と声をかけてみることにしました。
 全員にはさすがにムリだったし、明らかに鬱陶しそうな反応や無反応があったりして凹むこともありましたが、それでも自分から人にかかわっていくことで少し世界が広がった気がしたのも確かです。


 先日、気のおけない歌い手さんとご飯を食べに行きました。その時の会話はとっても実のあるもので、この日の彼女の言葉も自分の後押しをしてくれる気がしてなりません。
 平たく言えば、例えば「人の反応を気にしないで、自分のベストを尽くす」ということだったりするんですが、これはステージ上のことだけではなく、すべてに通じることなんですね。


 年末の宴会や、最近参加するジャムセッションでも似たようなことを思いました。
 そもそもそういう集まりに自分から参加することはなかったのですが、気持ちをニュートラルにしてみると、いままではこちらが気負ってしまってなかなか話しかけることができなかった人と交流が生まれたり、普段は会うことが少ない同じベーシスト同士で話がはずんだりと、自然に輪が広がっていくのを感じることができました。


 自分を「人が苦手」とすることで恰好をつけたり、いろんなことから逃げていたのかもしれないです。
 手のひらを返したように(^^;)極端に明るくなったり、なれなれしくは振る舞うことはできませんが、自分から全て閉ざすことはやめて、少しずつ重い扉を開けていこうと思います。




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青春。

2012年08月29日 | 価値観
                              ♪青春といえば「海」。海を見つめるハチ君。青春のホロ苦さが背中に出ている? (^^;)


【Live Information】 

 
 音楽の世界に片足を突っ込んだばかりの頃。
 ぼくにとって大先輩にあたる方から唐突に質問されました。
 「お前なあ、『青春』っていつ終わるか知ってるか?」
 「青春」って、単に若い時のことだとしか思っていなかったぼくは、質問の裏に何かが隠されているのかも、と訝しみながらも、あいまいに「30歳くらいですか・・・?」と答えて「アホか!」と一喝されたことがあります。


 「青春っていうのはなあ、本人が終わったと思う時に終わるんだ!だから70歳を過ぎても青春の人もいれば、18歳でも青春が終わっとるヤツもいるんだ!」
 この日以降、この言葉を忘れることなく生きてきて今日に至ります。
 ぼくはまだ青春時代にいるのでしょうか。


 年齢を重ねるにつれ、「落ち着き」「分別」「常識」などなど、いろんなことが備わってきます。まあ、こういったことは多少なりともぼくの身にもついてきてはいます。
 でも反面、突飛なこともしなくなるし、後輩たち(という人種もいつの間にか周りにたくさん存在しているみたい)からある程度はお手本とされ、薀蓄なども語るようになり、だんだんと保守的になって行くようです。
 それが良いのか良くないのかはともかく、青春を遠い昔のことのように語られるとつい「でもぼくは違う!」と言いたくなる自分もいます。
 若さにしがみついているわけではないし、10代・20代の人たちに無用の嫉妬をしているのでもない。ただ、青春時代の頃のように、何かに挑むことをやめたくはないんですね。


 自分の寿命はいつ終わるのかは自分では知ることができない。
 ならば生きているうちにやりたいことはやり、会いたい人には会う。他人から見れば迷惑かもしれないこの無分別で行き当たりばったりな気持ちはまだまだ失くしたくないのです。(食べたいものを食べる、というのは、今はお腹周りがキケンなので(^^;)ちょっと遠慮しときます)
 同世代の人たちを見れば、みんなぼくよりオトナに思えてしかたありません。
 大人げないと思われても、いまだに涙が出るほど悔しい思いをすることもあるし、対抗意識だかなんだかよく分からない余分な嫉妬心もある。


 でももっと前へ、遠くへ進みたいだけなのです。
 そこへたどり着いて、今まで知ることができなかった新しい世界を見てみたいのです。
 そして最期は、全力を尽くせたことの達成感をじっくり味わいながらこの世界に別れを告げたいのです。
 そのためには、目の前のことに最善を尽くしつつ、高い目標や夢を持っていたいと思う今日この頃なのでした。

 
 いろんなものを見て、いろんな人を好きになって、いろんなものに心を動かして、いろんなことを体験して、いろんなことを考えて。
 ぼくはまだまだ青春時代を過ごしていたいです(^^)
 (若作りもがんばらなくては
 
 



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