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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

次の中国共産党政治局常務委員候補

2011-12-12 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.179 )

 中国の歴代指導部は毛沢東を第1世代とし、小平は第2世代、第3世代が江沢民で、第4世どは胡錦濤、そして近平らが第5世代となる。第5世代は12年の第18回党大会で選出される中央委員・候補委員(第17回党大会では371人が選出)を中心に形成されることになる。
 現時代で、12年の党大会における中央委員・候補委員をすべて特定することは不可能だが、現在の政治局員や中央委員・候補委員、さらに党中央や政府の高級幹部、地方省市のトップエリートから選出されることは確実だ。党中央幹部の70歳定年制を考慮して絞り込むと、ある研究では現時点で61人のトップエリート層が絞り込まれるという。
 そのなかには近平や李克強のほか、政治局委員としては王岐山・副首相、薄熙来・重慶市党委書記、李源潮、汪洋の4人が含まれる。これ以外の55人のうち21人が地方幹部を中心とした共青団出身者で最も多く、近平に近い太子党はわずか6人と、圧倒的に共青団閥が優勢だ。李克強と同じ北京大出身者は7人、近平と同じ清華大出身者は3人で、これも近平には不利な数字である。
 中国研究者のなかには、「共青団、太子党と言っても一枚岩ではない。また、両者が敵対しているという見方は必ずしも説得力があるとは限らない」との声もあり、近平が次期党大会でナンバー1の座を占めるには、共青団出身幹部を切り崩して自らの派閥に取り込むほか、上海閥や中国人民解放軍の若手エリートを抱き込むなど、新たなシンパの育成が必要になる。
 北京の消息筋によると、近平は党中堅幹部の再教育機関である中央党校の校長を兼務していることから、地方の若手エリートを選抜したり、6521弁公室などを通じて優秀な軍・武装警察幹部を抜擢したりといった人材発掘・育成に余念がないという。
 そして09年7月のウイグル暴動の対応で見せた豪腕ぶりで、近平は「お坊ちゃま育ちで優柔不断な指導者」との従来の評価をがらりと変えさせ、政治局委員や中央委員・候補委員に支持層を広げつつあると香港メディアは伝えている。
 裏を返せば、近平の最高指導者への準備は着々と進む一方で、まだ支持基盤は磐石ではないということになる。


 次の中国共産党政治局常務委員候補は61人に絞り込まれる。習近平・李克強のほか、王岐山・副首相、薄熙来・重慶市党委書記、李源潮、汪洋が有力である。これ以外の55人のうち、共青団閥が21人、太子党閥は6人であり、圧倒的に共青団閥が優勢である。習近平の支持基盤は磐石ではない、と書かれています。



 これは現状分析として重要だと思いますが、(私としては)なにも書くことがありません。

 そこで資料として、wikipedia の一部を引用しておきます。



wikipedia」の「王岐山

王岐山(おう きざん)は中華人民共和国の政治家、経済学者。清華大学経済管理学院、中国金融学院教授。第17期中国共産党中央政治局委員、前北京市長。姚依林元副首相の女婿に当たる。

西北大学、中国社会科学院などで史学研究に従事していた1970年代に金融などの経済問題に関心を有し国務院農村政策に携わる。1988年から、中国農村信託公司総経理、中国人民銀行副行長、中国建設銀行行長など金融ポストを歴任した。

1997年12月、広東省党常務委員、翌年1月副省長。2000年に国務院経済体制弁公室主任、2002年海南省党委員書記。

2003年に新型肺炎SARS隠蔽問題により引責辞任した孟学農の後継として北京市長代理、その後、SARS処理の功績が評価され2004年2月に正式に市長就任した。

2007年10月の第17期一中全会で政治局委員に選出され、同年12月北京市長を辞する。2008年3月の全人代で商務、金融、市場管理、観光等担当の副総理、党組織メンバーに就任した。


 学者ですね。おそらく胡錦濤派でしょう。



同 「薄熙来

薄熙来(はく きらい)は中華人民共和国の政治家。第17期中共中央政治局委員、重慶市委書記。父は副総理などを務めた薄一波。

(中略)

人物

(中略)

