言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

チベット亡命政府の方針

2011-05-31 | 日記
時事ドットコム」の「中国との対話継続を最優先=日本の「忍耐力」見習う-チベット新首相と会見」( 2011/05/31-14:15 )

 【ニューデリー時事】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(75)の政治上の引退を受け、チベット亡命政府を率いる新首相に8月に就任するロブサン・センゲ氏(43)が31日までに、亡命政府のあるインド北部ダラムサラで時事通信のインタビューに応じた。センゲ氏は、首相就任後の最優先事項を「チベットに自由を取り戻し、法王(ダライ・ラマ)をラサに帰還させることだ」とし、その実現に向けて、中国政府との対話を粘り強く求めていく考えを強調した。
 亡命政府と中国の対話は、昨年1月を最後に途絶えている。センゲ氏は「われわれは常に対話のために特使を派遣する用意がある」とした上で、「中国の強硬派がチベット問題解決のための真剣な交渉に入ろうとせず、対話が停滞した」と批判した。次回交渉のめどは立っていないという。
 ダライ・ラマは対中交渉で、チベットの独立ではなく、自治拡大を求める「中道路線」を採用した。センゲ氏は独立を求める急進派「チベット青年会議」に所属した経験を持つが、「中道路線が私の立つべき基盤だ」と述べ、中道路線を継承する姿勢を表明。独立は「亡命政府の究極目標としてはある」ものの、当面は望まないとした。
 中国は亡命政府を「違法な組織」として、センゲ新政権を相手にしない考えを示している。さらに共産党機関紙からは「テロリスト」と記事で形容されたが、同氏は「非常に不幸なこと。中国は亡命政府のような民主主義を自分たちが持っていないことが気掛かりなだけだ」と一蹴した。
 センゲ氏は日本人の精神にチベット人が見習う点が大きいと指摘。「東日本大震災で原子力事故が起きた際も、苦難からの回復力、忍耐力を見せたことは教訓になった」と述べた。


 チベット亡命政府を率いる新首相に8月に就任するロブサン・センゲ氏は、首相就任後の最優先事項を「チベットに自由を取り戻し、法王(ダライ・ラマ)をラサに帰還させることだ」とし、その実現に向けて、中国政府との対話を粘り強く求めていく考えを強調した。独立は「亡命政府の究極目標としてはある」ものの、当面は望まないとした、と報じられています。



 センゲ氏は、チベット亡命政府の最優先事項が

   チベット人の「自由」と法王の「帰還」

にあることを示しつつ、

   中国政府の受け容れやすい条件を提示

しているのですが、本当にこれでよいのでしょうか?



 報道には、
 中国は亡命政府を「違法な組織」として、センゲ新政権を相手にしない考えを示している。さらに共産党機関紙からは「テロリスト」と記事で形容された
とあります。このことが示しているのは、チベット亡命政府は現在、苦境に陥っているということではないでしょうか?

 報道文中には、亡命政府が苦境に陥っていることを示す言葉は、まったくありません。たんに、「穏健」な「中道路線」を採用していると報じているのみです。しかし実際には、

   「中道路線」を採用して
     中国政府の譲歩を期待せざるを得ない

のではないでしょうか?



 ここで気がかりなのは、「本当に独立を求めなくてよいのか」ということです。



 私がこう考える理由は2つあります。

 一つは、チベット亡命政府が「中道路線」を採用せざるを得ないほど苦境に陥っているなら、チベット亡命政府の意向を実現するには、米国など、「外国政府の協力が欠かせない」からです。

 それにもかかわらず、亡命政府がみずから、自治拡大を求める「中道路線」を採用したのでは、外国政府が協力しようとした際に中国政府が「内政干渉」だとして応じない可能性が高くなります。「中道路線」は一見、中国政府に受け容れやすく亡命政府の希望が実現しやすいかに映りますが、実際には、ますます亡命政府の希望が実現しづらくなるのではないかと思います。



 他の一つは、「中道路線」は本当にチベット人のためになるのか、という疑問です。

 たとえば中国の「内モンゴル自治区」では、(中国の首都)北京に近いためもあってか漢民族の流入が多く、漢化が急速に進んでいます。すでに人口の大部分は漢民族です。また、「モンゴル語」で働ける職場が(ほとんど)なく、「中国語」が必須だと言われています。そのためモンゴル族も(自分の)子供に「モンゴル語」で話せとはいえず、「中国語」を優先せざるを得ない状況になっているといわれています。

 言語は文化の礎ですから、言語が失われれば、文化も失われます。

 チベットは中国「中原」からは遠いですが、中国人のことですから次々にチベットに流入し続けるでしょう。したがってチベットも内モンゴル自治区と同じ状況になってしまうのではないか、それが危惧されます。



 チベットの独立ではなく、自治拡大を求める「中道路線」を採用したダライ・ラマやセンゲ氏の方針は、本当に「正しい」のでしょうか?

