言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

軍事的安全保障の限界と、その有効性

2010-08-31 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.83 )

 国際社会では、一国のアプリオリな特権は道義的にゆるされず、せいぜいみとめられるのは、相互的自然権にすぎないから、ソ連もイギリスもフランスも中国も日本も、アメリカとおなじ権利を所有している。ソ連は自国の軍事的安全保障のために、ワルシャワ同盟諸国はもちろん、小アジア、ダーダネルス海峡、中近東を支配し、シベリアの安全を保障するために、朝鮮、中国をおさえなければならなくなるであろう。ソ連、イギリス、フランス、中国、日本がそれぞれの軍事的安全保障を最大限に確保しないのは、国力がともなわないか、他国の傘の中ににげこんでいるか、政治的安全のほうを重しとするか、あるいは平和の中での安全を構想しているからである。もし確保にすすみでていれば、すでにアメリカとの破滅的戦争が歴史的事実となっているであろう。
 軍事的安全保障は、主観的、心理的課題ではなく、部分的計算の可能な客観的、技術的課題だから、解決のための技術的条件を獲得できるか、それとも、できなくて解決不可能におちいるかのどちらかである。だから、相互の軍事的安全保障の間には、軍事面だけでは妥協はありえない。妥協はすぐさま、解決不可能を意味し、軍事的安全の部分的放棄になるのである。こうして、一つの地球の中で各国が集団的、個別的に自国の軍事的安全保障のために狂奔し、すべての地域を空中から海底まで、たがいにおさえあい、うばいあい、そこに妥協がありえないとすれば、結果は戦争になるか、一方の他方への自発的、無条件的服従になるかである。軍事技術の革命的進歩は、アメリカの場合にみられるように、アメリカ一国の軍事的安全でさえ、全地球どころか、宇宙空間までの支配によってしか保障されえないところまですすんでいるのである。
 こういう状況の中では、中、小国の自衛的軍備は、気やすめ的、心理的安全は保障しても、客観的、軍事的安全をほとんど保障しない。防衛的軍備は、技術的に効力をもたないし、論理的に不可能である。防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、実は周囲に仮想敵国をつくりだすことをきびしく自制し、政治的安全のほうに全力をかたむける国策が成功したおかげである。防衛の軍備は、一部の政治指導者や国民が誤解しているように、軍備の質と量にくわえられた一定の制限を意味するのではなく、軍国主義におちいらない軍備を意味する。軍国主義とは、政治的手段をつくさずに、軍事的手段ににげこむ態度決定をいい、軍事的計画や軍事的手段が政治的計画や政治的手段を指導するどころか、政治的計画や政治的手段を代行するような持続的国策決定を意味するのである。
 全体戦争という現在的条件のもとでは、軍事指導は軍事行動だけをうけもつことによって、自国なり同盟国なりの軍事的安全を保障することはできない。軍事指導は自国の軍事行動を成功させる物質的、戦略的前提条件の実現に、たえず全力を傾注しなければならない。それどころか、自国民の『愛国心』はもちろん、同盟国民の『団結精神』の加熱にも意をそそがなければならない。さらに、すべての人間の全面的訓練、世論の不断の統制、破壊活動と判断される行動の抑圧にまですすまないわけにいかない。途中で立ちどまれば、それだけ軍事的安全の保障はふたしかになるのである。


 軍事的安全保障 (軍事的手段による安全保障) は、必然的に他国の軍事的安全保障と衝突する。そのうえ、中、小国においては、気やすめ的な効果をもつにすぎない。超大国であるアメリカでさえ、軍事的安全は「全地球どころか、宇宙空間までの支配によってしか保障されえない」。防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、じつは政治的手段によって安全が確保されているのである、と書かれています。



 引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「『安全』の論理と平和の論理」(久野収・著) の一節です。



 著者の論理には、一見、説得力があります。著者の論理に従えば、

   「超大国以外は」軍事的安全保障など実現不可能である、

ということになり、したがって

   日本は、軍事的安全保障など考えるだけムダである、軍備を放棄すべきである、

ということになると思います。



 しかし、上記論理によって、(超大国以外では) 軍事的安全保障がムダであると示されるからといって、世界における個々の国家が、軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。

 わかりやすくするために、身外な例、経済的な例で考えます。

 たとえば不況やデフレは、ほとんどすべての商品に対する供給が、需要を上回っている場合に生じます。商品が売れ残るために、価格がどんどん下がり、したがって企業の業績は悪化し、倒産も増え、失業者も増えてしまう現象が生じます。そこで、全体的・マクロ的に考えれば、みんなで消費しまくればよい、ということになります。みんなで消費しまくれば、売れ残りはなくなり、価格は上昇し、(したがって企業業績は回復し、倒産も減り、失業者も減って) 誰もがハッピーになれるはずです。