2007年10月、第17期党中央政治局委員に昇格。12月、重慶市委書記に就任。2009年7月より市公安局などを巻き込んだ大規模汚職事件の摘発に乗り出し、1500人以上を摘発した。汚職追放を口実にした前書記汪洋や、かつて書記を務めた賀国強批判が目的とも言われる。


 太子党だが、習近平と親しく、かつ、(現在)政治局常務委員の賀国強と対立しているようです。下に記載する汪洋とも対立しています。



同 「李源潮

李 源潮(り げんちょう、リー・ユエンチャオ、1950年11月 - )は中華人民共和国の政治家。第17期中国共産党中央政治局委員、党中央組織部長。

1968年、江蘇省塩城市大豊県の農場で農業に従事。1972年、上海師範大学で数学を学び、1974年から中学校で教師を務める。その後復旦大学で教鞭をとり、1983年から中国共産主義青年団(共青団)上海市委員会副書記、のちに書記。また1983年12月より、共青団中央書記処書記に任命される。1995年、中央党校で法学博士号を取得。

1996年、文化部副部長(次官)として政界入り。2002年に回良玉の後任として江蘇省党委員会書記に就任。また、同年の第16回党大会で中央委員候補に選出される。2007年10月の第17回党大会で中央政治局委員に昇格し、党中央書記処書記、中央組織部長に就任。

父親である李幹成は上海市副市長や同市政治協商会議副主席などを務めた。


 共青団派。



同 「汪洋

汪洋(おう よう)は中華人民共和国の政治家。上海市長、海峡両岸関係協会会長などを務めた汪道涵(中国語)は伯父に当たる。

経歴

1972年、故郷である安徽省宿県(現宿州市)の食品工場で労働者として働く。文革末期の1976年2月、五七幹校の教員となり、後に党委委員。1979年、中央党校理論宣伝幹部班に抜擢され政治経済学を学習。1981年中国共産主義青年団安徽省宿県の党委副書記から、共青団省委宣伝部長、1983年には共青団省委副書記へと昇進を続けた。

1984年からは安徽省体育委員会主任、銅陵市長、省長助理、省計委主任などを歴任し、1993年に最年少で副省長就任。1995年まで中国科技大学で工学修士号取得。

1999年9月、朱鎔基内閣で国家発展計画委員会副主任。2003年温家宝内閣で国務院副秘書長。国家機関党組副書記、国務院三峡工程建設委員会委員を兼任。2003年3月、温家宝内閣の元で国務院副秘書長となり国務院弁公庁の日常業務を担当。国家機関党組副書記、国務院三峡工程建設委員会委員などを兼任。2005年重慶市市委書記、2007年12月から広東省省委書記。

2007年10月の第17期一中全会で「二階級特進」の政治局委員入り。いわゆる共青団派で、胡錦濤に抜擢された。

2008年1月、中国中部を2008年の中国雪害が襲い、送電線が雪の重みに耐え切れず倒れるなどしてインフラに多大な影響を及ぼした。旧正月を直前に控えた広東省では地方からの労働者が帰省のため駅に殺到していた。回復の見込みが無いため、汪洋は今年の帰省を見送るよう求め大多数がそれに応じたものの、被害対策の責任者だった温家宝が「旧正月前に帰省できる」と発言したため再度駅に押し寄せし、対応に追われた。

11月、世界的な景気後退を受けて、発表された国務院の景気刺激策に広東省が抱える外資の輸出企業対策が盛り込まれていなかったことを受け、衰退産業を省外に出して質の高い成長への路線転換を行う「騰籠換鳥」を提起した。中小企業の切捨てや失業者対策を半ば放置した発言をしたため、温家宝と再度対立する。2009年7月、GDP成長率を8%死守とした「保八」に対し、「GDPの数値はあまり重視していない」「不景気なときに成長が鈍るのは当然」と発言し、構造改革や産業の淘汰を強調。

2009年重慶市で大規模な汚職追放キャンペーンが展開され、省公安副局長や司法関係者を含む2000人以上が逮捕された。後任である薄熙来党委書記と対立。

第16期中央候補委員、第17期中央政治局委員。


 彼は太子党であり、かつ共青団派。胡錦濤に抜擢されたが、温家宝と対立し、かつ、薄熙来とも対立しているようです。



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 「来年、中国の最高指導部は大交替する

中国・米国も地球温暖化防止に歩み寄り

2011-12-11 | 日記
REUTERS」の「COP17は京都議定書延長で合意、新枠組みは20年発効へ」( 2011年 12月 11日 16:02 JST )