 私には、かえって彼らに「不利に作用する」のではないかと思われてなりません。

最高裁、「君が代起立斉唱」は合憲

2011-05-31 | 日記
毎日jp」の「君が代斉唱不起立:再雇用拒否訴訟 起立命令合憲判決(要旨)」( 2011年5月31日 )

 教諭に卒業式での君が代起立斉唱を命じた東京都立高校長の職務命令について合憲判断した最高裁第2小法廷の判決(30日)の要旨は次の通り。

 公立高校の卒業式等で日の丸の掲揚と君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実で、起立斉唱行為は一般的、客観的に、慣例上の儀礼的な所作としての性質を持つ。原告の歴史観や世界観を否定することと不可分に結び付くとはいえない。職務命令は、特定の思想を持つことを強制するものではなく、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するとは認められない。

 もっとも起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科や事務内容に含まれず、国旗と国歌に対する敬意表明の要素を含む行為。自らの歴史観や世界観との関係で、日の丸や君が代に敬意を表明するのは応じがたいと考える者が起立斉唱を求められることは、思想及び良心の自由の間接的な制約となる面がある。

 個人の歴史観や世界観には多種多様なものがあり得る。内心にとどまらず行動として表れ、社会一般の規範と抵触して制限を受けることがあるが、その制限が必要かつ合理的なものである場合は、間接的な制約も許容され得る。間接的な制約が許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容、制約の態様などを総合的に比べ合わせて考え、必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当だ。

 今回の職務命令は、原告の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面がある。他方、卒業式や入学式という教育上、特に重要な節目となる儀式的行事では生徒等への配慮を含め、ふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要。学校教育法は高校教育の目標として国家の現状と伝統について正しい理解を掲げ、学習指導要領も学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めている。

 地方公務員の地位や職務の公共性にかんがみ、公立高の教諭である原告は法令及び職務上の命令に従わなければならない。原告は、地方公務員法に基づき、学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した都教委の通達を踏まえて、校長から卒業式に関して今回の職務命令を受けた。

 以上の諸事情を踏まえると、今回の職務命令については、間接的な制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる。原告の思想及び良心の自由を侵して憲法19条に違反するとは言えない。

 ■補足意見

 <須藤正彦裁判長>

 最も肝心なことは画一化された教育ではなく、熱意と意欲に満ちた教師により、生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされること。今回の職務命令のような不利益処分を伴う強制が教育現場を疑心暗鬼とさせ、無用な混乱を生じさせれば、教育の生命が失われかねない。一律強制に踏み切る前に、教育行政担当者で可能な限りの工夫と慎重な判断をすることが望まれる。

 <千葉勝美裁判官>

 司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが、必ずしも問題を最終的な解決に導くことにはならない。国旗及び国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要だ。


 公立高校の卒業式等で日の丸の掲揚と君が代の斉唱が広く行われていたことは「周知の事実」で、起立斉唱行為は「慣例上の儀礼的な所作としての性質を持つ」ので、都立高校長が教員に対し、職務命令として命じても「特定の思想を持つことを強制するものではなく、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するとは認められない」。
 しかし、「思想及び良心の自由の間接的な制約となる面がある」ので、「許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容、制約の態様などを総合的に比べ合わせて考え、必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当」である。
 今回の職務命令については、「卒業式や入学式という教育上、特に重要な節目となる儀式的行事」であり、「地方公務員の地位や職務の公共性にかんがみ」憲法19条に違反するとは言えない、
 と最高裁判所が判示したと報じられています。



 敗訴した原告の反応は次のように報じられています。



東京新聞」の「起立定着に「無力感」 君が代命令合憲」( 2011年5月31日 )

