言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

郵政改革肯定論

2009-09-30 | 日記
 以下は、「郵政改革 ( 橋本改革 )」 と 「橋本郵政改革の評価」 の続きです。なお、タイトルの 「郵政改革肯定論」 には、「あえて」 郵政改革肯定論を述べる、といったニュアンスも込めています。



紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.113 )

 別の資金源が必要だと大蔵省は主張し、債券を発行できない特殊法人のために、別に「財投債」というあらたな国債を発行することに決まったのである。財投債は、国の保証で発行する国債の一種だ。
 そして、当然のことながら、財投機関の資金源は財投機関債ではなく、そのほとんどを財投債に頼ることになったのである。

(中略)

 資金源を財投債発行に頼ることになって、各省の財投機関に対する大蔵省の影響は一段と大きくなった。財投債の発行権限は大蔵省にあり、そこから資金を分配してもらわなければ、どの財投機関も資金を断たれることになるからだ。
 もともと大蔵省は、財投資金の分配権限を持っていた。財投の資金源となっていた郵貯も、年金の積立金も、大蔵省の理財局が所管する資金運用部という勘定に預託されて、そこから各財投機関に割り振られていた。
 財投改革のために郵政民営化、といわれ続けると、なんとなく責任が郵便局にあるような気がしてくる。だが、実は、お金の使い道を決めていたのは、大蔵省だったのである。

(中略)

 財投債の導入によって、大蔵省は、資金を分配する権限だけでなく、収集する権限も手に入れた。
 財投非効率について、もっとも責任を負うべき大蔵省が、その責任を不問に付されただけでなく、財投債によって、より完璧な権限を手に入れたのである。


 財投機関債の発行が困難な財投機関が多かったので、財投債を発行することになった。しかし、財投債は、もっとも責任を負うべき大蔵省が、より完璧な権限を手に入れたことにほかならない、と書かれています。



 大蔵省 ( 財務省 ) は国債の発行を抑えようとしていると思います。したがって、郵便貯金の預託義務が廃止され、財投債の発行へと変わったことは、財投機関の支出を抑え、効率化へとつながりやすいのではないかと思います。

 大蔵省の焼け太り、と言われれば、そうかもしれません。しかし、目的は ( 大蔵省改革ではなく ) 財投機関の効率化だったはずです。財投機関の効率化につながるなら、それでもかまわないのではないか、と思います。



 ここで、私なりに考えてみるに、改革後の状況は、
  •  郵便局 ( 郵政公社 ) は、預託義務が廃止され、資金運用の自由を得た。財投機関債・財投債を買ってもよいし、買わずに他の運用を考えてもよい。
  •  財投機関も、財投機関債の発行が困難で、ほとんど財投債に頼らざるを得ないとはいえ、効率を高めれば、財投機関債のみで乗り切れる可能性がある。おそらく、財投機関としては、大蔵省の影響力を排除・縮小すべく、効率向上に努める強力な動機になる。
  •  大蔵省 ( 財務省 ) は、国債 ( 財投債 ) の発行を減らしたい。したがって、財投機関には、支出の削減 ( 効率向上 ) を促すと考えられる。

という構図になっていると思います。

 この構図は、財投機関の効率向上を強く促進する効果をもつはずです。



 公的事業である以上、いかに努力しようと、効率化には限界があり、採算は取れない、という見地に立てば、橋本改革は大失敗だった、と評価せざるを得ないとは思います ( 「橋本郵政改革の評価」 参照 ) 。

 しかし、改革は、効率化に向けたインセンティブを与えています。意外にうまくいき、改革は成功するかもしれません。

 とりあえず、効率が向上するのか否か、様子をみればよいのではないかと思います。

橋本郵政改革の評価

2009-09-29 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.110 )

 橋本郵政改革は、何を行ったか。それまでは法律で、郵便貯金は大蔵省に預託すると定められており、それを大蔵省が財投資金として分配していた。
 つまり、財投にお金を垂れ流していたのは、郵政省ではなく、大蔵省だったのである。橋本改革は、その「預託義務」を廃止した。郵便貯金は、郵政公社が自主運用することになり、財投の資金源として、自動的に財投に流れ込むルートは閉ざされたのである。
 代わりに、財投機関はそれぞれ、市場で「財投機関債」を発行することになった。必要な資金は債券発行によってまかなう、とされたのである。
 この「改革」のねらいは、財投の事業の必要性を市場に判断させる、という点にあった。債券の買い手がいるということは、投資家(市場)が、その事業は見込みがある、採算がとれると評価したことになる。
 債券が売れない事業は、「市場が評価しない事業=ムダな事業」という考え方なのだ。投資家の判断をゆがめないために、財投機関債には政府保証をつけない、政府保証をつければ、事業のリスクが正しく評価されないからだという。

