言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

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乗数理論と所得・貯蓄

2009-06-30 | 日記
伊東光晴 『ケインズ』 ( p.126 )

 いま、人々が今までよりももっと貯蓄しようとしたとしよう。たしかに、今まで所得の一割を貯蓄していたのを二割にふやせば貯蓄額は二倍になるかもしれない。個人については真である。しかし今まで一割であった人がもしもすべて二割貯蓄しようとしたら……ケインズの答えは、社会全体の貯蓄額には変りがないのであって二倍にはならないというものであった。なぜかといえば、社会全体の貯蓄の量は、ケインズが強調したように投資の量に等しく、投資の量が変わらなければ、貯蓄の量も変わらないからである。変化するのは貯蓄の量ではなく、社会全体の所得の量である。
 乗数理論を思い出してほしい。
   所得 = 1 / ( 1 - 消費性向 ) × 投資
であった。一割貯蓄していたということは乗数 1 / ( 1 - 消費性向 ) の値が一〇ということであり、二割貯蓄するということは、乗数の値が五になるということである。したがって投資が一〇〇億円であるならば、所得の大きさは一〇〇〇億円から五〇〇億円に低下してしまうのであり、貯蓄はといえば一〇〇〇億円の一割一〇〇億円と五〇〇億の二割の一〇〇億円で、変化がないのである。貯蓄をふやそうと努力しても結果としてふえない。fallacy of composition (結合の誤り) である。
 消費者は何割貯蓄するかをきめることはできる。しかし貯蓄の総額はきめることはできない。動くのは所得(産出高)であるという、このケインズの理論は、貯蓄をふやそうとする個人の努力は、経済の規模を縮小し、所得を低め、結果として失業を生みだすという、今まで考えつかなかった結論を引きだした。貯蓄は美徳でないかもしれない。


 消費者が貯蓄の割合を増やせば、労働者の所得が減り、貯蓄額は増えない、と書かれています。


 上式の乗数 1 / ( 1 - 消費性向 ) は、無限等比級数の和を計算しているからです。

 不況の時期に、貯蓄を増やそうとしても、結果として貯蓄額は変わらない。それどころか、所得が減るから、不況はますますひどくなる。したがって貯蓄は美徳ではないかもしれない、となるのですが、

 これを逆にいえば、

 貯蓄の割合を減らしても、結果として貯蓄額は変わらない、となります。


 だったらガンガンお金を使ったほうがいいじゃん、景気がよくなり、所得が増えるじゃん、となるのですが、これは、「全員が」 ガンガンお金を使えば、の話です。貯蓄を増やそうとする人がいれば、その人だけが得をします。お金を使った人が損をする。したがって、現実には、だったらガンガンお金を使ったほうがいいじゃん、とはならない。

 となると、政府が公共事業をすべき ( 税金で回収すれば、全員がガンガンお金を使うのと同じ ) 、と考えられます。
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ケインズの雇用理論

2009-06-30 | 日記
伊東光晴 『ケインズ』 ( p.96 )

 伝統的な理論と新しい理論との相違は労働供給曲線の相違である。なぜ労働供給曲線は新しい理論のように、A点まで水平なのであろうか。いま一〇人の労働者を雇い、一人一日一〇時間働かしている企業があったとしよう。全体で一〇〇時間の労働である。いま仕事の量がふえて、全体で一一〇時間の労働が必要だったとき、企業家にはこれに対処する二つの道がある。
 第一は、労働者はいままでどおり一〇人であるが、労働時間が一日一一時間で、一人当りの労働時間を一時間ずつ延長させる方法である。この場合にはどの労働者も今までよりも労働時間がふえるのであるから、時間の延長による労働者の苦痛は増加する。したがってこの苦痛の増加を充分補う賃金が支払われなければ労働者は満足しない。だから賃金は上昇する。

(中略)

 ところが全部で一一〇時間の労働量を確保するにはもう一つの方法がある。それは、労働者一人当りの労働時間は今までどおり一〇時間のままであるが、雇う労働者を一人ふやして一一人にし、全体で一一〇時間を確保する方法である。この場合には、どの労働者の苦痛も今までとくらべて増加するわけではない。したがって一人当りの賃金も増加する必要もない。これが新しい理論の場合である。

(中略)

 反対に労働時間が短縮される場合はどうだろう。
 伝統的な理論は、全部の労働量が五〇時間で充分になったときも、今までと同じように一〇人の人が雇われたままで、各人が一日五時間しか働かない場合を想定している。
 ところが新しい理論は、労働者一人当りの労働量は今までどおり一日一〇時間であるが、雇われる人が今までの一〇人から五人になった場合を考える。残りの五人は首を切られ働きたくても職をうることのできない非自発的な失業者である。
 伝統的な理論は、一国全体の雇われている人の数には変化がなく、ただ各人の労働時間が長くなったり短かくなったりする労働市場をえがいている。ちょうどそれは、一人の人間が労働時間を長くしたり短かくしたりしたようなもので、一個人の行動と全社会の行動とを等しいと見る理論であった。だから働きたいと思う人はすべて雇われ、その人たちが一〇時間働くか、八時間働くかが問題であった。したがってはじめから働きたい人は全部雇われるという意味で完全雇用の前提の上に立っていた理論であった。
 これに対して、新しい理論は労働需要いかんでは失業者が生れるという不完全雇用を前提として理論を立てた。