 君が代斉唱で起立を命じることは思想・良心の自由を間接的に制約する-。三十日の最高裁判決は職務命令を合憲とする一方で、自由の制約について踏み込んで判断し、合理的な理由もなく命令で一律に教育現場を統制することのないよう警鐘を鳴らした。敗訴した原告の申谷(さるや)雄二さん(64)は「起立しないことこそ憲法に認められた行為」と不満をにじませたが、判決は今後、各地の教育委員会の対応や大阪府での条例化の動きなどにも影響を与えそうだ。 

 判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで会見した申谷さんは、「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している。判決には失意を感じた」と悔しそうに話した。

 都立高校で三十年以上教壇に立ち、再雇用後は外国籍の生徒たちの支援を夢見たが、たった一度の不起立で、機会は失われた。当時の思いを「起立をしないことで静かな抗議を示したかった」と振り返った。

 大阪府議会では、橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」が、君が代の起立斉唱を義務づける条例案を提出。罰則規定はないが、橋下知事は懲戒免職を含めた厳しい処分に言及している。申谷さんは大阪の動きにも触れ、「政治家は教育現場に安易に介入することをやめてほしい。教師は命令通り動くしかなく、無力感を感じている」と訴えた。

 式典での日の丸掲揚、君が代斉唱をめぐっては戦後長く、教育現場の混乱を招いてきた。一九八九年の学習指導要領改定で「望ましい」から「指導する」に強化。九九年施行の国旗国歌法がさらに後押しし、都は二〇〇三年の教育長通達で、教職員の起立・斉唱を義務づけ、従わない場合は「責任を問われる」と明記した。

 この流れに反発した教職員らの提訴が相次ぎ、東京だけで二十三件の同種訴訟が係争中で、原告の教職員は延べ七百人余に上る。

 訴訟の多くは、起立斉唱命令が合憲かどうか、さらに合憲の場合に違反者の処分などに行き過ぎ(裁量権の乱用)がないか、と二段階で判断される。〇六年九月に東京地裁が「強制は違憲」との判決を出したが、ピアノ伴奏拒否を理由とした処分の是非が争われた訴訟で最高裁は〇七年に合憲と判断。これ以降、下級審が起立・斉唱命令を違憲とした例はなかった。

 一方、裁量権をめぐっては、判断が分かれている。都立学校の教職員百六十七人が懲戒処分取り消しを求めた訴訟で、今年三月の東京高裁判決は「懲戒処分は重すぎる」とし、教職員側の逆転勝訴とした。

 今回の判決は裁量権について判断しなかったが、裁判官の補足意見では「裁量の範囲を逸脱して違法となることはあり得る」と言及。行政側の対応に行き過ぎがないか、今後も個別の訴訟ごとに争われることになる。


 敗訴した原告の申谷(さるや)雄二さん(64)は「起立しないことこそ憲法に認められた行為」と不満をにじませ、「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している。判決には失意を感じた」と悔しそうに話した。また、申谷さんは大阪の動きにも触れ、「政治家は教育現場に安易に介入することをやめてほしい。教師は命令通り動くしかなく、無力感を感じている」と訴えた、と報じられています。



 「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している」という考えかたもわかりますが、やはり「仕事」であることを考えれば、原告の主張は「おかしい」のではないかと思います。

 逆にいえば、校長や政治家はこれまで、「指導に従わない教員がおり、入学式や卒業式の秩序が乱れる」ことに「無力感を感じていた」ということになります。



 そもそも、嫌ならはじめから公立の教員 (公務員) にならなければよいのではないでしょうか?

 これは、形を変えて考えてみればわかります。

 たとえば仏教徒がキリスト教系のミッションスクールの教員になり、「仏教徒としての信仰」を理由に「学校行事としての」クリスマス・ミサ等への出席を拒否した場合を考えれば、どうでしょうか? このような場合、教員の拒否は「おかしい」と考えるのが自然ではないでしょうか?