 [ダーバン 11日 ロイター] 南アフリカのダーバンで開かれている第17回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP17)は11日、2012年末で期限の切れる京都議定書の延長と、新たな枠組みづくりを行うことなどで合意し、閉幕した。
新たな法的枠組みでは、中国やインドなどの新興国や京都議定書を批准していない米国などすべての主要排出国が参加することになり、2015年までに採択し、20年の発効を目指す。また、地球温暖化対策に取り組む途上国を支援するために「緑の気候基金」を設置することで合意した。

COP17は9日に閉幕する予定だったが、各国の主張が対立し会期が2日延びて2週間以上にわたり、過去最長の会議となった。


 第17回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP17)で、12年末で期限の切れる京都議定書の延長と、新たな枠組みづくりを行うことなどで合意した、と報じられています。



 地球温暖化は「ウソ」である、欧米の「陰謀」である、といった主張もなされているようですが、実際に北極の氷は減っている(=溶けている)と報じられているので、地球温暖化は「ウソ」や「陰謀」の類(たぐい)ではないと考えられます。

 とすれば、本当に効果のある対策を考えなければならない、ということになりますが、

 新たな枠組みでは、温暖化ガスを大量に排出している中国のほか、米国も参加するとのことなので、今度は(内容によっては)実効性のある枠組みになると期待されます。



 新たな法的枠組みの内容が決まっていないので、

 日本経済に対する影響はわかりませんが、「規制を用いた経済成長戦略」など、ここは考えどころだと思います。

今年のノーベル平和賞と孔子平和賞

2011-12-11 | 日記
asahi.com」の「ノーベル賞に対抗の中国・孔子平和賞、プーチン氏に」( 2011年12月11日15時17分 )

 ノーベル平和賞に対抗して中国で創設された「孔子平和賞」の今年の受賞者がロシアのプーチン首相に決まり、北京で9日、本人不在の授賞式があった。インタファクス通信が伝えた。首相の代わりに、北京大学で学ぶロシア人女子学生2人が出席した。

 同通信によると、受賞理由は、北大西洋条約機構(NATO)によるリビア攻撃に強固に反対したことという。

 賞は昨年、中国の獄中の民主活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏のノーベル平和賞受賞に反発した中国の団体が創設。この団体が違反行為をしたとして中国当局は今年の授賞式を中止にしたが、選考委員会のメンバーが香港に別の団体を設立、事業を継いだという。(モスクワ=関根和弘)


 ノーベル平和賞に対抗して創設された中国・孔子平和賞が、プーチン氏に贈られた。北京で9日、本人不在の授賞式があった、と報じられています。



 中国の孔子平和賞に対しては、中国人のあいだに「恥ずかしいのでやめてほしい」という声もあったためか、中国当局は孔子平和賞を創設した「団体が違反行為をした」ことを名目に「今年の授賞式を中止にした」のだと思われますが、

 「選考委員会のメンバーが香港に別の団体を設立、事業を継いだ」と報じられているので、中国人のなかには「愛国心にあふれた」人々もいることがわかります。

 もちろん、ここにいう「愛国心にあふれた」とは、
昨年の劉暁波氏に対するノーベル賞授与に政治的な「反中」メッセージを読み取り、対抗するために、意図的に「反欧米」メッセージを込めた孔子平和賞を創設しようとする態度
を指しています。これが「本当の」愛国心といえるのかは、議論の余地があります。



 ところで、「本物の」ノーベル平和賞は今年、中国とは無縁の人物に授与されたようです。これは暗に、昨年、中国の民主活動家・劉暁波氏にノーベル平和賞を授与したことには「反中」の意図はないと述べています。

 今年、孔子平和賞が「北大西洋条約機構(NATO)によるリビア攻撃に強固に反対した」プーチン首相に贈られ、「反欧米」の姿勢を堅持し、欧米への「対抗意識むきだし」であることを考えれば、

 孔子平和賞を推進しようとする人々にとっては、「恥ずかしい」状態になったともいえます。彼らは面子を潰された格好になったわけで、孔子平和賞推進メンバーがどういう反応をするのか、来年以降、孔子平和賞は廃止されるのか、その動向に注目したいと思います。



