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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

習近平の下放時代・その2

2011-12-14 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.229 )

 下放時代に這い上がる最初のきっかけとなったのは、第二章で述べたように共青団に入団したことである。それが認められるまでに8回も申請していたこともすでに紹介した。それだけの話だと、粘り強い熱意が最後には通じたという美談に思えるが、現実にはもっと人間臭いドラマがあったようだ。インタビューで共青団入団の裏話を明かしている部分はなかなかの "衝撃の告白" である。
「最初の入団申請書を提出したあと、私は大隊の党支部書記を自分の窯洞に招き、卵を炒って熱い饅頭(マントウ)を御馳走しました。それから『入団申請書はどうなりましたか』と尋ねたのです。ところが彼は、『提出できるわけがないだろう。君は教育が必要な子女なのだ』と答えました。押し問答の末、私はむきになって『私個人にどんな問題があるのか。あなたは父について中央の文件を持っているのか』と食ってかかりました。すると書記は、『中央の文件はない。本当は申請書は上部に渡した。が、人民公社の党委書記から、こんな奴の申請は受け取るな、と怒鳴られた』と白状したのです。『私が何をしたというのか。反動的な標語を書いたとでも言うのか。反動的なスローガンを叫んだとでも言うのですか。私はまだ若い人間だ。上を見てもいいではないか。絶対にへこたれないぞ』と言ってやりました」
 食べ物で釣ろうとしたところも、うまくいかなくて "キレた" ところも、若者らしいと言える。
 近平は実際にこの数日後には2通目の申請書を書き、その後も却下されるたびにすぐに次の申請書を書いて、ついに8通目で入団が認められたわけである。その時も、やはり "接待" は入念にやったようだ。
「8通目の申請書でついに入団が認められましたが、これは私が公社の共青団支部書記の支持を得たからでした。書記は私の窯洞に来て、5日間くつろいでいろいろと話をし、最後には生死をもともにしようと誓うほどの同志となりました。後に彼は公社の知識青年弁公室主任となった時、私の『黒い材料(悪い経歴や資料が書かれた報告書)』を焼いてしまったのです。彼は私を山の中に呼び出して、そこに座ると、『君の黒い材料すべてを持ってきた』と言うのです。『どうするのですか』と尋ねると、『ここで焼いてしまおう』と言ったのです。『大変なことになりませんか』と私が言うと、彼は『できないことなどない』と答えたのです」


 習近平が下放時代、共青団に入る際のエピソードが書かれています。



 最初、習近平に嘘をついた「大隊の党支部書記」は、優しい人ですね。



 さて、今回、私が引用したのは、習近平の言葉、
「私が何をしたというのか。反動的な標語を書いたとでも言うのか。反動的なスローガンを叫んだとでも言うのですか。私はまだ若い人間だ。上を見てもいいではないか。絶対にへこたれないぞ」と言ってやりました
を引用したかったからです。

 この言葉は、私がこれまでに書いてきた分析、すなわち、

   習近平は「出世したい」と強く望んでいる

が正しかったことを示していると思います。このことを「直接的に」示す資料として引用しています。



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パレスチナの旗、パリのユネスコ本部に掲揚

2011-12-14 | 日記
YOMIURI ONLINE」の「パレスチナの旗、パリのユネスコ本部に掲揚」( 2011年12月14日07時40分 )

 【パリ=三井美奈】国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)パリ本部で13日、正式加盟したパレスチナの旗の掲揚式が行われた。

 加盟は10月末のユネスコ総会で決定。手続きを経て先月、195番目のメンバーとなった。和平交渉が中断する中、パレスチナは国連機関への加盟により、国際社会で「国家」樹立に向けた支持が拡大することを目指しており、式典に臨んだアッバス自治政府議長は演説で、「ほかの国際機関加盟への弾みとしたい」と述べた。


 ユネスコのパリ本部で、正式加盟したパレスチナの旗の掲揚式が行われた、アッバス自治政府議長は「ほかの国際機関加盟への弾みとしたい」と述べた、と報じられています。



 私は知らなかったのですが、この報道を読むかぎり、
国連機関「それぞれ」が独自に加盟の審査・可否決定をする
ということですよね。そういう仕組みになっているとは知りませんでした。



