佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.83 )
軍事的安全保障 (軍事的手段による安全保障) は、必然的に他国の軍事的安全保障と衝突する。そのうえ、中、小国においては、気やすめ的な効果をもつにすぎない。超大国であるアメリカでさえ、軍事的安全は「全地球どころか、宇宙空間までの支配によってしか保障されえない」。防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、じつは政治的手段によって安全が確保されているのである、と書かれています。
引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「『安全』の論理と平和の論理」(久野収・著) の一節です。
著者の論理には、一見、説得力があります。著者の論理に従えば、
「超大国以外は」軍事的安全保障など実現不可能である、
ということになり、したがって
日本は、軍事的安全保障など考えるだけムダである、軍備を放棄すべきである、
ということになると思います。
しかし、上記論理によって、(超大国以外では) 軍事的安全保障がムダであると示されるからといって、世界における個々の国家が、軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。
わかりやすくするために、身外な例、経済的な例で考えます。
たとえば不況やデフレは、ほとんどすべての商品に対する供給が、需要を上回っている場合に生じます。商品が売れ残るために、価格がどんどん下がり、したがって企業の業績は悪化し、倒産も増え、失業者も増えてしまう現象が生じます。そこで、全体的・マクロ的に考えれば、みんなで消費しまくればよい、ということになります。みんなで消費しまくれば、売れ残りはなくなり、価格は上昇し、(したがって企業業績は回復し、倒産も減り、失業者も減って) 誰もがハッピーになれるはずです。
ところが、このような解決策は、実際には、なかなかうまくいきません。「みんなが」消費しまくるとはかぎらないからです。個々の人間 (市場における個々のプレイヤー) の立場に立って考えれば、「自分だけは」消費をしないことが、最善の選択になりえます。なぜなら、
「他のみんなが」消費しまくることで、景気が回復するなら、それでよし。
「他のみんなが」消費せず、不況が続いても、それもよし。生きていける。
(「自分は」消費せずに貯蓄を続けたので、カネはある )
ということになるからです。
したがって、
全体的・マクロ的な思考によって示される帰結が、
全体を構成する個々のプレイヤーのとるべき行動を指し示すとはかぎらない
ことは、あきらかです。
軍事的安全保障についても同様で、マクロ的にみて軍事的安全保障は無意味である、と示されるからといって、「自分の国 (=日本) が」軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。「すべての国が」軍事的安全保障を放棄しないかぎり、「自分の国 (=日本) は」軍事的安全保障を放棄しないほうがよいからです。つまり、「自分の国だけは」軍備を維持しつつ「他の国が」軍備を放棄するのを待つのが、安全保障を考えるうえで、最善の選択になります。
さらにいえば、そもそも、気やすめ的な効果しか期待しえないはずの中、小国においても、同クラスの「中、小国どうしの争い」を考えれば、軍事的安全保障は効果的だといえます。さらに強大な軍事力をもつ (超) 大国が介入しないかぎりは、軍事的安全保障は、効果をもつからです。そしてまた、(超) 大国が「中、小国どうしの争い」に介入するかしないか、事前に、わかるはずもありません。
次に、
防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、
じつは政治的手段によって安全が確保されているのである
という指摘についてですが、これに対しては、
政治的手段によって安全を確保しようとしても、
相手国が交渉に応じようとしないならば、安全は保障されないし、
防衛的軍備がまったくなければ、
相手国が軍事的手段にうったえてきた場合、たやすく侵略されてしまう
という批判が成り立ちます。政治的安全とは、相手国が交渉に応じることによって初めて、成り立つのであり、相手国が交渉に応じなければ、政治的安全など、ありえないと思われます。