CNN.co.jp」の「ノーベル平和賞、リベリア大統領ら女性3氏が受賞スピーチ」( 2011.12.11 Sun posted at: 11:01 JST )

(CNN) 今年のノーベル平和賞の授賞式が10日、オスロで開催され、受賞した女性3人が、「平等を目指して闘う世界の女性たちのために」とそれぞれスピーチした。

今年の受賞者は、リベリア大統領のエレン・サーリーフ氏(73)、同国の平和活動家リーマ・ボウイー氏(39)、イエメンの人権活動家タワックル・カルマン氏(32)。女性への差別や性的暴力、抑圧に対し、非暴力で闘ったことなどが評価された。

3人にはメダルと賞状、賞金1000万スウェーデンクローナ(約1億1500万円)が贈られた。

ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長は式典で「この舞台で皆さんにお会いする時を、ノルウェーの全国民が待ち望んでいました」とあいさつし、「女性が天の半分を支える」という中国のことわざを引用。さらに「権力にしがみつくために国民を殺害しているイエメンやシリアの指導者は、自由と人権を求める人類の闘いが絶えることはないことを認識すべきだ」と話した。

サーリーフ氏は、世界の女性に「たとえ人数で負けていても恐れずに不正を非難し、たとえ小さな声でも恐れずに平和を求めよう」と呼び掛けた。「鉄の女」とも呼ばれる同氏は米ハーバード大学を卒業し、民主的選挙で選ばれたアフリカ初の女性大統領として2006年に就任した。

ボウイー氏はリベリアの女性たちが同国にもたらした「誇り」をたたえ、「これは皆さんの賞、私たちの賞です」と語った。

アラブ人女性として初めて平和賞を受賞したカルマン氏は「女性が不当に扱われ、人権を奪われると、結果的として男女を問わずその社会全体に問題が生じる」と訴えた。

昨年の平和賞は中国の民主活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏が受賞したものの、同氏は服役中で授賞式に出席できず、中国に配慮したロシア、サウジアラビア、イランなども欠席した。




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 「ノーベル平和賞と、中国の立場

「ウイグル暴動」への対応にみる習近平と李克強の相違

2011-12-11 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.175 )

 09年6月下旬、広東省の玩具工場で働いていたウイグル族の従業員が漢族の従業員から差別的な待遇を受けたとして対立が深まり、漢族とウイグル族との乱闘に発展して、ウイグル族の従業員2人が殺されるという事件が起きた。この事件の情報が新疆ウイグル自治区のウイグル族に伝わると、同自治区でも日頃の差別的な扱いに対する不満が爆発、7月5日にはウイグル族により漢族住民ら100人以上が殺害されるという、いわゆる「ウイグル暴動」が勃発した。
 それに対し、中国当局は事態を鎮静化させるために、暴動発生から1か月間に2000人以上の "ウイグル族テロリスト" を逮捕・投獄するなど、独立派を徹底的に弾圧した。その後も秘密裏に激しい「ウイグル狩り」が続いているとも言われる。亡命人組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長は、逮捕されて消息不明のウイグル族は「1万人に達する」と指摘しているが、その厳しい弾圧作戦を指揮している指令塔こそが習近平であることは、海外にはあまり知られていない。
 中国の治安機関の内情に詳しい在京の国際情報関係筋によると、近平は中国共産党政治局常務委員会のなかで、主要な任務である党務のほか治安維持も担当しており、実質的に治安維持の最高責任者になっている。党内における治安維持部門の最高機関の正式名称は「中国共産党中央安定維持工作小組(グループ)」で、別名「6521弁公室」と呼ばれる。これには党政法委員会書記の周永康・党政治局常務委員や孟建柱・国務委員兼公安部長ら党・政府の政法・公安関係部門の責任者がメンバーとして加わっている。
「6521」とは、09年10月1日の建国60周年の6、3月10日のチベット蜂起50周年の5、それに6月4日の天安門事件20周年の2、最後に宗教団体「法輪功」の信者が北京・中南海を包囲した99年4月25日から10周年の1を合わせた4つの数字だ。いずれも09年が節目の年であり、不測の事態に対処するために当局が弁公室を設けて厳重な警備態勢を敷いたのである。