 ところが、このような解決策は、実際には、なかなかうまくいきません。「みんなが」消費しまくるとはかぎらないからです。個々の人間 (市場における個々のプレイヤー) の立場に立って考えれば、「自分だけは」消費をしないことが、最善の選択になりえます。なぜなら、

   「他のみんなが」消費しまくることで、景気が回復するなら、それでよし。

   「他のみんなが」消費せず、不況が続いても、それもよし。生きていける。
      (「自分は」消費せずに貯蓄を続けたので、カネはある )

ということになるからです。

 したがって、

   全体的・マクロ的な思考によって示される帰結が、
   全体を構成する個々のプレイヤーのとるべき行動を指し示すとはかぎらない

ことは、あきらかです。



 軍事的安全保障についても同様で、マクロ的にみて軍事的安全保障は無意味である、と示されるからといって、「自分の国 (=日本) が」軍事的安全保障を放棄すべきである、ということにはなりません。「すべての国が」軍事的安全保障を放棄しないかぎり、「自分の国 (=日本) は」軍事的安全保障を放棄しないほうがよいからです。つまり、「自分の国だけは」軍備を維持しつつ「他の国が」軍備を放棄するのを待つのが、安全保障を考えるうえで、最善の選択になります。

 さらにいえば、そもそも、気やすめ的な効果しか期待しえないはずの中、小国においても、同クラスの「中、小国どうしの争い」を考えれば、軍事的安全保障は効果的だといえます。さらに強大な軍事力をもつ (超) 大国が介入しないかぎりは、軍事的安全保障は、効果をもつからです。そしてまた、(超) 大国が「中、小国どうしの争い」に介入するかしないか、事前に、わかるはずもありません。



 次に、

   防衛的軍備によって安全が保障されているようにみえる場合も、
   じつは政治的手段によって安全が確保されているのである

という指摘についてですが、これに対しては、

   政治的手段によって安全を確保しようとしても、
   相手国が交渉に応じようとしないならば、安全は保障されないし、

   防衛的軍備がまったくなければ、
   相手国が軍事的手段にうったえてきた場合、たやすく侵略されてしまう

という批判が成り立ちます。政治的安全とは、相手国が交渉に応じることによって初めて、成り立つのであり、相手国が交渉に応じなければ、政治的安全など、ありえないと思われます。



 そして、相手国に政治的交渉に応じることを「間接的に」強制するのが、(相手国にとっての) 軍事的手段の困難性、すなわち (自国にとっての) 防衛的軍備であることを考えれば、著者の思考とは逆の論理、すなわち

   政治的手段によって安全が保障されているようにみえる場合も、
   じつは軍事的手段の保有によって交渉が成立し、安全が確保されているのである

も成り立つし、この論理は、実際の観察にも、合致しているのではないかと思います。



 したがって、「軍事的安全保障も、政治的安全保障も、どちらも重要であり、どちらか片方に偏ってはならない」と考えるのが、適切であると思われます。

奨学金制度の問題点

2010-08-30 | 日記
47 NEWS」の「申請者全員に無利子奨学金 文科省方針、2万6千人増」( 2010/08/29 17:23 )

 文部科学省は29日、所管の独立行政法人「日本学生支援機構」が大学生らに貸与する無利子奨学金の2011年度の対象者を、本年度より約2万6千人増やし、基準を満たす学生が申請すれば全員が受けられるようにする方針を決めた。有利子奨学金の対象も約8万人増やす。

 深刻な不況を背景に、奨学金の希望者は増加傾向にある。しかし、親の所得制限や成績による基準を満たしても、利用者枠の不足から無利子奨学金を受けられない申請者が毎年2万6千人ほどいて、有利子を利用せざるを得なかった。

 文科省は本年度から始まった高校無償化に続き、大学などの高等教育も学生の負担を大幅に減らしたい考え。来年度予算の概算要求に約1330億円を盛り込むが、厳しい財政状況の中、財源確保が課題になりそうだ。

 文科省によると、10年度の無利子奨学金の貸与者は約35万人、有利子奨学金は約83万人で、計約118万人が利用。対象者増で来年度は計130万人程度になる。


 文部科学省は、「日本学生支援機構」が大学生らに貸与する奨学金の対象者を、無利子奨学金・有利子奨学金ともに増やし、基準を満たす学生全員が受けられるようにすることにした、と報じられています。



 「親の所得制限や成績による基準を満たしても、利用者枠の不足から無利子奨学金を受けられない申請者」が多数いる、とのことなので、適切な措置だと思います。



 しかし、奨学金の貸与条件として、「親の所得制限」が掲げられているところが気になります。奨学金には、大学生以外に対するものもありますが、次に、代表的な奨学金として、大学生に対する奨学金の貸与要件を例示 (引用) します。