 したがって、「日の丸・君が代」を教員が拒否する行為についても同様に、「おかしい」と考えてよいのではないかと思います。



 最後に、(参考のために) 今回の最高裁判決に対する読売新聞社説と、橋下大阪府知事の発言を引用しておきます。



YOMIURI ONLINE」の「君が代起立命令 最高裁の「合憲」判断は当然だ(5月31日付・読売社説)」( 2011年5月31日01時18分 )

 卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう教師に命じた校長の職務命令は憲法に違反しない――。

 最高裁は、そう結論づけた。東京都から定年後の再雇用を拒否された都立高校の元教師が、損害賠償を求めた訴訟の上告審判決だ。

 判決理由をこう述べている。

 卒業式や入学式は、教育上、特に重要な儀式的行事である。式典の秩序を保ち、円滑な進行を図る目的で校長が出した職務命令には必要性と合理性がある。

 妥当な判断である。この判決を機に、教育現場で長く続いている国旗・国歌を巡る処分や訴訟などの混乱に終止符を打つべきだ。

 元教師は「君が代を起立して斉唱することは良心が許さない」と訴えていた。校長の職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法に違反すると主張していた。

 しかし、君が代の斉唱は、学校の式典などで広く慣例的に行われている。教師は生徒に国旗・国歌を尊重する態度を教え、自らその手本を示す立場にある。

 職務命令について、最高裁は、「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある」とも述べた。だが、職務命令の目的や内容が正当なものであれば、制約は許されるとして合憲の結論を導いた。

 国旗掲揚と国歌斉唱は、学習指導要領が「入学式や卒業式で指導するものとする」と定めているにもかかわらず、一部の教師がこれらを拒否してきた経緯がある。

 東京都は2003年に起立・斉唱を義務づける通達を出したが、違反して懲戒処分を受けた教職員は延べ400人以上に上る。

 判決が指摘するように、公立学校の教師は本来、「法令や職務命令に従わなければならない」ことを自覚すべきだろう。

 折しも大阪府では、橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」の府議団が、教職員に起立・斉唱を義務づける全国初の条例案を議会に提出した。

 橋下知事は「府教委が指導を続けても、まだ職務命令に違反する教員がいる」と言う。昨春以降、6人の教師が処分を受けた。そうした状況では、条例制定の動きが出てくることもやむを得まい。

 さらに、9月議会では、違反した教職員の処分基準を定めた別の条例制定も目指している。

 自国、他国の国旗・国歌に敬意を表すのは国際的な常識、マナーである。そのことを自然な形で子供たちに教える教育現場にしなければならない。




産経ニュース」の「橋下知事「きちっとした判断だが条例も必要」 国歌起立で最高裁合憲判断」( 2011.5.31 08:19 )

 卒業式での国歌斉唱時の起立命令を合憲とした30日の最高裁判決。国歌斉唱時に、教員に起立を義務付ける条例案を大阪府議会に提出した地域政党「大阪維新の会」(維新)の代表を務める橋下徹知事は、記者団に「入学式や卒業式で起立を求めるのは憲法違反にあたらないというきちっとした判断を最高裁が出した」と評価した。

 ■思想の自由に影響せぬ仕組み、考える

 その一方で「判決が出たことで条例までは必要ないのではという有権者に対し、維新は条例の必要性を丁寧に説明しなければならない」と述べ、「先生は起立斉唱以外の命令に対しても組織として動くべきで、条例は必要だ」と持論を展開した。

 橋下知事は、職務命令に繰り返し応じない教員ら職員の処分ルールを定めた条例案を、9月議会で提出する方針だが、今回の判決が職務命令について「思想、良心の自由が間接的に制約される面はある」と指摘したことについて、「そこは重い。思想、良心の自由に影響を及ぼさないような仕組みをしっかり考えたい」とも述べた。




■関連記事
 「大阪府の「君が代条例」案について

多極化の原因

2011-05-30 | 日記
田中宇 『日本が「対米従属」を脱する日』 ( p.45 )

 クリントン演説のもう一つの重点は、従来は米国にとって最重要の同盟国だった英国について、一言も言及していないことだ。英国の国名は、演説に全く出てこない。EUやNATOとの同盟関係についての言及の中に、英国は埋もれてしまっている。英国は、多極化によって国益が最も損なわれる国の一つである。近年の米政府が英国に対して冷淡であることは、米政府が多極型世界を嫌っているふりをして、実は多極型を好むという「隠れ多極主義」の立場なのだと私が考える理由の一つになっている。

(中略)