 ともあれ、「パレスチナ国家の承認を求める歩み」は前進しているようです。

江沢民の反日は「個人的な感情」だった

2011-12-13 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.213 )

 近平のバックにいる江沢民・前国家主席は反日的な立場で知られ、93年に米シアトルでクリントン大統領(当時)と会談した際、「日本軍に父親を殺された」などと激しい対日批判を展開し、その反日感情の強さに非常に驚かされたとクリントン氏も回想しているほどだ。また、江は国家主席だった98年11月に来日したが、これは中国国家主席としては初めての訪日で、当時の停滞した日中関係を打開するものとの期待が高まったものの、結果的にはその逆で、江前主席は日本滞在中、歴史認識問題に焦点を当てた発言を繰り返し、両国にはかえって沈滞ムードが高まってしまった。
 羽田空港到着時のスピーチから始まり、翌日の小渕恵三・首相(当時)との首脳会談、天皇陛下主催の宮中晩餐会、早稲田大学における講演――と一貫して歴史認識問題を強調した。これらの発言は日本国民の心理に大きなわだかまりを残し、その残の日中関係を手詰まり状態に陥れたのだった。
 特に、儀礼の場である宮中晩餐会の冒頭のスピーチは確信犯的だった。中国側は直前まで、日本外務省の担当者にスピーチ原稿を渡さずに秘密にして、スピーチが始まる数分前になって渡したのだった。江は天皇、皇后両陛下を前にして、「日本軍国主義は対外侵略、拡張の誤った道」を歩んだと指摘して、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と結論付けたのだ。しかも、このスピーチはテレビで全国に生中継され、一般国民に広く浸透した。江はわざわざ日本に来て、なぜ日本国民の反中感情を煽るような真似をしたのか。外交戦略からも理解し難いが、それだけ江の反日感情が強いということかもしれない。
 その江を政治的な後ろ楯としている近平にとっては、対日問題は "鬼門" と言うべきものだろう。


 反日で有名な江沢民は、93年に米シアトルでクリントン大統領(当時)と会談した際、「日本軍に父親を殺された」などと激しい対日批判を展開し、その反日感情の強さに非常に驚かされたとクリントン氏も回想している。江沢民は、国家主席だった98年11月に来日した際も、歴史認識問題を繰り返し強調していた、と書かれています。



 今回の引用からは、江沢民の反日は、個人的な体験・感情に根ざしていることがわかります。

 このことは、江沢民の反日は「筋金入り」で「本物」であることを示していますが、視点を変えれば、「たんなる個人的感情」で日中関係を悪化させたということでもあります。



 もちろん、日中関係の悪化が「中国の国益」に合致するのであれば、それが「たんなる個人的感情」を含んでいようと(中国の政治家としては)問題にはなりません。「中国の国益」に合致しているかぎり、(中国の視点でみれば)「正しい」反日政策だったといえるでしょう。

 しかし、著者は
当時の停滞した日中関係を打開するものとの期待が高まったものの、結果的にはその逆で、江前主席は日本滞在中、歴史認識問題に焦点を当てた発言を繰り返し、両国にはかえって沈滞ムードが高まってしまった。
と書いています。ここからは、(当時の)「中国の国益」に合致していなかった、ということが読み取れます。

 したがって、江沢民の反日は、個人的感情で突っ走ったものにすぎなかったことがわかります。



 なお、著者は「江を政治的な後ろ楯としている近平にとっては、対日問題は "鬼門" と言うべきものだろう。」とも書いていますが、

 江沢民の反日が「中国の国益」に基づいたものではなく、「個人的感情」にすぎなかった以上、習近平への影響は「ほとんどない」と考えられます。

 なぜなら、江沢民は高齢だからです。今年の夏には、江沢民は死亡したのではないか、などと報じられてもいました。

 中国の反日は、それほど「長くない」かもしれません。



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胡錦濤の幹部人事

2011-12-13 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.185 )