独立行政法人日本学生支援機構」の「大学で奨学金の貸与を希望する方へ


第一種奨学金(無利息)

(中略)

家計基準:家計の基準額は、世帯人員によって異なります。
本人の父母又はこれに代って家計を支えている人(主たる家計支持者一人)の収入金額が選考の対象となりますが、4人世帯の収入・所得の目安はおよそ次の金額以内です。

<4人世帯の収入・所得の上限額の目安>
給与所得者    882万円  源泉徴収票の支払金額(税込み)
給与所得以外   396万円  確定申告書等の所得金額(税込み)

(中略)

第二種奨学金(利息付)

家計基準:家計の基準額は、世帯人員によって異なります。
本人の父母又はこれに代って家計を支えている人(主たる家計支持者一人)の収入金額が選考の対象となりますが、4人世帯の収入・所得の目安はおよそ次の金額以内です。

<4人世帯の収入・所得の上限額の目安>
給与所得者   1,134万円  源泉徴収票の支払金額(税込み)
給与所得以外   648万円  確定申告書等の所得金額(税込み)


 奨学金の貸与要件として、上記家計基準を満たすこと (上記金額以内の家計収入であること) が定められています。



 奨学金の貸与要件に、なぜ、家計基準が存在しているのでしょうか。このような基準は、本来、いらないはずです。このような要件が定められている根拠として考えられるのは、

   親の収入が一定以上であれば、親が直接、子供の学費を支出すればよい

という考えかたではないかと思います。

 しかし、世の中には、さまざまな家庭があります。たとえば、「親の収入が一定以上であり、子供の学費を支出する経済力を有しているが、わざと、親が子供の学費を負担しない場合」、その子供は、どうすればよいのでしょうか? つまり、

   親の、わが子に対する嫌がらせ、虐待のケース

です。

 このような場合、なまじ、親に経済力があるために、子供は奨学金を受けられず、ピンチになってしまいます。場合によっては、その子は、一生を棒に振ることにもなりかねません。「そのような場合には、子供自身に問題がある、したがって奨学金を貸与する必要はない」という考えかたもありうるとは思いますが、虐待というものは、「親の側に非がある」と考えるべきではないかと思います。すくなくとも「虐待」と判断される場合には、親に非があり、子供に非はない、と考えるべきだと思います。

 もちろん、奨学金を貸与する機関が、「虐待の有無」を判断したりしていては、手続に時間がかかりますし、煩に耐えません。そもそも、奨学金を支給する機関に、そのような判断能力があるのかも、問題になりうるところです。

 それではどうすればよいのか、といえば、

   たんに、家計収入 (親の収入) は一切問わずに、奨学金を貸与すればよい

のです。

 どのみち、最終的には、その奨学生が社会に出たあと、その (元) 奨学生自身が奨学金を返済するのです。したがって、親の収入を問わず奨学金を貸与することに、特段の問題は存在しないと思います。ありうるとすれば、奨学金が返済されないリスクですが、奨学金には、保証人 (または機関保証人) が要求されている以上、このようなリスクを問題にする必要はないでしょう。



 なお、弁護士の小倉先生は、司法試験に合格し、司法修習を受けようとする者が修習資金の貸与を受けるに際し、自然人、または「最高裁判所の指定する金融機関による保証」が要求されている点を捉え、



la_causette」の「保証審査の基準

 これを見る限り、オリエントコーポレーションは、機関保証の申し込みをした個々の司法修習生について、保証審査を行い、これに合格しない修習生に対しては、機関保証をしないつもりのようだ。最高裁は、その場合に自然人の保証人を立ててくださいとしているが、自然人の保証人が立てられないからこそ2.1%の保証料を支払うことを覚悟して機関保証の申請を行うのだ。その審査をパスしなかったからといって、自然人の保証人が立てられる可能性は低い(もちろん、お小遣い稼ぎで保証人を務めようという人を斡旋する組織はあるのだが、未来の法曹がそういう組織と関与することの当否は十分考えるべきである。)。

(中略)

修習期間中の生活費について貸与を受けることができず、結局修習を受けることを断念せざるを得ないとしたら、それはまさに本末転倒といわざるを得ない。


 司法修習生が機関保証を受けられない場合、問題が生じうる。修習を受けることを断念せざるを得ないなら、本末転倒といわざるを得ない、と指摘し、



 司法修習生に対する修習資金貸与制の問題点を指摘されていますが、

 同様の問題は、(司法修習生以外の) 一般の学生に対する奨学金についても存在しています。



 小倉先生の指摘には説得力がありますが、一般の奨学金についても (さらに、両者のバランスについても) 、あわせ、考慮が必要だと思います。

米ドルの軍票性

2010-08-29 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.54 )