(中略)

 折しも、ウイグル暴動が発生した7月5日、胡錦濤・主席は主要国首脳会議(イタリアのラクイラ・サミット)に参加するため北京を留守にしており、治安維持担当の最高責任者として、暴動への対応は近平に委ねられた。
 近平はただちに党序列ナンバー2の呉邦国・党政治局常務委員に常務委員会の招集を求め、暴動の拡大を防ぐために人民解放軍や武装警察部隊を投入して鎮圧する方針を決めた。会議の焦点は暴動鎮圧後の「ウイグル族テロリストグループ」への対応だった。近平の方針は、
「徹底的に弾圧すべき。草の根を分けてもテログループを摘発し、叩きつぶす。手段を選んではいられない」
 という厳しいものだった。
 それに反対したのが、近平のライバルである李克強・副首相だった。
「そんなことをしたら少数民族が反発し、漢族(中国人)の一般市民に危害が加えられる。あくまでも漢族と少数民族の融和を図るために寛大な措置をとるべきだ」
 温家宝・首相が李の意見に賛意を示した。温は国民から「国父」と慕われるだけあって、党指導部内でも穏健派とされ、安定を重視する政治信条の持ち主だ。
 これに対して、周永康や賀国強・党規律検査委員会書記が近平同様、「徹底弾圧」を主張。賀慶林と李長春の両常務委員も弾圧を支持した。オブザーバーとして会議に参加していた孟建柱・国務委員や、新疆ウイグル自治区党委書記の王楽泉・党政治局員も近平側に与し、会議の大勢を占めた。この場で採決すれば結果は明らかだった。
 しかし、議長役の呉邦国は、
「この場には胡主席がいない。私が至急、電話をして指示を仰ぐ。方針を決めるのは、それからでも遅くはない」
 として、会議をいったん散会にした。

(中略)

 胡はサミット首脳会談当日の7月8日午前、専用機でローマを発ち、同日午後には北京に到着。ただちに中南海のオフィスに入り、近平や周永康、孟建柱、さらに王楽泉ら担当者からウイグル情勢についてブリーフィングを受けた。夜には緊急の常務委員会を招集し、
「新疆ウイグル自治区社会の大局の安定を維持することが最重要の緊急任務であり、事件の背後で陰謀を操った者や組織した者、騒動の中心分子、暴力を用いた犯罪分子には、法に従って必ずや厳しい打撃を与えなければならない」
 などと決議した。これは、近平が主張していた内容とほぼ同じだった。
 決議を受けて近平の立場は極めて強くなった。会議には政治局メンバーもオブザーバーとして出席していたが、李克強と同じ共青団グループである李源潮・党組織部長や汪洋・広東省党委書記らも、近平の方針に同意したとされる。


 いわゆる「ウイグル暴動」をめぐって、習近平と李克強の意見が対立した。このとき、習近平は徹底弾圧、李克強は融和路線を主張している。しかし政治局常務委員のほぼ全員、および国家主席である胡錦濤も徹底弾圧を主張したために、最終的に習近平の立場は(李克強に比べ)極めて強くなった、と書かれています。



 「ウイグル暴動」の是非、すなわちウイグル族の立場・主張の是非は、ここでは考えません。

 ここでは、習近平と李克強の対応方針・態度に焦点を絞って考察します。



 「ウイグル暴動」への対応をめぐって、習近平と李克強との対立が生じているのですが、「おかしい」と思いませんか?

 李克強は北京大学時代、民主化運動を何回も弾圧し、潰しています。その李克強が、なぜ、徹底弾圧に反対し、融和路線を主張したのでしょうか? 李克強は、習近平に「対抗するために」融和路線を主張したのでしょうか? それとも、当時の李克強は大学時代とは異なり、思想が変わった、つまり民主主義的になったのでしょうか?