 中東のイスラム世界は、世界の極の一つになるべき地域だが、その内部は、さらに多極的に分かれている。中東の盟主となりうる国はトルコだけでなく、ほかにイラン、サウジアラビア、エジプトがある。もともとトルコはEUに入って欧州の国になる予定だったので、中東の覇権争いの中では、むしろ新参者だ。クリントン演説では、イランについて「近隣諸国を脅さず、テロ支援をしなければ、中東地域で建設的な役割を担う国家となりうる。国民の人権を守れば、国際社会で責任ある位置を占めることができる」と述べている。これらの条件は相対的なものであり、クリントンは事実上、イランは中東の主導的な国の一つであると認めている。米共和党系のランド研究所も90年6月に「イランを封じ込めることは無理だから、むしろイランの影響力を認め、アラブ諸国との関係を安定させるペルシャ湾岸地域の多国間安保体制を作ってやった方がよい」とする報告書を出している。
 中東の主導国として残るのはサウジアラビアとエジプトというアラブ側だが、エジプトは現政権が米国の傀儡で、米国の衰退とともにどこかの時点で崩壊し、イスラム同胞団に政権を乗っ取られる。中東の主導国うんぬんの話をそのあとだ。サウジもまだ対米従属を捨てられないので、多極化の話の表舞台に出てこない。昔から他力本願で、英国に騙されて分割されても懲りずに対米従属しているアラブ勢が立ち上がるのは、米国に頼れないことがもっとはっきりしてからになるだろう。


 米国の衰退とともに、多極化は進行してゆく。米政府が英国に対して冷淡であることは、米政府が多極型世界を嫌っているふりをして、実は多極型を好むという「隠れ多極主義」の立場なのだと私が考える理由の一つになっている。クリントンは事実上、イランは中東の主導的な国の一つであると認めている、と書かれています。



 著者がここで述べている「クリントン演説」とは、「ヒラリー・クリントン国務長官の外交問題評議会での講演」を指しています。



 さて、「米国の衰退」が原因で多極型世界になる、と考えることも不可能ではありませんが、

 どちらかといえば、「米国の国力は相変わらず強力だが」米国は世界の自由化・民主化を目指しているので、世界は多極化(民主化)すると考えるのが実態に合致していると思われます。

 したがって、べつに「隠れ多極主義」などという複雑なことを考えなくともよいと思います。



 次に、クリントン長官は講演で、イランについて「近隣諸国を脅さず、テロ支援をしなければ、中東地域で建設的な役割を担う国家となりうる。国民の人権を守れば、国際社会で責任ある位置を占めることができる」と述べているが、「これらの条件は相対的なものであり、クリントンは事実上、イランは中東の主導的な国の一つであると認めている」と著者(田中宇)は主張しています。

 しかしこれは、「米国の衰退」によって「やむなく」認めたと考える必要はないと思います。もともとイランは中東の主導的な国の一つに「なりうる」国なので、
クリントン長官は「たんに事実を述べただけ」あるいは「イランに対し、米国の目指す世界像に合致した歩みを勧めるメッセージを発している」
と考えれば、それで足ります。ことさら「米国の衰退」と結びつける必要はないと思います。



 米国の意図をどう考えるかは、中東・北アフリカでの民主化の動きをどう考えるかにも影響します。おそらく著者は「米国はやむなく民主化を容認した」と考えることになるのだろうと思いますが、それは「ヒラリー・クリントン国務長官の外交問題評議会での講演」や、米国の示している態度(下記の報道参照)に反しているのではないかと思います。

 たんに、米国は世界の「自由化・民主化を目指している」と考えればそれでよいし、また、そう考えるべきではないかと思います。



asahi.com」の「オバマ大統領、中東民主化の動き称賛 国務省で演説」( 2011年5月20日3時22分 )

 オバマ米大統領は19日、米ワシントンの国務省で中東政策の重要演説を行った。中東や北アフリカでの民主化の動きを促進するため、世界銀行や国際通貨基金(IMF)などとともに、エジプトやチュニジアへの経済支援策を強める意向を表明。シリアなど強権的な国に民主化勢力の武力弾圧停止を強く求めた。

 オバマ大統領は「この半年で中東で並外れた変化が起きた」と、この地域で高まった民主化の動きを称賛。米政府が、民主化活動に対して加えられる暴力を非難し、集会や表現の自由を含む普遍的権利の保護や経済支援の強化をすることで、民主化を後押しする考えを示した。