 軍票とは、軍事力を背景にして、ある国や地域だけに通用させたお札のことである。戦争中の満州においては、日本が必要なだけ印刷して、軍事力を背景にして通用させていった。ドルもアメリカの軍事力を背景にしているのだが、あたかも軍事力がなくても通用するかのような誤魔化しの装飾を施していった。だからドルの本質は軍票と一緒であるということだ。
 私は経済雑誌の編集長をやっていたとき、鈴木秀雄という大蔵省の国際派といわれ、官僚としては良心的な人にインタビューしたことがある。
 そのときに鈴木は「アメリカは、為替がわからない国だ」と言った。外国為替市場では、ドルと円の交換の比率などを見て、円はどれくらい力があるか測らなければいけないのだが、アメリカは測る必要がない、と。自分の国が主だから、比較する鏡がないのである。鏡がないということは、相対感覚がもてないということだ。鈴木から「アメリカは、為替がわからない国だ」といわれたとき、私は目から鱗が落ちた。アメリカの基軸通貨であるドルが圧倒的な強さで通用している限り、ますます為替がわからなくなる。ドルがどのくらい強いのかわからなくなるのである。
 軍票は、軍事力を背景にして勝手に発行することができるから、ドルの相対性がますますわからなくなる。このように二重のわからなさの中で、使ってしまうのが軍票の特徴といえよう。ベトナム戦争では大量に発行されたが、そのツケが溜まって、いつ崩れてもおかしくない状況が続いてきている。
 「サブプライムローンがアメリカで破綻したのに、なぜ日本に影響するのか」
 という質問を受けることがある。それはこういうことだ。ドルを軍票だとすると、アメリカの力が衰えたときには通用しない。そして、その軍票を残念ながら日本は持っている。そういう側面も原因の一つである。
 また、アメリカはドルのほかに国債を発行しており、日本は大量に買っているが、その発行残高は公表されていない。経済危機をまねく恐れがあるから、絶対に公表しないのである。日本の国債も危ないが、アメリカの国債はもっと危ないことを知っていながら、日本政府と民間は買ってしまっている。石原慎太郎がある講演で言っていたのだが、アメリカの国債発行残高は三〇〇兆円と言われている。私も経済評論家であるから、だいたいの見当はつけていたが確証がなかった。向こうにとっては不幸なことに、私がたまたま「産経新聞」を見たときに慎太郎の講演が載っていたのである。たまには「産経新聞」も読まなければいけない。
 日本の国家予算は約八〇兆円だから、その四倍にあたる。ドルが衰えてきて、さらにアメリカの国債を三〇〇兆円も買っている。米軍再編で沖縄の米軍基地がグアムへ移転するに際し、三兆円の費用を負担するというが、皮肉に言えば、それはアメリカ国債で払えばいいだろう。
 しかし、日本とアメリカの関係では、日本はアメリカの国債を売ることができない。橋本龍太郎が大蔵大臣だったときに「売りたい誘惑に駆られる」と言ったが、小泉純一郎は何も言えなかった。橋本のほうがマシだった、ということになる。
 また、「アメリカが日本を支えている。アメリカが日本の製品を買ってくれなければ困る」と言われているが、それは逆ではないのか。つまり、三〇〇兆円の国債を日本が買っていたから、アメリカはイラク戦争をできたのではないか。このように話を展開すべきなのだ。
 日本は、アメリカの国債を売ることはできないが、「売るぞ」と言うことくらいはできる。難しい駆け引きだが、「売るかもしれない!」「売ってはいけないと思っているが、間違って売るかもしれない!」など、外交上いろいろな言い方ができるというのに、それがまったくできていない。ドルという軍票に、いつまでも癒着しているばかりで、外交・政治とは別に、経済の問題として日米関係がまったくできていないのである。
 ドルは、もはや軍票としての有効性を失って、基軸通貨のままではいられないだろうというのが世界の共通認識となってきた。だから、財務官僚はドルの勢力圏からいつ抜け出すことができるかを考えなければならない。しかし、彼らは本当に頭が硬い。今までの延長線上でしかものを考えられないから、彼らに求めるのは無理だ。では政治家はどうか。政治家はもっと頼りない。


 「ドルもアメリカの軍事力を背景にしている」ので、「ドルの本質は軍票と一緒である」。その「ドルは、もはや軍票としての有効性を失って、基軸通貨のままではいられないだろうというのが世界の共通認識となってきた」。それにもかかわらず、「財務官僚はドルの勢力圏からいつ抜け出すことができるか」を考えようとしていない、と書かれています。



 引用部分は、『城山三郎と久野収の「平和論」』に収録されている「世界金融恐慌の読み方」(佐高信・著) の冒頭部分です。



 米ドルがアメリカの軍事力を背景にしており、ドルの本質は軍票と一緒であるというのは、おそらくその通りだろうと思います。

 しかし、そうだとすれば、なぜ、「ドルは、もはや軍票としての有効性を失って、基軸通貨のままではいられないだろうというのが世界の共通認識となってきた」といえるのでしょうか。それがわかりません。