そして、相手国に政治的交渉に応じることを「間接的に」強制するのが、(相手国にとっての) 軍事的手段の困難性、すなわち (自国にとっての) 防衛的軍備であることを考えれば、著者の思考とは逆の論理、すなわち
政治的手段によって安全が保障されているようにみえる場合も、
じつは軍事的手段の保有によって交渉が成立し、安全が確保されているのである
も成り立つし、この論理は、実際の観察にも、合致しているのではないかと思います。
したがって、「軍事的安全保障も、政治的安全保障も、どちらも重要であり、どちらか片方に偏ってはならない」と考えるのが、適切であると思われます。
国際社会では、一国のアプリオリな特権は道義的にゆるされず、せいぜいみとめられるのは、相互的自然権にすぎないから、ソ連もイギリスもフランスも中国も日本も、アメリカとおなじ権利を所有している。ソ連は自国の軍事的安全保障のために、ワルシャワ同盟諸国はもちろん、小アジア、ダーダネルス海峡、中近東を支配し、シベリアの安全を保障するために、朝鮮、中国をおさえなければならなくなるであろう。ソ連、イギリス、フランス、中国、日本がそれぞれの軍事的安全保障を最大限に確保しないのは、国力がともなわないか、他国の傘の中ににげこんでいるか、政治的安全のほうを重しとするか、あるいは平和の中での安全を構想しているからである。もし確保にすすみでていれば、すでにアメリカとの破滅的戦争が歴史的事実となっているであろう。
軍事的安全保障は、主観的、心理的課題ではなく、部分的計算の可能な客観的、技術的課題だから、解決のための技術的条件を獲得できるか、それとも、できなくて解決不可能におちいるかのどちらかである。だから、相互の軍事的安全保障の間には、軍事面だけでは妥協はありえない。妥協はすぐさま、解決不可能を意味し、軍事的安全の部分的放棄になるのである。こうして、一つの地球の中で各国が集団的、個別的に自国の軍事的安全保障のために狂奔し、すべての地域を空中から海底まで、たがいにおさえあい、うばいあい、そこに妥協がありえないとすれば、結果は戦争になるか、一方の他方への自発的、無条件的服従になるかである。軍事技術の革命的進歩は、アメリカの場合にみられるように、アメリカ一国の軍事的安全でさえ、全地球どころか、宇宙空間までの支配によってしか保障されえないところまですすんでいるのである。
こういう状況の中では、中、小国の自衛的軍備は、気やすめ的、心理的安全は保障しても、客観的、軍事的安全をほとんど保障しない。防衛的軍備は、技術的に効力をもたないし、論理的に不可能である。防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、実は周囲に仮想敵国をつくりだすことをきびしく自制し、政治的安全のほうに全力をかたむける国策が成功したおかげである。防衛の軍備は、一部の政治指導者や国民が誤解しているように、軍備の質と量にくわえられた一定の制限を意味するのではなく、軍国主義におちいらない軍備を意味する。軍国主義とは、政治的手段をつくさずに、軍事的手段ににげこむ態度決定をいい、軍事的計画や軍事的手段が政治的計画や政治的手段を指導するどころか、政治的計画や政治的手段を代行するような持続的国策決定を意味するのである。
全体戦争という現在的条件のもとでは、軍事指導は軍事行動だけをうけもつことによって、自国なり同盟国なりの軍事的安全を保障することはできない。軍事指導は自国の軍事行動を成功させる物質的、戦略的前提条件の実現に、たえず全力を傾注しなければならない。それどころか、自国民の『愛国心』はもちろん、同盟国民の『団結精神』の加熱にも意をそそがなければならない。さらに、すべての人間の全面的訓練、世論の不断の統制、破壊活動と判断される行動の抑圧にまですすまないわけにいかない。途中で立ちどまれば、それだけ軍事的安全の保障はふたしかになるのである。
軍事的安全保障 (軍事的手段による安全保障) は、必然的に他国の軍事的安全保障と衝突する。そのうえ、中、小国においては、気やすめ的な効果をもつにすぎない。超大国であるアメリカでさえ、軍事的安全は「全地球どころか、宇宙空間までの支配によってしか保障されえない」。防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、じつは政治的手段によって安全が確保されているのである、と書かれています。