 旧政権が退陣したエジプトとチュニジアを民主化の成功例とし、経済成長や投資を促す財政支援に力を入れる方針を表明。来週、フランスで開かれる主要国首脳会議(G8サミット)で、「世界銀行とIMFに、エジプトとチュニジアの経済の近代化と安定化に向けた計画の提示を求めた」と述べた。また、地域全体で貿易と投資促進策を強化する考えも明らかにした。




■関連記事
 「資本の論理によるアメリカの自滅戦略?
 「民主化が前提の「政治面での多極化・核兵器のない世界」
 「ノーベル平和賞と、中国の立場

「おかしい」と「可笑しい」

2011-05-29 | 日記
 今日、「大阪府の「君が代条例」案について」のコメント欄において、(私にとっては) 心外な批判をされましたので、ここで「はっきり」明記しておきたいと思います。



 私は文中に括弧「 」を多用しています。括弧「 」には引用・強調・限定・区切りの明示など、さまざまな用法があります。私はそれらの用法を駆使しているのですが、

   すくなくとも私が「おかしい」と書く場合には、
   「可笑しい」ではないことを強調している

のです。日本語の「おかしい」には、「筋が通らない」「奇妙である」といった意味のほかに、「可笑しい(笑える)」といった意味もあります。そこで、私は「可笑しい」ではないことを強調するために、「おかしい」と平仮名で書いて括弧「 」でくくっています。



 もっとよい表現方法があれば、ぜひ教えてください。

ヒラリー・クリントン国務長官の外交問題評議会での講演

2011-05-28 | 日記
田中宇 『日本が「対米従属」を脱する日』 ( p.43 )

★多極的協調の時代へ(2009年7月21日)

 米国のヒラリー・クリントン国務長官が7月15日、外交問題評議会(CFR)のワシントン支局で行った演説は、国務長官として米国の外交戦略全般について語った初めての演説だった。演説では、EUや日本、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピンなどを主要同盟国(bedrock alliances)として重視しつつ、その一方で中国やロシア、インド、ブラジル、トルコ、インドネシア、南アフリカといった新興諸大国が、世界的な諸問題を解決する際の米国の完全なパートナー(full partners)になれるように協力すると述べている。対米従属的な既存の新米諸国だけでなく、冷戦的な構造下で反米や非同盟に属していた、米国のいうことを聞かない国々とも、同盟に近い関係を築きたいという表明だ。
 そして、国際影響力を持つ国家や非政府組織が増える中で、米国はそれらと対立するのではなく協調し、国際的な諸勢力が相互に対立するのではなく協調しあう体制を目指すとしている。クリントンは、この新たな世界体制を「多協調型世界(multi-partner world)」と呼び、世界のバランスを、各極間が対立し合う多極型世界(multi-polar world)からひきはなし、多協調型世界の方向に持っていきたいと述べている。
 Foreign Policy Address at the Council of Foreign Relations
 http://www.state.gov/secretary/rm/2009a/july/126071.htm

 クリントンの演説は、いくつかの点で重要だ。その一つは、今の世界がすでに多極型になっていることを認知したことだ。中国、ロシア、インド、ブラジルというBRICとの協調が不可欠であることをオバマ政権の高官が公式に認めたのは、私の記憶の範囲内では、これが初めてである。
 クリントンは、多極型世界とは各極が対立する世界であると言っているが、現実の多極型世界は、それほど対立的ではない。それぞれが地域覇権国(極)になりつつあるBRICの4ヵ国は、対立点はありつつも、全体として協調体制を作っており、定期的にサミットや外相会談を開いている。
 EUも一つの極であるが、中露などとの関係は悪くない。EU内では、英国は戦略としてロシアとEUの敵対を欲しているが、独仏はロシアと協調したい。
 多極型世界は、すでにクリントンのいう「多協調型世界」になっている。クリントンが対立的に提示した二つの世界型は、そもそも対立的なものではない。クリントン演説の意味はむしろ、米国がこの多極型協調の輪の中に入ることを拒否して単独覇権主義を振りかざしていたことをやめて、多極型世界の存在を認め、米国がすでに協調しているEU以外の、ロシアや中国などの極とも協調する方向に進む、ということである。


 ヒラリー・クリントン国務長官は演説で「米国は多極型世界の存在を認め、これまで米国と協調していなかったロシアや中国などとも協調する方向に進む」と言っている。これで米国の進む方向がわかる、と書かれています。