 現在、一般に、(著者のいう)「世界金融恐慌」によってアメリカの経済力に陰りがみえてきた、と説かれています。したがって、

   アメリカの経済力が落ちるので、米ドルは基軸通貨のままではいられない

と説くのであれば、話はわかります。



 しかし、著者は、「ドルもアメリカの軍事力を背景にしている」ので、「ドルの本質は軍票と一緒である」と述べています。「ドルを軍票だとすると、アメリカの力が衰えたときには通用しない」と書かれていますが、

   ここにいう「アメリカの力」とは、アメリカの「軍事力」を指す

と考えるのが、論理の筋からいって、当然だと思われます。したがって、

   アメリカの「経済力」が多少、衰えたとしても、
   アメリカの「軍事力」が衰えないかぎり、米ドルは基軸通貨のままである、

という話になるはずです。



 そこで、アメリカの「軍事力」について考えると、

 いまなお、アメリカの軍事力は圧倒的であり、アメリカに対抗しうる国は現れていないと思います。世界中の海に空母を含む艦隊を展開し、宇宙にも偵察衛星を多数、配置している国は、アメリカのほかには、ひとつもありません (もっとも近年、中国の軍事力は急ピッチで増強されているようですが、アメリカに対抗しうるというには程遠いと思います ) 。

 したがって、

   アメリカの「経済力」は、「世界金融恐慌」によって落ち込むとみられるが、
   アメリカの「軍事力」が圧倒的である以上、米ドルは基軸通貨のままである

と考えなければなりません。



 私は、 (著者同様) ドルの軍票性を肯定するので、(著者とは異なり) ドルは基軸通貨の地位を維持し続ける、と思います。



 著者は「日本の国債も危ないが、アメリカの国債はもっと危ない」と書かれています。しかし、米ドルが軍票であるとするなら、アメリカの軍事力が圧倒的であるかぎり、米国債は暴落しないと予想されます。というか、「簡単には」暴落しないと予想されます。米国債は危なそうに見えて、じつは危なくない、と思います。

 したがって、日本の「財務官僚はドルの勢力圏からいつ抜け出すことができるか」を考えようとしないので優秀である、と考えるべきではないかと思います。



 なお、

 (1) 上記はあくまでも、私の個人的な意見であり、米ドルが基軸通貨たる地位を喪失したり、米国債が暴落したり、といったことが現実に起きるかもしれません。

 (2) 「アメリカの国債発行残高は三〇〇兆円と言われている」が、日本は「アメリカの国債を三〇〇兆円も買っている」というのは、あきらかに変ですが、原文をそのまま引用しています。

 (3) 私は米国債は安全だと思いますが、一般には米国債の危険性が説かれていますので、(著者の説く)「売るかもしれない!」「売ってはいけないと思っているが、間違って売るかもしれない!」などの駆け引きは、有効であり、一考の価値があると思われます。

表現の自由と、個人情報保護・名誉毀損について

2010-08-28 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.44 )

佐高  城山さんはそういう時代を経験されて、個人情報保護法案の時に、猛烈に反対されました。

城山  個人情報保護法案は言論の自由を奪うわけですから。言論の自由があればチェックは効くんですね。これは、われわれ国民が抵抗できる唯一のものなんです。「個人情報保護」という名前はいいんだけれども、取材をして文章を書こうとする作者は「あなたのことを書きますが、いいですか」と許可を得なくちゃいけないんですね。「あなたのお友達の、こういう人のところへ訊きに行きますが、いいですか」と許可を得なくちゃいけない。そんなことをしたら、何も書けないんですよ。それが、最初に小泉内閣が出した個人情報保護法案です。そういう法律を作って、いっさい黙らせようということをやり出したわけです。とにかく向こうもいろんなことを考えるもんですね。

(中略)

佐高  いま、空気としてあの時代と似てきていますか。

城山  どうしてああいう時代に入っていったかということを考えると、やはり言論の自由を失ったからだということは、明らかですからね。まだまだ日本に言論の自由はあるわけですから、相当神経質になってチェックする必要がありますね。


 日本が戦争 (戦時中の異常な状態) に突入していったのは、言論の自由がなかったからである。いまの日本には言論の自由があるのだから、それがなくなってしまう前に、相当神経質になってチェックしなければならない、と述べられています。



 説かれているのは、要するに、

   日本 (国民) を守るためには、国家 (軍部) の独善を阻止しなければならない。
   国家 (自衛隊) の独善を阻止するには、国民によるチェックが不可欠である。

