言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

国会で言及された地震兵器の可能性

2011-12-01 | 日記
 私が(ときどき)読んでいるブログに地震兵器の話が出てきたので、バカバカしいとは思いつつ、すこし考えてみました。



 ネットを検索したところ、次の資料(↓)をみつけました。下記のうち、「2011年07月…」は要点部分を切り取ったもの、「地震兵器は多くの国が…」は国会答弁の全体です。つまり前者は後者の一部を抽出したものです。



「2011年07月11日衆議院復興特別委員会で浜田政務官が人工地震に言及」
http://www.youtube.com/watch?v=_D5oMLFDyXE

「「地震兵器は多くの国が研究している事実!常識!」7.11柿沢議員」
http://www.youtube.com/watch?v=dyJfcqLCe6c


 ネットを見ると、これに対し、
  1. 「地震兵器は存在している、トンデモなんかではない」という地震兵器肯定派の反応と、
  2. 逆に、「浜田政務官がトンデモである」という地震兵器否定派の反応、
この2つがあるようです。

 おそらく、質問に立った柿沢議員は「地震兵器が存在しているなどというトンデモな主張をしている浜田政務官はトンデモである。しかも、浜田政務官はアメリカが地震兵器を用いたという信念までもっている。浜田政務官は不適格である」と追及したかったのでしょう。

 けれども、浜田政務官が主張しているのは、
  1. 地震兵器・自然改変装置はアメリカ・旧ソ連や現ロシア・中国など多くの国々が研究開発に余念なく取り組んできた事実がある
  2. 技術的には十分可能だと言われているのが国際政治軍事上は常識である
  3. この可能性をふまえたうえで世界の国際政治の現実を捉えるべきである
ということであって、

   地震兵器が存在しているだとか、
   アメリカが過去に地震兵器を用いたことがある

などとは言っていないわけです。

 したがって、柿沢議員の追及は空振りに終わったのだと考えられます。



 それでは、地震兵器は本当に存在するのでしょうか。

 浜田政務官はトンデモではないという前提で、その話を信用するとすれば、
「地震兵器は米中ソなどが研究開発に取り組んできた」し、「技術的には十分可能である」が、「本当に存在するかどうかはわからない」
ということになります。



 これは、十分にあり得る話だと思います。

 第一に、地震兵器には軍事上、大きな利点があると考えられます。したがって、「地震兵器は米中ソなどが研究開発に取り組んできた」としてもおかしくありません。

 第二に、技術的には、たんに深い穴を掘り、地中で核兵器を爆発させればよいので、「技術的には十分可能である」と考えられます。

 第三に、ここが重要なのですが、地震をおこしたい場所(すなわち敵国)に深い穴を掘ることは(常識的には)不可能であることから、このような兵器は実用的ではありません。したがって、地震兵器が「本当に存在するかどうかはわからない」と考えられます。

 つまり浜田政務官の主張には合理性があり、浜田政務官はトンデモではない、といってよいでしょう。



 しかしながら、地震兵器は「実用的ではない」(=こっそり深い穴を掘れない) ので、おそらく存在しないのではないかと思います。

 けれども、海底を震源とする地震の場合であれば…、

 こっそり海底に穴を掘ることは可能だと思われます。したがって、もしかすると地震兵器が存在しているのかもしれません。地震兵器など、常識的には考え難いですが、すくなくとも可能性はあると考えられます。

習近平の下放時代

2011-12-01 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.52 )

 近平は少年刑務所送りが決まったが、同じような境遇の幹部子弟が多く入れられていたため空きがなく、結局取りやめになった。2歳下の弟の遠平は小学校に通っていたが、中学校への進学は許されず、母・斉心のつてを頼って旋盤工として働くことになった。
 近平には、「知識青年が農作業など肉体労働を通して農民の苦労を理解する」という下放しか残されていなかった。こうして習家は一家離散した。
 69年1月、約5000人の知識青年が北京駅から地方に旅立った。

(中略)

 目的地は、かつて父・仲勲が党幹部として活躍した陜西省延安市の郊外の延川県梁家河。地図にも出ていないような小さな集落だ。近平ら12人の知識青年は汽車で西安に着くと、バスに乗り換えて延安まで行き、それから梁家河まで約80kmの道のりをバスに揺られて2時間かかった。
 国共内戦時代、共産党が一時根拠地とした延安一帯は「黄色い大地」と呼ばれるほど雨量が少なく、土地は痩せて木々もほとんどなく、人々は窯洞(ヤオトン)という洞窟に住んだ。今も一部では窯洞で生活している。
 中国の陜西、山西省など中央部に広がる黄土高原は、年間降水量が約400mmと少なく、内陸に位置するため夏は35度を超す酷暑、冬は零下20度以下の酷寒という厳しい自然条件にさらされている。さらに、雨量が少ないため建築材料となる樹木が育たず、人々は地面を掘り下げて地下住居を作らざるをえなかった。それが「窯洞」だ。
 窯洞には崖地につくられる「横穴式」と地面を掘り下げてつくる「下沈式」がある。窯洞の内部は夏涼しく、冬は暖かく、生活するには快適だ。これは、井戸水の温度が年間を通じてあまり変わらないことと同じ原理で、黄土高原の厳しい自然環境から人々を守ってくれる。
 とはいえ、このような厳しい自然環境のため、作物は高粱(コーリャン)など雑穀しかとれず、コメの飯などは夢のまた夢だ。
 この地がいかに貧しかったか。近平には忘れられないエピソードがある。
 長旅の末、ようやく目的地に着き、近平らは窯洞の宿舎で休んでいた。手持ち無沙汰でカバンの中身を整理していたところ、乾燥してボロボロになったパンが出てきた。ちょうど窯洞の前を痩せ細った犬が通りかかったので、その小麦粉の塊みたいなパンを何気なく投げ与えた。犬はそれをむさぼるように食べた。
 その様子をある農民が見ていた。パンなど見たことも食べたこともない農民たちだけに、「知識青年の習近平が、犬にパンを食べさせた」といううわさが瞬く間に広まった。
「あのブルジョア腐敗分子の習仲勲の息子だ」と、近平は到着直後から村中に "悪名" を轟かせることになった。
 実際、村には食糧が少なかった。そこに北京から食べ盛りの青年が12人も来たことで、食糧はますます不足した。その結果、村人は延安市に行って物乞いをするほどだったのだ。この一件で、近平の評判は一気に悪くなった。