(中略)

 財投機関であれ、なんであれ、政府の事業は、公共目的を持っている。そして、それは民間の投資採算とはまったく別の基準で判断されるべきものである。たとえ、投資採算が悪くても、公的に必要なら、実行しなければならない事業がある。逆に言えば、採算が合わないからこそ、公的に行うのである。
 自力で債券を発行できるような特殊法人は、逆に存続させるべきではない。市場が要求する金利を払える事業なら、民間ベースで採算がとれる事業であり、公的に行う必要がないからだ。それこそ「民にまかせるべき」なのだ。それなのに財投機関債を発行できる機関を残す、というのは、まったく逆なのである。
 財投事業において判断すべきは、それが採算がとれるかどうかではなく、公的な必要があるかどうか、である。
 そして、ひとつひとつの財投機関の事業が、必要かどうかを決めるのは、国民(政治)であって市場ではない。財投機関債の発行は、マスコミから学者までこぞって後押しした改革だったが、大間違いだったのである。
 財投機関債に政府保証をつけないとしたことも、大きな誤りだ。政府保証もつかないのに、基本的に採算のとれない事業の資金調達に、応じる者などいるだろうか。
 必要なことをできるだけ低いコストで行うのが、公的事業の効率性のはずである。だとしたら、資金調達も、できるだけ低い金利で行うべきだろう。それなのにわざわざ政府保証をはずして高い金利を払うのは、改革逆行ではないだろうか。


 橋本郵政改革は、公的事業に市場メカニズムを導入することを目指し、郵便貯金の預託義務を廃止して財投機関が財投機関債を発行する、とした。しかし、市場が判断するのは事業の採算性であって、必要性ではない。この改革は、大間違いである、と書かれています。



 著者は、公的事業とは本来、採算のとれない事業であり、財投機関債を発行するというのは、改革どころか、かえって改革に逆行していると説いています。

 たしかに、市場は投資採算を評価するのみであり、事業の必要性は判断しません。採算のとれる事業なら、それこそ民間にまかせるべきであり、採算がとれないからこそ、公的事業として行わなければならない。この考えかたには、異論の余地はないと思います。



 しかし問題は、いかにして 「必要なことをできるだけ低いコストで行う」 か、です。いかにして、「公的事業の効率性」 を高めるのか。それを考えるとき、市場メカニズムを導入する、という発想は、自然なものだと思います。

 効率性、というとき、通常は、市場メカニズムを考えると思います。市場メカニズムは、人類が生みだした ( おそらく ) もっとも効率的なシステムだからです。



 著者の意見 ( 橋本郵政改革批判 ) は正しい。けれども、批判を述べるのみでは意味がないのであり、「それでは、どうすべきか」 こそが、重要です。

 その部分を、著者は述べていない。著者は、「女性投資家の会」 の代表幹事、と本の奥付に書かれており、その立場であれば、述べる必要はないかもしれない。「どうすべきか」 を考えるのは政治家や官僚の役割であり、著者は、その立場にはない。しかし、批判するなら、「それでは、どうすべきか」 も、併せ、述べるべきではないかと思います。

 橋本改革には問題があった。私も、それには同意しますが、なにかを変えなければならない、というとき、たとえ問題・欠陥を抱えた方法であれ、改革の一歩を踏み出したことそのものは、評価されてよいのではないかと思います。

郵政改革 ( 橋本改革 )

2009-09-28 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.107 )

 橋本改革においては結局、「郵政民営化」でなく「公社化」と決まったが、郵便貯金が財投(財政投融資)の資金として流れるルートは断ち切った。橋本首相が「郵政民営化」をめざしたのは、それが財投の非効率を正すひとつの手段と考えたからである。
「財投が非効率なのは、事業のいかんにかかわらず資金が確保されているからだ。したがって、資金源を断てば財投は効率化されるはず、そのためには郵便局の民営化」という論法だった。
 これは、小泉氏の郵政民営化論でも使われた論法だが、乱暴で非論理的な主張であったにもかかわらず、多くのマスコミや識者が共感し、賛同してきた。財投の非効率は、かねてから、国民の共通認識となっており、財投改革という大義名分が、疑問を拒否し、いつのまにか郵政民営化それ自体が改革の目標と化してしまったのである。