 胡主席は自身が党総書記や国家主席を退いた後も、軍事委主席ポストを手放さず、できればもう1期5年延ばして17年まで軍の最高ポストを掌中にしておきたい、とひそかに考えているという。確かに江沢民・前主席も、党や国家のポストを手放したあとも2年間、軍事委主席ポストに居座り、そのこともあって依然として軍内に大きな影響力を維持している。北京の軍事筋によると、北京の西郊にある中央軍事委員会が入る「八・一ビル」には、いまだにかなり広い江沢民の執務室がある。現在の大将の位を持つ軍最高幹部の大半は江沢民時代に任命されただけに、軍内での江の影響力は維持されているのだ。
 胡主席にすれば、自分がこのまま引退してしまえば、軍権が江沢民から習近平に移ることにもなりかねないから、何としても軍内での影響力を維持、拡大しておきたいと思うのも当然かもしれない。09年7月、ウイグル暴動が起きた際、サミット参加中の胡主席が急遽、ローマから北京に戻ったのも、江をバックにした近平らが軍を意のままに動かすことを阻止するためであった。
 また、08年5月、約8万人が犠牲になったと伝えられる西川大地震の発生時、江が軍事委主席の胡を差し置いて軍上層部に直接指示を出し、解放軍を現地に送り込んで救援活動を行なわせたという。これは、人民解放軍の陳炳徳・総参謀長が中国メディアに明らかにしており、確実な情報だ。
 江の軍への "介入" は今も続いている。09年10月の国慶節では天安門楼上に党政治局常務委員ら最高指導者が序列順に並んだが、江は胡主席の隣に立ち、最高権力を握っているような印象を与えていた。その江が近平を全面的にバックアップしており、江が率いる上海閥と太子党閥は、いまや一蓮托生の関係にあるとも見られている。それだけに、胡主席は江と近平のこれ以上の接近には神経を尖らせているはずだ。

(中略)

 胡主席は、第18回党大会を機に、共青団閥による指導体制を磐石にすることをねらっている。共青団閥に属する李源潮・党組織部長や劉延東・国務委員(副首相級)、汪洋・広東省党委書記らを政治局常務委員に昇格させる意向を強めているとされ、これは腹心である李克強・副首相をバックアップさせる体制であるとともに、自身の権力基盤維持の権謀術数でもある。
 かつて小平は中国の未来を思い、「五湖四海(中国全土の意)」から人材を集めたが、それに比べて胡主席は共青団閥から次の中国を担う指導者を募ろうとする傾向が強い。
 さらに、胡主席は09年暮れから10年初めにかけて、中国人民解放軍と軍の指揮下にある中国人民武装警察部隊総部(武警)の最高指導部人事に着手した。解放軍の総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部の四総部の最高幹部を大幅に入れ替えたほか、10年ぶりに武警トップを交代させるなど最近の軍関係人事としては異例の大規模なものだ。軍幹部の若返りの一環とも言えるが、今回登用された幹部は胡主席の信任を得ており、軍内で胡錦濤色が強まるのは間違いない。

(中略)

 地方人事でも露骨なまでに「胡錦濤派」が台頭している。胡主席は地方のトップなどに腹心の若手指導者を据える人事を次々と打ち出しているのだ。
 すでに、胡主席の直系である胡春華・河北省長と孫政才農業相が09年11月に、それぞれ内モンゴル自治区と吉林省のトップに任命された。いずれも63年生まれの46歳で、この時点で省・自治区トップとしては最年少。胡春華は次の次の中国共産党総書記、孫も同じく首相の最有力候補とも目されている。
 次期最高指導者をねらう近平や李克強は、毛沢東の第1世代から数えて第5世代と呼ばれるが、胡春華らはその次を担う第6世代となる。ちなみに、近平は53年生まれなので、胡春華との年齢差はちょうど10年。これは、中国の指導者交代のサイクルが党総書記の任期である2期10年であることと密接な関係がある。


 胡錦濤は党総書記・国家主席を退いた後も、軍事委主席ポストを手放さず、(1期5年延ばして)17年まで軍の最高ポストを掌中にしておきたいと考えているらしい。胡錦濤は人民解放軍・武警の最高指導部人事のほか、次の次を見据えた地方幹部人事に着手している、と書かれています。