(中略)

 ケインズは、自分の理論は古典派の完全雇用の場合をも、そしてかれらが見なかった不完全雇用の場合をも、ともに含む一般理論だといったのである。


註: 下線部分は原文では圏点になっています。

 ここには、非自発的失業が生じるメカニズムに着目する、ケインズの労働理論が説明されています。


 ケインズの説くとおりだと思います。


 ところで、ケインズの理論からいえるのは、不況の際に、「すべての企業が、労働者の数を減らすのではなく、人数はそのままで一人当たりの労働時間を減らせば、古典的理論はそのまま適用可能である」、 です。ワークシェアリングを行えば、( 一人当たりの賃金は下がるけれども ) すべての労働者を雇用可能になります。

 もっとも、ワークシェアリングを行う方向で考えるなら、労働者 ( 労働組合 ) が反対しては困りますから、労働者の問題になります。
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労働組合による独占と失業

2009-06-30 | 日記
伊東光晴 『ケインズ』 ( p.89 )

 この経済理論 (引用者註: ケインズ以前の経済理論) に立つかぎり大量の失業は、第8図のように、現在の賃金が、労働市場の需要と供給とを均衡させる賃金率よりも高い賃金であることによって説明する以外なかった。賃金が高すぎる。そこで働きたいという人は多くなる。一方、雇おうという人は少い。当然両者の間にギャップが生ずる。このギャップは、この賃金の下で働きたくても職を得ることのできない人――つまり今問題になっている失業者である。そこで問題は、なぜ賃金が需要と供給とを等しくする水準まで下らないかという点である。もしも労働市場が競争的であるならば、当然賃金は低下し、需要と供給は等しくなり、働きたい人はすべて雇われるという完全雇用の状態に達するはずである。ところが賃金が低下しないのは、この競争を阻害している労働市場での独占があるからだ。つまり労働組合による労働供給の独占――賃金切下げを受け入れない労働組合の力によって、賃金水準が高すぎ、その結果大量の失業者が生れるのである。失業の原因は労働組合、つまり労働者の行動それ自体のなかにある。これが、この伝統的な理論からの帰結であった。


 ケインズ前の経済理論によれば、大量の失業は、賃金が高すぎるから生じるのであり、労働組合による労働供給の独占が問題である、とされていたことが記されています。


 この説明、論理的には、筋が通っていると思われます。しかし感覚的には、どこか 「おかしい」 気がします。それはおそらく、「賃金が高すぎる。そこで働きたいという人は多くなる」 が、実態とは違うからではないかと思います。

 そもそも、大量の失業が ( 社会的な ) 問題になるのは、不況期です。不況の時期に 「賃金が高いから働こう」 とは、普通、思わないのではないでしょうか。「就職を望む人々の声」 にみられるとおり、「たとえ賃金は安くてもいいから、生活のために働きたい ( 働かざるをえない ) 」 と思うのではないでしょうか? 働いたほうが 「得だから」 働くのではなく、「生きるために」 働くのが、通常の感覚ではないかと思います。

 もっとも、自営業 ( たとえば個人商店を営む ) よりも、( 賃金が高いために ) 就職したほうが有利だから、「賃金が高すぎる。そこで働きたいという人は多くなる」 と読めば、実態に合致しているとも考えられます。しかし、( 大量の失業が問題になっている状況が前提ですから ) このような読みかたには、無理があると思います。

 したがって、この考えかたは、実態からズレていると思います ( 伝統的な理論は、理論的に妥当な賃金よりも 「高すぎる」 と言っており、筋が通っているとは思います ) 。


 なお、引用部後半、「労働組合が一種の独占組織であり、労働組合による独占が、( 理論価格よりも ) 高い賃金をもたらしている」 は、その通りだと思います。
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ケインズ以前の経済理論、および政治状況

2009-06-29 | 日記
伊東光晴 『ケインズ』 ( p.86 )

 このような経済像から、伝統的な経済理論は次のようなことを結論する。
 (イ) 競争さえ確保されていれば、現在の技術・資源・人々の趣好などにマッチするように価格がきまる。需給の不一致が生じたり、技術や資源に経済が適応しないのは、競争状態を阻害する独占が市場に存在するからである。したがって、伝統的理論は経済政策として、国家のなすべきことは、独占の排除、自由競争の確保だと主張する。
 (ロ) 競争さえ確保されているならば、人々は価格を目安に、自分がもっとも得なように行動すればよい。その結果は、経済は均衡状態になる。

(中略)

 (ハ) こうした価格の自由な動きによってもたらされた経済の均衡――それによる調和を外部から破壊してはならない。政府が経済に干渉することは、この自由競争と自由主義、個人主義原則による調和を攪乱することであるから、政府のなすべきことを最小限に止どめる安価な政府であるべきであり、同時に政府の財政は、この調和に無関係なように、収入と支出とが等しい均衡状態であるべきだ。