(中略)

 さて、「財政投融資」とは、国が行う投資や融資のことである。たとえば、民間金融機関がリスクやコストが高すぎるとして融資を行わない住宅資金や事業資金を貸し付けたり、あるいは、あまりに巨額の資金が必要で民間では負担しきれない、高速道路やダムなどの公共施設に投資を行うのである。
 公共性の強い事業であるため、必要とあれば採算を度外視して行うが、それを口実に、きわめて非効率な運営がなされている。

(中略)

 財投改革のために「資金源を断つべき」という話は、論理が飛躍している。そもそも、財投に問題があるなら、なぜ財投を直接改革しないのか。なぜ資金源なのか。
 財投改革を行うなら、まずは、個々の財投事業の必要性を議論すべきである。それぞれの事業が、公的に行う必要性があるかどうかを見定めねばならない。公的に行う必要がないなら、その事業は廃止か、民営化すれば良いだろう。
 公的に行う必要性があるとなったら、次に行うのは、それを効率的に行っているかどうかのチェックである。非効率というなら、どこがどのように非効率なのか、それが許されてきた原因はどこにあるのか、などを明らかにすべきだろう。原因分析もなしに、対策など決められるはずがない。
 問題が明らかになって、はじめて、その解決のための手段を論じることができる。必要な事業かもしれないのに、いきなり資金源を断てば、事業そのものの存続が危うくなる。必要性と効率性は、分けて考えるべき問題だ。資金源を断てば、効率化されるという保証もない。


 財政投融資 ( 財投 ) の効率化を目的として、郵政改革が行われたが、この 「改革」 は筋が通らない。財投の効率化を目指すなら、財投そのものの必要性・効率性を論じ、効率化を図るべきである、と書かれています。



 この記述、説得力があります。とくにつけ足すことは、なにもありません。



 …ですが、せっかくなので、なぜ、資金源を断とうとしたのか、を推測してみます。

 おそらく、論議を重ねて 「計画」 を練っていても始まらない、実際に 「困る状況」 を作ることで、現場は ( 真剣に ) 知恵を絞って効率化するはずだ、という発想だったのではないかと思います。

 この考えかたにも合理性があり ( 私なりに、合理性のある理由を考えたので当然ですが ) 、橋本改革も、( ある程度 ) 評価されてもよいのではないか、とも思います。

 もっとも、資金源を断つことと、民営化、あるいは公社化とは、かならずしも結びつかないと思います。したがって、この考えかたをとった場合でも、橋本改革に問題があった、という著者の考えかたを覆すことにはならないこと、もちろんです。

為替介入とのバランス

2009-09-27 | 日記
 次に引用する部分は、株価の PKO をせよ、という主張の根拠として書かれています。したがって、「株価 PKO の是非」 で引用した部分とあわせてお読みください。



紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.51 )

 株価への介入を批判する人々が、為替への介入を批判しないことも、矛盾である。為替市場への政府の介入、しかも公的資金での介入は、日常的に行われているが、それを禁じ手とする批判は、ほとんど聞いたことがない。
 株価の暴落が、急激な円高と同じように、国の経済、ひいては国民生活に重大な影響を与えると予想されるとき、介入して、それを未然に防ごうとするのは、当然の試みではないだろうか。もちろん、有効とは限らない。しかし、やってみる価値はある。


 為替への介入が行われているなら、株価への介入も当然、認められてしかるべきである、と書かれています。



 最初に一点、指摘しておきたいのは、「為替市場への政府の介入、しかも公的資金での介入は、日常的に行われている」 というのは、すくなくとも日本については、あてはまらない、ということです。日本ではここ数年、為替介入は行われていません。おそらく著者は、( 日本では為替介入は行われていないが ) 海外では行われている、という趣旨で書かれたのではないと思いますので、この部分、著者の誤解ではないかと思います。



 さて、一般的に為替介入は許容されているにもかかわらず、株式市場への介入は認められていない。これは不均衡ではないか、という指摘には、説得力があります。

 けれども現在、日本では為替介入は行われていませんし、米国も為替介入には否定的ではないかと思います。すなわち、株式市場への介入を否定的に捉えるのと同様に、外国為替市場への介入も否定的に捉える、というのが、現在の流れになっており、株式・為替ともに、介入をしない方向で、不均衡が解消されつつあるのではないかと思います。

 著者の、株式・為替ともに介入せよ、という発想とは、正反対の方向になっているのはなぜか、を考えてみますと、やはり、介入によって強引に価格を操作するのは不自然である、好ましくない、ということなのだと思います。