 要点をまとめます。

  1. 党総書記の任期は2期10年であるが、人民解放軍には引退規定がない。
  2. そこで、江沢民は党総書記・国家主席を退いた後も、2年間、軍事委主席ポストに居座った。そのため、引退前に人民解放軍の幹部人事を行っている。江沢民の軍への影響力は今も消えておらず、西川大地震の発生時、江が軍事委主席の胡を差し置いて軍上層部に直接指示を出したりしている。
  3. 同様に、胡錦濤も党総書記・国家主席を退いた後も、軍事委主席ポストに居座ることを画策している。胡錦濤はすでに軍や武装警察の最高幹部人事を行っている。
  4. また、胡錦濤も江沢民同様、(第18回党大会を機に)自分の派閥によって政治局常務委員の多数派を形成することを狙っており、共青団閥の李源潮・党組織部長、劉延東・国務委員(副首相級)、汪洋・広東省党委書記らを昇格させようとしているらしい。
  5. さらに、胡錦濤は「次の次」を見据えた人事にも着手している。地方のトップなどに腹心の若手指導者を次々に据えており、露骨なまでに「胡錦濤派」が台頭している。すでに、胡春華・河北省長と孫政才農業相がそれぞれ、内モンゴル自治区と吉林省のトップに任命された。胡春華は次の次の中国共産党総書記、孫も同じく首相の最有力候補である。
  6. その結果、江が率いる上海閥と太子党閥は、いまや一蓮托生の関係にあるとも見られている。




 次期政治局常務委員候補の李源潮と汪洋については「次の中国共産党政治局常務委員候補」で引用しているので、劉延東・国務委員(副首相級)について wikipedia の記事を引用しておきます。



wikipedia」の「劉延東

劉延東(りゅう えんとう)は中華人民共和国の政治家。第17期中国共産党中央政治局委員、元中共中央統一戦線部長。

1964年7月に中国共産党入党、1970年清華大学卒業。吉林大学政治学博士号取得。 1982年から1991年まで中国共産主義青年団中央書記処書記、91年から中華全国青年聯合会主席を勤めるなど、胡錦濤派の1つである団派(青幇)と目されている。1995年から統一戦線部副部長、2002年部長に昇格。

2005年10月の第16期五中全会では、上海市党委書記を陳良宇から劉に任せることで、江沢民派の牙城を崩そうとしたが果たせなかった。第17期党中央政治局常務委員の候補にも名前が挙がったものの、政治局入り止まりとなった。2007年12月、統一戦線部長の任を解かれる。

2003年3月から第10期全国政治協商会議副主席、2008年3月に副首相級の国務委員(教育、科学技術、文化・メディア、体育、香港・マカオ担当)。第15期中央委員候補、第16期中央委員、第17期中央政治局委員。


 劉延東の名前は、「習近平の上海市党委書記時代・その2」で出てきました。この人は女です。



 胡錦濤も着々と手を打っているようですね。



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 「「党内民主」の裏の意味
 「「汚職追放」の裏の意味

「党内民主」の裏の意味

2011-12-12 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.183 )

 太子党閥は、…(中略)…中央委総会で提案された党幹部らの「財産申告制度」や党員の主体的地位と民主的権利などを保障する「党内民主」の議案に反対を表明した。これらの改革は、もともと太子党グループ内で評判が悪かったものだ。
 党幹部の財産申告については、太子党閥は親の代からの資産が多く、公開されれば民衆の批判を招く恐れがある。また党内民主についても、太子党の面々は党員としての地位や権利を改めで認めてもらう必要はない。これらの制度で利益を享受するのは共青団閥ら振興勢力であり、ある意味では太子党を標的にしたものでもあった。


 太子党は「党内民主」の議案に反対を表明した。「党内民主」は太子党の人々にとって不利だからである、と書かれています。



 共産党内の民主化にも困難が伴うとなると、中国(全体)の民主化は、当分ありえないとみて間違いないでしょう。



 中国がいま、集団指導体制をとっている背景には、江沢民の「保身」があると思われますが、

 「次の中国共産党政治局常務委員候補」を考えると、党内民主化推進の背景には、胡錦濤の「保身」があると思われます。



 独裁体制は、権力者の「保身」によって(次第に)民主化していくのかもしれません。

 とすれば、10年、20年後の中国は、民主化しているかもしれませんね。



 なお、著者は「いつの中央委総会なのか」を明確に記述していないので、時期は不明です。



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