 上記引用文中で引用されているサイトで、英文を読み始めたのですが。。。

 どうもおかしい。著者が本書で述べているような、アメリカの「自滅戦略」をうかがわせるような言葉は、まったくみられません。このような資料を読んだうえで執筆している著者が、なぜ、アメリカの「自滅戦略」を主張しているのか、理解に苦しみます。



 「公的な」日本語訳をみつけたので、以下、英文(原語)と日本語(訳)とを対比して引用します。

 引用元は、英語部分・日本語部分、それぞれ下記の米国政府公式ウェブサイトです。なお、英語部分の引用元は著者(田中宇)が文中で引用しているのと同じです。



U.S. DEPARTMENT OF STATE」の「Foreign Policy Address at the Council on Foreign Relations」( Speech: Hillary Rodham Clinton, Secretary of State, Washington, DC, July 15, 2009 )

米国大使館 東京・日本」の「ヒラリー・ローダム・クリントン国務長官の外交政策に関する外交問題評議会での講演」( 2009年7月15日、ワシントンDC )



Liberty, democracy, justice and opportunity underlie our priorities.

 自由と民主主義と正義と機会が、私たちの優先事項の基盤となっています。


 米国は「自由と民主主義と正義と機会」を優先事項の基盤とする、と述べられています。



Today, we must acknowledge two inescapable facts that define our world: First, no nation can meet the world’s challenges alone. The issues are too complex. Too many players are competing for influence, from rising powers to corporations to criminal cartels; from NGOs to al-Qaida; from state-controlled media to individuals using Twitter.

Second, most nations worry about the same global threats, from non-proliferation to fighting disease to counterterrorism, but also face very real obstacles – for reasons of history, geography, ideology, and inertia. They face these obstacles and they stand in the way of turning commonality of interest into common action.

So these two facts demand a different global architecture – one in which states have clear incentives to cooperate and live up to their responsibilities, as well as strong disincentives to sit on the sidelines or sow discord and division.

So we will exercise American leadership to overcome what foreign policy experts at places like the Council call “collective action problems” and what I call obstacles to cooperation. For just as no nation can meet these challenges alone, no challenge can be met without America.

 今日、私たちは、この世界を特徴付ける2つの避けられない事実を認識しなければなりません。第1に、いかなる国家も、単独でこの世界の課題に対処することはできない、ということです。今日の課題は、あまりにも複雑です。新興勢力から企業や犯罪カルテル、非政府組織(NGO)からアルカイダ、国営メディアからツイッターを使う個人まで、あまりにも多くの当事者が影響力を求めて競争しています。

 第2に、ほとんどの国々が、核不拡散から疾病との戦いや対テロ活動に至る、共通の世界的な脅威について懸念を持っていますが、それだけでなく、歴史、地理、イデオロギー、そして無気力が理由で、極めて現実的な障害にも直面しています。こうした障害は、共通の利害を共通の行動に転換する際に邪魔になります。

 以上の2つの事実により、別の世界構造が必要となります。それは、各国が協力し各自の責任を果たすことを促す明確な誘因に加えて、傍観者となったり、不和や分断の種をまいたりすることを妨げる強力な誘因を各国が持つ世界構造です。

 そこで米国は、CFRのような機関の外交政策専門家の言う「集合行為問題」、そして私が協力への障害と呼ぶ問題を克服するために、指導力を発揮します。それは、いかなる国家も単独でこうした課題に対処できないのと同様、いかなる課題も米国抜きで対処することはできないからです。


 今日の課題はあまりにも複雑なので、いかなる国家も単独でこの世界の問題に対処することはできず、ほとんどの国々が共通の世界的な脅威について懸念を持っており、障害に直面している。そこで米国は、各国が協力して問題に対処するために指導力を発揮する、と述べられています。



 世界がグローバル化しつつあるなかで、今日の課題は「あまりにも複雑」なので「各国が協力して問題に対処する」というのは、きわめて当たり前の主張であり、米国の「自滅戦略」のかけらもみあたりません。

 それどころか、クリントン長官は (各国の協力体制を構築するために) 米国は「指導力を発揮する」と述べ、さらに「いかなる課題も米国抜きで対処することはできない」とまで述べています。



 ここから、「米国の国力の衰え」を読み取れないことはありませんが、それは「深読みのしすぎ」というものでしょう。



We will also put special emphasis on encouraging major and emerging global powers – China, India, Russia and Brazil, as well as Turkey, Indonesia, and South Africa – to be full partners in tackling the global agenda. I want to underscore the importance of this task, and my personal commitment to it. These states are vital to achieving solutions to the shared problems and advancing our priorities – nonproliferation, counterterrorism, economic growth, climate change, among others. With these states, we will stand firm on our principles even as we seek common ground.