(中略)

この見方は、価格をもって経済を動かす戦略的な要因と見なすところから、外部製品との競争に対しては、これに関税をかけて外国品の価格を高めさえすれば、国内の産業は保護できるという考えを生みだした。国内に対しては自由競争を主張し、対外的には関税による保護政策をとるという一見矛盾する考えが、経済についての同じ理論と同じ見方から発生するのである。

[ケインズの苦闘]

 このような伝統的な理論は、一九二〇年代から三〇年代にかけて動揺をきたしてはいた。安価な政府は労働党の出現による社会立法によって後退しつつあった。しかしこのような考え方がいかに政治経済を支配していたかは、労働党が均衡財政を守るために自分の主張である失業保険制度を縮小させてしまったことでもわかる。保守党を中心とする考えが価格の動きを利用して関税による国内産業の保護をはかろうとしたことでもわかる。


註: 下線部は、原文では圏点になっています。また、引用文中の括弧に囲まれた部分、すなわち [ケインズの苦闘] は、本のなかの見出しを示しています。

 自由競争を主張する伝統的な理論が、対外的には関税による保護政策を主張していた旨、記されています。また、当時のイギリス議会が、伝統的な理論に沿った主張をしていたことも、記されています。



 伝統的な ( ケインズ前の ) 理論に沿った主張を、当時のイギリス議会が行っていたことは、重要だと思います。労働党が ( その支持基盤である ) 労働者に不利な主張をしたり、保守党が ( その支持基盤である ) 資本家に不利な主張をしたりしていたことになるからです。

 このことは、引用文中に示されているように、いかに、伝統的な理論が強い影響力をもっていたかを示しています。

 また、イギリスの政党 ( 政治家 ) の 「筋を通す」 姿勢をも示しています。( 現代の知識からみて正しいかどうかはともかく ) すくなくとも、当時は 「正しい」 とされていた理論に従い、( 一時的に ) みずからの支持者に不利になろうとも、「正しい」 政策をとろうとしていたことがわかります。



 ところで、自由競争を志向する ( ケインズ前の ) 理論が、外国との競争については、関税による保護を主張していたところが、ひっかかります。この本の著者は、「一見矛盾する考えが、経済についての同じ理論と同じ見方から発生するのである」 と書かれているので、「一見矛盾するけれども、じつは矛盾しない」 と読むべきであろうとは思いますが、( 私としては ) 疑問が残ります。



なお、( 当時のイギリスにおける ) 政党の支持基盤は、次のとおりです。付記します。

同 ( p.32 )

金利生活者の利益を推進し、現に金本位制度への復帰を唱えている保守党、企業家階級の利益を守り、イギリス中産階級の知性を代表する自由党、そして一九一八年の国民代表法によって男子についての普通選挙権が確立していらい、労働者の利益の代表として政治の前面におどり出た労働党であった。

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経済学の使命

2009-06-28 | 日記
伊東光晴 『ケインズ』 ( p.49 )

 マーシャルの本たとえばかれの主著『経済学原理』をひもどくならば、貧乏の問題の解決をかれが強調していることがわかる。イギリスが発展に発展をとげたヴィクトリア時代になぜ貧乏があるのか。これがかれの問題であった。そしてマーシャルは、これから経済学を学ぼうとするケンブリッジの学生たちに、経済学を学ぼうとする者はまず、イースト・エンド(ロンドンの貧民街)へ行ってこい、といったといわれている。それは冷静な頭脳だけでなく、温い心をやしなうことが経済学の勉強には必要だと考えたためであった。
 そのマーシャルの経済学の結論は何であったか。レッセ・フェール、自由放任、自由競争、これによって社会は進歩する。自由放任、それは何もしないことではないか。イースト・エンドに行くことの結論が何もしないことであるとは! ここにケインズがヴィクトリア時代の道徳の偽善的一面を見出したのは不思議ではない。


 経済学とはなにか、が、ここには示されています。



 「経済学を学ぼうとする者はまず、イースト・エンド(ロンドンの貧民街)へ行ってこい」 と言ったマーシャル。

 そして、そのマーシャルの経済学が、自由放任・自由競争を説いていることに対して、

 「自由放任、それは何もしないことではないか。イースト・エンドに行くことの結論が何もしないことであるとは!」 と反撥するケインズ。



 私も、経済学の使命は、したがって経済学でもっとも大切なのは、貧しい人々を貧困から救うこと ( 貧困の解消 ) である、そうでなければならない、と思います ( すくなくとも私は、この目的で経済学に関心をもっています ) 。

 問題は、ケインズの反撥、「自由放任、それは何もしないことではないか。イースト・エンドに行くことの結論が何もしないことであるとは!」 に示されており、「本当に、これでよいのか」 にあります。

 現在、新自由主義に対する風当たりが強くなってきています。「自由」 よりも優れた対策はあるのか。それを検討すべく、次は、ケインズ経済学とケインズの人となりを紹介する、この本を引用します。
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