 ここで、胡錦濤が国家主席になれたのは、チベットで同様の暴動が発生したとき、胡錦濤が「ただちに」厳しい態度をとったからだということを忘れてはなりません。その対応が小平に評価され、胡錦濤は国家主席に引き上げられたわけです。とすれば、胡錦濤が徹底弾圧(習近平の主張)を支持したのは、「当然」だったといえるでしょう。

 つまり、李克強が習近平に「対抗するために」反対意見を提出したという考えかたは、そもそも成り立たないと考えられます。習近平に「対抗するために」、国家主席である胡錦濤に支持されない考えかたを「あえて」提出したとすれば、李克強は大馬鹿者だということになるからです。



 とすれば、当時の李克強は大学時代とは異なり、思想が変わり、民主主義的になっていたのでしょうか?

 ここで注目すべきは、李克強自身の言葉です。引用します。李克強は、
「そんなことをしたら少数民族が反発し、漢族(中国人)の一般市民に危害が加えられる。あくまでも漢族と少数民族の融和を図るために寛大な措置をとるべきだ」
と言っています。この言葉は、「漢族(中国人)の一般市民」を守るために、ここは融和路線をとるべきである、と受け取れます。とすれば、李克強は民主主義的になっていたのではありません。あくまでも「漢族(中国人)」を中心に考えており、中国の分裂を断固阻止する、と考えているわけです。

 つまり李克強は、
ここは「とりあえず」融和路線をとっておいて、「騒動が収まったあとで」関係者(=ウイグル族指導者)に厳しい処分を課せばよい
と考えていたのではないかと考えられます。



 したがって、李克強と習近平のちがいは、ただ一点、「ただちに」厳しい態度に出るか、「あとで」厳しい態度に出るか、の相違にすぎないと考えられます。

 ここで、この相違が何を意味するのかを考えてみれば、

 李克強の手法は、(1) 騒ぎ(暴動)の拡大を恐れ、(2) いったん懐柔するかに見せかけつつも、あとで厳しく処分するというもので、いわば「利口な手法」だといってよいでしょう。これは秀才タイプの李克強らしい、「利口な」対策だといえます。

 これに対して、習近平の手法は、(1) 人民解放軍や武装警察部隊の力を信頼し、(2) 「はじめから」厳しく対処・処分するというもので、いわば「強権的な手法」だといってよいでしょう。これは人民解放軍や武装警察部隊にも人脈を構築している習近平らしい対策だといえるでしょう。



 両者のちがいをまとめれば、
  • 李克強は、
    1. リスクを避けようとする傾向がある
    2. 切れ者
  • 習近平は、
    1. 強権的な手法をいとわない
    2. 素直な考えかたをする(=思考は比較的単純)
ということになるのではないかと思います。



■関連記事
 「李克強の政治姿勢とその政治手腕
 「チベット亡命政府の方針
 「答えない理由

李克強の政治姿勢とその政治手腕

2011-12-10 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.168 )