 また、著者は、「株価の暴落が、急激な円高と同じように、国の経済、ひいては国民生活に重大な影響を与えると予想されるとき、介入して、それを未然に防ごうとするのは、当然の試みではないだろうか」 と書かれていますが、

 そうであるなら、株価が 「急激に変動したときにかぎり、変動を緩やかにするためにのみ」 株式市場への介入を認める、ということになります。この主張は、「株価を維持するために ( 景気対策として ) 」 介入せよ、という著者の主張とは、相容れないと思います。



 したがって、( 引用部分の ) 著者の主張は全体として、説得力がありません。株式市場への介入は好ましくない、と考えるべきだと思います。

株価 PKO の是非

2009-09-26 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.50 )

 PKOは即効性があり、効果も大きかったが、評判はきわめて悪かった。「株式市場に公的資金を投入するなどとんでもない」「まして株価の買い支えなんて」「損をしたらどうする」「国民のお金で投資家を儲けさせるのか」と、さんざんであった。
 公的資金の導入は、どこの国でも国民の抵抗が強い。しかも、PKOの対象は、博打の一種とみなされている株式市場だ。サブプライム・ローン危機における米国でもそうだった。公的資金導入の法律を作りながら、政府は「これは使わない」と言わざるを得なかったほどである。
 一般国民が反発するならわかる。だが、経済学者や経済ジャーナリストのいわば専門家たちが反対したのは、理解できないことだった。専門家の反対理由も、一般国民と大同小異だ。市場メカニズムに介入し、株価を買い支えるのは「政府による株価操作」であり、「禁じ手」だ、というのだ。
「株価は実体経済を映す鏡だ。鏡を持ち上げても実体経済は変わらない」などと、わけのわからない論文を書いた経済学者もいた。経済の専門家が、経済の相互作用を知らないのだ。株価は実体経済の鏡だが、実体経済もまた、株価水準によって影響を受ける。鏡が実体経済を変え得るのだ。
 そもそも市場への介入は、そんなに非難されるべきことか。戦後最大の株価大暴落という緊急事態である。市場メカニズムが経済そのものより、大事であるはずがない。たとえ、どんなに経済の安定を損ない、国民生活を傷めても、市場メカニズムに委ねるべきだというのだろうか。市場メカニズムだけでうまく行くなら、政府そのものが、はじめから必要ないはずだ。


 宮沢内閣による株価 PKO を支持する見解が、理由とともに書かれています。



 当時、PKO を批判する見解が一般的だったと思います。著者は、そのような批判、批判理由に対し、「わけのわからない」 見解である、と主張されています。

 株価と実体経済とは、相互に密接につながっています。したがって、株価が下落すれば、実体経済も傷み、株価が上昇すれば、実体経済に好影響が及ぶ、というのは、当然だと思います。この点については、( 私には ) 異論はありません。



 しかし、株価の買い支えが市場メカニズムに対する介入であり、「禁じ手」 である、という見解には、無視しえない必然性があると思います。

 もともと、経済学は科学たらんとしています。すなわち、経済学の視点でいえば、価格は 「必然」 によって決まる、と考えることになると思います。それにもかかわらず、政府の介入によって ( 強引に ) 価格を操作すれば、必ず、どこかに歪みが生じる、と考えることになると思います。

 著者は、「そもそも市場への介入は、そんなに非難されるべきことか」 と書かれていますが、私は、「非難されるべきこと」 にあたると思います。市場への介入とは、資本主義の否定にほかなりません。日本が資本主義国家である以上、政府は市場に介入してはならない、と考えるのが当然だと思います。



 けれども、株価の暴落を放置して、実体経済が破壊されるのを傍観すべきなのか、というと、それもいかがなものか、とも思います。資本主義体制の維持と、国民の暮らしと、どちらが大切なのかは、比べるまでもありません。

 そこで、きわめて例外的な対応として、政府による市場介入が必要不可欠である場合には、認めてもよいのではないか、と思います。「緊急事態」 には、政府による市場介入が行われても、かまわないのではないかと思います。



 なお、このように述べた場合に問題になるのは、「それでは、どのような場合が、政府による市場介入が許容される緊急事態にあたるのか」 ですが、これは価値判断の問題であり、理論的に、論理のみによって判定可能な問題ではありません。まさに、「政治判断」 の問題であり、個々の場合において、許容されるか否かを、世論に沿って判断せざるを得ないのではないかと思います。一般国民の意見を考慮しつつ、判断するほかないと思います。