(中略)

 近平は3か月も経つと村の生活が耐えられなくなり、とうとう村人や他の知識青年に黙って村を脱出し、持っていた金を使って、延安から汽車で北京に戻ってしまった。人生で初めての挫折だった。

(中略)

 決意を新たにした近平が村に戻って最初にしたことは、延安なまりを覚えることだった。北京で使われている標準語は農民の言葉とは違いすぎる。よけいに自分が知識青年であることを誇示し、村人との違いを浮き彫りにするだけだ。まず、農民が使っている言葉を話すことで心理的な垣根を取り除こうとしたわけだ。
 中国には北京語、上海語、広東語、福建語など地域ごとに方言があり、話し言葉だと、まるで外国語のように発音が違う。日本の津軽弁と薩摩弁の違いどころではない。ただ、北京語と延安方言は同じ北に位置するので、上海語や広東語ほどの違いはない。近平はほどなく延安なまりに慣れた。
 以前とは違って、労働も率先してやった。最初は女性より劣っていたものの、コツを覚えると、180cmで100kgを超える巨体の持ち主だけに、100kgもの荷物を担いで10kmの山道を歩いても息が切れず、村の若者のなかでも1番の力持ちだった。生活に慣れてくると、夜はランプの光で本を読むなど勉強にも精を出した。炊事、洗濯などもすべて自分でやった。ここでは、子供の頃から厳しくしつけられたことが役に立った。
 近平はこの時期を振り返って、
「何もかもひとりでやった。この時の生活が身について、その後も炊事や洗濯、裁縫まで自分でやる癖がついた。これが私のその後の生活の基礎をつくったのだ」
 と回想している。
 また、ノミやシラミをうつされるという理由で農民らを自分の窯洞に入れなかった近平だが、そのうち身体がすっかり環境に順応して、ノミやシラミに噛まれても平気な牛馬のような皮膚になって、どんどん農民らと交わるようになった。

(中略)

 近平は村人から徐々に信頼されるようになった。それは政治的な問題にも及んできた。近平は中国共産党の下部組織である中国共産主義青年団(共青団)への加入を申請した。共青団に入ることで指導的な地位につけるほか、党中央からの指示も早く知ることができるからだ。…(中略)…近平は72年8月、「知識青年の積極分子」として、「社会主義路線教育運動」を推進する指導的ポストに就くことになった。


 下放時代の習近平はどうだったのかが、書かれています。



 (引用部)冒頭、「近平は少年刑務所送りが決まった」とありますが、これは習近平が「犯罪を犯した」ということではありません。「劉志丹事件」が原因です。



 さて、いかに厳しく育てられていたとはいえ、都会育ちのお坊ちゃんだった習近平には、最初、田舎の極貧生活には耐えられなかったようです。もっともその後、習近平は再び村に戻り、努力の甲斐あって、今度は村人にとけ込めたことがわかります。

 面倒なので引用の際に省略していますが、村から逃げ出した習近平が村に戻ったのは、親族(両親ではない)の説得によります。説得を受け容れて村に戻ったところには、近平の「素直さ」が現れているのではないかと思います。



 なお、習近平は
「何もかもひとりでやった。この時の生活が身について、その後も炊事や洗濯、裁縫まで自分でやる癖がついた。これが私のその後の生活の基礎をつくったのだ」
と回想していますが、おそらく習近平の下放時代でもっとも重要なのは、
決意を新たにした近平が村に戻って最初にしたことは、延安なまりを覚えることだった。北京で使われている標準語は農民の言葉とは違いすぎる。よけいに自分が知識青年であることを誇示し、村人との違いを浮き彫りにするだけだ。まず、農民が使っている言葉を話すことで心理的な垣根を取り除こうとしたわけだ。
という部分だと思います。

 このような態度になったからこそ、「身体がすっかり環境に順応して、ノミやシラミに噛まれても平気な牛馬のような皮膚にな」ったときに、「どんどん農民らと交わるようになった」のであり、「村人から徐々に信頼されるようになった」と考えられます。

 そしてそのおかげで、
近平は72年8月、「知識青年の積極分子」として、「社会主義路線教育運動」を推進する指導的ポストに就くことになった。
わけで、(父親の教育のほかに)この経験もあって、
近平は後年、河北、福建、浙江の各省や上海市の幹部時代、常に周りのことに気を遣い、円滑な人間関係を築いていた。少なくとも相手に嫌われるような関係にならないよう気を配った。(「習近平の父、仲勲の教育方針」の引用部分 )
ということになります。



 今回はとくに書くことがありません。習近平の半生を追いかけつつ「習近平はどんな人間なのか」を考えようとすると、どうしても「とくに書くことはないが、引用はしておきたい」ときがあります。

 今後、このような場合には、可能なかぎり1日に複数の記事を投稿し、なるべく早くこのテーマ(習近平はどんな人間なのか)を終えたいと思います。そうしないとこのテーマを終えるまでに、何日かかるかわかりません。