引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「『安全』の論理と平和の論理」(久野収・著) の一節です。
著者の論理には、一見、説得力があります。著者の論理に従えば、
「超大国以外は」軍事的安全保障など実現不可能である、
ということになり、したがって
日本は、軍事的安全保障など考えるだけムダである、軍備を放棄すべきである、
ということになると思います。
しかし、上記論理によって、(超大国以外では) 軍事的安全保障がムダであると示されるからといって、世界における個々の国家が、軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。
わかりやすくするために、身外な例、経済的な例で考えます。
たとえば不況やデフレは、ほとんどすべての商品に対する供給が、需要を上回っている場合に生じます。商品が売れ残るために、価格がどんどん下がり、したがって企業の業績は悪化し、倒産も増え、失業者も増えてしまう現象が生じます。そこで、全体的・マクロ的に考えれば、みんなで消費しまくればよい、ということになります。みんなで消費しまくれば、売れ残りはなくなり、価格は上昇し、(したがって企業業績は回復し、倒産も減り、失業者も減って) 誰もがハッピーになれるはずです。
ところが、このような解決策は、実際には、なかなかうまくいきません。「みんなが」消費しまくるとはかぎらないからです。個々の人間 (市場における個々のプレイヤー) の立場に立って考えれば、「自分だけは」消費をしないことが、最善の選択になりえます。なぜなら、
「他のみんなが」消費しまくることで、景気が回復するなら、それでよし。
「他のみんなが」消費せず、不況が続いても、それもよし。生きていける。
(「自分は」消費せずに貯蓄を続けたので、カネはある )
ということになるからです。
したがって、
全体的・マクロ的な思考によって示される帰結が、
全体を構成する個々のプレイヤーのとるべき行動を指し示すとはかぎらない
ことは、あきらかです。
軍事的安全保障についても同様で、マクロ的にみて軍事的安全保障は無意味である、と示されるからといって、「自分の国 (=日本) が」軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。「すべての国が」軍事的安全保障を放棄しないかぎり、「自分の国 (=日本) は」軍事的安全保障を放棄しないほうがよいからです。つまり、「自分の国だけは」軍備を維持しつつ「他の国が」軍備を放棄するのを待つのが、安全保障を考えるうえで、最善の選択になります。
さらにいえば、そもそも、気やすめ的な効果しか期待しえないはずの中、小国においても、同クラスの「中、小国どうしの争い」を考えれば、軍事的安全保障は効果的だといえます。さらに強大な軍事力をもつ (超) 大国が介入しないかぎりは、軍事的安全保障は、効果をもつからです。そしてまた、(超) 大国が「中、小国どうしの争い」に介入するかしないか、事前に、わかるはずもありません。
次に、
防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、
じつは政治的手段によって安全が確保されているのである
という指摘についてですが、これに対しては、
政治的手段によって安全を確保しようとしても、
相手国が交渉に応じようとしないならば、安全は保障されないし、
防衛的軍備がまったくなければ、
相手国が軍事的手段にうったえてきた場合、たやすく侵略されてしまう
という批判が成り立ちます。政治的安全とは、相手国が交渉に応じることによって初めて、成り立つのであり、相手国が交渉に応じなければ、政治的安全など、ありえないと思われます。
そして、相手国に政治的交渉に応じることを「間接的に」強制するのが、(相手国にとっての) 軍事的手段の困難性、すなわち (自国にとっての) 防衛的軍備であることを考えれば、著者の思考とは逆の論理、すなわち
政治的手段によって安全が保障されているようにみえる場合も、
じつは軍事的手段の保有によって交渉が成立し、安全が確保されているのである
も成り立つし、この論理は、実際の観察にも、合致しているのではないかと思います。
したがって、「軍事的安全保障も、政治的安全保障も、どちらも重要であり、どちらか片方に偏ってはならない」と考えるのが、適切であると思われます。