   国民によるチェックを行うには、言論の自由が確保されていなければならない。

   言論の自由を、個人情報保護の美名のもとに制限することは断じて許されない。
   言論の自由が制限されてしまう前に、
   言論の自由を駆使して、言論の自由を守らなければならない、

ということだと思います。ここには、国家 (または軍部) に対する不信感が現れている、といってよいと思います。



 言論の自由が重要であることはあきらかだとは思いますが、同時に、個人情報の保護が重要であることも、たしかだと思います。そこでどうバランスをとるか、が重要になってくるのですが、ここで問題になってくるのは、公権力が、

   個人情報保護を口実にして、言論の自由を制限しようとする

ことです。いかに公権力でも、さすがに、「言論の自由が存在すると都合が悪いので、言論の自由を制限する」とは言えません。そこで、個人情報保護という口実を持ち出し、「個人情報を保護するために、言論の自由を制限する」と言う。その動きを阻止しなければならない、というのですが、



 じつは、同様の事情は、名誉毀損についても、存在しています。「「名誉等毀損情報」 該当性判断基準が必要」に書きましたが、

 自分に都合の悪い事実を隠したい者は、自分に都合の悪い事実が表に出そうになったときに、「自分に都合が悪い事実を表に出すことは許さない」とは言えません。そこで、歴史上、名誉毀損を口実にすることが行われてきた、とされています。つまり、「名誉毀損行為であり、許されない」と主張して、「自分に都合の悪い事実が表に出ることを阻止しようとする」ことが行われてきた、ということです。

 現に、名誉毀損罪は、「事実を公表した場合であっても、犯罪として成立する」とされています。事実を公表した場合であっても、名誉毀損になるというのは、「自分に都合の悪い事実を隠したい」人にとっては、きわめて都合のよい法律です。



法令データ提供システム」の「刑法(明治四十年四月二十四日法律第四十五号)

   第三十四章 名誉に対する罪

(名誉毀損)
第二百三十条  公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
2  死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。

(公共の利害に関する場合の特例)
第二百三十条の二  前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2  前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3  前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

(侮辱)
第二百三十一条  事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。


 「事実の有無にかかわらず」(つまり、事実であっても) 名誉毀損が成立する、と規定されています。もっとも、「例外」的に、事実であれば名誉毀損にならない場合もある、と規定が追加 (修正) されてはいます。



 このように考えると、言論の自由 (表現の自由) は制約されやすい自由 (権利) であることがわかります。したがって、個人情報保護を口実とした、言論の自由の制限を許してはならない、という城山さんの主張には、説得力があると思います。



 城山さんは、個人情報保護法が成立すれば、

取材をして文章を書こうとする作者は「あなたのことを書きますが、いいですか」と許可を得なくちゃいけないんですね。「あなたのお友達の、こういう人のところへ訊きに行きますが、いいですか」と許可を得なくちゃいけない。そんなことをしたら、何も書けないんですよ。


という状況になってしまい、事実上、「何も書けない」状態になってしまう、と述べられています。



 じつは私は、同じような経験を「実際に」しています。

 詳細は、「弁護士による「詭弁・とぼけ」かもしれない実例」をご覧いただきたいのですが、

一弁の湯山孝弘弁護士から、私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」と非難されたが、湯山弁護士は、「私のどういう行為が、どういう意味で」許されないのか、「具体的に教えてくれない」うえに、

こちらがアドバイスを求めてもいないにもかかわらず、湯山弁護士から、「誰にも言わないほうがいいと思う」とアドバイス(?)され、

「それでは警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と尋ねると、湯山弁護士の答えは、「あれはたいしたことない」、「警察に行く必要はない」の一点張り

という状況を経験したことがあります。「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないこと」がなぜ、「たいしたことない」のか、私にはわかりませんが、湯山弁護士は、「いままで築き上げてきたものを失いたくないんだ!!」と怒鳴ったりしていたことから、

湯山孝弘弁護士は、「いままで築き上げてきたものを失いたくないために」、事実が表に出ることを望んでおらず、「誰にも言うな」と言いたかったが、

まさか、「自分にとって都合が悪いので、誰にも言うな」とは言えないので、アドバイスを装って、「誰にも言うな」と私を脅した、

とも考えられるのですが、そうであるとすれば、

私が何度、「警察に行ってもかまいませんか?」と尋ねても、湯山弁護士の答えが、「あれはたいしたことない」、「警察に行く必要はない」の一点張り

だったのも、わかる気がします。



 この経験からも、あきらかだと思いますが、城山さんが暗に述べられているとおり、

   「あなたのことを書きますが、いいですか」
   「あなたのお友達の、こういう人のところへ訊きに行きますが、いいですか」

と許可を得ようとしても、「いいですよ」と答える人は、まずいないわけです。これでは、言論の自由 (表現の自由) がないに等しい、といってよいと思います。したがって、個人情報保護も重要だとは思いますが、

