言語空間+備忘録

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李克強の政治姿勢とその政治手腕

2011-12-10 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.168 )

 秀才でエリート路線をまっしぐらに駆け上ってきた李克強だが、その政治姿勢などについて、李をよく知る人物の評価は辛辣だ。前出の王軍濤氏と同じく、かつて北京大時代の同級生で親友でもあった方覚氏も、やはり李への評価は厳しい。方氏も王氏と同様、天安門事件後に米国に亡命し、海外から中国の民主化を訴える運動を続けている。「李克強は野心のかたまりで、私が知る限り、自身の政治的な野心のために、北京大で民主化運動を5回もつぶした」と方氏は批判する。
 方氏によれば、その最初は80年末に北京大学で起こった学内民主化運動であり、2番目は83年秋の精神汚染反対運動、3つ目は85年秋の反腐敗運動、4つ目が胡耀邦・総書記を失脚させた86年末の民主化要求運動、最後が89年の天安門事件につながる学生の民主化要求運動だという。方氏は、そのいずれにおいても、李は共青団の北京大支部の幹部として、党中央の指示を金科玉条として絶対服従の立場をとり、民主化運動を弾圧する役割を果たしたのだという。
 李克強について、香港メディアなどは「中国のゴルバチョフ」と呼んで、停滞している政治改革を推進する改革主導グループのリーダーと位置付ける向きもあるのだが、「民主化つぶし」の "実績" が事実ならば、彼こそガリガリの保守派なのかもしれない。あるいは、方氏の指摘するように、自らの政治的野心のためにはすべてを犠牲にする「権力亡者」と呼んだほうが適切かもしれない。
 李は99年には43歳で全国最年少の省長として河南省長に就任した。しかしその時点では、82年に北京大を卒業してから17年間、共青団以外の活動をほとんど経験したことがないという、いわば "純粋培養" の幹部だった。そのような経歴で、いきなり省長に就任するケースは初めてだった。また、李は94年に北京大学大学院で経済学博士号を取得しており、河南省長就任時には「最も若い、最初の博士号を持った省長」として、「中国の明日の星」ともてはやされたが、そうした学位、学歴にも疑問符が付くことはすでに述べた通りである。
 もちろん、李が与えられたチャンスを活かして実績を残したことも事実だ。李が赴いた当初、河南省は人口9300万人の農業地帯で、1人当たりの省内総生産は約5000元と低かった。李は河南省の「工業化、都市化、農業現代化」の目標を掲げ、「中原都市グループの経済興隆ベルト構想」を打ち出すなどして、04年末に同省を離れる頃までには、それを約7600元と1・5倍に増加させた。
 李は04年に河南省から遼寧省に移り、遼寧省党委書記として、国家プロジェクトである「東北振興」推進の地方のトップを務めた。李の遼寧省トップ就任は温家宝・首相が指名し、党最高指導部が同意したもので、この頃から李は胡錦濤・主席の直系幹部として、香港メディアなどで「次期最高指導者に最も近い若手リーダー」と喧伝されるようになった。
 経済振興で一定の評価を得る一方、行政経験がない李は失態も演じている。河南省では拡大したエイズ感染問題に直面し、さらに148人もの死者を出した炭坑事故でも苦境に立たされた。遼寧省でも党委書記に就任して2か月後の05年2月に炭坑事故で214人が死亡するなどして、それらの処理をめぐって、「対応がまずく、ツキにも見放され、地方での実績は乏しい」と、李の統治能力を酷評する論評も出た。
 前書きでも触れたが、遼寧省では李を「大災害の星」と呼ぶ「ざれ歌」がつくられ、これは後々まで汚点としてキャリアに残った。
 前出の方覚氏は、「通常の場合、地方であれほどの死亡事故が起きれば、トップは責任を問われて更迭されるが、李克強は何の責任も取らないまま政治局常務委員に昇格した。これは胡錦濤・主席の庇護なしには考えられないことだ。李は、胡主席のバックアップがなければ、いずれつぶれてしまうだろう」と予測する。


 李克強は北京大で民主化運動を何回も弾圧している。しかし李は、河南省の「工業化、都市化、農業現代化」の目標を掲げ、「中原都市グループの経済興隆ベルト構想」を打ち出すなどして04年末に同省を離れる頃までには、それを約7600元と1・5倍に増加させた、と書かれています。



 習近平と同様、李克強も経済振興の面では実績を残しているようです。経済面では、習近平も李克強も能力は証明されている、ということですね。



 しかし、李克強は災害対策の面で失態を演じている。河南省でのエイズ感染問題と、河南省・遼寧省での2度にわたる炭坑事故をめぐって、「対応がまずく、ツキにも見放され、地方での実績は乏しい」と、李の統治能力を酷評する論評も出た、というのですが、

 たしかに対応はまずかったのかもしれませんが、習近平は同様の経験をしていないのですから、習近平に比べて、李克強の能力が「劣る」ということにはなりません。逆に、対応はまずかったかもしれないが、そういう経験をしている分、習近平よりは李克強のほうが「まし」である、という考えかたも成り立ちます。

 たしかに李克強は習近平に比べ、「ツキに見放され」ているかもしれませんが、その「ツキに見放され」たかに見える部分が、逆に、李の強みになるかもしれない、ということです。



 ところで、今回の引用部分で、もっとも注目に値するのは李克強の政治姿勢です。

 一般に、習近平は保守派、李克強は革新派(民主化推進派)といった捉えかたがなされていますが、今回の引用は、それが「誤り」であることを示しています。

 たしかに習近平は共産党幹部の子弟であり、したがって既得権を守ろうとするかもしれない。しかし勉強一本で幹部へと這い上がってきた李克強も、民主化運動を潰しており、かならずしも革新派(民主化推進派)だとはいえない。

