言語空間+備忘録

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江沢民の反日は「個人的な感情」だった

2011-12-13 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.213 )

 近平のバックにいる江沢民・前国家主席は反日的な立場で知られ、93年に米シアトルでクリントン大統領(当時)と会談した際、「日本軍に父親を殺された」などと激しい対日批判を展開し、その反日感情の強さに非常に驚かされたとクリントン氏も回想しているほどだ。また、江は国家主席だった98年11月に来日したが、これは中国国家主席としては初めての訪日で、当時の停滞した日中関係を打開するものとの期待が高まったものの、結果的にはその逆で、江前主席は日本滞在中、歴史認識問題に焦点を当てた発言を繰り返し、両国にはかえって沈滞ムードが高まってしまった。
 羽田空港到着時のスピーチから始まり、翌日の小渕恵三・首相(当時)との首脳会談、天皇陛下主催の宮中晩餐会、早稲田大学における講演――と一貫して歴史認識問題を強調した。これらの発言は日本国民の心理に大きなわだかまりを残し、その残の日中関係を手詰まり状態に陥れたのだった。
 特に、儀礼の場である宮中晩餐会の冒頭のスピーチは確信犯的だった。中国側は直前まで、日本外務省の担当者にスピーチ原稿を渡さずに秘密にして、スピーチが始まる数分前になって渡したのだった。江は天皇、皇后両陛下を前にして、「日本軍国主義は対外侵略、拡張の誤った道」を歩んだと指摘して、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と結論付けたのだ。しかも、このスピーチはテレビで全国に生中継され、一般国民に広く浸透した。江はわざわざ日本に来て、なぜ日本国民の反中感情を煽るような真似をしたのか。外交戦略からも理解し難いが、それだけ江の反日感情が強いということかもしれない。
 その江を政治的な後ろ楯としている近平にとっては、対日問題は "鬼門" と言うべきものだろう。


 反日で有名な江沢民は、93年に米シアトルでクリントン大統領(当時)と会談した際、「日本軍に父親を殺された」などと激しい対日批判を展開し、その反日感情の強さに非常に驚かされたとクリントン氏も回想している。江沢民は、国家主席だった98年11月に来日した際も、歴史認識問題を繰り返し強調していた、と書かれています。



 今回の引用からは、江沢民の反日は、個人的な体験・感情に根ざしていることがわかります。

 このことは、江沢民の反日は「筋金入り」で「本物」であることを示していますが、視点を変えれば、「たんなる個人的感情」で日中関係を悪化させたということでもあります。



 もちろん、日中関係の悪化が「中国の国益」に合致するのであれば、それが「たんなる個人的感情」を含んでいようと(中国の政治家としては)問題にはなりません。「中国の国益」に合致しているかぎり、(中国の視点でみれば)「正しい」反日政策だったといえるでしょう。

 しかし、著者は
当時の停滞した日中関係を打開するものとの期待が高まったものの、結果的にはその逆で、江前主席は日本滞在中、歴史認識問題に焦点を当てた発言を繰り返し、両国にはかえって沈滞ムードが高まってしまった。
と書いています。ここからは、(当時の)「中国の国益」に合致していなかった、ということが読み取れます。

 したがって、江沢民の反日は、個人的感情で突っ走ったものにすぎなかったことがわかります。



 なお、著者は「江を政治的な後ろ楯としている近平にとっては、対日問題は "鬼門" と言うべきものだろう。」とも書いていますが、

 江沢民の反日が「中国の国益」に基づいたものではなく、「個人的感情」にすぎなかった以上、習近平への影響は「ほとんどない」と考えられます。

 なぜなら、江沢民は高齢だからです。今年の夏には、江沢民は死亡したのではないか、などと報じられてもいました。

 中国の反日は、それほど「長くない」かもしれません。



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