   事実上、「何も書けない」状態になってしまうのであれば、
   言論の自由が優先する、

と考えなければならないのではないかと思います。



 もっとも、これは難しい問題なので、さらに考えたいと思います。

日本における反戦論の根源

2010-08-27 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.40 )

佐高  城山さん、お住まいの近くではあまり講演とかをやらないのでは。

城山  講演は苦手なものですから、できれば勘弁してもらっています。地元でもそうなんです。佐高さんを尊敬していますし (笑) 、僕の言いたいことは、佐高さんが言ってくださいましたからね。
 私は実際に広島で原爆を見ているんですね。海軍にいまして、広島から七、八キロの所にある山の上の高射砲陣地にいました。その高射砲は、ブーゲンビルかどこかにあったものを持ってきたものでした。大正一〇年式だというんですね。昭和二〇年に大正一〇年式の大砲を持ってきた。弾を詰めようとする人は、年輩で兵隊に取られた人が多いですから、弾が重くてひっくり返っちゃうんです (笑) 。
 高角機関銃で飛行機を撃つんですが、機関銃なのに三発で撃つのを止めろというんです。「イチ、ニ、サン、……止めろ!」というんです。何のために機関銃があるのか知りませんけどね。アメリカ軍のグラマン戦闘機は、翼に機関銃をつけていますから、ババババと撃ってくる。それに対して、こちらは三発です。それが、末期の日本海軍の状況だったんですね。
 原爆が落ちた時に、教えていた教官が飛び上がっちゃったんです。海軍は沈着冷静だとさんざん言われているのにですね (笑) 。それで僕らが外に出てみたら、雷が一〇ぐらい落ちた明るさがあって、すごく怖い状況なんです。上官でも説明がつかないんですが、水力発電所が爆発したらしいと言うんです。火力発電所が爆発したのなら分かるんですが (笑) 。
 軍隊ですから広島へ救援に行くべきなのですが、陸軍と海軍は仲が悪かったんです。広島は陸軍の都で、僕らは海軍でしたから命令が出てこないんですね。次の日も基地の近くで訓練をしていました。そうしたら、どこかの家からおばさんが飛び出てきて、抱きついて、「兵隊さん、息子は広島で酷いめにあって殺されたんです。仇を討ってください」と泣いて言うんですね。
 原爆が落ちたということは後になってから説明されたのですが、僕らは「あれは光線を使う爆弾だ」と教わったんです。だから、「光線が通れないようにしておけば、絶対に怖くない」ということになった。次の日から第一種軍装といいまして、真っ白な服装をしろ、ということになりました。これで光線は通らないからいい、ということなんです。本当にいい加減なものですね。
 僕ら自身、最後は何をやらされるかと思ったら、横須賀の油壷へ送られました。僕らがいるのは呉鎮守府なのに、なぜ横須賀鎮守府に持って行かれるのかと思いましたが、「お前たちの仕事は向こうにあるから行け」ということでした。「行く前に向こうで間に合う訓練をしておくから」と言われて、水中で呼吸ができる道具を付けて、「水中特攻」の訓練をしたんですね。その頃そういう言葉はなかったんですが、最近それに関する本が出てきました。
 それは、人間が爆弾だということです。竿の先にダイナマイトを付けたものを持って、遠浅の海で待つ。敵の船が来るのは遠浅の海ですから、その読みは正しかったんですね。湘南海岸は東京に近くて遠浅ですから、上陸しやすい。それを迎え撃つ仕事をさせられるわけです。
 僕らの受けた訓練は、海の中に縦横五〇メートル間隔に並んでいる。人間機雷というんですが、機雷を持った人間がそこにいるということなんですね。上陸用舟艇に乗って敵が来たら、下からバンと爆破する。そして自分も吹っ飛ぶ。こういうことを、真面目にやらされたんですね。
 その時は何がなにやら分からなかったのですが、とにかく敵は東京を狙ってくる。東京に近くて上陸しやすい所に来る。それが茅ヶ崎海岸だったんです。遠浅で、上陸用舟艇が入りやすいんです。まさか、後にそこに住むとは思わなかったんですが、いまもその跡は残っています。海岸にあるコンクリートの建物が特攻の陣地だった。砂の上に特攻の陣地があるなんて、どうしてだろうと思っていたら、その建物に人間が入っていて、敵が近づいてきたら飛び出していって、海の中で特攻をやるということだったんですね。
 恐ろしいことを考えるというか、そんなところに行くまでにブレーキがかからなかったのか。そんなことをやって、勝てるわけがないんですからね。めちゃくちゃですね。よくあれで戦争をやったと思う。