 秀才でエリート路線をまっしぐらに駆け上ってきた李克強だが、その政治姿勢などについて、李をよく知る人物の評価は辛辣だ。前出の王軍濤氏と同じく、かつて北京大時代の同級生で親友でもあった方覚氏も、やはり李への評価は厳しい。方氏も王氏と同様、天安門事件後に米国に亡命し、海外から中国の民主化を訴える運動を続けている。「李克強は野心のかたまりで、私が知る限り、自身の政治的な野心のために、北京大で民主化運動を5回もつぶした」と方氏は批判する。
 方氏によれば、その最初は80年末に北京大学で起こった学内民主化運動であり、2番目は83年秋の精神汚染反対運動、3つ目は85年秋の反腐敗運動、4つ目が胡耀邦・総書記を失脚させた86年末の民主化要求運動、最後が89年の天安門事件につながる学生の民主化要求運動だという。方氏は、そのいずれにおいても、李は共青団の北京大支部の幹部として、党中央の指示を金科玉条として絶対服従の立場をとり、民主化運動を弾圧する役割を果たしたのだという。
 李克強について、香港メディアなどは「中国のゴルバチョフ」と呼んで、停滞している政治改革を推進する改革主導グループのリーダーと位置付ける向きもあるのだが、「民主化つぶし」の "実績" が事実ならば、彼こそガリガリの保守派なのかもしれない。あるいは、方氏の指摘するように、自らの政治的野心のためにはすべてを犠牲にする「権力亡者」と呼んだほうが適切かもしれない。
 李は99年には43歳で全国最年少の省長として河南省長に就任した。しかしその時点では、82年に北京大を卒業してから17年間、共青団以外の活動をほとんど経験したことがないという、いわば "純粋培養" の幹部だった。そのような経歴で、いきなり省長に就任するケースは初めてだった。また、李は94年に北京大学大学院で経済学博士号を取得しており、河南省長就任時には「最も若い、最初の博士号を持った省長」として、「中国の明日の星」ともてはやされたが、そうした学位、学歴にも疑問符が付くことはすでに述べた通りである。
 もちろん、李が与えられたチャンスを活かして実績を残したことも事実だ。李が赴いた当初、河南省は人口9300万人の農業地帯で、1人当たりの省内総生産は約5000元と低かった。李は河南省の「工業化、都市化、農業現代化」の目標を掲げ、「中原都市グループの経済興隆ベルト構想」を打ち出すなどして、04年末に同省を離れる頃までには、それを約7600元と1・5倍に増加させた。
 李は04年に河南省から遼寧省に移り、遼寧省党委書記として、国家プロジェクトである「東北振興」推進の地方のトップを務めた。李の遼寧省トップ就任は温家宝・首相が指名し、党最高指導部が同意したもので、この頃から李は胡錦濤・主席の直系幹部として、香港メディアなどで「次期最高指導者に最も近い若手リーダー」と喧伝されるようになった。
 経済振興で一定の評価を得る一方、行政経験がない李は失態も演じている。河南省では拡大したエイズ感染問題に直面し、さらに148人もの死者を出した炭坑事故でも苦境に立たされた。遼寧省でも党委書記に就任して2か月後の05年2月に炭坑事故で214人が死亡するなどして、それらの処理をめぐって、「対応がまずく、ツキにも見放され、地方での実績は乏しい」と、李の統治能力を酷評する論評も出た。
 前書きでも触れたが、遼寧省では李を「大災害の星」と呼ぶ「ざれ歌」がつくられ、これは後々まで汚点としてキャリアに残った。
 前出の方覚氏は、「通常の場合、地方であれほどの死亡事故が起きれば、トップは責任を問われて更迭されるが、李克強は何の責任も取らないまま政治局常務委員に昇格した。これは胡錦濤・主席の庇護なしには考えられないことだ。李は、胡主席のバックアップがなければ、いずれつぶれてしまうだろう」と予測する。


 李克強は北京大で民主化運動を何回も弾圧している。しかし李は、河南省の「工業化、都市化、農業現代化」の目標を掲げ、「中原都市グループの経済興隆ベルト構想」を打ち出すなどして04年末に同省を離れる頃までには、それを約7600元と1・5倍に増加させた、と書かれています。



 習近平と同様、李克強も経済振興の面では実績を残しているようです。経済面では、習近平も李克強も能力は証明されている、ということですね。



 しかし、李克強は災害対策の面で失態を演じている。河南省でのエイズ感染問題と、河南省・遼寧省での2度にわたる炭坑事故をめぐって、「対応がまずく、ツキにも見放され、地方での実績は乏しい」と、李の統治能力を酷評する論評も出た、というのですが、

 たしかに対応はまずかったのかもしれませんが、習近平は同様の経験をしていないのですから、習近平に比べて、李克強の能力が「劣る」ということにはなりません。逆に、対応はまずかったかもしれないが、そういう経験をしている分、習近平よりは李克強のほうが「まし」である、という考えかたも成り立ちます。

 たしかに李克強は習近平に比べ、「ツキに見放され」ているかもしれませんが、その「ツキに見放され」たかに見える部分が、逆に、李の強みになるかもしれない、ということです。



 ところで、今回の引用部分で、もっとも注目に値するのは李克強の政治姿勢です。

 一般に、習近平は保守派、李克強は革新派(民主化推進派)といった捉えかたがなされていますが、今回の引用は、それが「誤り」であることを示しています。

 たしかに習近平は共産党幹部の子弟であり、したがって既得権を守ろうとするかもしれない。しかし勉強一本で幹部へと這い上がってきた李克強も、民主化運動を潰しており、かならずしも革新派(民主化推進派)だとはいえない。

 とすると、結局、どちらが次期中国国家主席になったところで、中国の民主化は進まないのではないか、という予測が成り立ちます。

 もっとも、これ(中国の民主化)は大きなテーマなので、今後、機会をみて本格的にとりあげます。



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