 また、中国、インド、ロシア、ブラジル、トルコ、インドネシア、南アフリカといった世界の主要新興国に対して、世界的な課題への取り組みで全面的なパートナーとなるよう奨励することに、特に重点を置きます。私は、この仕事の重要性と、これを行うに当たっての私の個人的な決意を強調したいと思います。共通の課題について問題を解決し、核不拡散、テロ対策、経済成長、気候変動といった私たちの優先事項を推進するためには、これらの国々の参加が不可欠です。こうした国々に対して、米国は共通点を求めながらも、米国の原則を堅持します。


 「世界の主要新興国に対して、世界的な課題への取り組みで全面的なパートナーとなるよう奨励することに、特に重点を置」くが、「こうした国々に対して、米国は共通点を求めながらも、米国の原則を堅持します」、と述べられています。



 これを著者(田中宇)は米国の国力の衰え、多極化の象徴と「読んだ」のかもしれませんが、

 米国は新興諸国に対して、「世界的な課題への取り組みで全面的なパートナーとなるよう奨励することに、特に重点を置」くと述べられており、あくまでも米国のリーダーシップのもとに「奨励する」と言っているにすぎませんし、

 同時に、「こうした国々に対して、米国は共通点を求めながらも、米国の原則を堅持します」とも述べられているわけです。



 「米国の原則」とは、(この講演について) 私が最初に引用した、
Liberty, democracy, justice and opportunity underlie our priorities.

 自由と民主主義と正義と機会が、私たちの優先事項の基盤となっています。
ではないでしょうか?

 とすれば、米国は (世界的な問題に対処するために) 新興諸国とも協力すべく努力するが、その場合であっても米国は「自由と民主主義と正義と機会」を優先する、ということになります。



 また、講演には次のような内容も含まれています。



And to these foes and would-be foes, let me say our focus on diplomacy and development is not an alternative to our national security arsenal. Our willingness to talk is not a sign of weakness to be exploited. We will not hesitate to defend our friends, our interests, and above all, our people vigorously and when necessary with the world’s strongest military. This is not an option we seek nor is it a threat; it is a promise to all Americans.

 そして、私たちと敵対する国々、あるいは敵対する可能性のある国々に対しては、米国の外交と開発の重視は、わが国の安全保障を維持するための武器に代わるものではない、ということを伝えたいと思います。米国は喜んで話し合いに応じますが、この姿勢はつけ込むことができる弱さの表れではありません。米国は、ためらうことなく、友好国、国益、そして何よりも国民を積極的に守り、必要であれば世界最強の軍事力によって守ります。これは、私たちが求める選択肢でも威嚇でもなく、すべての米国民への約束です。


 「米国の外交と開発の重視は、わが国の安全保障を維持するための武器に代わるものではな」く、場合によっては、「米国は、ためらうことなく、友好国、国益、そして何よりも国民を積極的に守り、必要であれば世界最強の軍事力によって守ります」と述べられています。



 上記講演内容を読むかぎりでは、著者(田中宇)のいうような、米国の「自滅戦略」や「覇権の喪失」などは、どこにもみあたりません。それどころか、
米国の戦略とは、米国の理念「自由と民主主義と正義と機会」に基づいて各国と「協調」するが、場合によっては「軍事力の行使もいとわない」というもの
だと考えるのが自然だと思います。

 したがってますます、「独裁国家を中心として協調する東アジア共同体」などは、「ありえない」し、日本はそんなものを「提唱」すべきではない、ということになります (「民主党も勉強している」参照 ) 。



■追記
 英文を「コピーして貼りつけ」たにもかかわらず、引用文中の "–" が "?" になっていましたので、訂正しました。どうしてこうなったのか、原因はわかりません。おそらく文字コードが原因だと思います。

 なお、民主党(または日本)が、中国に民主化を呼びかけつつ、(中国が)民主化された際には「東アジア共同体」を作って「協調」しようと提唱するのであれば、(私も)構わないと思います。