佐高  勝てるという気持ちはどこからかなくなっていたんですか。

城山  神風が吹くということを、一五歳の頃からたたき込まれていますからね。そう思って、戦況は逆転するんじゃないかという期待を持っていました。

佐高  三発しか撃っちゃいけないと思っていても、それは崩れないわけですね。

城山  崩れないわけではなくて、これで勝てるかとは思っていました。ここまで来るまでに、何とかできなかったのか、こういうことをやって勝てるか、と思いました。呉の近くにいて油壷送りというのは、もう少し早く送り込まれていたら、何十年か早くここで死んでいるわけですね。


 城山三郎の戦争体験が語られています。



 この本、『城山三郎と久野収の「平和論」』は、二部構成になっています。それぞれ、見出しは、

   第一部  城山三郎の「反戦論」
   第二部  久野収の「非戦論」

となっており、第一部は城山三郎と佐高信、第二部は久野収と佐高信の担当です。上記引用部分は、第一部のうち、城山三郎と佐高信の対談部分です。



 見出しが示すように、この本は、「反戦・非戦」を主張しています。私は憲法九条の改正 (論) を支持していますが、軍事力によらずに国家を防衛できれば、それに越したことはないと思います。そこで、「反戦・非戦」論者がどのような発想に基づいて「護憲」を主張しているのか、それを知るべく、この本を引用したいと思います。



 今回の引用部分で、城山さんが語っておられるのは、日本がいかに勝ち目のない戦いをしたか、ということです。そしてまた、その勝ち目のない戦いのなかで、日本がいかに戦おうとしていたか、ということです。

 ここで、語られている内容について、簡単に私見を述べます。



 (1) 高角機関銃で敵機を迎え撃つ際、機関銃なのに三発で撃つのを止めろと言われた。これに対して、アメリカ軍の戦闘機はババババと撃ってくる。

   ここからは、当時、日本軍の物資がいかに欠乏していたかがわかります。戦闘機相手に、三発しか撃ってはいけないというのですから、防衛はほぼ絶望的だった、とみてよいと思います。



 (2) 原爆が落ちた際に、水力発電所が爆発したらしいと説明を受けた。しばらくして、光線を使う爆弾だと教わった。そして、真っ白な服装をしろ、これで光線が通らないから大丈夫だ、ということになった。これを「第一種軍装」という。

   水力発電所が爆発したらしい、という話には、日本軍にとって、原爆がいかに予想外だったかが示されています。したがって、日本には原爆に関する知識がなかった、圧倒的な技術力・情報力の差があった、と考えられます。もっとも、「上官」といってもどのクラスの上官なのかが判然としないので、この記述をもって圧倒的な技術力・情報力の差があったと断定してよいものか、すこし迷う部分はあります。

   しかし、「真っ白な服装をしろ」「これで光線は通らないからいい」ということになった、とあります。こちらは上官の個人的判断ではなく、「海軍の(それなりに正式な)判断」とみてよいでしょう。とすれば、圧倒的な技術力・情報力の差があった、とみてよいのではないか、と思われます。



 (3) 「人間機雷」の訓練を受けた。これは「水中特攻」である。

   この部分は、日本がいかに追い詰められていたか、あきらかな負け戦であると判明しつつある状況のなか、日本はどのように戦おうとしていたのか、を示しています。



 (4) これで勝てるか、と思いつつも、神風に期待していた。

   上記 (3) は日本という「国家」、海軍という「組織」がどのような決断をしたか (どのように考えたか) を示していますが、この (4) は城山三郎という「個人」はどのように考えていたのか、を示しています。

   おそらくこれは、多くの兵隊さんに共通した考えかた、受け取りかただったのではないかと思います。



 このように、城山さんが語られた内容からは、日本は「どうあがいても勝ち目のない、あきらかな負け戦のなか、最後まで戦おうとしていた」ことがわかります。これは人によっては、「死力を尽くして戦った」美談ということにもなるのでしょうが、その逆に、「勝ち目がないならさっさと降伏すべきである。勝ち目がないことがあきらかになった後の戦いは、くだらない」という受け取りかたもあります。

 おそらく、城山さんは「くだらない」という受け取りかたをされたのではないか。上記引用のなかに、「(笑)」と書かれている部分が散見されることから、このように考えられます。

 とすると、城山さんの「反戦論」というのは、

   「どんな戦いであれ、戦争そのものに反対である」というものではなく、
   「勝ち目のない戦争には反対である」という趣旨である

とも考えられます。

   「たとえ勝てることが確実であろうと、戦争には反対である」という考えかたと、
   「勝てる見込みがある戦争であれば反対しない」という考えかた

とでは、その内容がまったく異なります。後者であれば、(二度と負け戦はしなくてすむように) 日本は防衛力 (軍事力) を高めるべきである、という考えかたも成り立ちます。



 したがって、日本における「反戦論」が、「本当の意味での反戦論」なのか、「負け戦否定論」なのか、そのあたりを吟味しなければならないのではないかと思います。