茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.101 )
習近平の厦門市副市長時代、寧徳地区党委書記時代、福建省長時代について書かれています。
今回はとくに書くことがありません。引用部分をまとめれば、
この期間の習近平については、実績ではなく、現在の政治局常務委員(賈慶林・賀国強・周永康)と親しい関係になった、という部分が重要だと思います。
なお、習近平の人物像を考察するために彼の半生を追いかけている関係で、とくに書くことがないときにも「やむなく」引用する場合があります。なるべく「抜けている期間」が生じないようにする必要があるからです。
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近平は85年6月、32歳の誕生日に厦門市副市長として福建省の省都・福州市に赴いた。
(中略)
近平が副市長として迎えられた当時の厦門市は、厦門島が主要地区で、周辺の小島を含めて約120k㎡のうち厦門本島西北部の2・5k㎡が80年10月に経済特区に認定されていた。当時の特区は深圳、珠海、汕頭、厦門の4か所で、厦門以外はすべて広東省にあった。
(中略)
中国では80年代後半、改革派には厳しい情勢が続いた。86年暮れから87年初めには学生による民主化要求運動が全土に吹き荒れ、対応をめぐって胡耀邦・総書記が失脚。先にも触れたように、これには裏があって、胡は「政治の民主化」実現のため、小平の引退を要求していた。これがの逆鱗に触れて更迭されたのである。この政争のなかで、近平の父・仲勲は胡側に立ったため、87年の党大会では政治局員に再選されず、全人代副委員長の閑職に飛ばされてしまう。
1年半後の89年4月、胡が急死したことで民主化要求運動が再燃し、6月4日の(第二次)天安門事件の悲劇を招くことになった。改革・開放の機運は一気に冷め、中国には保守的な沈滞ムードが蔓延した。
(中略)
その後、35歳の近平は、厦門から福建省でも最も発展が遅れていた寧徳地区の党委書記に任命される。寧徳は省の東北部に位置する9つの県をまとめた地区で、浙江省に隣接し、沿海地区と山間部を併せ持つ農漁村地帯だ。
福建省は当時、平均年収が160元しかなく、中国全体の貧困人口77万5000人の3分の1を抱え、その大半が寧徳地区に集中するなど全国有数の貧困地帯だった。
(中略)
近平は最貧困層の救済から始めた。茅で作った家に住む住民7000人の家を建て直したほか、海岸沿いで縦15m、横2mの小さな船を住居としている船民2万2000人にも家を建て、補助を与えて生計を立てさせた。
貧困の反作用として、福建省では汚職や腐敗が蔓延していた。最大の産業はお役所だったからだ。福建に限らず、貧困地区では公務員の生活が最も安定しており、身分的にも最も高い。官にむさぼりついて甘い汁を吸うという体質が染み付いていた。例えば、幹部の大半は公金を横領して自分の家を建てていた。近平は同地区に在任中、汚職で副県長級の幹部242人、科長級以上の幹部1399人を摘発するという荒療治を行なった。
近平はその後、福建で福州市長や省長などの要職を歴任するが、汚職には悩まされ通しだった。特に、省長就任を翌年に控えた99年4月、中国史上最大の腐敗事件と言われた「遠華事件」が発生した。
遠華事件とは車やタバコ、石油、電化製品などの密輸が約530億元、脱税約300億元、計830億元も国庫に損害を与えた大事件だった。
この事件で、これ以前に省党委書記を務めた賈慶林(当時は北京市長)の妻・林幼芳が汚職に関与したとのうわさが流れたほか、北京の公安省次官や軍高官、さらに福建省や厦門、福州市の要人の大半が汚職に関与した疑いで逮捕。主犯の貿易会社社長の頼昌星はカナダに逃亡し、現在もカナダにとどまっている。
賈慶林は事件の摘発後、妻の林幼芳と離婚しているのだが、その後、復縁している。その裏に何があったかは藪の中だが、遠華事件が大きく影響しているのは間違いないだろう。
このような混乱が続いた福建省時代だが、その一方で近平は自身の人脈の基礎を着実に形成していた。特に、項南の腹心だった賈慶林とは親しい関係を築いた。賈は江沢民に引き上げられて北京市長、党委書記、さらに党政治局常務委員と出世街道を進んでいった。
(中略)
賈の後任の党委書記には福建省長だった陳明義が就任した。省長には化学工業相だった賀国強が就いた。賀は99年6月、重慶市長に栄転し、今では党規律検査委員会書記を兼務する党政治局常務委員である。
賀のあとの省長に就任したのが近平だったのだが、その頃に遠華事件が発覚。省トップの陳明義の妻と息子が事件に関わっていたことが判明して、陳は解任されてしまう。
後任の党委書記は胡錦濤・主席の期待が高かった共青団閥の若手ナンバー1の宋徳福。宋は、「私はタバコを担当。近平は酒に責任を持っている」と、近平との二人三脚振りをジョークにするほど、両者の関係は良好だった。宋から近平の手腕が胡錦濤に報告され、胡も近平を憎からず思うようになったとされる。
現在の党常務委員会には賈慶林、賀国強、習近平と、福建省の幹部出身者が3人もいる。9人中3人の "福建幇" に加え、同じく常務委員の周永康は曾慶紅の直系で近平と親しい。近平が次期中国ナンバー1の座を射止める大きな強みになることは確実だ。その基礎が、この大事件さなかの福建で築かれていた点は興味深い。
習近平の厦門市副市長時代、寧徳地区党委書記時代、福建省長時代について書かれています。
今回はとくに書くことがありません。引用部分をまとめれば、
- 厦門市副市長時代は、改革・開放の機運が一気に冷めたために(経済対策が得意の)習近平には目立った実績はないが、
- 寧徳地区党委書記時代には貧困対策・汚職摘発で実績を残し、
- 福建省長時代にはそれなりの実績を残した、
この期間の習近平については、実績ではなく、現在の政治局常務委員(賈慶林・賀国強・周永康)と親しい関係になった、という部分が重要だと思います。
なお、習近平の人物像を考察するために彼の半生を追いかけている関係で、とくに書くことがないときにも「やむなく」引用する場合があります。なるべく「抜けている期間」が生じないようにする必要があるからです。
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