 とすると、結局、どちらが次期中国国家主席になったところで、中国の民主化は進まないのではないか、という予測が成り立ちます。

 もっとも、これ(中国の民主化)は大きなテーマなので、今後、機会をみて本格的にとりあげます。



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李克強の下放時代

2011-12-10 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.158 )

 李克強とは北京大同窓の「老朋友(=大の親友)」であり、89年の天安門事件後、民主化運動に関わったとして逮捕・投獄され、「病気療養」の名目で事実上、米国に亡命したジャーナリストの王軍濤氏は、「李克強は見るからに秀才タイプで、自身の才を前面に出して能力を誇示する。これに対して、習近平は態度そのものが泰然自若としており中国的な指導者タイプと言える。習近平のほうが次期総書記になる可能性が高い」と言い切る。
 さらに、王氏は「2人の差は育ち方にある」とも指摘する。
 近平は幼少時代、大幹部の息子として何不自由ない生活を送っていたが、李は内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子として育てられた。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。ただ、息子の李克強は小さい頃から勉強では常に学年で1番と、聡明さで群を抜いていたという。
 しかし、李が小学校4年生の年、文化大革命(66-76年)が始まり、教師らが知識分子として批判や吊るし上げを受けるなどして学校も混乱し、中学教育は機能しなくなった。そのため李らの中学校進学が1年遅れてしまった。この結果、李らは「小学7年生」を経験している。また、中学校に進学しても文革の影響で、「ソ連との全面戦争に備える」というスローガンの下、軍事演習をさせられるなど、満足のいく教育は受けることができなかった。さらに高校卒業後の74年、19歳だった李は当時の高校生の大半が経験したように、地方の農村に下放され、労働に従事しなければならなかった。
 教育環境の荒廃は同世代の習近平も同じだったが、李との違いは、近平の父母が大幹部で「打倒」の対象になっていたことだ。李の親は典型的な地方の末端幹部であり、いわば打倒する側に回っていた。このため、李は近平のように下放先の幹部から差別を受けることもなく、共産党への入党についても何ら支障はなかった。
 李は安徽省鳳陽県東陵村に下放された。村の人口は2100人で430世帯と、村としてはかなり大きな自治体だった。李は他の20人の知識青年とともに下放され、毎朝7時から夕方まで農作業に従事した。当時の李を知る村人は、「李克強は非常に聡明で、ふざけたところがなく、仕事もまじめで、昼休みに30分の休憩をとるだけで、農作業に手を抜くこともなかった」などと証言している。

(中略)

  それでは李は労働がない時は何をしていたかというと、李らしいエピソードが残っている。一緒に下放されていた知識青年が文学、歴史、自然科学など各種の蔵書を1万冊あまり備えていたことから、李はその青年に頼んで閲読、借り出しの許可を得て、暇さえあれば本を読んでいたというのだ。李は5年間の下放生活で、農作業をしながら、その合間にそれらの本を読みあさり、知識を蓄えていた。まさに勤勉であり、努力を絵に描いたような話だ。
 その半面、下放時代に地方の生活や政治に通じる経験はあまり熱心にしなかったようで、李は76年に共産党員となり、北京大入学までの間、鳳陽県のある大隊の支部書記として農民を指導する立場になったものの、北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者がいなかったという。そして、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
 習近平も陜西省で大隊の支部書記を経験しているが、近平の場合、村を離れる際、農民が多数見送りにきて、別れの辛さで互いに涙を流し、名残惜しさで農民がなかなか立ち去らず、旅館に1泊して、記念写真まで撮ってようやく別れたというエピソードを第二章で紹介した。また、近平はその後、村を再訪し、下放経験がその後の幹部生活の基礎を形づくったと述懐している。この点では、李克強が下放生活への感慨を語ることがなく、同じ下放経験でも近平とはまったく違う記憶になっていることが印象的だ。こういうところに、同時代を生きた2人の人生の歩き方の違いが色濃く出ていて極めて興味深い。
 文革も終わった翌年の77年、混乱もようやく収まり、8月に復活を果たした小平が、10月に11年ぶりに大学入試の再開を決定した。翌年1月に入学試験があり、570万人が受験した。合格したのは約27万人で、倍率は約21倍という狭き門であった。
 そのなかでも、李は日頃の勉学のおかげで、ほぼ満点をとって北京大学法学部法律学科に入学した。

(中略)

 李は大学でも勉強に妥協はせず、同期生でトップクラスの成績を維持した。特に英語は得意中の得意で、ほとんどの学生がアルファベットを覚えるところから始まったという当時の英語教育のレベルにもかかわらず、李は卒業時には米国の法律専門書を中国語に翻訳するほどの能力があった。また、北京大の同窓生で李の学生時代をよく知る前出の王軍濤氏は、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」と証言する。


 李克強の下放時代について書かれています。



 要は、李克強は「努力の人」であり、「秀才タイプ」だということですね。習近平とは対照的です。

 李克強について、今回の引用部分を整理しておきます。



 李克強は
  1. 下放時代、課せられた農作業をまじめに続け、空き時間には勉強をしていた。努力の人である。
  2. 秀才であり、(農作業のかたわら勉強していたにもかかわらず)北京大学法学部法律学科に「ほぼ満点」で合格した。
  3. 英語は得意中の得意。
  4. 人間関係は苦手。北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者はいなかったし、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
  5. (李克強と北京大同窓で大親友の)王軍濤氏によれば、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」。
  6. 内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。


 著者は、李克強の父親は、
「安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長」などを歴任し、「典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる」
と書いています。

 これを日本の弁護士が読んだら、どういう反応をするでしょうか? 日本の弁護士のなかには、なぜか「オレはエライ」と思っている人もいるようなので、すこし興味があります。



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